量子力学的マンションシリーズ

深井零子

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第四章 来訪者たち

来訪者 その5(2) 鏡の国の、、、

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 午後、Collapse Residenceは静寂に包まれていた。制度は穏やかで、冷蔵庫は沈黙を守り、通知の振動すらなかった。猫(仮)はリビングのソファで香箱座りを決め込み、しっぽをぴくりとも動かさない。鳴き声もない。空間はまるで夢の膜に包まれたように柔らかく、揺らぎの兆しすら感じられないはずだった。

 そのとき、窓辺の鏡がふわりと曇った。光が一瞬歪み、観測したら、そこに少女がいた。

 フリルのついた淡いピンクのワンピースが揺れ、白いタイツが午後の光を優しく反射している。手には古びた紅茶缶と、透明な瓶に入った制度甘味体が一本──前回より慎重な装備だ。少女は微笑み、紅茶缶を軽く振った。かすかな葉の音が、まるで遠い記憶の囁きのように響く。

 「こんにちは。また来ちゃった。鳴かない猫の日は、扉が開くのよ。今日は“夢の続き”を見に来たの。」

 俺は手にしていた新聞をテーブルに置き、目を細めた。

 「また君か。制度通知はなかったぞ。どうやって入ってきたんだ?」

 妻はキッチンから顔を出し、穏やかに微笑んだ。

 「観測されたから、まあ、ありね。Collapse Residenceじゃ、存在は観測で決まるもの。この子、きっとまた詩的な侵入者よ。」

 猫(仮)は香箱座りを崩さない。前足を丁寧に折りたたみ、目を半分閉じて少女を観察している。ただ、しっぽがゆっくりと左に揺れた。少女はそれを見て、くすくすと笑った。

 「ほら、左揺れは夢の中。議事録はまだ開けちゃだめよ。今日は“意味を持たない日”だから、詩を遊ぶの。ルール、覚えててね。」

 少女は床に軽やかに座り込み、紅茶缶を開けた。甘いアールグレイの香りがリビングに広がり、まるで空間そのものが少し柔らかくなったようだった。彼女は制度甘味体を一本取り出し、猫(仮)の前にそっと置いた。

 「これ、食べる? 鏡界のお菓子よ。食べると、夢がちょっとだけ現実になるの。」

 猫は鼻をひくつかせ、興味を示したが、食べる気はないらしい。観測者としての職務を、静かに果たしている。

 その瞬間、冷蔵庫が震えた。低い唸り声のような振動とともに、通知が届いた。

 コード
 観測補助体:再来訪確定  
 状態:詩的安定化  
 制度甘味体残数:0本  
 警告:鏡界干渉継続中。しっぽ監視強化
 俺はソファに深く腰かけ、少女をじっと見た。

 「君は制度に干渉してるのか? それとも、制度が君を必要としてるのか? 毎回現れて、夢だの詩だのって、うちの空間をどうしたいんだ?」

 少女は首を小さく傾げ、フリルの裾を指でつまんだ。

 「どちらでもないわ。私は“意味を持たないことで制度を守る”だけ。Collapseって、崩壊じゃなくて“収束”のことでしょう? 猫が鳴かない日は、制度が夢を見るの。あなたたちの住むこの場所は、物語が息づく空間。だから、私みたいなのがふらっと来るのよ。」

 妻がキッチンから紅茶のポットとクッキーの皿を持って現れ、少女の隣に置いた。

 「じゃあ、せっかくだからお茶にしましょう。制度甘味体、なくなっちゃったみたいね。冷蔵庫、ちょっと不機嫌そう。」

 少女はクッキーを手に取り、猫(仮)に見せた。

 「これ、現実のお菓子よね。夢のお菓子と交換しようか?…でも、制度が許すならね。」

 猫は無視。しっぽが今度は右に揺れた。少女は目を輝かせた。

 「お、右揺れ! 現実寄りになってきた。少し話してもいいよね?」

 俺は笑いながら言った。

 「話すなら、せめて名前を教えてくれよ。アリスって呼んでいいのか? 鏡の国の雰囲気、めっちゃ出してるぞ。」

 少女はくすくす笑い、紅茶缶を胸に抱えた。

 「アリス、悪くないわ。でも、名前はまだ秘密。だって、名前を言うと制度に固定されちゃうもの。冷蔵庫が記録しちゃうから。今日はただの“詩的侵入者”でいいよ。」

 妻がカップに紅茶を注ぎながら言った。

 「この子、絵日記にまた描かれるわね。前回のページ、まだインクが乾いてないのに、新しい詩が混ざっちゃう。猫(仮)、忙しくなるわよ。」

 猫(仮)は目を細め、香箱座りのまま静かに観測を続けた。

 少女は立ち上がり、鏡の方へ軽い足取りで歩いた。フリルのワンピースがふわりと舞い、まるで空間に一瞬の波紋を残すようだった。

 「次は“鳴かない猫”が二日続いたら来るわ。そのときは、夢の奥まで案内してあげる。鏡の向こう、猫が王様の国よ」
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