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009 嵐の前の静けさ……
しおりを挟むタヌヌ王国辺境領都 常春の恋情 ウベルト・ピソ
タヌヌ王国の辺境領都ギルド長、ウベルト・ピソは最高級の娼館にいた。
昔馴染みからの手紙に苛々を押さえられなかったからだ。
昔馴染みはたかがゴブリン、されど祝福持ちだと書いていた。
しかしそれは誇り高いウベルトにとっては侮辱されたも同じだったのだ。
祝福持ちと言えど、たかがゴブリンである。
それを警戒するなどバカにするな、と。
彼の下に手紙が届いたのは、既に一か月ほど前のことになる。
その日からウベルトは常春の恋情に逗留し続けているのだ。
昔馴染みから受けた侮辱を解消するために。
相手は馴染みの娼婦であるアマサだ。
同じ獣人種であり、ウベルト好みの豊満な肉体と一晩ウベルトに付き合いきれる体力があるのだ。
こんなときには打ってつけの相手だった。
彼女の肉体に今日も今日とて溺れているウベルトである。
はや一戦目と二戦目が終わり、三戦目に突入しようかという時だった。
狼の獣人種である彼は異様なまでに目に見えないものに対して敏感なのだ。
その敏感さが恐るべき気配を伝えた。
下にあるアマサの肉体にボタボタと音を立てて汗が落ちる。
それは発情によるものではない。
強烈な怖気がウベルトを襲ったのだ。
冷たい、冷たい汗である。
「どうしたの?」
アマサにもハッキリとウベルトが顔色を変えたのがわかった。
傲岸不遜で豪放磊落を絵にかいたような男である。
彼女はウベルトとは長い付き合いになるが、怯えたよう表情を見たのは初めてのことだった。
「…………」
アマサの問いに反応を見せずに止まっているウベルト。
その目は窓の外に向けられていた。
「ウベルト?」
「悪い、アマサ。これで仕舞いだ」
ウベルトは彼女から離れて身なりを整え始める。
「どういうこと?」
アマサはシーツで身体を隠しつつ、身を起こした。
「いいか、アマサ。すぐに服をきてキャリルのとこへ行け」
「え? なに?」
「そんでキャリルに伝えてくれ。ウベルトがヤバいから逃げろって言ってるってな」
キャリルとは常春の恋情を取り仕切る妖人種《エルフ》のことだ。
いつもウベルトとは軽口を叩きあっている。
どうも冒険者時代からの顔見知りらしい。
「ちょ、ちょっと!」
ウベルトはアマサに背を向けた。
「じゃあな、アマサ。お前は最高の女だったぜ」
そう残してウベルトは足早に去っていく。
部屋に残されたアマサは訳がわからなかった。
それでもウベルトの言ったことを実行しようと服を着る。
ヤバいってなにがよ!
そう愚痴を吐きながらアマサはキャリルの部屋へと足を向けた。
タタヌ王国辺境領都 城壁 ウベルト・ピソ
ウベルトは常春の恋情を出て、ギルドへと走った。
顔色を変えて飛び込んできたギルド長に対して、受付嬢の一人は尋常ではないことが起こっているのだと悟る。
「おい、すぐに招集をかけろ! ランクは関係ねぇ全員だ! 領都にいる冒険者に声をかけろっ!」
「ギルド長っ! なんかあったのか!」
「おう、山吹の獣人会だったか。お前らも声をかけてこい! いいか、準備万端で西の城壁にこいってな、急げよ」
「わかった!」
ウベルトに声をかけてきた獣人とその仲間が一斉に走り出した。
碌な指示ではない。
それでも冒険者を動かせてしまうのが、ウベルトの実力である。
「おう! お前らも、だ。それとタグレグはどこだ!」
ギルド職員に声をかけつつ、ウベルトは自身の執務室へ向かう。
そこに現役当時の装備が置いてあるからだ。
再びこの装備を身に着けることがあるとは思っていなかったウベルトだが、若干顔を上気させていた。
脳筋、戦闘民族としての本能が騒いでいるのだろう。
「タグレグ副長は仮眠室です!」
「タグレグうううう! 俺の部屋にこおおおおおおい!」
バカでかい声がギルド内に響く。
その声を近くで浴びることになった女性職員はピゃッと漏らしてしまう。
