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三節 二人だけになりました。
009 トラウマを、上書きした。
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「次の角を、右折しまーす!」
広海たちは、名もなき通りを縦走していた。街の西から東へ、北から南へ、どんどん広海の家から離れていっているところだ。
運転手の幸紀は、どこまでも自分の足を運べるのが新鮮でならないらしい。足どりも軽そうだ。
……自由に移動もできなかったんだもんな。
自転車や自動車、鉄道などの文明の利器が発達したこの現代社会である。歩いてどこかへ向かうというのは、近所のスーパーやショッピングモール、遠くても三キロほどであろうか。それ以上の距離を徒歩で行くというのは、少なくなった。
広海も、遠出するときには必ずと言っていいほど自転車を使う。それも都道府県を横断するような遠距離にまでは出向いて行かない。徒歩など、半径二キロが行動限界だった。
幸紀の中学時代は想像するしかないのだが、広海とそう変わらないと仮定するとやはり歩く頻度はそう多くは無かったはずだ。
では、氷河期の幸紀はどうか。選択できる移動手段が徒歩しか無いのだから自然と歩数が増えるところまでは絵に描けるのだが、その先はどうなっていくだろうか。
広海は、長時間幸紀が歩いていたとは思わない。炊き出しが一か所だったという証言と照らし合わせると、広海と大して移動距離は変わらなかったのではないだろうか。
……好き勝手に歩けるだけで、幸紀には嬉しいんだろうな。
思わぬことが、幸紀には宝物のように見えていることだろう。
幸紀が、突然立ち止まった。
「……広海、ここ、私も来たことある」
そう彼女が指差す先は、とあるレンタルビデオ店の看板だった。
「……よく、覚えてるな」
「それは、場所を覚えないと生きていけなかったし」
常人がこの一文を言う事は、一生かかってもないだろう。
それから、幸紀から一切の音が漏れなくなった。警笛も、進行方向も、車内放送も消えたのである。彼女は、まるで何かに引っ張られているかのように道と言う道を進んでいった。
……幸紀は、どこに向かってるんだ?
広海が住んでいる街に、幸紀は外れしか進入したことが無い。道を知っている地域となると、ある特定の場所に限られる。
「……ここ、だったよね」
そしてまた、広場までやってきた幸紀が歩みを止めた。
「……そうだな」
この広場には、広海もよく見覚えがあった。正面に飾り付けてある公共のイルミネーション、中央にある噴水と囲むようになっている石垣。全て、変わっていない。
……俺が、クリスマスイブの夜に幸紀と出会った場所だ。
全ての始まりの地が、この広場だった。ここで家出中だった広海は絶望しかけていたホームレスの女の子と出会い、会話をし、思いを吐き出しあったのだ。
「……また、一緒に座ろう?」
幸紀が、石垣へと広海を誘う。腕をしきりに引っ張って、催促してきた。
無言でうなずいた広海は、幸紀に連れられるがままに石垣へと腰を乗せた。
「……こうやって、私が下の方を向いて座ってたんだよね」
あの日の再現と言わんばかりに、両脚を揃えてコンパクトに縮こまった。寒さを耐え凌ぐために、身を寄せて保温しようとしていたのがよく分かる。
……今は昼間だからまだ暖かいけど、幸紀は二十四時間外気に触れ続けてたってことだからな……。
暖房の効いた部屋から外へ出た時の冷たさなら、扉を閉めれば元に戻る。しかし、外には風は防げても寒気まで防止できる場所がない。公衆トイレは一見良さそう見えるが、不特定多数が出入りするため犯罪の危険も付きまとう。単身で長時間滞在するには向いていない。
「そこに、広海が座って……、私が咄嗟に腕をつかんだんだっけ」
溺れている人が流木につかまる時よりずっと優しく、広海の腕がふにゃふにゃのカイロに巻かれた。落ちた肉はそう簡単には戻らないことを、やや薄い幸紀の手が示している。
「あれさ、何でつかんだかは話してなかったよね? あれは、もう限界だったから。一人で頑張ってくのが、もう嫌だって思ったから」
