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第二話
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私の足は、床に縫い付けられてしまったみたいに動かなかった。目の前に広がる、色のない教室。昨日、私がスケッチブックの中に閉じ込めた、あの灰色の世界そのものだった。
これは夢だ。悪い夢を見ているんだ。そうに違いない。
そう思いたくて、自分の手の甲を強くつねってみる。じわりと広がる鈍い痛み。それは、これが間違いなく現実なのだと、私に冷たく告げていた。
一歩、教室の中に足を踏み入れる。自分の上履きの、白い布地と青いゴムの部分。それは、ちゃんとした色を持っていた。背負っているランドセルの、使い慣れた赤い革の色も、昨日と同じまま。
私自身と、私の持ち物だけが、この白黒の世界で唯一の色を保っているようだった。
どうして。なんで、こんなことに。
頭の中で、同じ言葉がぐるぐると回る。答えなんて、どこにもない。がらんとした教室には、私の息の音だけが小さく聞こえる。
いつもなら、たくさんの音と声で満ちているはずの空間の、この完璧なまでの静けさは、なんだか耳の奥をキーンと痛ませるような気さえした。
この奇妙な出来事は、私にだけ起きているんだろうか。教室の外は?他のクラスは?学校全体が、こんなふうになってしまったの?
言いようのない寂しさと、じわじわと背筋を這い上がってくる不安に耐え切れなくなって、私は弾かれたように教室を飛び出した。
廊下も、階段も、やっぱり全部灰色だった。壁に貼られた習字の作品も、窓の外に見える景色も、黒と白とその間の色だけで描かれている。
自分の足音だけが、やけに大きく床に跳ね返って、私の孤独を大きくした。
私は、下の階にある体育館へと向かった。あそこなら、もっと広いから。何か、分かるかもしれない。そんな、何の根拠もない考えにすがりついていた。
体育館の重たい扉を、全身の力を使って押し開ける。
そこもまた、色がなかった。広い空間のすみずみまでが、濃さの異なる灰色で塗りつぶされている。天井から吊るされたバスケットゴールも、壁際に並べられたマットも、ステージの上に置かれた演台も。
全てが、石になってしまったかのように、冷たくて無機質な表情をしていた。
そして、私は見つけた。
体育館の真ん中、その広い空間の中に、ぽつんと一人、立ち尽くす少年がいた。短く切りそろえた髪、動きやすそうな服装。見間違えるはずもない。同じクラスの高城ハヤトくんだった。
ハヤトくんは、いつも元気で、クラスの中心にいるような人だ。サッカー部のエースで、彼の周りにはいつも友達の輪ができている。物静かな私とは、正直、あまり話したこともなかった。
そんな彼が、今は別人のように、ただぼうぜんと、ステージの方を見つめていた。
「高城くん……?」
私の声は、体育館の静寂に吸い込まれてしまいそうなくらい、か細くしか出なかった。それでも、その声はちゃんと彼の耳に届いたらしい。ハヤトくんは、ゆっくりとこちらを振り返った。
その顔には、いつもの明るい笑顔はなくて、私と同じ、混乱と信じられないという気持ちが浮かんでいたけれど、ハヤトくんは、私の姿と、私の背負っている赤いランドセルの色を見て、少しだけ目を見開いた。
「……相田?なんで、ここに」
「それは、こっちのセリフだよ。どうして、体育館に?」
私たちは、お互いに当たり前のことを聞き合った。
「お前も……なのか?」
「うん。教室に行ったら、こうなってて。誰もいなくて、色も、音もなくて……」
「僕もだよ」
ハヤトくんは、力なくそう言った。
「朝、学校に来たら、もう全部こうだった。誰もいないし、おかしいと思って体育館に来てみたら、ここも同じでさ。何が何だか、全然分からない」
