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一節 女の子を拾いました。

004 名も知らぬ男を、信じてくれた。

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「なーに?」

 もう、心を完全ではないにしろ大分打ち解けている。この人懐っこさが殺されていたのだから、貧困は恐ろしい。

「……俺の家に来ないか?」

 そう、母親からだけだが、幸紀を住まわせる許可が取れたのだ。父親が断固拒否の姿勢を崩さなかったのが不安要素ではあるが、隠し通せば何ら問題はない。

「……遊びに?」

 幸紀にはいまいち全様が伝わらなかったようで、遊びに誘って来たものだと勘違いしている。

「そういうことじゃなくて……。これから、俺の家に住まないかってことだよ」

 幸紀の目が、点になった。二枚重ねで寒そうに小刻みに震えていたのが、ピタリと止まった。完全に固まっている。ゲームのバグではない。

 『よく知りもしない女の子を住ませて、偽善なんじゃないのか』と抗議の手紙が来たとすれば、広海は潔くその通りだと答えるつもりだ。

 幸紀は現状、公園のベンチや歩道を寝床としている。もちろん衛生が良いはずが無く、このままでは何かしらの病気にかかってしまうことはほぼ確定した未来だ。

 肉体労働が耐えきれない肉体の幸紀では、寝込んでしまうと起き上がれなくなるかもしれない。身寄りもいない彼女では、炊き出しを受ける事も出来ずに野垂れ死ぬ。

 広海の家に住ませることも、もしかすると一時しのぎかもしれない。幸紀の両親が進軍してきて、娘を誘拐されたと裁判所に訴えるかもしれない。そうなれば、家族に迷惑がかかる。

 幸紀のためになるかも不透明だ。部屋の一室に軟禁状態のまま一年を過ごさなければならないかもしれず、それで彼女が良い気分になるとも思えない。

 ……代案も無いのに、たらればを言っても仕方がないだろ!

 しかし、代案が無いのも事実。やらない善より、やる偽善、だ。

「……変な仕事するの?」
「しない! 裏社会漫画、見すぎてた……?」
「……だって、水を売る仕事だって連れて行かれて、入れられそうになったこと、あったんだもん……」

 語尾に『もん』がついてすっかり親友扱いに昇格している広海だが、そこを指摘する余裕は霧散した。

 ……渡る世間は鬼ばかりだな……。

 水を売る商売というのは、額面の通り受け取ると『水商売』ということになる。幸紀は実際についていき、直前で離脱したようであるから、むしろ裏社会漫画の表紙を見たことすら無いのだろう。

「……このままだと、いずれ野垂れ死ぬのがオチになる。……幸紀、信じてくれないなら信じてくれなくていい」

 誘導尋問? そんなものは関係ない。幸紀を、一刻も早く安全な場所へ移動させたかった。それだけだ。

 九か月間の長く苦しい生活を振り返っているか、目を瞑った幸紀の表情が時々恐怖や疑問、苦悶に変わった。

「……そうだよね。行動せずにいるのと、行動して失敗するのと」

 これは幸紀にとっても、重要な決断になる。

 広海の提案を受け入れれば、自宅と言う名の家に行くことになる。奴隷として使われるのか、又は広海の言うことが本当なのか。彼女にそのことを知る由はない。

 幸紀が唇を湿らせ、喉が上下に動いた。

「……広海のこと、信じるよ」

 そう言って、広海の手をしっかりと握ってきた。冬風に吹かれて冷たく、体温もあまり感じられなかった。吹き曝しにあっていたためか、文字通り体の芯まで冷え切っていたのだろう。

 ……信じてくれて、ありがとう。

 もしこれで、幸紀が広海を信じ切ることが出来なかったとしたら。広海は、彼女を動かすことを諦めるしかなかった。関係をクリアにまではできないが、二度と勧誘することは無かっただろう。