広海はクリスマスイブの夜、幸紀のとなりへと身を寄せ、コミュニケーションを取らんと話しかけた。そのことが、彼女には久しぶりの事だったのだろう。
……一人で頑張って、それでも状況は全く良くならなくて。決壊しそうだったんだな。
たった一人でも、お金が稼げて希望が見えるならいくらでも体は動く。どうしようもなくても、仲間がいれば励まし合える。幸紀は、そのどちらも持っていなかった。
「……変な言い方になっちゃうけど、私が食べ残しを求めてここに来なかったら。広海がケンカで家を飛び出してくれなかったら……」
そこで、声が完全に崩れた。吐く息ばかりで、声になっていなかった。
幸紀の目から、恋愛映画を見て出るのとはまた違った雫が目尻を赤く染めていた。
もしもの世界が存在したとするのならば、そこはどのような世界なのだろうか。広海がケンカをしなかった世界、幸紀が炊き出しの場所周辺でじっと体を固めていた世界……。ありえた未来は、無限大にある。
そして、それらの中に広海と幸紀が映っている写真はない。大半が出会うことなくすれ違っていて、残りも広海から避けて会話にすら行きつかない。
……幸紀は、生死の境目を彷徨ってたからな……。
それほど大袈裟な表現でもない。生きることにのみ的を定めてやってきた幸紀の体は、きっとタイムリミットを迎えてどこかの路上に倒れていた。遅かれ早かれ、彼女は自力で生きる術を失っていた。
底なし沼に沈む寸前だったのを、広海が綱を引っ張って引きずり上げたのだ。
「……そんなこと言うなよ。こうやって、幸紀は生きてるだろ。死んでるんじゃない、生きてる」
過去を振り返ったとて、幸紀には思い出したくない地雷がたくさん埋まっている。掘り当てて爆発させても、気分はますます落ち込んでいくだけ。いいことはなにもない。
彼女は、生きているのだ。何処をどう言う風に通ってきたにせよ、広海と一緒に街を散歩できるくらいには日常を取り戻しているのである。
「想像してみてくれ。まだ何も決まっては無いけど、高校生活が待ってるんだろ? 部活動、入って頑張るんだろ? もっと人生を楽しみたいんだろ?」
幸紀を奮い立たせられそうな言葉を、思いつく限り挙げた。
何も、悲しい思い出を脳内再生して感傷にふけるためにこの場にきたのではないだろう。ただ広海と会った場所だと、記念として訪れたつもりだったのだろう。
それでも、悲哀が爆発してしまうのだ。幸紀にトラウマを根深く生やしているホームレス生活は、除草剤を撒いても除去しきるのは難しい。
……それなら、俺が。
幸紀が自分でどうにかできないのなら、広海が川に流して忘れさせてやる。良い方向に二人で歩み、二度と彼女が過去を思い出さないようにさせてやる。
「……広海、ありがとう……」
いつの間にか、幸紀が広海の太ももにうずくまっていた。遮ることなく透明な涙を垂れ流しているらしく、ズボン越しでもヒンヤリさが伝わって来た。
……これしたら、幸紀、嫌がるかな……?
親しい間柄しか、やってはいけないこと。それを、幸紀にしてもいいのだろうか。同性ならまだしも、異性に。
もう、よく分からなくなっていた。幸紀はただの拾った女の子のはずなのだが、付き合っている彼女が弱みを見せてくれたような、辛い出来事があった子供が泣きついているような。
……幸紀を、もっと楽にしてやりたいな。
「……嫌だったら、ごめんな……」
フリフリと揺れる幸紀の後ろ髪を見て、泣き続けている彼女を見て、勝手に手が動き出していた。
広海は頭頂部に手を置き、それを重力に沿って先端へと撫でていく。一部逆立っていた髪の毛も、広海の手に馴染んでいくようにおとなしくなっていく。
幸紀の頭が動かなくなった。広海が頭をなでているのが不快なのか、それともじっと感じているのか。
「……広海、女の子にそんなことして、いいの?」
内心、ドキっとした。授業中に晒上げで分からない問題の答えを執拗に聞かれ続けているような感覚になった。
この問いにも、答えはない。肯定すれば常識のない人だと拒否されてしまうかもしれず、かといって否定すれば広海の行動と矛盾する。
……俺が思ったことを、そのまま伝えるだけだ。
