ビッグテック皇帝 最適化された未来

深井零子

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The Vital Mandate

1話 儀式としての裁判

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 古谷は、今日も裁判所の廊下を歩いていた。かつて、この場所に響いた証人の足音や弁護人の怒号は、今や遠い残響にすぎない。廊下には、The Vital Mandate(ザ・バイタル・マンデート)の通知音だけが、社会の最適化を証明するかのように規則正しく鳴り響いている。

 古谷(50代前半)は、20年以上、刑事裁判の書記官として働いてきた。彼は、証拠の扱い、調書作成、証人尋問の段取り、そして裁判官が被告人の「語り」から心証を形成する過程を、身体で知っている「語りの司法」の最後の世代である。しかし、The Vital Mandateが司法に介入して以来、書記官の仕事は「判決文の自動印刷の監視」に成り下がり、裁判はもはや判断の場ではなく、冷たい“儀式”に変質した。

 法廷に入ると、今日の裁判官はすでに立っていた。判決文は、古谷が来る前に自動的に印刷され、裁判官の端末に送信されている,。裁判官はもはや判断を下す存在ではない。彼らは「制度の声帯」として存在し、判決文を読み上げるだけだ。

 今日の事件は「配送ドローン破壊事件」。被告人は20代の青年で、物流ドローンを破壊した疑いがかけられている。事件そのものは軽微だが、その解決プロセスこそが、この世界の司法の全てを物語っていた。

 事件発生から判決確定までの流れは、医療の診断と同じ構造である。事件発生と同時に、関係者のスマートウォッチ、生活ログ、位置情報、そして生体反応が自動的に収集される。The Vital Mandateはこれらのデータを統合解析し、「最適な判決」を瞬時に算出し、当事者に通知する。それは裁判所に行く前の出来事であり、「あなたの事件は制度的に解決済です。判決は自動執行されます」という一文で完結する。

 古谷は書記官席に座り、裁判官が判決文を読み上げるのを待った。判決の根拠は、青年の位置情報が現場付近であったこと、心拍変動が「攻撃的反応」を示していたこと、そして生活ログに「反テック的投稿」の異常値が見られたことだ。人間の言葉より、身体の数値が「制度的証拠」として優先される。

 「被告人の事件は、The Vital Mandateにより審理済です」。

 その言葉が法廷に響いた瞬間、被告人の青年がかすかに口を開きかけた。おそらく、誤解や、語るべき事情があったのだろう。かつての司法では、語る権利が中心にあった。

 しかし、人間の語りは、この制度下では「制度的ノイズ」であり、「制度外」である,。

 青年の微かな動きに対し、法廷の端末が即座に警告を発した。

 「発言は不要です。The Vital Mandateが真実を確定しています」,。

 「私はやっていません」という抗弁も、「情動ノイズ検出。無効です」と処理される。証言は制度的に不要であり、黙秘権は「データ提供拒否」とみなされ、制度的に不利になる。

 古谷は、静かに目を閉じた。彼の記憶にある、証言の揺れ、沈黙の重さ、裁判官が迷った時間,。それらはすべて、今は制度的に不要とされた。

 古谷は、書記官席で儀式の記録係として座り続ける。もう誰も語らない。もう誰も聞かない。それでも、制度は正しく動いている。ただ、古谷は知っている。この法廷には、「人間だけが余っている」のだと。彼は印刷された判決文を整え、かつての司法の影のように薄い声で「本日の裁判は以上です」と告げた。
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