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1話 こそすれ、狂人

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どこから狂い、どこまで狂ったのはもう覚えていない。ただ、ああ、全てにおいて疲れてしまったからあのようなことをやった。胸を撃ち抜くその瞬間まで、なんの後悔もなかった。

行けるならば地獄だって構わない、むしろ自分は行くべきことをやった。どんな苦痛も懊悩煩悶も受け入れる覚悟があった。あったのだが…

「………えぇ?」

自分は中々無口な方だと思っていたが…間抜けな声が口から漏れる。

彼は狂乱することができなかった。マトモであるまま死にたいというある種の自尊心?まだ意地汚く自分はマトモだという妄執?どちらも違う。

ただ単純に、狂うという感情の不制御を起こせないほどにいっぱいいっぱいだったというだけ。青年の脳がこの未曾有の異常事態を処理しきるために正気を失うという逃げ道を塞いだ。

「………………」

人間、本当に驚いたときでも多少正常な思考を持てる。頭が充分すぎるほど冷えている彼なら周囲を見渡し、自分を見て、身体を軽く触れば大体のことはわかる。

自分は死んでいない。どういうわけか自分は散弾銃の弾を心臓に受けても死ぬことなく、それどころか傷口は完全に塞がり、村ではないどこかに瞬間移動したように湖畔に横たわり、使用した道具や身につけている服に至るまでの前に戻っていたということになる。

そんなバカなことがあるか、と一蹴したくなった。しかしそれは現実逃避に他ならないではないか?こんな思い通りにいき過ぎている夢など…ああ、いや、夢だからこそ思い通りにいくのか…

自分の心臓の鼓動を感じたときは、右手を胸に添えたままに固まってしまった。徐々に心臓はアップテンポになっていく。その猟銃で心臓を撃ち抜いても死ねなかったという事実は、ハンマーで打ち下ろすような大きな1発ではなく、侵食する毒のように蝕んでいく。

「いやっ…はっ…」

すぐ傍には、たたんで重ねられた詰襟の学生服と雑嚢、血に染まっていない日本刀と匕首、散弾銃に懐中電灯とあのとき使用した物が全て丁寧に揃えて置いてあった。新品同様で返り血どころか汚れすら付着していない。

雑嚢を持ち上げると、重みを感じた。想定していない重量に思わず顔を顰めてしまう。中にはやはり…あってほしくはなかったことだが、大量の散弾実包が詰め込まれていた。

喜ぶべきなのか、それともここで苦しめばいいのか?自らが行使し人を殺めた道具を見て、どんな感情でこれを手に取ればいいのか。そもそも手に取るべきなのか?こんがらがった思考では、単純なことすら混迷を極めた。だが防衛本能に従えば考えずとも、存外"自然と身体が動いた"だけで複雑な動作もできるようになる。

「クソッ…クソッ…」

とにかく生きているなら拾った命をもう一度落とす馬鹿な真似はしたくない。急いで学生服を身に付け、震える手でボタンをかける。思い通りに装着がきかないことに悪態をつきながら、帯革ベルトを締め直し刀剣類を腰に提げ、焦るのは気持ちだけで充分だと弾を装填していく。だが懐中電灯は必要ない。

武器を取ると、安心感からか頭がスッキリして段々と恐怖と錯乱が抜けて緊張感だけが適度に残るようになる。そしてその内、自分がただ突っ立っているだけなのに気付き、無意味さからとにかく動かなければならないと思うようになる。

何も知らないなら知らなければならない。知らないことには何も始まらない。空色の空は青年の心を見透かした上で晴天を見せつけているようで、無条件に青年の怒りを煽る。

快晴だというのに何故か霧がかった湖畔は、立ち入るどころか見ることすら拒むように濃く阻んでいる。どうにも水場は嫌な予感が止まらないので、早々に立ち去ることにした。となると入るべきなのは、広がっている常葉樹林になるわけになる。

だが…これも二択の一方でしかない。本当なら、とにかく会話できる人間に出会いたかった。だが文明の欠片も感じられない湖に林ではそんなことも望めない。愚痴を吐いても怒りを吐露しても何か変わるわけでもない、誰か通りかかるという微かな望みを捨て歩き出した。