彼の言葉を聞いて、私は少しだけ、ほんの少しだけ、安心している自分に気づいた。この異常な世界にいるのが、私一人だけではなかった。その事実が、凍えそうだった心に、小さな火をともしてくれたような気がした。
「ねえ、高城くん」
私は、一番聞きたくて、でも聞くのが怖い質問を、おそるおそる口にした。
「昨日、何か変わったこと、なかった?例えば……美術準備室に、行ったりとか」
その言葉に、ハヤトくんははっとしたように顔を上げた。
「行った。絵の具、足りなくなったから。……まさか、君もか?」
「うん。それで、奥の棚に、木箱が……」
「あった!花の彫刻がしてある、古いやつだろ?あの中に、変な絵の具が一本だけ入ってたんだ」
ハヤトくんは、矢継ぎ早にそう言った。
「僕、それを使って、絵を描いたんだ。卒業制作の。この体育館で、自分がシュートを決めてる絵を」
やっぱり、そうなんだ。
原因は、あの『灰色の絵の具』。あの絵の具で描いた場所が、こうして色を失った世界に変わってしまうんだ。私とハヤトくんが、同じ呪いにかかってしまった。その事実を共有して、私たちは言葉を失った。
◇
二人になっても、状況が良くなるわけではなかった。他に、まだ誰かいるかもしれない。私たちは、そう考えて、校内を調べて回ることにした。
次に向かったのは、図書室だった。
重苦しい静寂が支配する廊下を、二人で歩く。一人じゃないというだけで、さっきよりも少しだけ足取りはしっかりしていた。
図書室の扉を開けると、そこもまた、白黒の世界だった。背の高い本棚が迷路のように並び、無数の本がその背表紙をこちらに向けている。
本来なら、赤や青や黄色、色とりどりの背表紙が並んでいるはずなのに、今は全てが同じような灰色のグラデーションに見えた。どの本も、内容まで同じになってしまったかのようで、気味が悪かった。
その、本の迷路の奥から、かすかな物音がした。
私とハヤトくんは、顔を見合わせる。そして、音のする方へ、足音を忍ばせて近づいていった。
そこにいたのは、一人の女の子だった。きれいに切りそろえられたボブカットに、縁の細い眼鏡。六年生の学年首席で、二組の学級委員長、氷川リコさんだった。
彼女は、パニックになるでもなく、驚くほど冷静な様子で、一冊の本を手に取り、そのページをめくっていた。
「氷川さん!」
ハヤトくんが声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。その表情はほとんど変わらなかったけれど、私たち二人の姿を見て、少しだけ意外そうな顔をした。
「高城くんに、相田さん。あなたたちも、この世界に?」
リコさんの口調は、いつも通りの丁寧な言葉遣いだった。こんな異常な状況なのに、少しも取り乱していないように見える。
「はい。私と高城くんは、教室と体育館で……。氷川さんも、もしかして」
私の言葉に、リコさんのまゆがわずかに動いた。眼鏡の奥の瞳に、小さな動揺が浮かんでいる。
「もしかして、とは……?」
彼女の声には、いつもの落ち着きに加えて、何かを確かめたいような、慎重な表情が混じっていた。
「昨日、美術準備室に行きませんでしたか?奥の棚に、古い木箱があって……」
私がそこまで言うと、リコさんの表情がはっきりと変わった。驚きというよりも、何か重要なパズルのピースが見つかったような、そんな顔だった。
「……木箱。花の彫刻が施された、飴色の」
「そうです!それです!」
ハヤトくんも言葉を続けた。
「君も、あの中の絵の具を……」
「そうですね」
リコさんは、ゆっくりと頷いた。その動作には、まだ信じきれないでいるような、戸惑いの色が残っている。
「私も昨日、卒業制作のために画材を探していました。そして、あの箱を見つけて……」
彼女は一度言葉を切ると、周りを見回した。色を失った図書室の本棚を、証拠を確認するかのように。