 毎日、食べ物を持っていく、それだけ。いつまでも、幸紀の状況は好転しない。いや、年月が経つ分悪化する。それでも広海には、手出しは出来なかっただろう。

「……でも、大丈夫なの? お父さんとかお母さんとか、反対しない?」

 どこまでも、相手を思いやってくれている。自分が一番大変なはずなのに、よく他人の家庭にまで頭がまわるものだ。

 ……これ、どうしようか。

 母親は容認、父親は反対。事実を伝えるならこの二文でいいのだが、これでは幸紀が遠慮してしまうのではないか。広海としては、安心して幸紀に家に来てもらいたいのだ。

「……母親は賛成だってよ。そう言ってた」
「つまり、お父さんはダメなんだ」
「なんでそうなる」

 違わない。違わないが、それを理由として断られたくない。

「……反対してるなら……」
「幸紀!」

 広海は、反射的に幸紀の腕を拾い上げた。かつて彼女がそうしたように、手が痛くなるほどに握りしめた。

 ……お願いだから……。君が極寒の外でボンヤリ生気の無い姿をしているところなんか、もう見たくないんだ……。

「……痛いよ、広海」

 腕を震わせている幸紀に、はっとした。指が食い込むまでに押し込んでいたものを、ほんのり肌と肌が触れ合う程度にした。

 ……何やってるんだよ……。これじゃ、怖がられてもおかしくないよな……。

 彼女が広海のことを逃がさないとしたとき、広海はどう行動しただろうか。事情を聴こうと付き添った訳でも無ければ、機械になって受け流したわけでもない。

 お化け屋敷に出てくる幽霊に捕まったように感じ、彼女の手を無慈悲にも振り払ったのだ。少し冷静になれば、季節に似合わない服装や庭の雑草のような伸び放題の後ろ髪をヒントに、幸紀が家出だと仮定すれば矛盾する点がいくつも視覚に訴えてきたはずなのに。

 ……なんで、こういう大事な時に限って……。

 未来永劫、幸紀がこの生活を続けるということは無いであろう。社会人の年齢になればもっと募集の網にかかるチャンスは増大するし、あるいは善意の人が引き取るかもしれない。

 しかし、その話は何年後の未来なのだろうか。実現不可能だと思われていた不老不死が実現するくらい先のこと、ということも起こり得る。無論、そんな時代まで彼女がやっていける世界はゼロに等しい。

 期待値、という言葉が数学にはある。煽りの道具として使われることも少なくないが、現状維持と革新のどちらを選択するかに迷った時には使えるはずである。

 ……計算したくもない。

 数字を小数点以下まで出してみる必要はない。第一、生命の期待値など計れやしない。

 ……自分が歩いている道の地平線をしっかり見つめもしないで、人様の価値付けなんかできない。けど、

 広海には、確実に幸紀の往く道のデコボコを取り除けるという自信が漲っていた。

「……いきなり掴んだりなんかして、ごめん。……でも、幸紀にとってこれが最善だと思ったんだ」

 初めて言葉を交わしてからまだ二十四時間と経っていない男でも良いと幸紀が言うのなら、広海は彼女のことを守ってあげたい。同情心からくる情けだとしても、彼女に得になることはしてあげたい。

 幸紀は、ひととき広海の胸の辺りに視点を固めていた。やたらと手や口が動いて、安定していない。

 ……それは、簡単に決断できないよな。

 過去の記憶は、現在の行動を制限する足枷となることがある。

 まだ言葉も分からない頃に木の橋の中央部を通り、たまたま腐っていたために川へ転落したとしよう。その経験は次回に活かされ、一休さんでもないのに端ばかりを通るようになる。

 不運にも、幸紀はホームレスなどの立場の弱い人間から金を巻き上げようという組織に、何度も被害に遭う寸でのところまで行ってしまったことがある。本人が語れないだけで、もっと回数が多いかもしれない。

 そこへ、ノコノコと広海が声をかけてきたのだ。

 ……トラウマで、もう人と話すことすら嫌になるんじゃないか?

