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ともだちらしいこと。

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『友達になったんだから、友達らしいことをしてみたい!』

 これは、優希の素朴な願いであり、これまでの人生が人脈に恵まれていなかったことを示すものでもあった。

 友達は、狙って作るような存在ではない。何度か触れ合っていく内に互いの交友関係が構築され、それが無意識に友情へと変化していったものである。労働者のように、志願してその地位に入りこめはしないのだ。

 協力したいという気持ちは、当然ある。自暴自棄で周りが全く見えていなかった航生の視界を、元の広さにまで戻してくれたのは優希だ。弦の恩返しという話でもあった通り、受けた恩は何かしらの形で返したい。

 それに、彼女は疑いの余地なく純粋であった。水道水にすら不純物は紛れ込んでいるというのに、不自然な言動や行動を一瞬でも見せていない。

 濁流と清流が交われば、普通はどちらもまんべんなく濁った流れに統一されてしまう。これを世間一般から見ると『清流が失われた』と捉えられる。薄いものが濃くなることはあれど、その逆は起こらないと言われる。

 しかし、その清らかな水が無限に湧き出てくるとしたらどうなるだろうか。汚染水が水たまりに溜まっているような少量なら、必ずや浄化される。強力な酸でも水で薄めれば排水溝に流してもいいように、濁りも消えていくに違いない。

 自然由来の商品を使うブームが巻き起こったことがある。人工で作られた製品よりも自然本来の姿であるものを好むという風潮であり、それが自然環境を改善してくれるのだと信じて疑わない人たちは多かった。

 現実は、どうだろう。始めてみたはいいものの、気を遣うことがあちらこちらに転がっていて挫折してしまっていた。『自然環境を守ろう』というスローガンを掲げてネット上に活動報告をしていても、裏では平気でルールを破っているけしからん人もいた。

 所詮、大多数はインフルエンサーの発言に影響を受けていただけなのだ。有名人がそう言っているから行動を起こしただけであり、そこに自然を深く考えようという軸となるものなど持っていなかった。

 優希は、疑問を持たない。家計が楽になる誘惑が目の前を通り過ぎたとしても、ついて行かない。なぜなら、何に対しても大切にしようという教えをベースにして思考回路が作動しているからだ。

 脱線気味になったが、要するに彼女は世にも珍しい応援しようと思うことのできる人なのである。

 ……でも、友達らしいことって言われても……。

 つるんでいる男友達とならば買い食いでもカラオケでも、何処へでも徘徊できる。が、まだ出会って間もない女子と思い切った行動を取りたくはなかった。

 そして、結局は無難な形で落ち着いた。

「こういうこと、なのかな? 友達がいなかったから、分からないけど……」
「……まずは、これくらいでいいんじゃないかな」

 航生と優希は、やや遠慮気味に間を空けて並んでいた。気を付けの姿勢をした赤ランプが灯っていて、これ以上前には進めない。

 肩の高さが違う事は分かっていたつもりだったのだが、いざ隣同士になってみると落ち着かない。何せ、横を向いた時に誰もいないのである。俯瞰しながら話すのは、慣れるまでに時間がかかりそうだ。

 校外にいるからには、遊ぶ待ち合わせをしていた……のではない。高低差のある二人は清潔感のあるカッターシャツで、ソックスは真っ白。制服紹介の写真によくありそうな服装だ。

 風が吹くと、爽快で気持ちがいい。太陽の勢力拡大前でも、直射日光に当たり続けているとポカポカを通り越して暑いのだ。

 話したのも、これまでに数回だけ。たまたま下校路が同じ方面だったとは言え、意図的に歩幅を合わせたことは今日が初めてだ。

「……無理はしなくていいんだよ? 嫌なら嫌って、言ってくれればいいからね?」

 独り言のように、ポツンと置かれた気遣い。不自然な間が埋まらないことを危惧してか、草むらではあれだけ背筋が伸びていたのに、今は縮んでしまっている。

 それまでおぼろげに赤い光が散乱するのに注視していた視線を、ちょっとだけ右斜め下に下してみた。手を組んでこねくり回している優希がいた。真っ青な空と比べて、どこか灰色だ。