誠心誠意だったからと言って、本人が嫌がっているなら苦手な人認定されてしまうかもしれない。が、それはいい加減にする理由にはならない。
「……幸紀がずっと泣きついてるのを見てると、小さい子を見てるみたいでつい……」
娘がわんわんわめいて帰ってきたとしたら、父親はどう対処するだろうか。幼稚園に通うくらいの幼い子ならば、頭をなでなでして機嫌を直してもらおうとするはずである。
……初めて見た時、幸紀とそういった小さい子の姿が被ったんだ。
今の幸紀とズタボロになっていた幸紀が同じとは言わない。でも、元は拾って来た子だったのである。
「……うん、許す! ……もうちょっと、しててほしいな……」
威厳を付けようと命令したのが気になったか、口調が数段階ほど緩くなった。
幸紀からのお墨付きも得て、今度は遠慮せず、しかし強すぎず、もつれている髪の毛をほどいていく。散髪したての髪には細かな残骸が付着していて、手にもまとわりついた。
「……家に帰ったら、シャワー浴びてな」
「……一緒に入るつもり?」
「そんなわけないだろ。切った髪の毛がまだついてるから、落としてこいってことだよ」
確か、幸紀が渡されていたお金はシャンプーも込みでの金額だったはずだが。おそらく、『家でできる事にお金を払う必要はない』と断ってきたのだろう。お金を節約しようとするクセも、困りものである。
……遠慮なく使えばいいのに。
使うところではきっちりとお金を使えるように、常識をまた身に着けてもらいたいものだ。
「……うん、うん。これからのこと考えてたら、バカらしくなっちゃった。何で終わったことばかり考えてたんだろう、って」
広海に優しくマッサージされ、落ち着いてきたようであった。
経験と言うものは、毒にも宝にもなる。記憶の片隅に保存してあった宝の地図の欠片から、ノーベル賞級の発明が出てくるかもしれないが、蓋をしてあった脅迫の記憶を思い起こして悪夢にさいなまれることもある。
宝となるものはもちろん良いのだが、毒になるものは厄介だ。
水銀や青酸カリと言ったような化学的な毒物は、近くから取り除いてしまえばそれで終わりだ。遠隔操作で対象者を死に至らしめることなどできない。
ところが、過去の記憶はそういう訳にも行かない。本人の脳にしまってあるものは、他者が取り出せるものでは無いのである。パソコンの記憶装置のように、初期化すれば解決するといったことも無い。
……前を向いて生きていくしか、忘れ去る方法はないんだから。
短時間での対処法は無くても、時が経てば数多の出来事が上に積み重なっていき、やがて悲劇も見えなくなる。それまでの辛抱だ。
「……広海、もう起きる。……通りがかりの人の目線が突き刺さって、気まずいよ……」
すっかり泣き止んだ幸紀は、辺りをキョロキョロして広海にアピールしてきた。
クリスマスの日、彼女が広海に倒れ込んだ時。広海はそれどころではなかったが、遠目から見ていれば女の子が大好きな男の子に身を預けたようにも映っただろう。服装に目を瞑れば、カップル成立である。
あの日は、幸紀が目線を気にすることなど無かった。ふらつく体と朦朧とする意識で、他者からの客観的な評価にまで思考が回っていなかった。生と死の瀬戸際まで追い詰められて、そんなことを考える余裕などなかったのだ。
……どんどん、成長していってる。いや、本来人間に有るべき感情を取り戻してる、のかな。
喜怒哀楽は、人間に備わった基本四感情である。喜と楽の境界線があいまいで線引きが難しいのはさておき、どれか一つでも欠如してしまうと途端に目の前から色が消え失せる。目標を達成しても充実感を感じず、友達がいなくなっても哀愁を覚えない。
そんな人生で良いのならばそれでも構わないが、人は皆価値のない生き方を選びたくはない。貧乏でも恵まれなくても、人間らしく生きていきたいのだ。
……生きることに必死になって、すべての感情をそぎ落とした結果が、あの無感情さだった。
遠くから見掛けた時の幸紀は、灰色に埋もれていた。混み合う通りの中に、空気のように溶け込んでしまっていた。その姿は、石ころ同然だった。
