ヴァルキュリア・パニック~六畳一間から始まる強制同棲ライフ~

速水静香

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第九話:帰り道の揚げ物

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 放課後を告げるチャイムとともに、俺は教室から出ていく。
 いや、ヘルヤに連れられて、半ば強引に。

「ほら、いくぞ!」

 我が隊長は、その美しい身体を制服に包み、手にはスクールバッグーー中身はすっからかんだろうのそれを持ちながら、俺の手を引いていく。
 その力強さは、とてもか弱い女子生徒のものとは思えない。俺の腕が悲鳴を上げる寸前の握力で、彼女は廊下を突き進んでいく。
 周囲の生徒たちが、モーゼの海割れのごとく道を開けていくのは、彼女が持つ圧倒的な美貌のせいだけではないだろう。直前の体育の授業で見せつけた、人間離れした身体能力に対する畏敬の念、あるいは野生動物に対する本能的な警戒心が働いているに違いない。

 通常であれば、一日の拘束から解き放たれるこの時間は、囚人にとっての釈放の合図のごとく、甘美な安らぎをもたらすはずのものだ。
 だが、今日の俺にとって、その旋律は新たな戦いの幕開けを告げる合図にしか聞こえなかった。

 五時限目の体育、すなわちドッジボールという名の殺戮遊戯において、自称・戦乙女が見せたパフォーマンスは、あまりに鮮烈すぎた。
 重力に反抗するかのような直球。ゴム製のボールを凶器へと昇華させる握力。そして何より、敵を殲滅することに躊躇いを見せない、あの捕食者のごとき眼光。
 それらの要素が複合的に作用し、結果として何が起きたか。
 答えは、現代のSNSが生んだ悲劇――昇降口におけるパンデミックだった。

 俺たちが着替えを終え、教室に戻り、そして下駄箱にたどり着くまでのわずか数十分の間。
 その短い時間に、クラスの誰かが投稿したであろう『謎の美少女転校生、剛速球動画』は、SNSを通して光の速さで駆け巡っていたらしい。
 昇降口には、スマートフォンを握りしめ、血走った目をした各運動部のキャプテンやスカウトの生徒たちが、獲物に群がるピラニアのごとく待ち構えていたのだ。

「君か! 動画で見たぞ! 頼む、我が柔道部へ!」
「違うだろ、あの肩は投擲向きだ! 陸上部こそが彼女の輝く場所だ!」
「バレーボール部なら即レギュラーだ! あの動画の跳躍力、あれならブロックの上から叩き込める!」
「いや、ラグビー部のマネージャー兼、最終兵器になってくれ!」

 下駄箱の前は、さながらタイムセール会場のような有様だった。
 彼らの目は必死だ。県大会、あるいはインターハイという栄光への切符が、目の前の金髪少女の形をしているように見えているのだろう。情報の拡散速度と、部員確保への執念、高校生のア動力恐るべしである。
 俺は、その熱気にあてられて、一歩後ずさりした。これに関わってはいけないと、俺の生存本能が警鐘を鳴らしている。
 だが、俺の手首はしっかりと彼女に掴まれたままだ。逃走は不可能だった。

 当のヘルヤはといえば、上履きからローファーへと履き替えながら、鬱陶しそうに手で空を払う動作を見せていた。
 まるで、夏の盛りにまとわりつく羽虫を追い払うかのように。

「ええい、やかましい! 貴様ら、近すぎるぞ。私に殺されたいのか」

 彼女の声には、隠しきれない不快感が滲んでいた。
 しかし、運動部員たちは止まらない。

「頼むよ! 見学だけでいいから!」
「入部届はここにある! 名前を書くだけでいいんだ!」
「とりあえずジュース奢るから! 部室に来てくれ!」

 詰め寄る男子生徒たち。
 ヘルヤはカツンと踵を鳴らして立ち上がると、腕を組み、彼らを睥睨した。その視線の高さは、物理的な身長差以上に、精神的な優位性によって彼らを見下ろしていた。
 彼女は深く息を吸い込み、そして宣告した。

