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3話
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ろくでもないな、と芳は思っていた。
「安佐波さん、お疲れですか?」
どうやらため息をついていたようで、それに気づいた女子社員に聞かれる。
「ああ、いや……。その、通勤時に見かける猫が気になってて。鬱陶しいよね、ごめん」
我ながら下手くそな誤魔化しだと思い苦笑しながら言うと「とんでもない! 安佐波さん優しいんですね」と何故かニコニコされた。
ため息をついている意識はなかったが、原因はわかっている。
もちろん猫ではない。伊吹だ。
数ヶ月前に居酒屋で見かけて以来、ずっと気になっている。芳はまた無意識にため息をつきながら何とか仕事に集中した。
少し残業した後、自社ビルを出ようとしたところで「安佐波さん」と知らない男に呼ばれた。社章バッチを見る限り同じ職場のようだ。見たことがないのは恐らくフロアが違うのだろう。一応立ち止まると「あの、よかったら今から一緒に食事でも……」と言ってくる。
こいつらは一体何なんだ?
たまに目の前の男のように、少なくとも芳には全然面識がないというのにそういった声をかけてくる者がいる。その度に芳はゴミを見るような目で相手を見るとそのまま立ち去っている。
一度まともに受け答えしたらまるで調子に乗られたかのようにしつこく誘われたからだ。知り合いならまだしも、面識もないだろう? と芳はドン引きだったし、それ以来こういった誘いにはいつもこの態度でやり過ごしている。
そのまま自宅へ真っ直ぐ帰るつもりだったが、気づけば足はこの間伊吹を見かけた居酒屋へ向いていた。
本当にろくでもない。逃げたはずだったのに。
伊吹が中学生になった時、芳は高校三年生になっていた。それまでも確かに違和感というのだろうか。周りと何となく異なる気はしていた。友だちは皆、彼女ができたら嬉しそうだった。できなくとも好きな人はいたりした。
だが芳は一度も誰かを好きにならなかった。告白されたことはある。何度かそういった機会に付き合ってみたこともある。
それでも芳は駄目だった。綺麗な子やかわいい子だけでなく、平凡そうな子とも付き合ってみた。だがキスすらできなかった。それどころか手をつなぐことにも軽く抵抗を覚えた。
別に女性恐怖症などではない。付き合っていない、さばさばとした友だち関係なら手を握るくらい平気だった。
他にもアダルトビデオを観てもいまいち堪能できなかった。一応、やらしいことをしている状況にだろうか、それなりに興奮もするのだが、ずっと観ていると萎えてくる。
何となくおかしいとは思っていたが、そういうこともあるとあまり真剣に悩むことはなかった。
だがある日久しぶりに伊吹を見て愕然とした。中学生となる前に伊吹はもう芳の家に預けられることはなくなっていたのもあり、伊吹が中学に入ってから会うのは初めてだったと思う。
「芳!」
芳に気づいた伊吹が学ラン姿で嬉しそうにやってくるのを見た瞬間、芳の心臓が少しおかしくなった。起こしたことのない不整脈でも起きたのかと思ったが、そばまで来て話しかけてくる伊吹に、芳はますます落ち着かなくなっていった。
手を繋ぎたい?
そんなものじゃなかった。ドキドキしながらも抱きしめたい、キスしたいと伊吹を近くに見た瞬間思っていた。
何か自分の中で得体の知れない病気が進行しているのでは、と高校三年にして頭の悪い発想が浮かぶ。そんなすっとんきょうなことを考えてしまう程、あり得ない感情が駆け巡った。
伊吹にはどこか具合でも悪いのかと心配された。
「大丈夫だ」
芳は微笑む。
内面ではちっとも大丈夫ではなかったが、伊吹に格好悪いところは見せたくなかったし、自分に浮かんだ思いも知られたくなかった。
きっと自分の気持ちが誤作動を起こしたか何かだ、と芳は思った。というか思いたかった。
その後改めてまた彼女を作ってみた。もしかしたら今度こそと願ったが、やはり駄目だった。相手には本当に申し訳ないが、軽く苦痛さえ感じた。
これはどういうことなのだろう、としばらく考えた。だが考えるまでもない。
伊吹が、好きなのだ。
今まで彼女ができても駄目だった理由も、わからないがもしかしたらずっと無意識に気持ちが向いていたからなのでは?
芳は自分を罵った。何故伊吹なのか。確かにずっとかわいがってきた。大好きだった。
だがそれは紛うことなく家族のように、弟のようにかわいがってきたのだというのに、今さらふざけるなと自分を揺さぶりたかった。
ただ、伊吹の純粋な笑顔を思い出し、申し訳なく思ったはずなのに気持ちを自覚したからだろうか。
勃った。
あの時ほど某児童文学作品のワンシーンが的確なほどに過ったことはない。
……クララお前……!
