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第四話
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私たちは、美術準備室の床に広げられた古い見取り図を、もう一度食い入るように見つめた。赤、黄、青。三つの色鮮やかな印。それが、この灰色の世界から抜け出すための、たった一つの道しるべだった。
「一番近いのは、三階の音楽室だな」
ハヤトくんが、指で見取り図をなぞりながら言った。確かに、私たちが今いる美術準備室は一階の特別教室棟にあるから、階段を二つ上がればすぐに着くはずだ。
「では、最初の目的地は音楽室としましょう。ですが、警戒は怠らないでください。先ほどの『あれ』が、どこに潜んでいるか分かりません」
リコさんの冷静な声が、浮き足立ちそうになる私たちの気を引き締める。そうだ。希望が見えたからといって、この世界の危険がなくなったわけじゃない。
「ぼ、僕は、あんまり行きたくないな……」
ケンタくんが、不安そうな声でつぶやいた。その気持ちは、私にもよく分かる。でも、ここにとどまっていても、何も解決しない。
「大丈夫だよ、ケンタくん。四人一緒だから」
私は、自分に言い聞かせるように、そう言った。その言葉に、ケンタくんは少しだけ顔を上げた。ハヤトくんが、そんなケンタくんの背中をぽんと叩く。
「そうだぜ!僕がついてるからな、任せとけって!」
彼の力強い言葉に、私たちは少しだけ勇気づけられた。私たちは頷き合うと、静かに美術準備室の扉を開け、再び色のない廊下へと足を踏み出した。
◇
階段を上り、三階の廊下を進む。さっき、あの黒い何かに追いかけられた時とは違って、今は一歩一歩がとても慎重だった。壁の染みや、教室の扉の向こうの暗がりに、絶えず意識を向けながら進む。
幸い、あの『それ』の気配はどこにもなかった。
やがて、私たちの目の前に、観音開きの大きな扉が見えてきた。『音楽室』と書かれたプレートも、やはり色を失って、ただの灰色の板に見える。
私たちは扉の前で立ち止まり、顔を見合わせた。この先に、本当に『赤の絵の具』があるんだろうか。そして、何が待ち受けているんだろうか。
ハヤトくんが代表して、そっと扉に手をかける。そして、中の様子をうかがうように、ゆっくりと、音を立てないように扉を押し開いた。
隙間から見えた音楽室の中は、ただ静まり返っているように見えた。グランドピアノが、その大きな体を部屋の中央で休ませている。壁際には、たくさんの椅子がきちんと並べられ、窓際には譜面台がいくつも置かれていた。
どれもこれもが、白黒の絵の一部のようだった。
私たちは、四人で慎重に中へと入っていく。そして、すぐにこの部屋の異常さに気づいた。
おかしい。何かが、おかしい。
視覚的な情報に、異常はない。でも、聴覚が、この部屋は危険だと訴えかけていた。
「……なんだか、この部屋……」
私が何かを言いかけた時、その感覚の正体に気づいた。自分の声が、口から出た瞬間に、どこかへ消えてなくなってしまう。自分の周りだけが、分厚い綿か何かで覆われているみたいに、音が前に進まないのだ。
「声が、変な感じに聞こえますね」
隣にいたリコさんも、同じことに気づいたようだ。彼女の声も、普段よりずっとこもって、遠くに聞こえる。
この部屋は、異常なまでに音を吸収しているんだ。
その事実に気づいた、まさにその時だった。
私たちの間を歩いていたケンタくんが、何かに足を取られたのか、小さくよろけた。その拍子に、彼が胸のポケットに差していた一本の鉛筆が、するりと抜け落ちて、床に転がった。
コツン。
本来なら、ほとんど気にも留めないような、本当に小さな音。でも、この音を異常に吸収する空間では、その乾いた一撃が、静寂をたたき割るハンマーのように、私たちの耳に突き刺さった。
そして、その音を合図にしたかのように、音楽室の景色が一変した。
壁の、まだら模様になった灰色の染み。床の、椅子の脚が作る暗がり。グランドピアノの下の、深い闇。その全てが、命を得たかのように、ぐにゃりとうごめき始めた。
黒いインクが滲み出すように、そこかしこから、あの人の輪郭を持つ異形たちが、次々と生まれ出てくる。それは、さっき教室で遭遇した一体とは比べ物にならない数だった。十体、いや、二十体以上はいるかもしれない。
私たちは、その場で凍りついた。異形たちは、まだ私たちには気づいていないようだった。ただ、生まれた場所で、ゆらゆらと体をゆらしているだけだ。
「静かに。動かないでください」
リコさんが、ほとんど息だけの声でささやいた。
「この場所は、音に反応して『あれ』が生まれるようです。そして、おそらく……大きな音は、『あれ』を呼び寄せる」
彼女の推測は、きっと正しい。さっきの鉛筆の音で、これだけの数が現れたんだ。もし、もっと大きな音を立ててしまったら、どうなるか。想像するだけで、全身の血の気が引いていくようだった。
◇
私たちは、壁際に体を押し付けるようにして、息を殺した。異形たちは、相変わらずその場でゆれているだけだ。
どうする。どうやって、あの『赤の絵の具』を手に入れる?