「中にあった、あの灰色の絵の具を使って、この図書室の風景を描きました。でも、まさか……」
リコさんの声が、少しだけかすれた。いつもの冷静さの下に、困惑と不安が隠れているのがわかった。
「まさか、描いた場所が、こんなふうになるなんて。これは、常識では説明のつかない現象です」
彼女は、自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりとつぶやいた。その口調は淡々としていたけれど、この異常な状況を受け入れようと必死に努力しているのが伝わってきた。
「他に、誰か見なかったか?」
ハヤトくんが尋ねると、リコさんは少しだけ考えるそぶりを見せてから、首を横に振った。
「いいえ。私がここに来てから、人の気配はありませんでした。ただ……」
彼女はそこで言葉を切ると、何かを思い出すように、視線を少し上に向けた。
「私が美術準備室で例の木箱を見つけた時、すぐ後に誰かが入ってくる気配がしたんです。確か、同じクラスの……森くんだったような気がします」
「森ケンタか!」
ハヤトくんが、その名前を口にした。森ケンタくん。科学クラブにいて、機械とかにすごく詳しい子だ。でも、少し気弱なところがあって、いつもおどおどしているような印象がある。
「ケンタなら、理科室かもしれないな。あいつ、いっつもあそこにいるから」
ハヤトくんの言葉に、私たちは理科室を目指すことにした。
◇
理科室は、私たちの教室があるフロアの、一番端にあった。
薬品のツンとした匂いがかすかに残る、独特の空間。そこもやはり、色を失っていた。人体模型が、灰色の肌で無言のままこちらを見ている。実験用のフラスコやビーカーが、棚の上で鈍い輝きを放っていた。
私たちは、部屋の中を慎重に見回した。
「ケンター!いるかー!」
ハヤトくんが声を張る。すると、一番奥の実験机の下から、がた、と小さな物音がした。
三人がそちらに近づくと、机の下の暗がりで、小さな体が縮こまっているのが見えた。森ケンタくんだった。彼は、私たち三人の顔を代わる代わる見て、大きな目をさらに大きく見開いている。
「た、高城くん……?それに、氷川さんも、相田さんも……。な、なんで……」
彼の声は、不安で細かくふるえていた。ケンタくんの大きな目が、私たち三人の顔を順番に見つめている。自分が見ている光景が現実なのかどうか、確かめようとしているみたいに。
「ケンタ、お前、ここで何してたんだ?」
ハヤトくんが、まず一番基本的な質問を投げかけた。
「ぼ、僕は……朝、学校に来たら、みんながいなくて……。それで、怖くなって、ここに隠れてたんだ」
ケンタくんは、ふるえ声でそう答えた。
「でも、どうして君たちがここに? 僕以外にも、誰かいたなんて……」
「僕たちも、同じだよ。教室にも、体育館にも、図書室にも、誰もいなかった」
ハヤトくんの説明に、ケンタくんの表情がさらに困惑したものになった。
「そんな……。じゃあ、僕だけじゃなかったんだ……」
私は、そっと一歩前に出た。
「ケンタくん、もしかして……昨日、何か変わったことはなかった?」
「へ、変わったこと?」
「例えば……美術準備室に行ったりとか」
その言葉を聞いた瞬間、ケンタくんの顔が真っ青になった。
「な、なんで……なんで、それを……」
「やっぱり」
リコさんが、小さくつぶやいた。
「あなたも、あの木箱を見つけたんですね」
「き、木箱……?ま、まさか、君たちも……?」
ケンタくんの声が、さらに高くなった。
「ケンタ、落ち着けよ。僕たちも、同じ経験をしてるんだ」
ハヤトくんが、優しく声をかける。
「同じって……」
「絵の具」
私が、その言葉を継いだ。ケンタくんの目が、さらに大きく見開かれた。
「え……の、絵の具?」
彼は、まだ完全には状況を飲み込めずにいるようだった。
「昨日、美術準備室で見つけた、あの木箱の中に入ってた」