狼の獣人であるウベルトはその臭いを敏感に感じ取っていた。
だが口にはしない。
いや口にする余裕もないのだ。
自身の執務室でウベルトが装備を整えているとノックもなしにドアが開いた。
「ったく。なんなんスか、でっかい声だして。これだから蛮族だって言われるんスよ」
ぼりぼりと頭を掻きながら副長のタグレグが入ってくる。
「うるせえ! てめぇもさっさと装備を整えてきやがれ!」
「いや仰せのとおりにはしますけどね。せめてもうちょい事情を話してくださいヨ」
軽佻浮薄な口調である。
それでもタグレグは頭が回るのだ。
粗忽な部分が多いウベルトをしっかり補佐してくれる存在である。
だから普人種の彼の言葉をウベルトはしっかりと受け止めた。
「前にガラオリラから手紙がきたって言ったよな。あんときは気の回し過ぎだって笑ったがな、あの妖人種《エルフ》の予想が当たりやがった」
「確か祝福持ちのゴブリンでしたっけ? そんなヤバいんスか?」
「おう、現役のときにもなかったぜ。ここまで怖気を感じたのはな」
”たはー”とタグレグは額に手をやった。
「それって三頭竜のときよりもっスか?」
「比べもんになんねぇな」
そんな話をしながらもウベルトの唇の端がにぃと釣りあがる。
やる気満々のウベルトを見て、タグレグはひとつ大きな息を吐いた。
「じゃあ、おいらは戦力外っスね、裏方に回るっス。とりあえず領主様ンとこいって、騎士団も派遣してもらってくるっス!」
「おう! 頼んだ! タグレグ、いつもどおりだ! 俺の背中を預けられんのはお前だけだ」
信頼するウベルトの言葉を聞いて、タグレグは”ハハハっ”と軽やかに笑った。
「あンたの面倒はおいらが引き受けるってのは現役のときからの決まりごとなンで」
二人は拳を突き合わせる。
「隊長! 任せたっスよ!」
現役当時の呼び方に戻ったタグレグに対して、照れもせずウベルトは”おう”と応えた。
タヌヌ王国辺境領都 西の城壁 ウベルト・ピソ
城壁の上に立ってウベルトは赤い月がうかぶ夜空を睨んでいる。
正しく暴威と言える存在が近づいてきているのだ。
だが西の城壁にはドンドンと冒険者が集めってきている。
さらには騎士団も到着したようだ。
後方の支援はタグレグに任せておけばいい。
そこにはなんの不安も感じていないウベルトである。
「ウベルト殿、こちらにおられると聞いてな」
声をかけてきたのは騎士団長のグピーオ・ホーリボ卿である。
「ホーリボ卿。急なことで申し訳ない」
いかに粗忽なウベルトと言えど、貴族とはそれなりの付き合いがある。
中でも騎士団長のホーリボとは、ともに領都防衛の件で打ち合わせをすることも多い。
冒険者上りと生粋の貴族と立場は違えど、彼らは昵懇の仲である。
「いやウベルト殿の危機察知能力の高さは信頼しておるからな。此度は相当に危険なのであろう?」
ウベルトとホーリボはともに二メートルを越す巨躯である。
さらに熊の獣人族であるホーリボは横にも分厚い。
そんな二人がならぶと倒せない魔物などいないのではという雰囲気がある。
「脅威という意味ではかつてない強敵だろうな」
「勝てるか?」
「端っから負けると思って戦うバカはいねえでしょう」
「愚問だったな」
「……きやがったな」
それは赤い月を背負うようにして現れた。
翼がある漆黒のヒト型。
纏う魔力は濃密である。
いやあれは垂れ流しているだけか、とウベルトは思う。
それでも十分な脅威なのだ。
そいつは腕を組んで宙にとどまっている。
睥睨する姿は不吉の象徴でもあるようだった。
「魔法師隊、撃てっ!」
ホーリボ卿の号令とともに黒い災厄に向かって魔法が飛ぶ。
殺傷力の高い火の魔法だ。
それらは共鳴するように大きな塊となる。
空が一瞬明るくなるような爆発。
轟音と爆風が城壁にも届く。
「やったか」
ホーリボ卿は盛大なフラグを立てたのである。
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