 人を色に例えると、おおよその性格が分かる。例えば航生は濃紺であり、山のごとく動かない。どっしり腰を構えているが、心の器まで広くはない。

 それ以外にも、赤なら情熱的、緑は温和、黒は闇落ちしてしまった異世界ノベルの主人公によくいる性格。何かしらの色に染まっているのである。

 優希は、かなり特殊な体質のようだ。毒々しいまでの緑色プールに満たされている時もあれば、すべてが神聖な眩しい白になっている時もあった。

 元々が黒色の人は、色を薄めなければまず変わらない。異世界ものは主人公なりの正義を突き通す物語が氾濫していて、その色はどぶ川になっている。

 一時の感情で別の色に変化することもあるが、それは元より濃い色に限られる。絵の具は減法混色と言って、混ぜれば混ぜるほど暗くなる。心が表面を塗り替えられるものだとするのならば、嫌味ばかりを口にする紫がどうなろうと黄色には変化しない。

 つまり、何にでも染まることの出来るのは白しかいない……と言いたいところだが、残念ながら白は無彩色であり、味気が無い。感情も無い。存在するのは、一種の神々しさだけ。防水シートのように、他の物を跳ね返してしまう。

 ガラスには、コピー用紙には描けない『白』という色がある。これをヒントにすると、何にでも染まれる状態、それは『透明』だ。無色透明だからこそ、どの感情も呼び起こすことが出来る。

 優希が持っているキャンバスは、透明なのだ。喜怒哀楽を目一杯に表現することの出来る、豊かな心の持ち主なのだ。少なくとも、航生からはそう思える。

 一歩、彼女が左に寄ってきた。大股ではなく小股で、さりげなく近づいた。見えない壁がそこにあるかのように、それ以上は左に動かない。

 両者の空間は、残念なことに航生から空けてしまったものだ。馴れ馴れしく接したら迷惑だと、勝手に離れて歩こうとしたのだが、それを敬遠と感じられてしまった模様だ。

 ふぅ、と溜息をもらしてしまった。意気地なしな考えをした脳をぶん殴ってやりたい。舌打ちをしそうになったが、流石にこらえた。

「……嫌いだったら、俺から話しかけはしないよ」

 お礼がしたかったというのもあるが、一番は優希の話に聞き入っていたからだった。自らの信念を捻じ曲げずにいられる高校生が、日本中のどこにいるのか。裏表のない彼女の理想は、実現不可能なことでも手を伸ばせば届くように見えてくるのだから、印象というものの働きは大きい。

 草を踏んだだけで説教を食らうのは、人によれば面倒くさい嫌な奴だと邪魔者のレッテルを貼られてしまうだろう。事実、優希はクラスの半分くらいからブラックリストに入れられているようで、挨拶も返さない。

 しかし、考えてもみてほしい。自分にとっては思い出の絵でも、他人からすれば幼稚園児が描いた何でもない駄作になる。考古学者にとっては歴史に名を刻むような発見でも、無知な人からしてみればゴミだ。

 個人によって考え方が異なるのは当たり前であり、それを認めているのが今の世の中だ。生きているものを全て大事にしようという考え方があってもいいのではないだろうか。

 だいたい、人の思考にケチをつける人々ほど、自己流を他人に押し付けているようにも思える。これでは、どちらが意見の押し売りをしているのか分からない。

 エンジン音を響かせながら、普通車が排気ガスをまき散らしていく。これでも昔の規制が無かったものからは大分マシになってはいるだろうが、ゼロに抑えることはできていない。

 危機感を散々訴えておきながら、自分たちが不便になるものには見て見ぬふり。どちらを優先したいのか分からない優柔不断な態度には、つくづく腹が立つ。

 道路の脇には、申し訳程度の花壇が開かれていた。自然が見られない都会にせめて彩りを加えようとしてか、公道だということを無視して赤レンガが積まれている。

 ミミズが住んでいる土は栄養が豊富だと言われているが、この急造花壇で使われている土は程遠い茶色をしていた。砂場から拾って来たと看板に書かれていても疑わない。理科の対照実験をしているのでなければ、栄養不足だろう。

 人工的に植えられた主張の激しい赤のチューリップの傍らで、小型向日葵のような花が一輪、上を向いて咲いている。隙間を縫って日光を浴びようと、天空に手を伸ばしているようだった。

