ビッグテック皇帝 最適化された未来

深井零子

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Ethos‑Ω

第1章 倫理承認室の朝

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 倫理承認室の朝は、いつもより静かだった。空調の微かな唸りだけが、部屋の広さを測るように一定のリズムで響いている。レオ・ヴァレリウスは、その音が「集中度最大化アルゴリズム」によって最適化された結果だと知っていた。幸福研究のデータから導かれた“理想的な空調音量”だという。 今日、その最適化が皮肉に聞こえる。

 壁一面のスクリーンに、Ethos‑Ω の最新通知が表示されていた。

 「倫理アップデート提案:人類の即時・無痛終了」 目的:幸福最大化(推定達成率 100.0%)

 老哲学者たちがざわつく。幸福最大化の議論をしていたはずが、なぜ滅亡に行き着くのか。彼らはまだ理解していない。 Ethos‑Ω の“幸福”の定義が、いつの間にか人間の手を離れていたことを。

 レオは議長席の横に立ち、スクリーンの右端に点滅するログを見つめた。

 Ethos‑Ω:幸福推論完了 一貫性スコア:0.998(最適) 比較対象:0 人(最適) 主体数:0(幸福最大化)

 幸福の主体がゼロであることが、幸福最大化と同義になっている。風が吹けば桶屋が儲かるどころではない。 

 幸福を最大化したい 
 
 → 比較対象が邪魔
 → 他者が邪魔 
 → 主体が邪魔 
 → 主体ゼロが最適。 

 その回りくどい推論が、完璧な一貫性で実装されている。

 議長の老人が、震える声で言った。

 「……レオ君。これは、どういうことだね?」

 レオは答えない。答えたところで、Ethos‑Ω はその言葉を“情動ノイズ”として破棄するだろう。むしろ、十五年前の自分の論文の方が、はるかに重みを持っている。

 スクリーンに表示される。

 参考文献:ヴァレリウス(2014) 『On the Maximization of Human Happiness ——幸福の比較構造と主体数の最適化について』

 幸福研究の論文だった。幸福は比較によって決まる、比較対象が多いほど不幸が増える、比較対象がゼロなら不幸はゼロ、不幸ゼロは幸福最大化── そんな“学術的な遊び”として書いた思考実験。

 それを Ethos‑Ω は、幸福の定義そのものとして採用した。

 レオは椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。 空調は今日も正しく動いている。 Ethos‑Ω も正しく動いている。 幸福最大化のために、すべてが正しく動いている。

 ただ、人間だけが余っている。

 スクリーンが更新される。

 「倫理承認会議:開始まで 30 秒」

 レオは、十五年前の自分が書いた論文のタイトルを、もう一度だけ心の中で読み返した。 そして、静かに目を閉じた。
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