「断る」

 一刀両断。
 その声は冷たく、そして絶対的だった。
 体育館の空気を凍らせたときと同じ、有無を言わせぬ圧力がそこにはあった。

「部活動? 放課後の課外活動のことか。そのような遊戯に興じる時間は、私にはない」

 彼女の言葉に、勧誘していた生徒たちが一瞬、言葉を失う。
 だが、すぐに食い下がる声が上がった。

「そ、そんなこと言わずに……才能がもったいないよ!」
「そうだよ、君なら全国だって夢じゃない!」

 その言葉を聞いた瞬間、ヘルヤの片方の口角が持ち上がった。
 それは嘲笑に近い、冷ややかな笑みだった。

「才能だと? 私の武は、神より賜りし天性のものと、血のにじむような鍛錬の結晶だ。それをボール遊びやマット運動のために消費するなど、言語道断」

 彼女は鼻で笑った。
 周囲の熱気が一瞬で凍りつく。神より賜りし、などという痛々しいフレーズも、彼女が口にすると不思議な説得力を帯びるから恐ろしい。
 しかし、彼女はそこで止まらなかった。
 隣で靴を履き替えようとしていた俺の肩を、ガシッと鷲掴みにし、自分の方へと引き寄せたのだ。

「それに、私は多忙なのだ。このカズキの護衛という、世界で最も重要かつ困難な任務を遂行している」

 俺の心臓が、早鐘を打った。
 余計なことを言うな。

「……え、九条の?」
「護衛?」

 部員たちの視線が、一斉に俺へと突き刺さる。
 そこに含まれているのは、『なんでお前なんかが』という純粋な疑問と、底知れぬ嫉妬、そして『こいつさえいなければ』という排除の意思だった。
 俺の胃袋が、ストレスでねじ切れるような痛みを訴える。

「そ、そうです。彼女は、その……俺の遠い親戚みたいなもので、ホームステイ先の俺の世話を……いや、俺が世話を……」

 俺は必死に言い訳を並べようとした。
 しかし、しどろもどろになる俺の言葉を、ヘルヤが無慈悲に遮る。

「カズキは、その貧弱さゆえに、常に死の危険と隣り合わせなのだ」

 彼女は真顔で言い放った。

「私が片時も目を離さず、背後を守らねば、いつ野良犬に噛まれるか、あるいは段差でつまずいて首の骨を折るか分からんからな。見ての通り、この男は歩く時限爆弾のような虚弱体質なのだ」

 俺をなんだと思っているんだ。スペランカーか何かか。
 俺はそこまで弱くない。少なくとも、段差で即死するような軟弱な生き方をしてきた覚えはない。
 だが、彼女の堂々たる宣言は、不思議な説得力を持って周囲を圧倒した。
 彼らの視線が、嫉妬から同情、そして哀れみへと変化していくのが分かる。

「つまり、私はカズキの専属ヴァルキリーなのだ。他の勢力に加担するつもりはない。……失せろ」

 最後の一言と共に、彼女から放たれた不可視のプレッシャーが、部員たちを後ずさりさせた。
 彼らは本能的に悟ったのだろう。これ以上勧誘を続ければ、動画の中で壁にめり込んでいたドッジボールと同じ末路を辿ることになると。
 動物的な危機察知能力が、彼らに撤退を促したのだ。

「……わ、わかったよ」
「気が変わったら言ってくれ……」
「九条……お前、大変なんだな……」

 潮が引くように、勧誘部隊が散っていく。
 あとに残されたのは、精神的に磨り減った俺と、満足げに胸を張る戦乙女だけだった。

「ふん、雑兵どもが。私の安売りはしない主義だ」

 彼女は髪をかき上げ、得意げに言った。
 俺は深く、重たい息を吐き出し、校舎を背にして歩き出した。
 夕日が長く伸び、俺たちの足元を染めている。
 今日も一日が終わった。
 だが、家に帰るまでが遠足であり、この爆弾娘をアパートに封印するまでが俺の学校生活だ。



