白水緑【掌握・短編集】

白水緑

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明日へ向かって。

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※別サイトの企画用作品です。テーマは『森からの脱出』

 夫を見送った私は、住む人のいなくなった村を捨て、隣町へと向かうことにした。隣町と言っても森を越えていく距離で大きな荷物を持って行くことはできない。着替えと最後の干し肉をもって寂寞の森へ足を踏み入れた。

その名の通り、獣たちの声どころか、小鳥たちの囀りさえ聞こえない静かな森。まだ朝日が昇ったばかりの山は、澄んだ光が差し込んでいて、この落ち込んだ気持ちを少しあげてくれる。まだ少し湿り気の多い葉に埋もれてしまっている小道だったところを歩く。葉が積もりすぎて足を滑らせながらも、昼前には山の中腹まで登ることができた。昔は休憩所だったであろう小屋のそばで一休みして、下を見下ろすと遠くに私の村が見える。田畑の植物は枯れ、建物があるだけの村。二度と戻ることのない場所に思いを馳せて干し肉を半分頬張った。

 本当は干し肉が2枚あり、昨日のうちに山を越えるはずだった。私と夫の分。一緒に越えるはずだった山を、私は今一人で登っている。その現実の辛さを干し肉と共に飲み込む。決断が遅すぎたのだ。村を出ると決めた時に出ていれば、今頃は新しい土地で楽しくとは言わずとも新たな生活を始めることができていただろう。後悔することは星の数ほどあっても、時間が戻ってくることはない。

 帰りたくなる気持ちを抑え、私は山頂を目指して再び山を登り始めた。どんどん道はなくなっていき、木々だけでなく深く生い茂った植物をかき分けての旅程になる。ときおり現れる矢印の札で方向を確認しながら進んでいく。無言で歩いているせいか、森の音がやけに大きく聞こえた。土を踏みつける低音、風で鳴らされる葉同士が擦れあう微かな音。しなる枝。唯一聞こえる生き物の音と言えば、自然の調和を乱している私の息遣いくらい。居心地の悪さを感じ、邪魔をしないようにと息を潜めた。

 やがて頭上を覆っていた木々が少しずつ減っていき、山頂にはただ雑草が生い茂っている土地が広がっていた。そこはかつて村だったであろう様相で、壁が崩れ落ち、家の中まで雨ざらしになっていた。寂れたのは遥か昔のことだと容易に想像でき、あったはずの村の生活を思い浮かべてしまう。最後の一人となった村人はどうしたのだろうか。私と同じようにどこかへ逃げ出したのだろうか。村を抜けると、眼下に広がるのはこれから向かう人が生きている村々。青々とした田んぼと、小さく動く人々の姿。そこに未来の姿を見て、私は下山を開始した。

 昼時を過ぎ、真上から差し込む太陽は足元に影を作る。一歩一歩、踏み出すたびに歩き続けた足への重さが響く。まだ歩ける。そう我慢して歩くのにも限界があり、山を下り始めて僅かだというのに座り込んでしまった。仕方なく木の幹に背を預け休んでいると、ちょろちょろ、と離れたところから水の流れる音が聞こえる。そこで喉が渇いていることに気づいた私は、微かな痕跡しかない道から外れることを承知で藪の中へ入っていった。水は大きめの石を穿ち、冷たくきれいな水をため込んでいた。何度も両手で水をすくい口元に運んでいると、なんだか元気が戻ってきて、これからの道のりも歩けそうな気がしてくる。だがそのときにはもうどこからきたのかはわからなくなっていた。なんとなく傾斜が下になっているほうに進み始める。もともと道などあってなかったようなもの。どこを進んでも変わらないだろう。足元を確認しながら一歩一歩進んでいると、靴。そしてそこから伸びた脚。脚はもう肉などなく、ほつれた布が申し訳程度に骨にかかっている程度。死体は見慣れたが、骨にはあいにくまだ馴染みはない。一気に跳ね上がった心臓の鼓動を抑えながら藪をかき分けて近づいていくと、少しずつ全身を見ることができた。服装から女性だったと察することができるが、年齢や顔つき、体格すら判別することはできない。どんな人だったのだろうか。近くには風呂敷包みがあり遠慮がちに開いてみると、今の私と同じように少しだけの着替えと、おそらく食べ物が入っていたのであろう小箱。無念の中、倒れてしまった故人に手を合わせてから再び歩き出した。

 太陽はまだ沈みはしないものの傾き始めてきたころ、眼下に見える村が少しずつ近づいてきた。とはいえまだ山の中腹あたりだろうか。最終地点が見えてきたことで気が急くにもかかわらず、足取りが重い。早くたどり着きたいという気持ちとは裏腹に、体がだるく言うことを聞かない。進んでいるつもりなのに、後ろを振り向けばまだ山頂のほうが近い。せっかくここまで来たのだ。無理せずとも明日には着けるだろうと自分を慰め、その場に座り込む。最後の干し肉を口に入れ、自らを鼓舞する。傾きかけた夕日を追うように再び立ち上がった。一心に目的地である村だけを見つめて歩く。

 一歩進むごとに体が沈み、あまりの進まなさに焦れた私は、緩やかな傾斜ではなく村に一直線に向かえそうな道を選んで進むことにした。案の定、足場はことさら酷くなったが、重くなりつつある身体を思えばそうも言っていられない。目の前にある枝を掴み、引き寄せ体を引っ張った。危ない、と思ったときには足元に地面の感覚はなく、そのまま私の体も宙に浮いていた。すぐに体は地面にぶつかった衝撃を受け、意識が飛んだ。すぐに目を覚ましたつもりだったが辺りは真っ暗で、体を動かしてみると幸い異常はなさそう。ゆっくりと起き上がると、再び歩き出した。重い体を引きずり下山を目指す。遠くに火の揺らめきを見て、縋るように足を進めた。

 何度も転げ落ちながらようやく森の麓まで来た。今まで下に見えていた明かりが正面の遠くにあり、あとは森を出るだけだった。なだらかな地面を這うようにして、朝日が差し始めたころ、私は森を形成する最後の木にもたれかかる。疲れ切った体に休憩が欲しくて、瞼を閉じた。

 ――起きたら目の前にある村に行こう。そうして少しばかり食料を融通してもらって、親戚の村を目指そう。着いたら新しい仕事を探して、それから……。
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