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神殿。それは正真正銘の神殿だった。
しかし神官はおらず、そこにまつられる神もいない。
それは箱、あるいはただ外観に合わせて作られた、中身の伴わない入れ物の一種とも言えた。
「何が気に入らない」
暗がりの中に反響する男の声。辺りをぼうっと照らし出すたった数本の灯が揺れては、中央に置かれた無人のテーブルといくつかの椅子の輪郭を僅かに不確かなものとする。
「だんまりか?」
不意に暗闇から現れては、その内の一つに手をかける男。反射的にその背中へと響いた男の声は、正に老人特有のしわがれたそれ、そのものだった。
「その椅子に座るでない」
「ならここはいいのか?」
椅子を引いた男はその声の主を挑発するように、そのまた横の椅子へと手を伸ばす。
「この場にお前の座っていい椅子など存在しない」
「なら用意してくれるか?」
「経験が浅い。感情的で知性も足りない。組織に組み込むには値しない」
「それでもお前らは用意すべきだ」
「足りない椅子なら補充しよう。余った椅子なら処分しよう。はて、お前の椅子はどこにある?」
「無いなら作るさ。それが俺たちのやり方だ」
「通用するかな? そのやり方」
「能力不足に嘆けばそれで満足か?」
「傲慢ゆえに怠慢か。それともただの愚者ゆえの妄言か」
「言ってろ」
「どちらにせよ、部分的結実に価値はない。状況とは常に大局を欲しているもの」
「俺を試すのか?」
「その必要はない。選ぶのは私ではなく、その役目によってお前たちは判断されるのだ」
「夢想家の大言壮語か。その無謀な延命に付き合わされるのはいつだって無垢な赤子だと決まってる」
「無駄な悪あがきと笑うがいい。椅子は限られているのだ。他者を押しのけてでもそこに在りたいと願うのであれば、自らを天秤にかけろ」
「悪いが競争相手を求めてるわけじゃないんでね。言ったろ。そこに無いのなら作ればいい。毒気のない虫ばかりを相手にし過ぎて、その重い腰の上げ方すら忘れたか?」
男はテーブルと椅子に背を向ける。
「その手に剣を。お前はその手で何を成す?」
「お前の役目とやらに聞いてみな」
暗がりから暗闇へ。ぼんやりとした男の姿は、すぐに輪郭もろとも黒に飲み込まれていった。
♦
アリアーヌが王都を出立してから早三日。クロナはその日も避難民の居住区に居た。
そして前触れなくそこへ届けられた一通の書簡。封に連邦の紋章が施された正式なそれは、ほとんど体裁を整えただけの一方的な宣言に近いものだった。
「レギーナ・スタルチュコフ……」
クロナは差出人の名前を読み上げては、手元から視線を上げる。
「ええと……エカテリーナさん、でしたっけ?」
「はい」
「エカテリーナさんは、その……いいんですか?」
「いいんですか? とは」
「その、ここにはしばらく預けると、そう書いてありますが……」
「はい。上からは余った人材の育成と、そう聞かされております」
「あ――余っただなんて、は、はは……」
クロナは思わずといった様子で空を見上げる。
「何か?」
「い、いえ……」
エカテリーナはその長い黒髪を風になびかせる。そして生まれる微妙な間。耐え切れないと、先に音を上げたのはクロナだった。
「あ、ああ! そうだ! 王都! せっかくだから案内しますよ!」
「いえ、観光に来たわけではないので」
「そ、そうですよね……」
顔を付き合わせたまま、ただ沈黙に耳を傾ける二人。何か共通の話題をと、クロナがありもしない話題を手元の書簡へと求めては、今度は逆にエカテリーナの方から声が上がる。
「芋の――」
「はい?」
「芋の皮むきでも手伝いましょうか」
「え? ああ……ええと……どうしましょうか。その――いいですか?」
言われるがまま少しだけ考えては、エカテリーナの意思を尊重するように自然と同意を示すクロナ。
「あ、でも、その、刃物とか……手、怪我したりするかもしれませんし……」
「それならご心配なく。刃物の扱いには多少、心得がありますので」
若干の自信を態度に、その雰囲気を僅かに柔らかくするエカテリーナ。
「そうですか? それなら――お願いしようかな……って、ちょっとすみません」
エカテリーナの背後に湧き上がる小さなどよめき。人混みの中にウサ耳を揺らす潜水服を見つけては、自然と走り寄るクロナ。
「どうしたの? 何かあった?」
「く」
それにいつもと同じ要領で答えるネクロマンサー。
「く……帝国?」
「し」
「西?」
「く」
「く? く、く……ああ、エレーナ山脈」
「よくわかるな?」
エカテリーナはクロナの背後から近づいては、ネクロマンサーのウサ耳を興味深そうに眺める。
「ああ、コツがあるんですよ」
「た」
「た? 割れた? なんでまた……」
「ナ」
「うん?」
「く?」
「ああ、ええと、うん。あ――」
「行くと言ったのか?」
言いながらネクロマンサーのウサ耳へとそっと手を伸ばすエカテリーナ。寸前で避けられては、それまで変わらなかった表情を少しだけ悲しそうにする。
「……私も同行すれば問題ない。そうだろう?」