見取り図によれば、印が付けられていたのは、ステージの壁にかかっているベートーヴェンの肖像画の場所だった。ここから、十数メートル先。音を立てずに、あの場所までたどり着くなんて、ほとんど不可能に思えた。
床には、椅子や譜面台が無数に置かれている。一つでも倒してしまえば、おしまいだ。
「……僕が、おとりになる」
静寂を破ったのは、ハヤトくんのささやき声だった。
「僕が部屋の反対側で大きな音を立てて、あいつらを引きつける。その隙に、相田が行って、絵の具を取ってこい」
「そ、そんなの、危険すぎるよ!」
ケンタくんが、青ざめた顔で反対した。
「ハヤトくんが、あいつらに捕まっちゃったら……」
「そんなの、だめです」
私も、ケンタくんの意見に同意した。
「高城くん一人に危険な役目をさせるなんて、できません。もっと、他の方法を……」
「他に方法があるのかよ」
ハヤトくんは、強い口調で言った。
「ここにずっと隠れてたって、何も始まらないだろ。誰かが行かなきゃ、絵の具は手に入らない。だったら、一番足が速くて、体力がある僕がおとりになるのが、一番可能性が高い。そうだろ?」
彼の言っていることは、正しかった。悔しいけれど、言い返せない。
「ですが、その作戦は成功する確率よりも、あなたが危険にさらされる確率の方が、圧倒的に高いと判断します」
リコさんが、冷静に反論する。
「もっとリスクの少ない方法を、時間をかけてでも探すべきです」
「時間をかけてる間に、また別の『あれ』が出てこないって保証はどこにもないぞ。やるなら、今しかない」
ハヤトくんの瞳は、まっすぐだった。そこには、恐怖も、迷いもなかった。ただ、仲間を助け、この状況を打開するという、強い意志だけが感じられた。
私は、何も言えなかった。彼を危険な目にあわせたくない。でも、彼の覚悟を、無駄にしたくない。二つの気持ちが、私の中でぶつかり合っていた。
結局、他に誰も有効な作戦を思いつくことはできなかった。重い沈黙の後、私たちは、ハヤトくんの作戦に賭けるしかないという結論に至った。
「……分かった。でも、絶対に、無茶はしないで」
私がそう言うと、ハヤトくんは「おう」と短く答えて、にっと笑ってみせた。それは、いつもの彼の、自信に満ちた笑顔だった。
◇
ハヤトくんは、猫のようにしなやかな動きで、壁際を伝って部屋の反対側、私たちから一番遠い角へと移動していった。そして、私たちに向かって、一度だけ、力強く頷いてみせる。それが、作戦開始の合図だった。
彼は、大きく息を吸い込むと、思い切り床を踏み鳴らした。
ドンッ!