「……あそこに、タンポポ咲いてたんだな。見向きもしたことなかった」

 近所の人がボランティアで育てているのだろう、と脇役にも満たない準備係のような扱いをしていた植物。それも、観賞用ではなく自力で芽を生やしたに違いないタンポポ。今までは認識もされていなかったような物体が、視界に訴えかけてくるようになっていた。

 自由に動き回れる動物に比べて、地面に根を張りその場からじっとして動かない植物は不自由で辛そう。それが、幼少期の草花に対する感想だった。寝たきりになって点滴を受けている患者を見ていると、植物も窮屈に感じるようになっていた。

「……そうなんだよー! あそこに咲いてるタンポポ、たくましいと思わない?」

 黄色くて小さい花弁を付けたタンポポの話となると、この人の饒舌は留まるところを知らない。重りになっていた『重い槍』などまるでなかったかのように、活き活きとしている。身長が二センチは変わっていそうだ。

 さて、タンポポがたくましいとは、これいかに。茎の上腕二頭筋が発達して力こぶが出来ていたり、強風でもなびかない体幹を身に着けていたりはしなかろう。

「……それって、どういうこと?」

 質問しようと心構えをするまでも無く、すらすらと口から出てきた。授業中はあれだけ念押ししても言葉が喉でつっかえるというのに。

 ずっと押し殺し続けていた感情たちが、居場所を求めて留置場から飛び立っていく。上からの圧力と期待に応え続けなければならない負担に嫌気が差し、新しい世界を目指していく。

 病院の先生でも治せなかった胸の苦しさが、いつのまにか消え失せていた。興味のあることに興味を持つという当たり前の事が治療法だったとは、現代医学では見つけられなかったようだ。

「あそこはね、車の排気ガスとか、踏み荒らされちゃったりとか……。色々と大変なことが多いけど、それでも凛と立ってるんだよー」

 タンポポに恋をしている少女は、推しについて語るだけで頬が緩んでしまうクセがあるらしい。忖度の無い微笑みは、気を失ってしまいそうな光を放っていた。

 優希の人差し指の向こうには、ひっそりと咲く蒲公英(タンポポ)。強い日差しの下で皆に注目されているエースの陰で、ひたむきに努力するスーパーサブ。目立たないが、欠かせない存在だ。

 有害な物質しか含まれていない排気ガスは、確かに配慮されることなく吹きかけられている。人間が直接吸えば卒倒してしまう一酸化炭素が含まれているようなものを、平気で排出しているのだ。

 自然現象に立地が左右される草花に、人権ならぬ植物権は保障されていない。運悪く水面に種子が着地すればそれまでで、動物にかみ砕かれても終わりになる。緑豊かな野山に辿り着く種は数えるほどしかない。

 だからといって、自らの置かれた環境を拒否しては生きていけない。周りに順応しようとする。劣悪な状況でも、耐えて耐えてしぶとく花を咲かす。

 それに比べて、人間はどうだろう。不可抗力で窮地に立たされたわけでもないのに、他人ばかりを呪う。今の環境を作り出したのに自身は関わっていないと、現実から逃げる。

 肉体では、到底植物は動物に敵わない。危険を感じても、直接撃退することができず、無残に捕食されてしまう。

 しかし、精神ではどうなっているだろう。自分勝手で能動的に周囲を破壊していく人間と、受動的にありのままの環境を受け入れる植物。立派なのは、言わなくても分かる。

 胸に手を当てて、今までのことを思い返してみることにする。

 ……俺が勉強不足だったのも、原因なんじゃないのか?