田舎生まれの青年にとっては、都会の空気を吸うより身体が落ち着く。植物はナラの木によく似ていて、踏みしめている雑草はオオバコに酷似している。しかし植物学者でもない青年には、周りの植物を見ただけで現在の場所を特定することはできない。せめて動物でも出てくれれば話は別だが。

それにしても、やりたい事やるべき事が多すぎる。ファーストコンタクトはよほどの奇人変人でもない限り恙無く終わらせられる自信があるが、まず聞きたい事があまりにも多すぎる。歯軋りをして叫びそうになるのをなんとか抑える。

しかし、いくら歩いても人どころか林を抜けられる気配がしない。どれだけ足を動かしても乳酸が蓄積するばかりで進歩は一向に見られない。あるのは元気に成長する木、虫食い鳥食いの木、立ち枯れしている木、あとは樹皮が変色した気色の悪い木くらいだ。

彼は諦めが悪い。それに加え、今ここでは目覚めてから文字通りまだ何も始まっていない。疲労と思考の混乱で何度も立ち止まりそうになるが、知ることへの執着をできる限り自分の中で増大させる。そうしなければ2秒後には足を止めて座り込んでしまいそうだ。重量約4kgの散弾銃を持ちながらのハイキングは全身に満遍なく負担がかかる。

歩き出したのがちょうど昼と夕の境目くらいだったのだろう、青年が予想していたよりも早く日が傾き始め、黄昏時をすっ飛ばして太陽は姿を隠した。それと共に、今までギリギリ繋がっていたやる気の糸はプツリと途切れ、木に背中を預けてズルズルと崩れていった。

疲れた。ただ疲れた。もう足だけを動かすことすらしたくない。知ることという目的によって堰き止められていた全てのマイナスシンクが決壊して流れていく。

このまま野垂れ死ぬのがよいか、しかし野犬に食われるのも悪くない。決して拭えない大罪ならば、犬畜生に貪られるくらい受け入れよう。

果たしてやることに意味はあるのか、やってきたことに意味はあったのか。答えてくれる人間は今ここにいない。孤独と孤高は似て非なるものであり、青年は1人でいることに耐え難い精神的苦痛に苛まれていた。しかしその苦衷を察せる人物すらここにはいない。

夜は獣の独壇場、昼間でさえ野生動物に負ける人間は夜になればただ天命に任せる他なく、微笑んでくれなければ大人しく食肉になるしか道はない。あるいは、勝手にこの木の側で飢え死にしてしまうことだって。

つくづく不便な身体で生まれてしまったものだ。苦しみ抜いて死ぬことしかできないなんて。

いっそもう一度胸を撃ち抜いてしまってもよいと思った。だが一度失敗してしまっている以上二度やっても撃ち損になってしまうかもしれない。そして何より、今は自分で死ぬことすら億劫になるほど心身ともに疲れていた。どうしようもなく。

「あのぅ…もしかして、迷ってしまっているとかでは、ございませんか?」

思えば出会いは、滑稽で見るに耐えないものでした。

「………」

「え?えー…あのー…無視?無視ですか?」

「疲れてるんですわ…ちょいとまあ色々とありましてね」

「つか…れ…?そ、そうでしたか…お疲れのところ申し訳ございません」

「いや…いいんですけれども。一体何用でございましょう?」

青年は座り込んだまま顔を俯かせながら、声だけを聞いて機械的に応答する。敬語を保てているのは、会話できる知的生物との喜びの表れだ。暗闇の中でただ1人、あと数分孤独であったら取り憑かれたように錯乱していたことだろう。

「あの…」

「はい」

「えっと…」

「はい?」

「その…」

「…なんです?」

言い淀むどころか、何も言おうとしない女性に対しある種の不信感を募らせ、思わず顔を上げる。

「こ、こんばんは…」

「はあ…こんばんは?」

どこか日本人離れした、10代後半から20代前半くらいの女性が立っていた。しかし顔付きは日本人らしい欧米人よりも低い鼻、黒色の瞳、艶やかな黒い長髪。ただ違うのは胴長短足ではなく、スラリとしたモデルのような体型ということ。ロングスカートのベルトは普通より高い位置で締められている。