けたたましい音が、音楽室に響き渡る。その瞬間、今までその場でゆれているだけだった異形たちが、一斉に、ぴたりと動きを止めた。そして、次の瞬間、全ての異形が、音のした方角、つまりハヤトくんの方へと、滑るように移動を始めた。
「今だ、相田!行け!」
ハヤトくんの叫び声が、私の背中を押した。私は、唇を固く結ぶと、息を完全に殺して、ステージの方へと一歩を踏み出した。
つま先で、そっと床を探る。一歩、また一歩。とても薄い氷の上を歩いているみたいだった。自分の息の音や、服が擦れる音さえ、あの異形たちに聞こえてしまうんじゃないかという恐怖で、全身がこわばる。
ちらりとハヤトくんの方を見ると、彼は次々と床や壁を叩いて音を出し、巧みに異形たちを引きつけていた。異形たちは、彼を取り囲むように集まっているけれど、まだ距離がある。でも、それがいつまで続くかは分からない。
焦る気持ちを抑えながら、私はステージのすぐそばまでたどり着いた。壁には、あの有名な音楽家の、厳しい表情をした肖像画がかかっている。この白黒の世界では、その表情が、いつもよりさらに険しく、何かを責めているように見えた。
私は、肖像画の額縁に、そっと手をかけた。そして、ゆっくりと持ち上げる。
あった。
肖像画の裏には、壁が四角くくり抜かれていて、小さな空洞が作られていた。そして、その中に、一本の絵の具のチューブが、宝物のように、静かに置かれていた。
それは、この世界で初めて見る、鮮やかな『色』だった。燃えるような、力強い赤色。私は、何かに吸い寄せられるように、そのチューブを手に取った。ひんやりとした感触が、手のひらに伝わる。
やった。手に入れたんだ。
安心と喜びで、一瞬、周りの状況を忘れそうになった。私は、ハヤトくんに聞こえるように、でも異形を刺激しないように、小さな声で合図を送った。
「高城くん!取ったよ!」
「よし!戻るぞ!」
私たちは、慎重に出口に向かって後退を始めた。作戦は、成功した。そう、誰もが思った、その時だった。
安心から、ほんの少しだけ、注意がそれてしまったのかもしれない。後ろに下がる私の足が、床に立てかけられていた金属製の譜面台の脚に、こつん、と触れてしまった。
しまった、と思った時には、もう遅かった。
バランスを失った譜面台は、スローモーションのようにゆっくりと傾いていき、そして、床に叩きつけられた。
ガシャアアアアアンッ!
耳をつんざくような、けたたましい金属の不協和音。それは、鉛筆が落ちた音や、ハヤトくんが立てた音とは、比べ物にならないほどの、すさまじい大音量だった。
その音に、音楽室全体が、巨大な生き物のように反応した。
ハヤトくんの周りにいた異形たちが、一斉にこちらを振り向く。それだけじゃない。壁から、床から、天井の隅から、今まで隠れていた場所という場所から、無数の黒い輪郭が、ボコボコと、際限なく溢れ出してきた。
部屋中が、うごめく黒い異形で埋め尽くされていく。そして、その全てが、音の発生源である私と、私の足元の譜面台へと、殺到し始めた。
出口への道は、あっという間に、黒い絶望の壁で完全に塞がれてしまった。
「一番近いのは、三階の音楽室だな」
ハヤトくんが、指で見取り図をなぞりながら言った。確かに、私たちが今いる美術準備室は一階の特別教室棟にあるから、階段を二つ上がればすぐに着くはずだ。
「では、最初の目的地は音楽室としましょう。ですが、警戒は怠らないでください。先ほどの『あれ』が、どこに潜んでいるか分かりません」
リコさんの冷静な声が、浮き足立ちそうになる私たちの気を引き締める。そうだ。希望が見えたからといって、この世界の危険がなくなったわけじゃない。
「ぼ、僕は、あんまり行きたくないな……」
ケンタくんが、不安そうな声でつぶやいた。その気持ちは、私にもよく分かる。でも、ここにとどまっていても、何も解決しない。
「大丈夫だよ、ケンタくん。四人一緒だから」
私は、自分に言い聞かせるように、そう言った。その言葉に、ケンタくんは少しだけ顔を上げた。ハヤトくんが、そんなケンタくんの背中をぽんと叩く。
「そうだぜ!僕がついてるからな、任せとけって!」
彼の力強い言葉に、私たちは少しだけ勇気づけられた。私たちは頷き合うと、静かに美術準備室の扉を開け、再び色のない廊下へと足を踏み出した。
◇
階段を上り、三階の廊下を進む。さっき、あの黒い何かに追いかけられた時とは違って、今は一歩一歩がとても慎重だった。壁の染みや、教室の扉の向こうの暗がりに、絶えず意識を向けながら進む。
幸い、あの『それ』の気配はどこにもなかった。
やがて、私たちの目の前に、観音開きの大きな扉が見えてきた。『音楽室』と書かれたプレートも、やはり色を失って、ただの灰色の板に見える。
私たちは扉の前で立ち止まり、顔を見合わせた。この先に、本当に『赤の絵の具』があるんだろうか。そして、何が待ち受けているんだろうか。
ハヤトくんが代表して、そっと扉に手をかける。そして、中の様子をうかがうように、ゆっくりと、音を立てないように扉を押し開いた。
隙間から見えた音楽室の中は、ただ静まり返っているように見えた。グランドピアノが、その大きな体を部屋の中央で休ませている。壁際には、たくさんの椅子がきちんと並べられ、窓際には譜面台がいくつも置かれていた。
