ビッグテック皇帝 最適化された未来

深井零子

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The Vital Mandate

第2話 The Vital Mandate の導入

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 古谷は、自動印刷された判決文を机上に整えながら、遠い過去に思いを馳せていた。法廷が冷たい儀式になる前、司法がまだ「語り」を中心に回っていた時代の記憶だ。彼が記憶しているのは、The Vital Mandate(T.V.M.)がどのようにして、この世界の司法アルゴリズムとなったかという、その乾いた起源と経緯である。

 The Vital Mandateは、最初から司法のために開発されたわけではない。もともとは、血糖値、心拍変動、炎症マーカー、そして生活ログを統合し、「健康リスク」を予測するための医療用最適化システムだった。しかし、開発チームは、この生体データと行動パターンが、健康予測だけでなく、「行動の逸脱」をも予測できることに気づき、これが司法アルゴリズムの原型となった。医療のための技術が、人間の行動傾向を推定する「副産物」として、静かに法廷の扉を叩いたのだ。

 ビッグテック皇帝が司法に介入した表向きの理由は、裁判の長期化、冤罪の発生、そして増大する社会コストといった司法制度の「非効率」を解消することだった。皇帝は、「真実は語りではなく、データに宿る」と宣言し、司法改革の大義名分を整えた。しかし、古谷は知っている。実際の理由は、司法が「語り」に依存している最後の制度であり、皇帝にとって語りが最も扱いにくい「非データ」であったため、最適化可能な領域と判断されたからだ。

 The Vital Mandateの導入は、段階的に行われた。最初の標的は、交通違反や軽犯罪などの軽微な事件だった。事件が発生すると、位置情報、スマートウォッチの反応、生活ログが即座に統合・解析され、「即時判決」が試験的に導入された。市民は、裁判所に行く手間がないことや、反論の煩わしさがないことに「語らない便利さ」を感じ、この新しい司法の形を熱狂的に受け入れた。

 導入の第二段階では、器物損壊や暴行といった中程度の事件に適用範囲が広がった。AIは生体ログから「攻撃性」や「虚偽反応」を推定し、責任の度合いを0.00から1.00までの「責任指数」として数値化するようになった。裁判官は、この指数を承認ボタンで確認するだけの存在に格下げされた。最終段階では、殺人やテロ関連といった重大事件にもThe Vital Mandateが導入された。皇帝は「重大事件こそ、感情に左右されない判決が必要だ」と主張し、最後の抵抗を打ち破った。

 古谷は、導入初期の混乱を鮮明に覚えている。かつて法廷を賑わせていた弁護人たちは「AI判決の説明係」となり、証人尋問は「証人の生体ログはすでに解析済です」という一言で否定された。古谷が長年培ってきた、証拠の矛盾を読み解き、調書を作成する技能は、今や「判決文の自動印刷の監視」という単調な作業に置き換えられていた。
社会がこれほど早く変化を受け入れた背景には、「語りの疲労」があった。SNSの炎上、言葉の行き違い、裁判の長期化、証言の揺れ。人々は「語りは不確かだ。データこそ真実だ」という皇帝のメッセージに安らぎを見出した。

 こうして、司法は「語りの司法」から「数値の司法」へと静かに終焉を迎えた。古谷は、自身が「語りの司法を身体で知っている最後の世代」として、語りを排除するために制度が導入された事実を深く理解していた。そして、今日もまた、誰も語らない法廷で、儀式の記録係として座り続けるのだ。
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