「夜遅くに森にいては危険ですよ。越冬した動物は特に腹を空かせています」

「ああ…そうだったんですね…森?」

「はい。森です」

「ええ…ええ…自分はアレです、キャンプしてるんですよ」

「嘘。私は意外と鋭いんですからね。貴方、死にたがっているようにしか見えません」

「…そんなにアッサリ見破られちゃ…俺もひとついいですか」

「はい、なんでしょう?」

「実際、なんのために声かけたので?」

「………」

憐れみ?それとももっと別の何かで?初対面の人間に積極的に声をかけられる朗らかな人柄なのか、それともそういう仕事だから?それ以前に疑問なのは…

「どうやって自分を探し当てたので?自分はただ彷徨っていただけなもので」

「それは………」

「いけませんよお嬢さん。そこはそんな顔しないで、涼しいカオして言い訳こさえないと。怪しんでくれって言ってるようなモンだ」

「あうあうあ…貴方頭いいんですね…疲れていたのでは?」

「貴女が抜けてるだけですよ。いや、本気で」

「うううむむ…まさか二言三言でこんなになってしまうなんて…」

「だから貴女が抜けてるだけですってば」

なんの目的もなく、人に出会えたらいいな程度の薄い願望を抱くだけただ歩いていた。規則性も無ければ法則性も無い、狩りでハンターが獲物を追跡するのとは訳が違う。

「で、実際どうしたので?もしかして熟練のハンタァとか?」

「うー…そのですね…外で言うのは憚られるといいますか…もし聞かれていたら…」

「マズいんですか?」

「は、恥ずかしくて…」

「はぁ…」

彼女は羞恥に震えて赤面する顔も美しかった。 彼女の中では、それを外で言葉に出すというのは恥ずべきこと、場がどうであれ口に出してならないことらしい。

「で、自分はどうすれば?」

「お時間よろしければ私の家に…よろ…しいですよね?」

「迷ってますからね。時間は有り余ってます」

「よかった。そう遠くありませんので、行きましょう。立てますか?」

「ああ、どうも…」

渡りに船かと思ったお招きかと思い快諾したはいいが…すぐに違和感に気付く。青年が身につけているものの総重量はゆうに10kgを超える。彼の体格を加味しても少女の細腕では起き上がらせることも難しい。青年がほとんど力を入れていないのなら尚更のこと。

「どうかなさいましたか?」

「いや。案内してくれますか?」

「はい、こちらです。足元お気を付けてくださいね」

「それにしても、こんな森深いところに家が?案外街に近いところだったとか?」

「祖父が。どうも人目があるのが嫌だったらしく…森を切り拓いて建てたそうです」

「切り拓いた…?それは中々…大胆なことをなさるお祖父様のようで」

「そうですよね…はい。私もそう思います。ただ使わないわけにもいきませんので、今は私が」

「ご家族は?」

「家族は皆別の家で。一人暮らしですよ」

「そうでしたか」

青年が抱いていた安心感はすぐに猜疑心に変わった。ここがどこなのかはわからないが、自然豊かなこの場所は都会ではないことは確か、一人暮らしするなら普通は逆だ。青年が過ごした時代が時代なだけにまずありえない。これじゃまるで…

喉を通って口まで出かかったその言葉はぐっと飲み込んだ。それにしても、この状況で言葉を選ぶ余裕があるとは自分でも吃驚だ。

「どうにも外を歩くのは慣れません」

「まったくで。自分も運動は嫌いです。ちなみにあとどれくらい歩きます?」

「うーん…んー…30…いや35分でしょうか」

「結構距離ありますねぇ…はぁ。なんでこんなことに…」

「そういえばお兄さん、どうしてあんなところに?」

「え?ああ、いや、その…」

会って数十分と経っていないのにずいぶんと踏み入ってくるものだ。それはただ彼女が社交的なだけなのか、それとも踏み入って聞かなければならないことでも…

ハッと我に帰る。これじゃ何も変わらない。そうだ、会って数十分も経っていないのだから、何も彼女のことを知らないのだから。信じるべき物がないことの裏を返せば疑うべき物だってない。自分の悪い癖だ。