どれもこれもが、白黒の絵の一部のようだった。
私たちは、四人で慎重に中へと入っていく。そして、すぐにこの部屋の異常さに気づいた。
おかしい。何かが、おかしい。
視覚的な情報に、異常はない。でも、聴覚が、この部屋は危険だと訴えかけていた。
「……なんだか、この部屋……」
私が何かを言いかけた時、その感覚の正体に気づいた。自分の声が、口から出た瞬間に、どこかへ消えてなくなってしまう。自分の周りだけが、分厚い綿か何かで覆われているみたいに、音が前に進まないのだ。
「声が、変な感じに聞こえますね」
隣にいたリコさんも、同じことに気づいたようだ。彼女の声も、普段よりずっとこもって、遠くに聞こえる。
この部屋は、異常なまでに音を吸収しているんだ。
その事実に気づいた、まさにその時だった。
私たちの間を歩いていたケンタくんが、何かに足を取られたのか、小さくよろけた。その拍子に、彼が胸のポケットに差していた一本の鉛筆が、するりと抜け落ちて、床に転がった。
コツン。
本来なら、ほとんど気にも留めないような、本当に小さな音。でも、この音を異常に吸収する空間では、その乾いた一撃が、静寂をたたき割るハンマーのように、私たちの耳に突き刺さった。
そして、その音を合図にしたかのように、音楽室の景色が一変した。
壁の、まだら模様になった灰色の染み。床の、椅子の脚が作る暗がり。グランドピアノの下の、深い闇。その全てが、命を得たかのように、ぐにゃりとうごめき始めた。
黒いインクが滲み出すように、そこかしこから、あの人の輪郭を持つ異形たちが、次々と生まれ出てくる。それは、さっき教室で遭遇した一体とは比べ物にならない数だった。十体、いや、二十体以上はいるかもしれない。
私たちは、その場で凍りついた。異形たちは、まだ私たちには気づいていないようだった。ただ、生まれた場所で、ゆらゆらと体をゆらしているだけだ。
「静かに。動かないでください」
リコさんが、ほとんど息だけの声でささやいた。
「この場所は、音に反応して『あれ』が生まれるようです。そして、おそらく……大きな音は、『あれ』を呼び寄せる」
彼女の推測は、きっと正しい。さっきの鉛筆の音で、これだけの数が現れたんだ。もし、もっと大きな音を立ててしまったら、どうなるか。想像するだけで、全身の血の気が引いていくようだった。
◇
私たちは、壁際に体を押し付けるようにして、息を殺した。異形たちは、相変わらずその場でゆれているだけだ。
どうする。どうやって、あの『赤の絵の具』を手に入れる?
見取り図によれば、印が付けられていたのは、ステージの壁にかかっているベートーヴェンの肖像画の場所だった。ここから、十数メートル先。音を立てずに、あの場所までたどり着くなんて、ほとんど不可能に思えた。
床には、椅子や譜面台が無数に置かれている。一つでも倒してしまえば、おしまいだ。
「……僕が、おとりになる」
静寂を破ったのは、ハヤトくんのささやき声だった。
「僕が部屋の反対側で大きな音を立てて、あいつらを引きつける。その隙に、相田が行って、絵の具を取ってこい」
「そ、そんなの、危険すぎるよ!」
ケンタくんが、青ざめた顔で反対した。
「ハヤトくんが、あいつらに捕まっちゃったら……」
「そんなの、だめです」
私も、ケンタくんの意見に同意した。
「高城くん一人に危険な役目をさせるなんて、できません。もっと、他の方法を……」
「他に方法があるのかよ」
ハヤトくんは、強い口調で言った。
「ここにずっと隠れてたって、何も始まらないだろ。誰かが行かなきゃ、絵の具は手に入らない。だったら、一番足が速くて、体力がある僕がおとりになるのが、一番可能性が高い。そうだろ?」
彼の言っていることは、正しかった。悔しいけれど、言い返せない。
「ですが、その作戦は成功する確率よりも、あなたが危険にさらされる確率の方が、圧倒的に高いと判断します」
リコさんが、冷静に反論する。
「もっとリスクの少ない方法を、時間をかけてでも探すべきです」
「時間をかけてる間に、また別の『あれ』が出てこないって保証はどこにもないぞ。やるなら、今しかない」
ハヤトくんの瞳は、まっすぐだった。そこには、恐怖も、迷いもなかった。ただ、仲間を助け、この状況を打開するという、強い意志だけが感じられた。
私は、何も言えなかった。彼を危険な目にあわせたくない。でも、彼の覚悟を、無駄にしたくない。二つの気持ちが、私の中でぶつかり合っていた。
結局、他に誰も有効な作戦を思いつくことはできなかった。重い沈黙の後、私たちは、ハヤトくんの作戦に賭けるしかないという結論に至った。
「……分かった。でも、絶対に、無茶はしないで」
私がそう言うと、ハヤトくんは「おう」と短く答えて、にっと笑ってみせた。それは、いつもの彼の、自信に満ちた笑顔だった。
◇
ハヤトくんは、猫のようにしなやかな動きで、壁際を伝って部屋の反対側、私たちから一番遠い角へと移動していった。そして、私たちに向かって、一度だけ、力強く頷いてみせる。それが、作戦開始の合図だった。
彼は、大きく息を吸い込むと、思い切り床を踏み鳴らした。
ドンッ!