ハヤトくんが、ゆっくりと説明を始めた。
「奥の棚の、人目につかない場所に置いてあった、古い箱だ」
「あ……」
ケンタくんの口から、小さな声が漏れた。何かを思い出したような、でもまだ信じられないような表情をしている。
「花の彫刻が彫ってあって、中に赤いビロードが敷いてあった箱でしょう?」
リコさんが、具体的な特徴を付け加えた。
「そ、それ……僕も、見つけた」
ケンタくんは、ふるえ声で認めた。
「でも、まさか……まさか、君たちも、あの中の……」
「灰色の絵の具を使ったんだ」
ハヤトくんが、はっきりと言った。
「僕は体育館で、リコさんは図書室で、相田は教室で。それぞれ、絵を描いた」
ケンタくんは、私たち三人の顔を順番に見回した。その目には、驚きと、そして少しの安堵の色が浮かんでいる。
「じゃあ、僕だけじゃないんだ……。僕も、あの絵の具で……」
彼は、理科室の中を見回した。
「ここで、実験道具の絵を描いたんだ。なんだか、すごくきれいな色に見えて……」
ケンタくんの声が、だんだんと小さくなっていく。
「でも、描き終わった後、なんだかすごく変な気分になって……。そしたら、今朝……」
彼は、あきらめたように、こくりと頷いた。
「そしたら、今朝、こんなことに……。もう、どうなってるんだよぉ……」
彼は、今にも泣き出しそうな顔でそう言った。
これで、全てがつながった。私、高城ハヤトくん、氷川リコさん、そして森ケンタくん。昨日、偶然にも、あの不思議な絵の具を手にしてしまった四人だけが、この色と音のない世界に取り残されてしまったのだ。
最初の教室に戻った私たちは、それぞれの机に力なく腰を下ろした。四人いても、この広い教室はがらんとして見える。誰も、何も話さない。
これからどうすればいいのか、どうなってしまうのか。見えない未来への恐怖が、重たい空気になって私たちの間に沈んでいた。
もう、元の世界には戻れないんだろうか。
そんな絶望的な考えが、頭をよぎる。
その、時だった。
教室の隅。何もなかったはずの壁際の空間が、ふいに、水面を指でつついた時のように、小さく波打った。
「……え?」
最初にそれに気づいたのは、誰だっただろうか。四人の視線が、一斉にその一点に集中する。
空間のゆらぎは、だんだんと大きくなっていく。そして、その中心の壁に、黒いインクが一滴落ちて、じわっと染み込んでいくみたいに、黒い斑点が生まれた。
斑点は、ゆっくりと、生き物のように形を変えながら、壁を伝って広がっていく。それは、ただの染みではなかった。明らかに、何かになろうとしていた。
やがて、それは、人のような輪郭を取り始めた。頭、胴体、腕、そして足。黒いインクがにじんでできたような、のっぺりとした人の形。
それが、はっきりとした人のシルエットになった時。
すっ、と、こちらを向いたような気がした。
これは夢だ。悪い夢を見ているんだ。そうに違いない。
そう思いたくて、自分の手の甲を強くつねってみる。じわりと広がる鈍い痛み。それは、これが間違いなく現実なのだと、私に冷たく告げていた。
一歩、教室の中に足を踏み入れる。自分の上履きの、白い布地と青いゴムの部分。それは、ちゃんとした色を持っていた。背負っているランドセルの、使い慣れた赤い革の色も、昨日と同じまま。
私自身と、私の持ち物だけが、この白黒の世界で唯一の色を保っているようだった。
どうして。なんで、こんなことに。
頭の中で、同じ言葉がぐるぐると回る。答えなんて、どこにもない。がらんとした教室には、私の息の音だけが小さく聞こえる。
いつもなら、たくさんの音と声で満ちているはずの空間の、この完璧なまでの静けさは、なんだか耳の奥をキーンと痛ませるような気さえした。
この奇妙な出来事は、私にだけ起きているんだろうか。教室の外は?他のクラスは?学校全体が、こんなふうになってしまったの?