 ハードモードなんて言うレベルではない。何しろ、ゴールは自分で作らなければならない。そこら辺の鬼畜ゲームが甘口カレーに成り下がるほど、幸紀はいばらの道に傷つけられながら約二百七十日もクリアを目指しているのだ。

 不毛な旅に、終止符を。

「……」

 幸紀の返答を、ただ待つのみである。

「……うん……」

 悩み抜いた末に、だらんと腕を伸ばした。

 凍り付いて停止していた歯車が、油をさされて稼働し始めた。昔ながらの動力機関ではあるが、そんなことはどうでも良かった。

 ……俺の事、信じてくれたのかな……?

 長い長い放浪生活に疲れ切って、もうどうにでもなれと身を預けたのかもしれない。結末が何であれ、自ら孤独の渦に肩幅を縮こまらせて帰るのに嫌気が差したのかもしれない。

「……広海は、良い人だと思う。絶対……嘘は言ってない……よね?」
「言ってないよ」

 心の底から胸を張って、そう宣言できる。後ろめたさの無い気分がどれだけ晴れ晴れしいのかを、己を以って気付いたのだ。

 偽りで塗り固められた、仮初めの姿。広海はその人形を巧みに糸で操り、仲間の輪に溶け込もうとしていた。

 しかし、それは叶わなかった。それは必然だったのだ。同級生から見られている仮の広海と本体との間に、亀裂が走っていた。会話が弾むはずが無かった。

「……ほんとだって、信じてるから……」

 幸紀という名の、一般的な女子高生とは余りにかけ離れた一日を送っている女の子。彼女は、自分に正直に生きようとして、しかし規範はなるべく遵守しようとしている。これを礼儀正しいと呼ばずして、何と言うのだろうか。

「……さ、行こう」

 幸紀の手をしっかりと固く結んで、立ち上がった。と、二トントラックと綱引きしているような手ごたえを感じた。

 幸紀は、石垣に座り込んだままだったのだ。テコでも動かなそうだった。

「……?」

 この最終盤まで進んで、恐怖がぶり返したのだろうか。

 ……まだやり直せるなら、そういう行動を取ってもおかしくない。

 こうなれば、夜を明かしてでも幸紀の下で親身に相談に乗るまでだ。

 折角交わった、広海と幸紀という二本の直線。幸紀の線は先細りしていっており、広海の線は霧がかかっていてどうなっているかが分からない。

 このまま幸紀を幅が狭くなっていく鉄骨の上に歩かせてもいいのだろうか。一歩踏み外しただけで、もうそこは地獄の中。這い上がろうにも、体力も資金も尽きた人間にはまず不可能。ワイドショーに取り上げられる日は、それほど遠いものではない。