「あでっ!」

「大丈夫ですか?」

「ごめんなさい…」

「なんだってピンヒールでこんなとこに…」

「うっかりしてました…」

「急いでたので?」

「実はやんごとなき用事がありまして。もうこの際隠さないで言いますけども、貴方を捜していたんです」

「そうでしたか」

やはりとは言わないでおいた。その代わりに日本刀を少しだけ鞘から抜き、刀身の滑り具合を念入りにチェックする。

「事情は追って説明しますので…今は何も言わずについてきていただけませんか?」

「わかりました。それにしても貴女…運動が苦手と仰っていたわりにはかなり速いペェスで歩いてますが…」

「望んでいませんがね。今日は思いがけず役に立ちました」

「そうですか…」

感じよく返すが、右手の散弾銃の引き金にはすでに人差し指がかけてあった。前を行く女性の無防備な背中にソフトボール大の穴を開けることもできる。もう何が怪しいどれが嘘くさいだの言ってられない。

女性が口にした35分という時間は大幅に外れ、目的の場所に着いた頃には既に闇深く、逢魔時をとうに過ぎていた。

「35分…?」

「…あくまで目安です」

バロック建築様式の巨大な洋館は暗闇に同化して全体像が掴めない。窓からは微かな灯りすら漏れておらず、また周囲にも光源の類は一切無い。黒に黒を重ね塗りしたかのような様相には、青年も驚く他ない。

「どうぞ。灯りは只今つけますので」

「どうも」

いつまで経っても良くならない夜目に多少の苛立ちを感じながらも一斉についた蝋燭の炎は、白光しない目に優しいものだった。見方を変えればただ不気味、あるいは心地いいものだ。

「ええっと応接室ってどこだったかしら…そもそも1階だったかしら…あれぇ?」

「いや…そんな応接室だなんて大仰な…軽い御用事でしたらここでだって」

「いけません。どんな出会い方であろうとも私と貴方は家主と客人の関係、非礼は許されません」

「ああはい…そうですか…」

それもまた、礼節なのか誘い込むための文句なのか。徐々に仄暗くなっていく青年の思考を敏感に察知した女性は、半ば強引に背中を押し、洋館の中を案内した。

「最上階の眺めは悪くないんですよ。せっかくだからそこで本題といきましょうか」

「そうですか。ではお願いします」

「どうでしょう、外観は結構悪趣味ですけど、内装は悪くないでしょう?」

「ええ、中々立派なもので。見惚れてしまいます」

「お気に召したようで何よりでございます」

徐々に、しかし確実に青年は冷静さを取り戻していった。段々と急造の社交辞令ではない、青年の考えに基づいた台詞を選び言えるようになってきている。

「…真っ暗、ですね」

「良いではありませんか。人の手が加わっていない、自然そのままの景色でございます」

「うーん、自分にはなんとも…でもこんな景色も悪くありません」

「では…どうぞ席に。どうでしょう、貴方もずいぶん動揺してらっしゃるようですし、他愛の無い話でも」

「すみません、自分は会話が得意ではありませんので…」

「実は私も…こんなところで人目を避けて暮らしているせいで苦手になってしまいました」

「辛いですよね」

「ええ、本当に…」

言葉は第2の自分であり、使い方次第では生かすことも殺すことも可能。しかもどちらも容易いこと。聡明な2人にはどんな凶器であるか辛いほどに理解できた。

「なんだかとっても緊張します。どうしてでしょうか」

「会話能力に問題があるからでしょう」

「…そうですね」

なんともつれない答えに、少し女性の声に圧が生まれる。しかしピタリと会話が止んでしまっては圧も何もあったもんじゃない。

「やっぱりここは早く本題に入りましょう。それがいい、そうしましょう」

「お願いします…普通な感じでいいんですよ?」

「あ、お気遣いありがとうございます」

無理して役を作る必要は無い。半端な優しさは身体を貫かない弾丸、致命傷をわざと避けて傷付けるようなもの。それならばいっそ苦しまないうちに心臓を一刺ししてほしい。

「その…まだ何も言ってないのは私もわかっています、だけどとっても不安で、ですね…」

「はあ…それで自分はどうしたらよいのです?」

「その…どうか軽蔑しないでください。私だって初めて会う方にこんなこと頼むなんて、恥知らずなことは自覚しているんですから」

「……ええ、大丈夫、ですから。どうぞ」

変な期待を膨らませることも、邪な妄想を巡らせることも無い。というより、何も言うことは無い。

「その…えっと…——を」

「はい?」

「ですから…えーっと…その、ですね…」

「はい」

「ああもう…我慢ができません…どうか貴方の血を…私に…」

今気付いた。女性には牙が生えている、コウモリのような羽も、唯一わからなかったのは伸びている尻尾だけだ。
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