言いようのない寂しさと、じわじわと背筋を這い上がってくる不安に耐え切れなくなって、私は弾かれたように教室を飛び出した。
廊下も、階段も、やっぱり全部灰色だった。壁に貼られた習字の作品も、窓の外に見える景色も、黒と白とその間の色だけで描かれている。
自分の足音だけが、やけに大きく床に跳ね返って、私の孤独を大きくした。
私は、下の階にある体育館へと向かった。あそこなら、もっと広いから。何か、分かるかもしれない。そんな、何の根拠もない考えにすがりついていた。
体育館の重たい扉を、全身の力を使って押し開ける。
そこもまた、色がなかった。広い空間のすみずみまでが、濃さの異なる灰色で塗りつぶされている。天井から吊るされたバスケットゴールも、壁際に並べられたマットも、ステージの上に置かれた演台も。
全てが、石になってしまったかのように、冷たくて無機質な表情をしていた。
そして、私は見つけた。
体育館の真ん中、その広い空間の中に、ぽつんと一人、立ち尽くす少年がいた。短く切りそろえた髪、動きやすそうな服装。見間違えるはずもない。同じクラスの高城ハヤトくんだった。
ハヤトくんは、いつも元気で、クラスの中心にいるような人だ。サッカー部のエースで、彼の周りにはいつも友達の輪ができている。物静かな私とは、正直、あまり話したこともなかった。
そんな彼が、今は別人のように、ただぼうぜんと、ステージの方を見つめていた。
「高城くん……?」
私の声は、体育館の静寂に吸い込まれてしまいそうなくらい、か細くしか出なかった。それでも、その声はちゃんと彼の耳に届いたらしい。ハヤトくんは、ゆっくりとこちらを振り返った。
その顔には、いつもの明るい笑顔はなくて、私と同じ、混乱と信じられないという気持ちが浮かんでいたけれど、ハヤトくんは、私の姿と、私の背負っている赤いランドセルの色を見て、少しだけ目を見開いた。
「……相田?なんで、ここに」
「それは、こっちのセリフだよ。どうして、体育館に?」
私たちは、お互いに当たり前のことを聞き合った。
「お前も……なのか?」
「うん。教室に行ったら、こうなってて。誰もいなくて、色も、音もなくて……」
「僕もだよ」
ハヤトくんは、力なくそう言った。
「朝、学校に来たら、もう全部こうだった。誰もいないし、おかしいと思って体育館に来てみたら、ここも同じでさ。何が何だか、全然分からない」
彼の言葉を聞いて、私は少しだけ、ほんの少しだけ、安心している自分に気づいた。この異常な世界にいるのが、私一人だけではなかった。その事実が、凍えそうだった心に、小さな火をともしてくれたような気がした。
「ねえ、高城くん」
私は、一番聞きたくて、でも聞くのが怖い質問を、おそるおそる口にした。
「昨日、何か変わったこと、なかった?例えば……美術準備室に、行ったりとか」
その言葉に、ハヤトくんははっとしたように顔を上げた。
「行った。絵の具、足りなくなったから。……まさか、君もか?」
「うん。それで、奥の棚に、木箱が……」
「あった!花の彫刻がしてある、古いやつだろ?あの中に、変な絵の具が一本だけ入ってたんだ」
ハヤトくんは、矢継ぎ早にそう言った。
「僕、それを使って、絵を描いたんだ。卒業制作の。この体育館で、自分がシュートを決めてる絵を」
やっぱり、そうなんだ。
原因は、あの『灰色の絵の具』。あの絵の具で描いた場所が、こうして色を失った世界に変わってしまうんだ。私とハヤトくんが、同じ呪いにかかってしまった。その事実を共有して、私たちは言葉を失った。
◇
二人になっても、状況が良くなるわけではなかった。他に、まだ誰かいるかもしれない。私たちは、そう考えて、校内を調べて回ることにした。
次に向かったのは、図書室だった。
重苦しい静寂が支配する廊下を、二人で歩く。一人じゃないというだけで、さっきよりも少しだけ足取りはしっかりしていた。
図書室の扉を開けると、そこもまた、白黒の世界だった。背の高い本棚が迷路のように並び、無数の本がその背表紙をこちらに向けている。
本来なら、赤や青や黄色、色とりどりの背表紙が並んでいるはずなのに、今は全てが同じような灰色のグラデーションに見えた。どの本も、内容まで同じになってしまったかのようで、気味が悪かった。
その、本の迷路の奥から、かすかな物音がした。
私とハヤトくんは、顔を見合わせる。そして、音のする方へ、足音を忍ばせて近づいていった。
