量子力学的マンションシリーズ

深井零子

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第7章 夫婦とは

隣人の出現とノイズの媒介

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 いつもの朝のルーティンを終え、俺はふたたび違和感に引き戻された。廊下だ。隣室の扉の前に、見慣れない宅配便の段ボールらしきものが積み上げられていた。

 俺はすぐに制度ログを確認したが、隣室(B号室)はつい昨日まで「空室」で、入居予定の通知は出ていなかったはずだ。ログは『入居状態:入居確定』と、最終結果だけを示し、契約や引っ越しの過程はすべて**空白(ブランク)**だった。

 「結婚も入居も、制度は結果だけを確定させて、過程を空白にするんだな」。

 俺の頭の中で、俺たちの「空白の結婚」と隣人の「空白の入居」が結びつく。このマンションは、過程を省略し結果を先に確定させる、量子的な共同体だ 。

 その時、廊下で隣人らしき男女と鉢合わせる。俺は制度的な違和感を解消すべく、尋ねた。

 「おはようございます。失礼ですが、今日入居されたんですか?ログには記録がなかったので。」

 隣人たちは穏やかに笑い、「おはようございます。昔からこちらに住んでいますよ」と自然に答えた 。

 彼ら自身も「気が付いたらここにいた」と語る 。家具も生活音も、すべて「昔からあった」ように馴染んでいる 。彼らは、存在が制度の「既定路線」であるかのように振る舞う。

 隣では、妻が絵日記をつけている。環は、数年前の日付のページに隣人らしき男女の姿が描かれていることを発見した 。

 「記憶が揺れるわ」妻はつぶやく。「私が描いたのに、覚えていない」。

 俺たちの「記憶のない結婚」が生むズレが、外部の存在によって増幅された。妻のアナログな記録さえ、制度によって上書きされたように感じられる。

 その瞬間、フローリングに座っていた猫(仮)がすくっと立ち上がり、静かに廊下へ出て行った。猫は、この閉じた空間で夫婦の認識をかき乱す「観測ノイズ」だ。猫は隣人の部屋の前で香箱座りをした 。

 俺はすぐさま端末を操作し、夫婦の「婚姻安定度」をチェックする。猫が外部のノイズ(隣人)を観測することで、俺たちの関係に何が起こるのか。案の定、婚姻安定度が98.7%から98.5%へと微妙に変動した。

 猫は因果の起点にはなれないが、ノイズを媒介して不安定化させる存在となった。隣人の存在そのものが、俺たちの「制度的に確定された関係」に静かに干渉しているのだ。俺は端末を閉じ、妻の方を向いた。

「結婚も入居も、制度は結果だけを確定させて、過程を空白にするんだな」。

 妻は静かに頷いた。「でも、こうして暮らしている以上、確定は確定。過程がなくても、日常は続いていく」。

俺たちは、理由も過程もないが、ただ「気が付いたらそうなっていた」という事実だけが制度に刻まれる共同体の住人だ。俺は理屈で遊び、妻は感情で折り合いをつける。この静かなズレの中で、俺たちの制度疲労型ロマンスは続いていく。
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