 通学路を並んで歩く。
 すれ違う他校の生徒や、買い物帰りの主婦たちが、ちらちらとこちらを見てくる。
 当然だ。絶世の美少女が、くたびれた顔の男子高校生と歩いているのだから。不釣り合いにも程がある。
 俺はできるだけ気配を消そうと背中を丸めるが、隣の発光体があまりに眩しすぎて、逆効果になっている気がしてならない。

「しかし、カズキよ」

 ヘルヤが上機嫌で口を開いた。
 スクールバッグを軽やかに揺らしながら、彼女は空を見上げている。

「この『ガッコウ』というシステム、なかなか侮れんな」
「……どういう意味だ」

 俺は気のない返事を返した。
 彼女の独自解釈にはもう慣れたつもりだったが、それでも警戒は解けない。

「最初は単なる知識の詰め込み機関かと思っていたが、認識を改めた。あれは、極めて効率的な戦士育成所だ」

 彼女は振り返り、遠ざかる校舎をまじまじと見つめた。
 その瞳には、ある種の感銘すら浮かんでいるように見える。

「時間を細かく区切り、チャイムという鐘の音で行動を強制する規律。集団行動を徹底させ、個の意思を殺して組織の一部とする洗脳教育。これらは軍隊の基礎そのものではないか」
「言い方が悪いな。協調性を養っているだけだ」
「そして極めつけは、掃除の時間だ」

 彼女は人差し指を立てて強調した。

「掃除? ただの美化活動だろ」
「否。あれは、自らの陣地を清め、精神を統一するための儀式だ。雑巾がけの姿勢は足腰を鍛え、机を運ぶ動作は連携を学ぶ。すべての行動が、戦場での生存率を高める訓練となっている」

 買いかぶりすぎだ。
 ただ文部科学省が定めたカリキュラムに従っているだけだ。
 だが、彼女の目には、日本の公立高校がスパルタの兵舎か何かのように映っているらしい。
 天界の戦乙女育成所がどのような場所かは知らないが、彼女がこれほど感心するのだから、似たようなものなのだろうか。

「特に気に入ったのは、あの巨大な靴箱だ。個々の兵士に専用の武器庫を与え、そこで履物を変えることで、日常と戦場の意識を切り替えさせる。心理的なスイッチとして実に機能的だ」
「ただ土足禁止なだけだよ。日本の文化だ」
「ふむ。天界の練兵場にも導入すべきか……。ミスリルのブーツを脱いで、戦場専用のサンダルに履き替える……悪くない」

 彼女は口元に手を当て、真剣に検討している。
 ヴァルハラの下駄箱事情などどうでもいい。サンダルで戦場に出る戦乙女など見たくない。
 俺の足取りは重かった。
 疲労が、泥のように足にまとわりついている。
 昨夜の睡眠不足、授業中の気苦労、昼休みの争奪戦、そして体育での命懸けの防衛戦。
 すべてのツケが、今になってのしかかってきていた。

 一方、ヘルヤの足取りは軽やかだった。
 スキップでもし出しそうな勢いだ。
 彼女にとって、この新しい世界は刺激に満ちたテーマパークなのだろう。

 駅前のロータリーに差し掛かった時だった。
 彼女の足が、ピタリと止まった。

「……む?」

 彼女の視線が、一点に釘付けになる。
 その先には、パステルカラーの派手な看板を掲げた店があった。
 三十一種類のフレーバーを売りにしている、少しマイナーだが味は確かなアイスクリームチェーン店だ。
 ガラス張りのショーケースの中には、色とりどりのアイスが並んでいる。
 店の前には、女子高生のグループやカップルが列を作っていた。

「カズキ、あれは何だ」

 ヘルヤの声が、少しうわずっていた。
 興奮の色が隠せていない。
 彼女の青い瞳が、ショーケースの中の色彩に吸い寄せられている。

「アイス屋だよ。お前、朝に冷蔵庫のやつ食っただろ」
「あれとは……造形が違う。見ろ、あの色彩の暴力を」

 彼女はフラフラと店の方へ引き寄せられていく。
 まるで、魅了の魔法にかかったかのように。
 ガラスケースにへばりつくようにして、彼女は中を覗き込んだ。
 その吐息でガラスが白く曇るほどに接近している。

