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10話
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今日もやり残したことはない、とばかりに芳は満足げに頷いた。
例え同じ部署の幾人もの誰かが残業をすることとなっても芳は遠慮なく帰る。個人プレーとだが言われる筋合いはない。仕事は十二分にやっている。他の社員の仕事も手伝う。ただ、終業時間が来れば帰るだけのことだ。
しかも今は初めての恋人がいるのだ。それも好きだった相手だ。帰らないでどうする。
芳は内心そわそわとしながら「お疲れ様です」と自分の部署がある部屋を出た。エレベーターへ向かうところでまた見知らぬ、だが恐らく同じ職場の社員に声をかけられる。
「安佐波さん、帰られるんですか。よかったら僕と食事にでも──」
お前は誰だよという言葉を飲み込み、自分の中でお馴染みのゴミを見るような目で相手を一瞥すると芳は構わずエレベーターに乗り込んだ。
確かに昔から女と付き合っても無理でしかなかったが、見知らぬ男と飲食を楽しむ趣味もない。だというのに何故こうもちょくちょく、と微妙な思いにかられたが、今から伊吹に会えるのだしと気持ちを切り替えた。
まさか付き合えるとは思ってもみなかった。一度は実らぬ恋だと逃げ、それでも好きでいることをやめられないようだと悟ってからも玉砕覚悟しかなかったし、好きだと口にしてしまった後は気持ちを隠す気はなくなったが、伊吹には何も求めていなかったというのに。
伊吹に何も求めていなかったのは、もちろん求める気がなかったのではない。こうして付き合えて嬉しいように、できるのならいい返事が欲しいと思ったし、できるのなら伊吹に触れたいと思った。できるのなら。
だが女と付き合っていた、しかも昔に家族同然のように過ごしてきた伊吹がいい返事をくれるとは到底思えなかったし、そんな伊吹に無理やり触れるなんて芳には到底できそうもなかった。ただ、好きだと口にしたのを幸いに、自分がしたいように伊吹を甘やかしかわいがるだけでも芳はそれなりに幸せだった。
伊吹にそのことについて言われた時はそんなささやかな幸せすら迷惑をかけていたのかもしれないとショックを受けるところだったが、まさかそのまま伊吹からも好きだと言ってもらえるなどと、どう予想できただろうか。
今日は夜でも楽しめるナイトアクアリウムへ行くことになっている。その後は静かに酒を楽しめるバーへ行こう、と芳はウキウキ予定を考えた。
大学生である伊吹はもしかしたらワイワイ騒がしい居酒屋のほうが好きかもしれないと、付き合ってから本人に直接聞いたことがある。
「どっちも好きだよ」
「そうか、よかった。じゃあ俺もたまには騒がしい居酒屋に付き合うかな」
「あはは、ありがとう芳。でも無理しなくていいし、俺が一番好きなのは芳と二人きりでゆっくり飲める、芳バーかなぁ」
……今日はやっぱりあのバーはやめて俺の家にするか。でも水族館からだと伊吹の家のほうが近いんだよな。
その時の会話を思い出して顔を少し熱くしながら芳は内心呟く。
ただどちらにしても二人きりになると芳としてはある意味とても緊張する。伊吹には絶対そんなところは見せたくないので何でもないふりはするが、内心ではドキドキしている。
き、キスくらいはしても構わないのだろうか……。
付き合っているのなら構わない気はするのだが、あんなにかわいい伊吹に手を出してしまっていいのか悩んでしまう。ついでに芳は童貞なので正直諸々の扱いに慣れていないというのもある。
うーむ、と考えた挙げ句、今日は静かなバーへ行くことにした。考えがまとまらないままだと急いては事を仕損じることになるだろう。それにナイトアクアリウムを堪能した後に、最初行こうと思っていたバーの雰囲気はとても似合う筈だ。きっと伊吹にも気に入ってもらえるだろう。
実際、幻想的なLEDライトを効果的に使ったバーの雰囲気はやっぱりとても合っていて、静かな中で飲む酒も美味しいと思えた。
しかし少しだけ伊吹が落ち着かない様子だったため、芳はさりげなく店を早めに出ることにした。何でもないような話をしながら歩き、公園とも言えないような場所にあるベンチを見つけるとそこへ誘った。ちょうど近くにあった自販機から茶を買うと伊吹に差し出す。
「ありがとう」
「伊吹、あの店はあまり好みではなかったかな?」
「え? 何で? いい雰囲気の店だったよ?」
「そう? ならいいんだが、何となく伊吹が落ち着かないように思えて。ならもう少しゆっくりしてもよかったなぁ、すまない」
「気を使ってくれてありがとう。んー…、まぁ、その、……落ち着かないのは……多分芳のせいだよ」
え、俺っ?