 週七回も学習塾に行かされるのは、狂気の沙汰だ。それを受け入れるつもりは毛ほども無いが、親のエゴだけが原因であることは決して多くない。

 点数の推移グラフは、概ね平均点を下回っている。留年ラインは上回っているが、褒められた成績ではない。これでは、多少小言を言われても文句は返せない。

「優希ならすぐに逃げちゃうようなことも、植物はずっと我慢してる。そう思うと、頑張らなくちゃってやる気が出てくるんだ」

 ちっぽけな体には、どれくらいの強靭さが含まれているのだろうか。雨にも負けず、風にも負けない丈夫な体は、見習うべきものだ。

 何の合図もなく、青信号が点灯した。音が出ていないのが不親切で、意識を逸らさなければ気付かなかったかもしれない。

 白と黒の長方形が交互に並んでいる。白い部分へと飛び乗った小学一年生も、もう九年前になるのだ。

 テクテクと、優希が航生の前に躍り出てきた。花壇は珍しいものではないのだが、一目散にタンポポへと向かって行く。

 人通りの乏しい歩道の隅にある、私用の花壇。雑草が生えていないところを見るに、手入れはきちんとされているようだ。

 招き猫のように、優希が手招きしていた。

「……何かあった?」
「静かにー……。ほら、ここ」

 彼女が見つめる延長線上には、草ではない緑で細長いものが絡み合っていた。よく見ると、右に左に動いている。

 女子は虫ならなんでも怖がって近づいて行かないイメージを持っているのだが、自然をこよなく愛する優希に常識は通用しなかった。ハエたたきで潰すこともしなければ、ちょっかいも出さない。

 昆虫についての知識が貧弱な航生でも、主要なものは見た目で判別できる。アニメに出てきそうな顔つきのやつがバッタで、大きなはさみを手に持っているのがカマキリだ。

 自然界には、弱肉強食という単純だが残酷な制度が整っている。生存競争に敗れた者は勝者のエサとなり、その連鎖が最上位の消費者まで続いていくというものだ。今のところ、ピラミッドの頂点に立っているのは人類である。

「……航生は、どっちが強いか知ってる?」

 興味津々で戦いの行方を見守っている航生を見て、その世界に深く入り込めるような会話に変化してきた。大きく見開かれたまん丸の目から、自慢してやろうと言う傲慢さは読み取れない。

 記憶の彼方に、カマキリが草むら界隈の王だという記述がある。それに、見た目からして如何にもカマキリがフォークとナイフを手にした捕食者に見える。

「……カマキリ、かな?」
「ぴんぽーん! あの脚を見たら分かりやすいから、簡単だったかな?」

 たぶん、優希の簡単と世間一般の簡単は、レベルがかけ離れている。一般人が昆虫関連の問題に全問正解できるわけが無い。

 しゃがみこんでいる彼女は、聞こえない音楽のリズムに合わせて揺れている。緩いカーブを描いている眉毛に、唇の間からはみ出した舌。腐った世界ばかりを過ごしてきた心に、熱い血液を送り込んでくれる。

 昆虫相撲の形勢は、カマキリが優勢のようだ。ジリジリと退却しているバッタだが、あとちょっと後ろに下がるとコンクリートの歩道に出てきてしまう。そうなると、別の方向からノックアウト負けする可能性が高い。

 ……優希って、全部大切にしたいんだよな……?

 思いつきの疑問が、ふっと頭に出てきた。

 道が分からなくて立ち往生している人が居れば、道案内をする。溺れそうになっている動物がいれば、引き上げてやる。助ける対象が一つだけだと、関係性は単純だ。他人の利害が絡んでこないので、思う存分力を発揮すればいいだけとなる。

 今繰り広げられている闘争は、二者間の生存競争だ。判官びいきでバッタを助ければ、鎌力は貴重なエサを失ってしまうことに繋がる。この絡まった紐をほどくのは困難だ。

 無知な人は、後先を一切考えずに弱気を助け、強きをくじく。生半可な知識が頭に入っていると、見殺しにする。どちらが正しいかは、分からない。
博識のエキスパートである優希は、どうするのだろうか。

「……優希、バッタは助けなくていいの?」
「えっ……?」

 目を泳がせることもなく、点になって固まっていた。理外からの一撃で、プログラムがエラーを起こしてしまったようだ。

 彼女の表情に、一瞬でも思案した様子が見られない。意志を捻じ曲げたとか、相手の意見の真意を汲み取ろうとするとか、そういった高度な処理が行われなかった。

 どちらかを助けたいと思っているのなら、何も出来ずに体を硬直させてしまうことはないだろう。持っている意見はすぐに主張する優希のことだ、明確な立場を持っていたとするのならば、もったいぶりはしない。