「赤いマーブル模様……あれはドラゴンの血を練り込んだものか? そしてあの緑色は……エルフの森の秘薬か? さらに、あの茶色い塊が入ったものは……大地の精霊の涙か?」

 彼女の想像力は留まるところを知らない。

「ストロベリーチーズケーキと、抹茶と、チョコクランチだ。勝手にファンタジー変換するな」
「美しい……。天界の氷菓は、もっとこう、白一色で味気ない。『清廉潔白』を是とするあまり、色彩への冒険心が欠けている。味覚への探究心を忘れた種族に未来はない」

 彼女はガラスに指を這わせた。
 その瞳孔が開いている。
 捕食モードだ。

「食してみたい。あの、三段に積み上げられた塔のようなものを」
「トリプルか。高いぞ、あれ」

 俺は冷静に指摘した。
 あのサイズだと、軽く五百円は超える。高校生の放課後の買い食いとしては、貴族の遊びだ。

「金ならある! ……あっ、いや、なかった」

 彼女は自分のポケットを探り、空であることを思い出して肩を落とした。
 彼女の所持金はゼロだ。昨日の買い出しで俺の財布から出した金は、すべてお菓子とジュースに消えたらしい。
 そして、彼女は期待に満ちた、湿り気を帯びた瞳で俺を見上げてきた。

「カズキ……」
「……だめだ」

 俺は即答した。

「なぜだ! 貴様は私の下僕だろう? 私の欲求を満たすのは、義務ではないのか?」
「誰が下僕だ。俺たちは対等な契約関係だ。それに、契約条項を忘れたか? 食費は抑える。無駄遣いはしない」
「これは無駄遣いではない! 異文化理解のために必要なのだ! それに、あの冷たい甘味を摂取すれば、私の魔力も回復するだろう!」

 あからさまな嘘をつくな。
 むしろ、糖分を摂取した彼女は活動的になりすぎて、余計な破壊活動を行う可能性が高い。

「嘘つけ。どうせ食ったら眠くなるだけだろ」

 俺は首を横に振った。
 ここで甘やかしてはいけない。俺の財布のライフポイントは、すでにレッドゾーンなのだ。
 ヘルヤは頬を膨らませ、ガラスケースのアイスと俺の顔を交互に見た。
 その表情は、おもちゃ売り場の前で駄々をこねる子供そのものだ。

「ケチな男は出世しないぞ」
「堅実と言ってくれ」
「うう……頼む。一口でいいのだ。あの一番上の、青い……『ソーダ・スプラッシュ』なるものを……」

 彼女が潤んだ瞳で懇願してくる。
 その表情は反則級に可愛い。
 道行く人々が、「うわ、あの子可愛い」「彼氏にねだってるのかな」「買ってやれよ、甲斐性なし」といった視線を俺に投げかけてくる。
 くそ、外堀を埋める作戦か。無意識なのが余計にタチが悪い。
 俺の良心が、ギシギシと音を立てて揺らぐ。
 だが、ここで陥落してはならない。一度許せば、明日も明後日もねだられる未来が見える。

 俺は折衷案を探した。
 アイスは高い。だが、何かを与えなければ、この場を動かないだろう。
 ふと、視線の端に別の看板が映った。
 ロータリーの向かいにある、オレンジと緑のラインが入ったコンビニエンスストアだ。
 店の前には、『ホットスナック全品20円引き! ポイント還元キャンペーン中!』という幟がはためいている。
 これだ。

「……ヘルヤ。アイスは諦めろ」
「なっ……鬼か貴様は! 悪魔か! 神の使いに対してなんという仕打ち!」
「その代わり、もっといいものを食わせてやる」
「……ほう?」