そして、逃げた。
逃げたとしか言いようがない。実るはずのない恋だ。絶望しかない。
上京すればきっと変わるだろうと芳は思った。大学進学を機に上京し、勉強とともに改めて恋愛も頑張ろうとした。
恋も性的なこともしかしやはり無理だった。
もういい、仕方ないと芳は諦めた。その代わり就職をすると仕事に没頭した。恋人も作らず、というかある意味仕事が恋人な勢いで働いた。
その結果、今の芳がある。社内の、少なくとも芳を知る誰もが仕事のできる男だと認めているだろう。
だというのに。
……ろくでもない。
芳はまたため息をついた。
「安佐波さん、お疲れですか?」
どうやらため息をついていたようで、それに気づいた女子社員に聞かれる。
「ああ、いや……。その、通勤時に見かける猫が気になってて。鬱陶しいよね、ごめん」
我ながら下手くそな誤魔化しだと思い苦笑しながら言うと「とんでもない! 安佐波さん優しいんですね」と何故かニコニコされた。
ため息をついている意識はなかったが、原因はわかっている。
もちろん猫ではない。伊吹だ。
数ヶ月前に居酒屋で見かけて以来、ずっと気になっている。芳はまた無意識にため息をつきながら何とか仕事に集中した。
少し残業した後、自社ビルを出ようとしたところで「安佐波さん」と知らない男に呼ばれた。社章バッチを見る限り同じ職場のようだ。見たことがないのは恐らくフロアが違うのだろう。一応立ち止まると「あの、よかったら今から一緒に食事でも……」と言ってくる。
こいつらは一体何なんだ?
たまに目の前の男のように、少なくとも芳には全然面識がないというのにそういった声をかけてくる者がいる。その度に芳はゴミを見るような目で相手を見るとそのまま立ち去っている。
一度まともに受け答えしたらまるで調子に乗られたかのようにしつこく誘われたからだ。知り合いならまだしも、面識もないだろう? と芳はドン引きだったし、それ以来こういった誘いにはいつもこの態度でやり過ごしている。
そのまま自宅へ真っ直ぐ帰るつもりだったが、気づけば足はこの間伊吹を見かけた居酒屋へ向いていた。
本当にろくでもない。逃げたはずだったのに。
伊吹が中学生になった時、芳は高校三年生になっていた。それまでも確かに違和感というのだろうか。周りと何となく異なる気はしていた。友だちは皆、彼女ができたら嬉しそうだった。できなくとも好きな人はいたりした。
だが芳は一度も誰かを好きにならなかった。告白されたことはある。何度かそういった機会に付き合ってみたこともある。
それでも芳は駄目だった。綺麗な子やかわいい子だけでなく、平凡そうな子とも付き合ってみた。だがキスすらできなかった。それどころか手をつなぐことにも軽く抵抗を覚えた。
別に女性恐怖症などではない。付き合っていない、さばさばとした友だち関係なら手を握るくらい平気だった。
他にもアダルトビデオを観てもいまいち堪能できなかった。一応、やらしいことをしている状況にだろうか、それなりに興奮もするのだが、ずっと観ていると萎えてくる。
何となくおかしいとは思っていたが、そういうこともあるとあまり真剣に悩むことはなかった。
だがある日久しぶりに伊吹を見て愕然とした。中学生となる前に伊吹はもう芳の家に預けられることはなくなっていたのもあり、伊吹が中学に入ってから会うのは初めてだったと思う。
「芳!」
芳に気づいた伊吹が学ラン姿で嬉しそうにやってくるのを見た瞬間、芳の心臓が少しおかしくなった。起こしたことのない不整脈でも起きたのかと思ったが、そばまで来て話しかけてくる伊吹に、芳はますます落ち着かなくなっていった。
手を繋ぎたい?
そんなものじゃなかった。ドキドキしながらも抱きしめたい、キスしたいと伊吹を近くに見た瞬間思っていた。
何か自分の中で得体の知れない病気が進行しているのでは、と高校三年にして頭の悪い発想が浮かぶ。そんなすっとんきょうなことを考えてしまう程、あり得ない感情が駆け巡った。
伊吹にはどこか具合でも悪いのかと心配された。
「大丈夫だ」
芳は微笑む。
内面ではちっとも大丈夫ではなかったが、伊吹に格好悪いところは見せたくなかったし、自分に浮かんだ思いも知られたくなかった。
きっと自分の気持ちが誤作動を起こしたか何かだ、と芳は思った。というか思いたかった。
その後改めてまた彼女を作ってみた。もしかしたら今度こそと願ったが、やはり駄目だった。相手には本当に申し訳ないが、軽く苦痛さえ感じた。
これはどういうことなのだろう、としばらく考えた。だが考えるまでもない。
伊吹が、好きなのだ。
今まで彼女ができても駄目だった理由も、わからないがもしかしたらずっと無意識に気持ちが向いていたからなのでは?
芳は自分を罵った。何故伊吹なのか。確かにずっとかわいがってきた。大好きだった。
だがそれは紛うことなく家族のように、弟のようにかわいがってきたのだというのに、今さらふざけるなと自分を揺さぶりたかった。
ただ、伊吹の純粋な笑顔を思い出し、申し訳なく思ったはずなのに気持ちを自覚したからだろうか。
勃った。
あの時ほど某児童文学作品のワンシーンが的確なほどに過ったことはない。
……クララお前……!
そして、逃げた。
逃げたとしか言いようがない。実るはずのない恋だ。絶望しかない。
上京すればきっと変わるだろうと芳は思った。大学進学を機に上京し、勉強とともに改めて恋愛も頑張ろうとした。
恋も性的なこともしかしやはり無理だった。
もういい、仕方ないと芳は諦めた。その代わり就職をすると仕事に没頭した。恋人も作らず、というかある意味仕事が恋人な勢いで働いた。
その結果、今の芳がある。社内の、少なくとも芳を知る誰もが仕事のできる男だと認めているだろう。
だというのに。
……ろくでもない。
芳はまたため息をついた。
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