けたたましい音が、音楽室に響き渡る。その瞬間、今までその場でゆれているだけだった異形たちが、一斉に、ぴたりと動きを止めた。そして、次の瞬間、全ての異形が、音のした方角、つまりハヤトくんの方へと、滑るように移動を始めた。
「今だ、相田!行け!」
ハヤトくんの叫び声が、私の背中を押した。私は、唇を固く結ぶと、息を完全に殺して、ステージの方へと一歩を踏み出した。
つま先で、そっと床を探る。一歩、また一歩。とても薄い氷の上を歩いているみたいだった。自分の息の音や、服が擦れる音さえ、あの異形たちに聞こえてしまうんじゃないかという恐怖で、全身がこわばる。
ちらりとハヤトくんの方を見ると、彼は次々と床や壁を叩いて音を出し、巧みに異形たちを引きつけていた。異形たちは、彼を取り囲むように集まっているけれど、まだ距離がある。でも、それがいつまで続くかは分からない。
焦る気持ちを抑えながら、私はステージのすぐそばまでたどり着いた。壁には、あの有名な音楽家の、厳しい表情をした肖像画がかかっている。この白黒の世界では、その表情が、いつもよりさらに険しく、何かを責めているように見えた。
私は、肖像画の額縁に、そっと手をかけた。そして、ゆっくりと持ち上げる。
あった。
肖像画の裏には、壁が四角くくり抜かれていて、小さな空洞が作られていた。そして、その中に、一本の絵の具のチューブが、宝物のように、静かに置かれていた。
それは、この世界で初めて見る、鮮やかな『色』だった。燃えるような、力強い赤色。私は、何かに吸い寄せられるように、そのチューブを手に取った。ひんやりとした感触が、手のひらに伝わる。
やった。手に入れたんだ。
安心と喜びで、一瞬、周りの状況を忘れそうになった。私は、ハヤトくんに聞こえるように、でも異形を刺激しないように、小さな声で合図を送った。
「高城くん!取ったよ!」
「よし!戻るぞ!」
私たちは、慎重に出口に向かって後退を始めた。作戦は、成功した。そう、誰もが思った、その時だった。
安心から、ほんの少しだけ、注意がそれてしまったのかもしれない。後ろに下がる私の足が、床に立てかけられていた金属製の譜面台の脚に、こつん、と触れてしまった。
しまった、と思った時には、もう遅かった。
バランスを失った譜面台は、スローモーションのようにゆっくりと傾いていき、そして、床に叩きつけられた。
ガシャアアアアアンッ!
耳をつんざくような、けたたましい金属の不協和音。それは、鉛筆が落ちた音や、ハヤトくんが立てた音とは、比べ物にならないほどの、すさまじい大音量だった。
その音に、音楽室全体が、巨大な生き物のように反応した。
ハヤトくんの周りにいた異形たちが、一斉にこちらを振り向く。それだけじゃない。壁から、床から、天井の隅から、今まで隠れていた場所という場所から、無数の黒い輪郭が、ボコボコと、際限なく溢れ出してきた。
部屋中が、うごめく黒い異形で埋め尽くされていく。そして、その全てが、音の発生源である私と、私の足元の譜面台へと、殺到し始めた。
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