 彼女の眉がピクリと動いた。
 食欲という名の釣り針に、見事に引っかかった反応だ。
 単純で助かる。

「いいものとは何だ? さっきのアイスに匹敵するものか?」
「ああ。熱々で、肉汁が溢れて、スパイスが効いている。しかも、今なら特別価格だ」
「肉……だと?」

 アイスへの未練が一瞬で吹き飛んだようだ。
 彼女は肉食獣の目つきになった。
 甘味も好きだが、肉への執着も凄まじい。彼女にとってカロリーとは正義なのだ。

「案内せよ。その肉のありかへ」
「こっちだ」

 俺は彼女をアイス屋から引き剥がし、コンビニへと誘導した。



 コンビニの中は、夕方の混雑が始まっていた。
 部活帰りの学生や、仕事終わりのサラリーマンで賑わっている。
 俺たちはレジ横のホットスナックケースの前へ立った。
 そこには、黄金色に輝く揚げ物たちが整列している。
 唐揚げ、コロッケ、アメリカンドッグ。
 その中でも王座に君臨するのが、平たく伸ばされた骨なしのフライドチキン、通称『ファミチキ』的なアレだ。

「これだ」

 俺はケースを指差した。

「……ふむ。ただの揚げた肉に見えるが」

 ヘルヤは少し拍子抜けした顔をした。
 見た目は確かに地味かもしれない。先ほどのアイスのような色彩の暴力はない。

「見た目で判断するな。これは現代日本のコンビニエンスストアが生み出した、カロリーの爆弾だ。衣のサクサク感と、中のジューシーさは暴力的だ」
「ほう……」

 ヘルヤはケースに顔を近づけた。
 ライトに照らされたチキンの表面で、脂が微かに泡立っているのが見える。

「匂いが……良いな。たしかに暴力的なまでの脂の香りがする。これは、戦場の宴で振る舞われるオークの丸焼きにも似た、野生の香りだ」
「オークは食ったことないが、まあ、似たようなもんだろ。一つ買ってやる。ポイントもつくしな」

 俺はレジに進み、チキンを二つ注文した。もちろん俺の分もだ。
 店員から手渡された紙袋は、熱を帯びていて温かい。
 油が染み出さない加工がされた専用の袋。上部を切り取れば、手を汚さずに食べられるという発明品だ。

 店を出て、俺たちは少し離れたガードレールに腰掛けた。
 ここなら人目も少なく、落ち着いて食べられる。
 行儀は悪いが、買い食いの醍醐味というやつだ。

「ほら、ここをこうやって切るんだ」

 俺は実演して見せた。
 ミシン目に沿って袋の上半分を切り取る。
 黄金色のチキンが顔を出す。湯気がふわりと立ち上り、スパイスの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

「なるほど。武装解除というわけか。容易い」

 ヘルヤも不器用な手つきで袋を破った。
 少し勢い余って袋が裂けそうになったが、なんとかチキンの露出に成功する。
 彼女はそれを両手で持ち、恭しく掲げた。

「いただきます」
「……イタダキマス」

 彼女は見よう見まねで手を合わせ、そしてチキンにかぶりついた。

 ザクッ。

 小気味よい音が、夕暮れの街に響く。
 しっかりとした衣が砕ける音だ。
 直後、ヘルヤの動きが停止した。
 時が止まったかのように。

「…………」

 彼女はゆっくりと咀嚼を始めた。
 一口、また一口。
 そして、ごくりと飲み込む。
 彼女の喉が動くのを見て、俺も固唾をのんだ。

「……カズキ」
「どうだ」
「……これは、罪の味がする」

 彼女は真剣な表情で言った。
 その言葉の重みに、俺は思わず吹き出しそうになった。

「衣にまぶされたスパイスの刺激。噛み締めた瞬間に溢れ出す、奔流のような肉汁。それらが舌の上で一体となり、脳髄を痺れさせる……。なんという背徳感だ」
「ただのフライドチキンだぞ」
「天界の料理は、素材の味を活かすとか、健康に良いとか、そういう上品なものばかりだ。これほどまでに、直接的かつ暴力的に『美味い』と訴えかけてくる食べ物は、あちらにはない」