 分岐器のレバーを動かして、無理やり広海と一本に結合させる。これしかない。

「どうかした? 決心が付かないなら、それでもいい。ずっと、側に……」
「……足が動かなくって。……」

 幸紀はバツが悪そうに、しょんぼりと肩を落としていた。

「……今までも、そんなことあった?」
「……なかった」

 固く結んでいると思っていた手は、幸紀が軽く指を添えているだけになっていた。

 人間は、水さえあれば三週間は生きていられる。だが、それは短期的な話で合って、長期の栄養失調となるとまた話は変わってくる。

 彼女の食事は、週に五回。一日ではない、週に五回なのだ。それも、慈善事業として施されている炊き出しである。栄養が細部にまで行き届いているわけがない。

 幸紀は、恐怖で顔が引きつっていた。

「広海が昨日来てくれなかったら、どうなってたんだろう……」

 中枢にも力が入らなくなってきたのか、広海に倒れ込んだ。寒さとあり得た暗黒の未来で震えが止まらない体を、広海は優しく抱きしめた。

「……背負って行くから、出来る限りつかまっててな」
「……分かった」

 体幹を立てたまま持続できる力は残っていたらしく、どうにか幸紀は広海の支えが無くても自立できるところまで上半身を持っていった。

「……行くぞ」
「……んん……」

 幸紀が背中につかまった……と言うよりは、一滴のエネルギーも出し切って残りカスになってしまったように重力に身を委ねた。

 筋肉隆々でバーベルくらい小指一本でも持てるほどの力持ちなら良かったのだが、あいにく運動部に入っているとはいえ非力の部類に入る広海である。ズリズリと、幸紀の古ぼけた靴と道路の擦れ合う音が続く。

 ……こんな人助けするなんて、一生思わなかっただろうな……。

 困っている人を助けるのは、政府や自治体の仕事。募金や支援品は送るが、直接助けるかとなると微妙。それが、ましてや知りもしない流浪の女の子を保護することになるとは。

 中学校の三年間を共に過ごした友人と作った思い出の山の標高よりも、はるかに幸紀との仲は低く浅い。流れる距離も、ごく短い。

 広海が幸紀と偶然出会ったのは、ケンカで家を飛び出し、またその日がクリスマスイブだったことで食べ物の流通量が増え、それを狙って幸紀が足を延ばしてきたからに他ならない。 

 ……人を助けることって、なんだろう。弱い人を助けるには、どうしたらいいんだろう。

 支援金はボランティアの活動費用に充てられるが、それは間接的に届くのであって当事者達に届くものではない。日本国民から一人一円を徴収すれば一億円を超すが、そのお金も組織や企業に行きつくのである。

 それに、食料や水は満たせるとしても、孤独などの対人関係まで改善できるものではない。

 皆に好かれそうなタイプの幸紀ですら、ふさぎ込んでしまっていたのだ。若くして路上生活を余儀なくされれば、大半は一匹狼になってしまう事であろう。

 中には、『彼らが幸せならそれでいい』とことなかれ主義を展開してくるかもしれないが、それが通用しないのが貧困だ。

 幸紀は、コンビニのおにぎりを一個食べただけで幸せ感が生まれただろう。しかし、客観的に見て一日の食事がそれだけというのは絶対的に不幸である。

 本人の気持ちに関係なく、一定の基準を満たしていないものはなんであれ不幸なのである。本人たちが標準を体感したことが無い、あるいは幸紀のように感覚が狂ってしまっただけであり、それは幸せとは言えない。

 極端な例を出すと、暴力を受けて幸福を感じる人はいるかもしれないが、この人はどう考えても不幸なのである。身体も精神も不健全にさせる暴力は、許されていい物ではないからだ。

 ……幸紀に、また普通の生活を取り戻してほしいな。

 広海も、腐りかけていた心を再生してもらった。彼女を、こんなところで野垂れ死にさせるわけにはいかなかった。

「幸紀、大丈夫かー?」
「……う……ん……」

 眠気の入った声ならばツッコミの一つでも入れられるのだが、ただただ声帯を震わすだけの気力も薄れてきてしまっている。

「……大変だけど、家に着くまでは持ってくれよ」
「……が……」
「しゃべらなくていいから」

 これ以上無駄な体力を使わせまいと、必死に声を絞り出そうとした幸紀を制止した。代わりに、頷きで返してきた。

 ……幸紀も、限界が近いんだろうな。

 広海が歩く直線上にいる通行人が、何事かと道を次々に空けていた。大変そうだから道を譲ろうとするのと、気味が悪いから逃げようとするのの半分半分だろう。

 ……早く、たどり着かないと。

 減り続けるだけの肉体との勝負だ。

 広海は、幸紀のわきの下に腕を通し、おんぶ紐を作った。前につんのめりでもすると広海がケガを負いかねないが、そのことを気にしている猶予は無かった。

 二人の似合わない男女ペアが、街灯の薄明かりの中を一生懸命進んでいた。
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