そこにいたのは、一人の女の子だった。きれいに切りそろえられたボブカットに、縁の細い眼鏡。六年生の学年首席で、二組の学級委員長、氷川リコさんだった。
彼女は、パニックになるでもなく、驚くほど冷静な様子で、一冊の本を手に取り、そのページをめくっていた。
「氷川さん!」
ハヤトくんが声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。その表情はほとんど変わらなかったけれど、私たち二人の姿を見て、少しだけ意外そうな顔をした。
「高城くんに、相田さん。あなたたちも、この世界に?」
リコさんの口調は、いつも通りの丁寧な言葉遣いだった。こんな異常な状況なのに、少しも取り乱していないように見える。
「はい。私と高城くんは、教室と体育館で……。氷川さんも、もしかして」
私の言葉に、リコさんのまゆがわずかに動いた。眼鏡の奥の瞳に、小さな動揺が浮かんでいる。
「もしかして、とは……?」
彼女の声には、いつもの落ち着きに加えて、何かを確かめたいような、慎重な表情が混じっていた。
「昨日、美術準備室に行きませんでしたか?奥の棚に、古い木箱があって……」
私がそこまで言うと、リコさんの表情がはっきりと変わった。驚きというよりも、何か重要なパズルのピースが見つかったような、そんな顔だった。
「……木箱。花の彫刻が施された、飴色の」
「そうです!それです!」
ハヤトくんも言葉を続けた。
「君も、あの中の絵の具を……」
「そうですね」
リコさんは、ゆっくりと頷いた。その動作には、まだ信じきれないでいるような、戸惑いの色が残っている。
「私も昨日、卒業制作のために画材を探していました。そして、あの箱を見つけて……」
彼女は一度言葉を切ると、周りを見回した。色を失った図書室の本棚を、証拠を確認するかのように。
「中にあった、あの灰色の絵の具を使って、この図書室の風景を描きました。でも、まさか……」
リコさんの声が、少しだけかすれた。いつもの冷静さの下に、困惑と不安が隠れているのがわかった。
「まさか、描いた場所が、こんなふうになるなんて。これは、常識では説明のつかない現象です」
彼女は、自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりとつぶやいた。その口調は淡々としていたけれど、この異常な状況を受け入れようと必死に努力しているのが伝わってきた。
「他に、誰か見なかったか?」
ハヤトくんが尋ねると、リコさんは少しだけ考えるそぶりを見せてから、首を横に振った。
「いいえ。私がここに来てから、人の気配はありませんでした。ただ……」
彼女はそこで言葉を切ると、何かを思い出すように、視線を少し上に向けた。
「私が美術準備室で例の木箱を見つけた時、すぐ後に誰かが入ってくる気配がしたんです。確か、同じクラスの……森くんだったような気がします」
「森ケンタか!」
ハヤトくんが、その名前を口にした。森ケンタくん。科学クラブにいて、機械とかにすごく詳しい子だ。でも、少し気弱なところがあって、いつもおどおどしているような印象がある。
「ケンタなら、理科室かもしれないな。あいつ、いっつもあそこにいるから」
ハヤトくんの言葉に、私たちは理科室を目指すことにした。
◇
理科室は、私たちの教室があるフロアの、一番端にあった。
薬品のツンとした匂いがかすかに残る、独特の空間。そこもやはり、色を失っていた。人体模型が、灰色の肌で無言のままこちらを見ている。実験用のフラスコやビーカーが、棚の上で鈍い輝きを放っていた。
私たちは、部屋の中を慎重に見回した。
「ケンター!いるかー!」
ハヤトくんが声を張る。すると、一番奥の実験机の下から、がた、と小さな物音がした。
三人がそちらに近づくと、机の下の暗がりで、小さな体が縮こまっているのが見えた。森ケンタくんだった。彼は、私たち三人の顔を代わる代わる見て、大きな目をさらに大きく見開いている。
「た、高城くん……?それに、氷川さんも、相田さんも……。な、なんで……」
彼の声は、不安で細かくふるえていた。ケンタくんの大きな目が、私たち三人の顔を順番に見つめている。自分が見ている光景が現実なのかどうか、確かめようとしているみたいに。
「ケンタ、お前、ここで何してたんだ?」