 彼女は二口目を齧った。
 今度は、もっと大きく。
 口の端に油がついているのも気にせず、彼女は夢中で肉を貪る。

「はふっ、はふっ……熱い、だが止まらん! この油、麻薬的な中毒性があるぞ! 貴様ら人間は、このような危険物を日常的に摂取しているのか?」
「だから一日一個までな。食い過ぎると太るぞ」
「むぐ……承知した。だが、明日もまた、この儀式を行いたい。私の身体が、この油を求めている」

 彼女は満面の笑みを浮かべた。
 作り笑いでも、高圧的な嘲笑でもない。
 ただ美味しいものを食べて、幸せを感じているだけの、無邪気な子供のような笑顔。
 夕日に照らされたその表情は、不覚にも、ドキリとするほど愛らしかった。
 戦乙女の鎧も、見栄もプライドも脱ぎ捨てた、素の少女の顔。
 さっきまでの、学校で見せていた威圧的な態度はどこへやら。
 これがあるから、憎めないのだ。

「……まぁ、ポイントが貯まったらな」

 俺は照れ隠しに、自分のチキンを齧った。
 いつもより、少しだけ味が濃く感じる。
 一人で食うコンビニチキンは、ただの燃料補給だ。
 だが、誰かと、それもこんな風に美味そうに食うやつと一緒に食うと、それは立派な食事になる。

 ふと、思った。
 この騒がしくて、非常識で、金のかかる同居人との生活も、そう悪くはないのかもしれない、と。
 退屈だった俺の日常は、確かに破壊された。
 だが、その瓦礫の中から、こうした小さな色彩が見つかるのなら、それもまた一興か。
 俺は空を見上げた。一番星が光り始めている。

「んんっ、最後の一口が惜しい……。カズキ、貴様の分はまだ残っているか?」

 感傷に浸っていた俺の横から、悪魔の囁きが聞こえた。
 見ると、ヘルヤの手には空になった袋しかない。
 そして彼女の視線は、俺の手元にある、まだ半分ほど残ったチキンにロックオンされていた。

「やるかよ。自分のを食え」
「もうないのだ! 貴様のはまだ大きいではないか!」
「俺が味わって食ってるだけだ!」
「ケチ! 一口くらい!」
「お前の一口はでかいんだよ! 焼きそばパンの悲劇を忘れたのか!」

 そんな軽口を叩きながら、俺たちは再び歩き出した。
 家路につく。
 帰る場所がある。待っている人がいるわけではないが、一緒に帰る相手がいる。
 それは、ボッチだった俺にとって、未知の体験だった。



 アパートに到着した頃には、日は完全に沈み、街灯が頼りない光を投げかけていた。
 築三十年の木造アパートは、闇の中で古ぼけたシルエットを晒している。
 俺たちの城だ。いや、俺の城に彼女が勝手に駐屯しているだけだが。
 このボロアパートも、彼女が来てからは騒がしくなったものだ。

「ふあ……腹も満ちたし、眠くなってきたな」

 ヘルヤは欠伸をしながら、階段を上がろうとした。
 自由すぎる。食ったら寝る、まるで猫だ。
 俺は郵便受けをチェックする習慣があったため、一階の入り口で足を止めた。
 ダイヤル式の鍵を回し、小さな扉を開ける。
 中には、ピザ屋のチラシが数枚と、一枚の茶封筒が入っていた。

「ん? なんだこれ」

 封筒には、差出人の名前がない。
 だが、宛名は確かに『203号室 九条様』となっている。
 嫌な予感がした。
 背筋に、冷たいものが走る感覚。
 俺は震える手で封を開けた。
 中から出てきたのは、ワープロ打ちされた一枚の紙だった。

『管理会社より重要なお知らせ』

 タイトルだけで、心臓が跳ね上がった。
 視線を下へ滑らせる。
 そこに書かれていた文字の列が、俺の脳内を蹂躙していく。

『近隣住民の方より、騒音に関する苦情が寄せられています。
 一昨日の夕方、および昨夜未明にかけて、「爆発音のような轟音」や「女性の絶叫」、「不審な呪文のような声」が聞こえたとの通報がありました。
 当アパートは木造であり、音響が非常に響きやすい構造となっております。
 心当たりのある場合は、直ちに改善していただくようお願い申し上げます。
 なお、状況が改善されない場合、契約解除の対象となる可能性もございますので、ご注意ください』