何かしたのか、それともしなかったのかと芳は内心ハラハラした。
「俺は何か伊吹にしてしまったんだろうか……」
「あはは、違うよ。……芳がめちゃくちゃ大人でカッコいいのに俺にやたら甘いから俺、あんな場所でどうしていいかわからなくなっただけだよ」
まずい。とてつもなくかわいい。
芳は思わず悶えそうになる自分を戒めるかのように細く長い息を小さくはいた。
「困ったやつだな」
かわいさ故の動揺を取り繕えているだろうかと思いつつ笑顔を伊吹に向け、そっと髪を撫でた。
「芳も困るの?」
「伊吹がかわいすぎてな」
芳は自分の気持ちを抑えるためにも囁くように答えた。
例え同じ部署の幾人もの誰かが残業をすることとなっても芳は遠慮なく帰る。個人プレーとだが言われる筋合いはない。仕事は十二分にやっている。他の社員の仕事も手伝う。ただ、終業時間が来れば帰るだけのことだ。
しかも今は初めての恋人がいるのだ。それも好きだった相手だ。帰らないでどうする。
芳は内心そわそわとしながら「お疲れ様です」と自分の部署がある部屋を出た。エレベーターへ向かうところでまた見知らぬ、だが恐らく同じ職場の社員に声をかけられる。
「安佐波さん、帰られるんですか。よかったら僕と食事にでも──」
お前は誰だよという言葉を飲み込み、自分の中でお馴染みのゴミを見るような目で相手を一瞥すると芳は構わずエレベーターに乗り込んだ。
確かに昔から女と付き合っても無理でしかなかったが、見知らぬ男と飲食を楽しむ趣味もない。だというのに何故こうもちょくちょく、と微妙な思いにかられたが、今から伊吹に会えるのだしと気持ちを切り替えた。
まさか付き合えるとは思ってもみなかった。一度は実らぬ恋だと逃げ、それでも好きでいることをやめられないようだと悟ってからも玉砕覚悟しかなかったし、好きだと口にしてしまった後は気持ちを隠す気はなくなったが、伊吹には何も求めていなかったというのに。
伊吹に何も求めていなかったのは、もちろん求める気がなかったのではない。こうして付き合えて嬉しいように、できるのならいい返事が欲しいと思ったし、できるのなら伊吹に触れたいと思った。できるのなら。
だが女と付き合っていた、しかも昔に家族同然のように過ごしてきた伊吹がいい返事をくれるとは到底思えなかったし、そんな伊吹に無理やり触れるなんて芳には到底できそうもなかった。ただ、好きだと口にしたのを幸いに、自分がしたいように伊吹を甘やかしかわいがるだけでも芳はそれなりに幸せだった。
伊吹にそのことについて言われた時はそんなささやかな幸せすら迷惑をかけていたのかもしれないとショックを受けるところだったが、まさかそのまま伊吹からも好きだと言ってもらえるなどと、どう予想できただろうか。
今日は夜でも楽しめるナイトアクアリウムへ行くことになっている。その後は静かに酒を楽しめるバーへ行こう、と芳はウキウキ予定を考えた。
大学生である伊吹はもしかしたらワイワイ騒がしい居酒屋のほうが好きかもしれないと、付き合ってから本人に直接聞いたことがある。
「どっちも好きだよ」
「そうか、よかった。じゃあ俺もたまには騒がしい居酒屋に付き合うかな」
「あはは、ありがとう芳。でも無理しなくていいし、俺が一番好きなのは芳と二人きりでゆっくり飲める、芳バーかなぁ」
……今日はやっぱりあのバーはやめて俺の家にするか。でも水族館からだと伊吹の家のほうが近いんだよな。
その時の会話を思い出して顔を少し熱くしながら芳は内心呟く。
ただどちらにしても二人きりになると芳としてはある意味とても緊張する。伊吹には絶対そんなところは見せたくないので何でもないふりはするが、内心ではドキドキしている。
き、キスくらいはしても構わないのだろうか……。
付き合っているのなら構わない気はするのだが、あんなにかわいい伊吹に手を出してしまっていいのか悩んでしまう。ついでに芳は童貞なので正直諸々の扱いに慣れていないというのもある。
うーむ、と考えた挙げ句、今日は静かなバーへ行くことにした。考えがまとまらないままだと急いては事を仕損じることになるだろう。それにナイトアクアリウムを堪能した後に、最初行こうと思っていたバーの雰囲気はとても似合う筈だ。きっと伊吹にも気に入ってもらえるだろう。
実際、幻想的なLEDライトを効果的に使ったバーの雰囲気はやっぱりとても合っていて、静かな中で飲む酒も美味しいと思えた。
しかし少しだけ伊吹が落ち着かない様子だったため、芳はさりげなく店を早めに出ることにした。何でもないような話をしながら歩き、公園とも言えないような場所にあるベンチを見つけるとそこへ誘った。ちょうど近くにあった自販機から茶を買うと伊吹に差し出す。
「ありがとう」
「伊吹、あの店はあまり好みではなかったかな?」
「え? 何で? いい雰囲気の店だったよ?」
「そう? ならいいんだが、何となく伊吹が落ち着かないように思えて。ならもう少しゆっくりしてもよかったなぁ、すまない」
「気を使ってくれてありがとう。んー…、まぁ、その、……落ち着かないのは……多分芳のせいだよ」
え、俺っ?
何かしたのか、それともしなかったのかと芳は内心ハラハラした。
「俺は何か伊吹にしてしまったんだろうか……」
「あはは、違うよ。……芳がめちゃくちゃ大人でカッコいいのに俺にやたら甘いから俺、あんな場所でどうしていいかわからなくなっただけだよ」
まずい。とてつもなくかわいい。
芳は思わず悶えそうになる自分を戒めるかのように細く長い息を小さくはいた。
「困ったやつだな」
かわいさ故の動揺を取り繕えているだろうかと思いつつ笑顔を伊吹に向け、そっと髪を撫でた。
「芳も困るの?」
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芳は自分の気持ちを抑えるためにも囁くように答えた。
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