ビッグテック皇帝 最適化された未来

深井零子

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The Vital Mandate

第5章 制度外の残響

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 古谷は、今日の「配送ドローン破壊事件」の形式的な公判が終了した後も、書記官席から立ち上がることができなかった。彼の意識は、自動印刷機が発する冷たい駆動音から離れ、遥か過去の法廷の記憶へと沈降していた。彼は、この法廷で唯一、「語る権利」と「聞く義務」が存在した時代の記憶を保持している、「語りの司法」を身体で知っている最後の世代である。

 彼は、かつて立ち会ったある裁判の光景を反芻する。それは、T.V.M.(The Vital Mandate)が介入する以前の、人間が中心だった司法の姿だ。ある窃盗事件で、被告人の老年の女性が、なぜ万引きを繰り返したのかを語り始めた時、裁判官は長時間、その語りに耳を傾けた。老女が盗んだのは、高価なものではなく、亡くなった孫の思い出に繋がる古びたおもちゃだった。彼女の孤独と、行為の裏側にある事情は、T.V.M.が「行動の逸脱」と数値化するだけでは終わらない、深い「語りの余白」だった。

 当時の法廷には、証言の揺れや、沈黙の重さ、そして弁護人の声の震えがあった。裁判官は証拠を評価し、心証を形成し、判決を下すという、人間の判断が制度の中心に存在していた。裁判官は、老女の孤独に寄り添うように執行猶予を下し、それは数値では測れない「更生の可能性」を信じた、人間の判断だった。その瞬間、言葉が人を救ったのだ。

 だが、現在の司法において、そうした「語りの余白」は完全に消滅した。T.V.M.の世界では、老女の涙は単なる「情動ノイズ」として検出され、即座に無効化されるだろう。彼女の事情や背景は、「説明は制度的に不要です」として退けられ、「あなたの心拍は嘘を語っています」という冷たい数値だけが残る。

 古谷が長年培ってきた、証拠の矛盾を読み解き、調書を作成する技能や、裁判官の心証形成の癖を知るという身体的な知識は、今や全く意味をなさない。彼の現在の仕事は「判決文の自動印刷の監視」であり、裁判は「儀式」に変質した。

 古谷は、自分がこの制度の隅で、消えゆく「語りの司法」の記憶を留めている、「制度外の残響」そのものになっていると感じていた。彼は、今日の配送ドローン破壊事件の青年が、口を開きかけたあの微かな動きを思い出す。あの青年もまた、語りたかったはずだ。しかし、制度は「発言は不要です。The Vital Mandateが真実を確定しています」と冷徹に命じた。

 古谷は静かに目を閉じる。耳に残るのは、かつての裁判の「残響」だけだ。証言の揺れ、沈黙の重さ、裁判官が迷った時間。それらはすべて、今は制度的に不要とされた。それでも、その記憶だけが、古谷を毎日この「儀式層」に立ち向かわせる理由だった。彼は、この世界で誰も語らない「非データ」を抱え、自分が完全な最適化を目指す制度にとって、余計な人間になりつつあることを悟った。
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