しかし神官はおらず、そこにまつられる神もいない。
それは箱、あるいはただ外観に合わせて作られた、中身の伴わない入れ物の一種とも言えた。
「何が気に入らない」
暗がりの中に反響する男の声。辺りをぼうっと照らし出すたった数本の灯が揺れては、中央に置かれた無人のテーブルといくつかの椅子の輪郭を僅かに不確かなものとする。
「だんまりか?」
不意に暗闇から現れては、その内の一つに手をかける男。反射的にその背中へと響いた男の声は、正に老人特有のしわがれたそれ、そのものだった。
「その椅子に座るでない」
「ならここはいいのか?」
椅子を引いた男はその声の主を挑発するように、そのまた横の椅子へと手を伸ばす。
「この場にお前の座っていい椅子など存在しない」
「なら用意してくれるか?」
「経験が浅い。感情的で知性も足りない。組織に組み込むには値しない」
「それでもお前らは用意すべきだ」
「足りない椅子なら補充しよう。余った椅子なら処分しよう。はて、お前の椅子はどこにある?」
「無いなら作るさ。それが俺たちのやり方だ」
「通用するかな? そのやり方」
「能力不足に嘆けばそれで満足か?」
「傲慢ゆえに怠慢か。それともただの愚者ゆえの妄言か」
「言ってろ」
「どちらにせよ、部分的結実に価値はない。状況とは常に大局を欲しているもの」
「俺を試すのか?」
「その必要はない。選ぶのは私ではなく、その役目によってお前たちは判断されるのだ」
「夢想家の大言壮語か。その無謀な延命に付き合わされるのはいつだって無垢な赤子だと決まってる」
「無駄な悪あがきと笑うがいい。椅子は限られているのだ。他者を押しのけてでもそこに在りたいと願うのであれば、自らを天秤にかけろ」
「悪いが競争相手を求めてるわけじゃないんでね。言ったろ。そこに無いのなら作ればいい。毒気のない虫ばかりを相手にし過ぎて、その重い腰の上げ方すら忘れたか?」
男はテーブルと椅子に背を向ける。
「その手に剣を。お前はその手で何を成す?」
「お前の役目とやらに聞いてみな」
暗がりから暗闇へ。ぼんやりとした男の姿は、すぐに輪郭もろとも黒に飲み込まれていった。
♦
アリアーヌが王都を出立してから早三日。クロナはその日も避難民の居住区に居た。
そして前触れなくそこへ届けられた一通の書簡。封に連邦の紋章が施された正式なそれは、ほとんど体裁を整えただけの一方的な宣言に近いものだった。
「レギーナ・スタルチュコフ……」
クロナは差出人の名前を読み上げては、手元から視線を上げる。
「ええと……エカテリーナさん、でしたっけ?」
「はい」
「エカテリーナさんは、その……いいんですか?」
「いいんですか? とは」
「その、ここにはしばらく預けると、そう書いてありますが……」
「はい。上からは余った人材の育成と、そう聞かされております」
「あ――余っただなんて、は、はは……」
クロナは思わずといった様子で空を見上げる。
「何か?」
「い、いえ……」
エカテリーナはその長い黒髪を風になびかせる。そして生まれる微妙な間。耐え切れないと、先に音を上げたのはクロナだった。
「あ、ああ! そうだ! 王都! せっかくだから案内しますよ!」
「いえ、観光に来たわけではないので」
「そ、そうですよね……」
顔を付き合わせたまま、ただ沈黙に耳を傾ける二人。何か共通の話題をと、クロナがありもしない話題を手元の書簡へと求めては、今度は逆にエカテリーナの方から声が上がる。
「芋の――」
「はい?」
「芋の皮むきでも手伝いましょうか」
「え? ああ……ええと……どうしましょうか。その――いいですか?」
言われるがまま少しだけ考えては、エカテリーナの意思を尊重するように自然と同意を示すクロナ。
「あ、でも、その、刃物とか……手、怪我したりするかもしれませんし……」
「それならご心配なく。刃物の扱いには多少、心得がありますので」
若干の自信を態度に、その雰囲気を僅かに柔らかくするエカテリーナ。
「そうですか? それなら――お願いしようかな……って、ちょっとすみません」
エカテリーナの背後に湧き上がる小さなどよめき。人混みの中にウサ耳を揺らす潜水服を見つけては、自然と走り寄るクロナ。
「どうしたの? 何かあった?」
「く」
それにいつもと同じ要領で答えるネクロマンサー。
「く……帝国?」
「し」
「西?」
「く」
「く? く、く……ああ、エレーナ山脈」
「よくわかるな?」
エカテリーナはクロナの背後から近づいては、ネクロマンサーのウサ耳を興味深そうに眺める。
「ああ、コツがあるんですよ」
「た」
「た? 割れた? なんでまた……」
「ナ」
「うん?」
「く?」
「ああ、ええと、うん。あ――」
「行くと言ったのか?」
言いながらネクロマンサーのウサ耳へとそっと手を伸ばすエカテリーナ。寸前で避けられては、それまで変わらなかった表情を少しだけ悲しそうにする。
「……私も同行すれば問題ない。そうだろう?」
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