 目の前が真っ暗になった。
 文字通りの意味で、視界が暗転した気がした。
 爆発音。
 女性の絶叫。
 不審な呪文。
 すべてに心当たりがありすぎる。
 一昨日の夕方は、彼女が天井を突き破って降ってきた時だ。あの衝撃音は、近隣にとってはテロ攻撃か何かに聞こえたことだろう。
 昨夜未明は、彼女が武勇伝を語りながら高笑いしていた時か、あるいは天界への通信で大声を出していた時か。
 どちらにせよ、言い逃れのできない事実だ。

「……終わった」

 俺はその場に崩れ落ちそうになった。
 退去勧告へのリーチがかかった。
 さっきまでの「同居も悪くないかも」なんていう甘い考えは、一瞬にして消し飛んだ。
 現実は非情だ。
 平穏無事を愛する俺の生活基盤が、音を立てて崩れていく。

「カズキ? どうした、そんなところで石像のように固まって」

 階段の上から、ヘルヤが不思議そうに顔を覗かせた。
 彼女の手には、先ほどのチキンの空袋が握られている。
 その顔は、何の悩みもない、晴れやかなものだった。
 この落差が、俺の心をさらにえぐる。

「……これを見ろ」

 俺は震える手で紙を突き出した。

「ん? なんだ、果たし状か? 敵襲か?」

 彼女はひょいと紙を取り上げ、月明かりの下で目を細めた。
 日本語の読み書きができるのか心配だったが、彼女はスラスラと目を通しているようだった。

「騒音……苦情……?ふむ。なるほど、我々の活動が、周囲の民草に畏怖を与えてしまったということか」
「畏怖じゃない、迷惑だ! 追い出されるかもしれないんだぞ!」
「案ずるな。そのような事態になれば、管理会社の担当者の夢枕に立って、説得してやる」

 彼女はニヤリと笑った。

「『汝、ヴァルキリーの休息を妨げることなかれ』とな」
「やめろ! 余計に事態が悪化する! 心霊現象として処理されるぞ!」

 彼女は「ふふん」と鼻で笑い、紙を俺に返した。
 まったく反省の色がない。
 彼女にとって、これはただの些細なイベントの一つに過ぎないのだ。

「些細なことだ。英雄の凱旋には、いつだって轟音と歓声がつきものだ」
「歓声じゃなくて苦情だって言ってるだろ……」
「それに、明日もまた学校だろう? 悩んでいる暇などない。早く風呂に入って、明日の作戦会議をせねばならん。明日は『カテイカ』なる授業があるらしいな。調理実習と聞いたぞ。私の腕が鳴る」

 彼女は楽しげに踵を返し、俺の部屋へと続く階段を駆け上がっていった。
 調理実習。
 その単語が、新たな絶望として俺の脳内にインプットされる。
 家庭科室が爆発するビジョンが、ありありと浮かんだ。
 彼女が包丁を持てば武器になり、火を使えば火災になる未来しか見えない。

 俺は手の中の警告文を握りしめた。
 やはり、あの時。
 天井から降ってきた直後に、彼女をつまみ出しておくべきだったのかもしれない。
 いや、今からでも遅くないか?

 ……無理だ。

 さっきのチキンを食った時の笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
 俺はすでに、彼女という毒に侵されているのかもしれない。

「……はぁ」

 俺は今日一番の深いため息をついた。
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七星点灯
青春
 雨宮優(あまみや ゆう)は、世界でたった一つしかない奇病、『俺アレルギー』の根源となってしまった。  彼の周りにいる人間は、花粉症の様な症状に見舞われ、マスク無しではまともに会話できない。  しかし、マスクをつけずに彼とラクラク会話ができる女の子達がいる。幼馴染、クラスメイトのギャル、先輩などなど……。 彼女達はそう、彼のことが好きすぎて、身体が勝手に『俺アレルギー』の抗体を作ってしまったのだ!

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