 首をかしげる彼女の頭上には、クエスチョンマークがぼんやりと浮かび上がっていた。漫画の表現以外で見たのは初めてだ。

 優希が、唐突に航生の膝に置かれていた手をつかみ取った。

「……子供のころに、ヒーローもののアニメ、見たことあるかな?」
「よく見てた。ああいう風に将来はなってみたいって思ってた。……今となっては儚い夢だったけど」

 カッコいいデザインのマントを羽織った正義の味方が、空を飛んで悪人をやっつける。難しい言葉を知らなくても、関係性が分かりやすいものばかりで、毎週放送されるのを楽しみにしていた記憶がある。

 今でこそ子供も堅実志向になってきているが、基本的に幼い子は身近にみられる人々に憧れる。お花屋さんしかり、警察官然り……。それはアニメの中も例外ではなく、空飛びヒーローも将来の夢に入ってくるのだ。

「……それじゃあさ、世の中は悪いことと良いことの二つだけしかないのかな?」
「……」

 手から感じる不安定な温もりが、二択問題ではないことを伝えている。

 正対していたはずの優希は、もうすぐそばまで来ていた。片手で軽く手を繋いでいる。

 ……イエスでもないし、ノーでもない。

 国家の法律によって決められた条項に違反すると、犯罪者になる。罪を犯している以上、その人は『悪人』となり、刑務所か拘置所に収監されることになるのだ。

 軽い気持ちで万引きに走れば、それは『悪い事』に入る。店側は金銭被害を受けていて、明らかに他人を害する行為に含まれるからだ。

 しかし、その万引き犯が明日をも知れぬ身だったとすれば、どうだろう。死にかけの子供に食料を与えるためだとしたら、印象はどう変わるだろう。中には、許してやってもいいという意見が出るのではないだろうか。

 そもそも、『犯罪』という行為自体は国が決めているものであり、それは単なる文章でしかない。全員が政府に信頼を置いているから成り立っているのであって、国民が無視するようになれば形骸化してしまう。

 イスラム教徒から見て肉食は犯してはならない禁忌であるが、無宗派が多い日本でそれは成り立たない。レストランで肉抜きを頼もうとしても無理があるというものであり、強制させようとすれば即ち逮捕される。

「カマキリは、バッタを食べようとしてるよね。カマキリが悪くて、バッタは悪くないの?」

 ピラミッドの上方に位置する生き物にとっても、狩猟の成果は生命に直結する。食物を得られなければ飢え死には避けられず、また自己防衛も行えなくなる。

 経緯を全く考えない人々は、その場面だけを切り取って判断する。そうすると、断片的な証拠を頼りにせざるを得ない。誤った決断を下してしまう可能性も高くなる。

 ……これまで、なんとなく弱い方を助ければいいと思ってたけど……。

 思考停止は恐ろしい事だ。事実が目の前に落ちているのに気付かず、釣り糸でぶら下げられたゴシップに飛びつく。自分に都合のいいように情報を操作し、不利益を認めない。

「自然を大切にするっていうのは、ただ闇雲に手を出せばいいものじゃない。元から出来てる関係は、崩しちゃいけないんだよ?」

 より一層、声が大きくなった。手を握る力が増していっている。

「……優希は、どこでそんな考え方を身に着けたんだ?」

 無関心な人から見れば面倒くさいだけの提案をする優希だが、その自然に関する無尽蔵の知識は何処から来ているのだろうか。図鑑を漁っただけで、倫理観が変わるとは思えない。

「それはねー……、ひみつ! またいつか話すかもしれないけど、今はひみつ」
「ケチ」
「ケチじゃないもん!」

 触れられたくないことがあるのだろうか。とにかく、無理強いはしない。

 ……弱肉強食ってことは……。

 言い換えれば、上のものに虐げられる構造のことだ。

「……今の俺も、バッタなのかな……」

 自己に原因があるとは理解していながらも、やはり社会構造を言い訳に使いたいという気持ちもある。

 眉をひそめられるかと思ったが、優希は意外にもふっくらした頬っぺたを外に押し出した。

「そういうことなら、見て見なよ」

 促されるがままに、先程までカマキリとバッタが争っていた土俵に目を移す。

「……!」

 そこには、カマキリがひっくり返っているだけだった。

「……たまには、大金星もあるんだよ?」

 ……もう少し、頑張ってみようかな。 
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