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王国の魔女エヴァ・クラーリ

38 王国の魔女エヴァ・クラーリの常識

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 昼下がりの陽光が差し込む閑静な港町の一角。

 背の低い小舟が並んだ海沿いに面した活気とは無縁の小さな宿屋。

 その年季を感じさせる店先に中途半端な影を落とす軒下。

 そこに佇む風化を味に変えた木製の長椅子。

 腰を下ろせばいつ来ても歓迎してくれる変わらない軋み。

 手元に広げた本の表紙には『読めば一発! ~船の沈め方編~』とそう書いてある。

 著者は不明だった。

 おもむろに本を裏返すと笑う老婆が描かれていて、自然と本書を手に取った読者と目が合うようになっている。

 きっと初見で目にした誰もがそのあまりにもな笑みに苦笑を漏らしたことだろう。

 気を取り直して表紙をめくればまた唐突に現れる満面の笑みの老婆。

 ――しつこい。

 裏表紙を目にした読者は老婆との思わぬ再開に、二度目の苦笑を余儀なくされたことだろう。

 ただそこにいて、満面の笑みでどこまでも真っすぐに読者を見据えてくる老婆。そっと紙をたぐっては、目を合わせたまま優しくその裏側へと追いやる。

 そして現れる三度目の老婆。

 しかし、しつこいという思いよりも前に――まず読者の目を引いたのは、それまで笑顔だった老婆のその沈んだ表情だった。

 老婆の身にたった一枚の白地を挟んで、いったい何があったのだろうか。

 読者は気が付くと本の題名など忘れて、ただめくるごとに変化する老婆の表情を追いかけていた。

 深い哀しみに暮れる老婆。

 一転して怒りをあらわにする老婆。

 明るさを取り戻し、楽し気な一時を過ごす老婆。

 そこには老婆の喜怒哀楽、そのすべてがあった。

 そして喜びから始まった老婆の物語も当然のように終わりを迎える。

 最後の一枚に手をかけ、ゆっくりとその姿を視界におさめていく。

 満面の笑みの老婆。

 ――良かった。

 ここまで来た読者はまずはそう安堵することだろう。

 しかしここまで老婆を追ってきた読者に隙はない。

 その背後の本棚にずらりと並ぶ、読めば一発"シリーズ"なるものにも当然気づく。

 読者は本を閉じてもう一度裏表紙を見る。

 相変わらず満面の笑みを浮かべている老婆。

 ただしその印象は読者の穿った見方でまるで別物へと変わってしまっている。

「ふっ」

 再び裏返しては表紙を見る読者。

 やはりそこには老婆の本棚にあった一冊の題名が記されていた。

「面白い」

「参考になりましたかな?」

 年相応のしわがれた声と共に宿屋の中から出てくる一人の老人。

「特に海図を書き換えるというのが気に入った。その前の酒をしこたま飲ませてすり替えるというのと合わせてな」

「イッヒッヒ」

 老人は甲高い声で笑う。

「この調子ではまだまだ相手は見つかりそうにないですな」

「そうでもないさ」

「おや?」

 老人は驚いたように目を見開く。

「遂に人の世に収まる気になりましたかな?」

「その逆さ。よもや人であっては横に並ぶこともできない世界があるなんてな」

「もしやその珍妙な被り物がそうで?」

「昔からそこにいるのは猛禽これと相場が決まっているからな」

「おやおや。出不精の姫様がいつになく乗り気かと思えば……現れない騎士は姫様本人でしたか」

「むしろただ守るよりも人知れず守ってやりたいたちでな」

「苦労しそうですね」

「分かってくれるさ」

「分かっていますよ」

「そうか? だといいんだがな」

 宿屋を背にして二人見据える海の水平線。徐々にはっきりとしてくる横並びのその輪郭。

「決まりましたかな?」

「ああ」

 手に持った一冊の本をおもむろに老人へと差し出す猛禽頭。

「入国審査だけでも骨が折れそうだ」

「イッヒッヒ」

 笑いながらそれを大事そうに両手で受け取る老人。

「面倒だな。見なかったことにしてすべて燃やしてしまおうか」

「名案ですな」

「いや、むしろ海を割ってその間に捨ててしまおうか」

「それも名案ですな」

「いっそのこと隕石でも落としてこの場のすべてを無に帰してしまおうか」

「それは――やめていただきたいですな」

「冗談だよ」

「心臓に悪いですな」

 胸元に本を抱えて笑う老人。

「さて」

 猛禽頭はおもむろに立ち上がる。

「船が何故水に浮かぶか知っているか?」

「浮力でしょう?」

「ではその余計な浮力とやらを今この場から消し去ってしまおう」

「姫様も人が悪い」

「そうでもないさ」

 その日。世界の常識がまた一つ壊れた。
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