ハヤトくんが、まず一番基本的な質問を投げかけた。
「ぼ、僕は……朝、学校に来たら、みんながいなくて……。それで、怖くなって、ここに隠れてたんだ」
ケンタくんは、ふるえ声でそう答えた。
「でも、どうして君たちがここに? 僕以外にも、誰かいたなんて……」
「僕たちも、同じだよ。教室にも、体育館にも、図書室にも、誰もいなかった」
ハヤトくんの説明に、ケンタくんの表情がさらに困惑したものになった。
「そんな……。じゃあ、僕だけじゃなかったんだ……」
私は、そっと一歩前に出た。
「ケンタくん、もしかして……昨日、何か変わったことはなかった?」
「へ、変わったこと?」
「例えば……美術準備室に行ったりとか」
その言葉を聞いた瞬間、ケンタくんの顔が真っ青になった。
「な、なんで……なんで、それを……」
「やっぱり」
リコさんが、小さくつぶやいた。
「あなたも、あの木箱を見つけたんですね」
「き、木箱……?ま、まさか、君たちも……?」
ケンタくんの声が、さらに高くなった。
「ケンタ、落ち着けよ。僕たちも、同じ経験をしてるんだ」
ハヤトくんが、優しく声をかける。
「同じって……」
「絵の具」
私が、その言葉を継いだ。ケンタくんの目が、さらに大きく見開かれた。
「え……の、絵の具?」
彼は、まだ完全には状況を飲み込めずにいるようだった。
「昨日、美術準備室で見つけた、あの木箱の中に入ってた」
ハヤトくんが、ゆっくりと説明を始めた。
「奥の棚の、人目につかない場所に置いてあった、古い箱だ」
「あ……」
ケンタくんの口から、小さな声が漏れた。何かを思い出したような、でもまだ信じられないような表情をしている。
「花の彫刻が彫ってあって、中に赤いビロードが敷いてあった箱でしょう?」
リコさんが、具体的な特徴を付け加えた。
「そ、それ……僕も、見つけた」
ケンタくんは、ふるえ声で認めた。
「でも、まさか……まさか、君たちも、あの中の……」
「灰色の絵の具を使ったんだ」
ハヤトくんが、はっきりと言った。
「僕は体育館で、リコさんは図書室で、相田は教室で。それぞれ、絵を描いた」
ケンタくんは、私たち三人の顔を順番に見回した。その目には、驚きと、そして少しの安堵の色が浮かんでいる。
「じゃあ、僕だけじゃないんだ……。僕も、あの絵の具で……」
彼は、理科室の中を見回した。
「ここで、実験道具の絵を描いたんだ。なんだか、すごくきれいな色に見えて……」
ケンタくんの声が、だんだんと小さくなっていく。
「でも、描き終わった後、なんだかすごく変な気分になって……。そしたら、今朝……」
彼は、あきらめたように、こくりと頷いた。
「そしたら、今朝、こんなことに……。もう、どうなってるんだよぉ……」
彼は、今にも泣き出しそうな顔でそう言った。
これで、全てがつながった。私、高城ハヤトくん、氷川リコさん、そして森ケンタくん。昨日、偶然にも、あの不思議な絵の具を手にしてしまった四人だけが、この色と音のない世界に取り残されてしまったのだ。
最初の教室に戻った私たちは、それぞれの机に力なく腰を下ろした。四人いても、この広い教室はがらんとして見える。誰も、何も話さない。
これからどうすればいいのか、どうなってしまうのか。見えない未来への恐怖が、重たい空気になって私たちの間に沈んでいた。
もう、元の世界には戻れないんだろうか。
そんな絶望的な考えが、頭をよぎる。
その、時だった。
教室の隅。何もなかったはずの壁際の空間が、ふいに、水面を指でつついた時のように、小さく波打った。
「……え?」
最初にそれに気づいたのは、誰だっただろうか。四人の視線が、一斉にその一点に集中する。
空間のゆらぎは、だんだんと大きくなっていく。そして、その中心の壁に、黒いインクが一滴落ちて、じわっと染み込んでいくみたいに、黒い斑点が生まれた。
斑点は、ゆっくりと、生き物のように形を変えながら、壁を伝って広がっていく。それは、ただの染みではなかった。明らかに、何かになろうとしていた。
やがて、それは、人のような輪郭を取り始めた。頭、胴体、腕、そして足。黒いインクがにじんでできたような、のっぺりとした人の形。
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第3回きずな児童書大賞 奨励賞をいただきました! ありがとうございます!
――七不思議を順番にめぐると、最後の不思議「大階段踊り場の鏡」に知らない自分の姿が映るんだって。
小学六年生の結菜(ユイナ)が通う三日月(みかづき)小学校では、そんな噂がささやかれていた。
結菜は難関中学に合格するため、塾の夏期講習に通って勉強に励んでいる。
だが一方で、自分の将来にひそかな期待と不安をいだいてもいた。
知らない自分を知りたい結菜は、家族が留守にする夏休みのある夜、幼なじみの夏希(ナツキ)とともに七不思議めぐりを決意する。
苦労して夜の学校に忍び込んだ二人だが、出会うのは個性豊かなオバケたちばかり。
いまいち不真面目な二宮金次郎のブロンズ像から、二人はスタンプラリーの台紙を渡され、ルールを説明される。
「七不思議の謎を解けばスタンプがもらえる。順番に六つスタンプを集めて大階段の鏡のところへ持って行くと、君の知らない君自身が映し出されるんだ」
結菜と夏希はオバケたちの謎を解いて、スタンプを集められるのか?
そして大階段の鏡は二人に何を教えてくれるのか?
思春期に足を踏み入れたばかりの少女が、心の奥底に秘めた想いに気付いてゆく物語です。
生まれたばかりですが、早速赤ちゃんセラピー?始めます!
mabu
児童書・童話
超ラッキーな環境での転生と思っていたのにママさんの体調が危ないんじゃぁないの?
ママさんが大好きそうなパパさんを闇落ちさせない様に赤ちゃんセラピーで頑張ります。
力を使って魔力を増やして大きくなったらチートになる!
ちょっと赤ちゃん系に挑戦してみたくてチャレンジしてみました。
読みにくいかもしれませんが宜しくお願いします。
誤字や意味がわからない時は皆様の感性で受け捉えてもらえると助かります。
流れでどうなるかは未定なので一応R15にしております。
現在投稿中の作品と共に地道にマイペースで進めていきますので宜しくお願いします🙇
此方でも感想やご指摘等への返答は致しませんので宜しくお願いします。
大人で子供な師匠のことを、つい甘やかす僕がいる。
takemot
児童書・童話
薬草を採りに入った森で、魔獣に襲われた僕。そんな僕を助けてくれたのは、一人の女性。胸のあたりまである長い白銀色の髪。ルビーのように綺麗な赤い瞳。身にまとうのは、真っ黒なローブ。彼女は、僕にいきなりこう尋ねました。
「シチュー作れる?」
…………へ?
彼女の正体は、『森の魔女』。
誰もが崇拝したくなるような魔女。とんでもない力を持っている魔女。魔獣がわんさか生息する森を牛耳っている魔女。
そんな噂を聞いて、目を輝かせていた時代が僕にもありました。
どういうわけか、僕は彼女の弟子になったのですが……。
「うう。早くして。お腹がすいて死にそうなんだよ」
「あ、さっきよりミルク多めで!」
「今日はダラダラするって決めてたから!」
はあ……。師匠、もっとしっかりしてくださいよ。
子供っぽい師匠。そんな師匠に、今日も僕は振り回されっぱなし。
でも時折、大人っぽい師匠がそこにいて……。
師匠と弟子がおりなす不思議な物語。師匠が子供っぽい理由とは。そして、大人っぽい師匠の壮絶な過去とは。
表紙のイラストは大崎あむさん(https://twitter.com/oosakiamu)からいただきました。
あいつは悪魔王子!~悪魔王子召喚!?追いかけ鬼をやっつけろ!~
とらんぽりんまる
児童書・童話
【第15回絵本・児童書大賞、奨励賞受賞】ありがとうございました!
主人公の光は、小学校五年生の女の子。
光は魔術や不思議な事が大好きで友達と魔術クラブを作って活動していたが、ある日メンバーの三人がクラブをやめると言い出した。
その日はちょうど、召喚魔法をするのに一番の日だったのに!
一人で裏山に登り、光は召喚魔法を発動!
でも、なんにも出て来ない……その時、子ども達の間で噂になってる『追いかけ鬼』に襲われた!
それを助けてくれたのは、まさかの悪魔王子!?
人間界へ遊びに来たという悪魔王子は、人間のフリをして光の家から小学校へ!?
追いかけ鬼に命を狙われた光はどうなる!?
※稚拙ながら挿絵あり〼
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