今になって言える事だが、幸紀は会話強者だ。巧みに相手の言質を引き出し、またある時は悪ふざけに乗っかってくる。ペン派遣よりも強いと言うが、彼女の言葉は魔法と言っても差し支えない。
そのような魔術の使い手が、完璧に魔法の使用を封じられていた。感情の全てを捨てるということは、惰性で今日を生きるという事なのだ。
「……これで手を繋いだら、お似合いのカップルだね? やってみる?」
「冗談もたいがいにしなさいな。また『つられた?』とか罠張ってそうだから遠慮しとく」
「……何回も同じ手は通用しないかー」
幸紀は、広海を学習しない猿か他の動物とでも思っているのだろうか。
……お得意の台詞が飛び出すということは、もう大丈夫そうだな。
精神ダメージに意気消沈していた幸紀は、どこにもいなかった。
「……時間も時間だから、そろそろ家に帰るぞー!」
太陽が空高く昇っている。十二月は流石に高度も低く日差しも弱いが、腐っても太陽だ。直射日光を受けていると、ほのかな暖かみを感じる。
「よーし! 一番ホームから、弾丸ライナー幸紀二号が発車します。閉まる扉にご注意くださーい!」
「……特急列車、好きだな……」
鉄道が好きで模型を手に遊んでいた少女時代でも送っていたのだろうか。あと、弾丸ライナーは野球用語である。
「……ごめん、道どこか忘れた」
「えっ……。……この列車は、行先を広海に……」
「ウソだよ」
何か聞こえたような気がするが、とことん無視しておく。問い詰めてものらりくらりと躱されるであろうし、逆質問されると答えに詰まる。
先導車である広海を先頭にして、二台の列車は一路広海の家を目指すことになったのであった。
広海たちは、名もなき通りを縦走していた。街の西から東へ、北から南へ、どんどん広海の家から離れていっているところだ。
運転手の幸紀は、どこまでも自分の足を運べるのが新鮮でならないらしい。足どりも軽そうだ。
……自由に移動もできなかったんだもんな。
自転車や自動車、鉄道などの文明の利器が発達したこの現代社会である。歩いてどこかへ向かうというのは、近所のスーパーやショッピングモール、遠くても三キロほどであろうか。それ以上の距離を徒歩で行くというのは、少なくなった。
広海も、遠出するときには必ずと言っていいほど自転車を使う。それも都道府県を横断するような遠距離にまでは出向いて行かない。徒歩など、半径二キロが行動限界だった。
幸紀の中学時代は想像するしかないのだが、広海とそう変わらないと仮定するとやはり歩く頻度はそう多くは無かったはずだ。
では、氷河期の幸紀はどうか。選択できる移動手段が徒歩しか無いのだから自然と歩数が増えるところまでは絵に描けるのだが、その先はどうなっていくだろうか。
広海は、長時間幸紀が歩いていたとは思わない。炊き出しが一か所だったという証言と照らし合わせると、広海と大して移動距離は変わらなかったのではないだろうか。
……好き勝手に歩けるだけで、幸紀には嬉しいんだろうな。
思わぬことが、幸紀には宝物のように見えていることだろう。
幸紀が、突然立ち止まった。
「……広海、ここ、私も来たことある」
そう彼女が指差す先は、とあるレンタルビデオ店の看板だった。
「……よく、覚えてるな」
「それは、場所を覚えないと生きていけなかったし」
常人がこの一文を言う事は、一生かかってもないだろう。
それから、幸紀から一切の音が漏れなくなった。警笛も、進行方向も、車内放送も消えたのである。彼女は、まるで何かに引っ張られているかのように道と言う道を進んでいった。
……幸紀は、どこに向かってるんだ?
広海が住んでいる街に、幸紀は外れしか進入したことが無い。道を知っている地域となると、ある特定の場所に限られる。
「……ここ、だったよね」
そしてまた、広場までやってきた幸紀が歩みを止めた。
「……そうだな」
この広場には、広海もよく見覚えがあった。正面に飾り付けてある公共のイルミネーション、中央にある噴水と囲むようになっている石垣。全て、変わっていない。
……俺が、クリスマスイブの夜に幸紀と出会った場所だ。
全ての始まりの地が、この広場だった。ここで家出中だった広海は絶望しかけていたホームレスの女の子と出会い、会話をし、思いを吐き出しあったのだ。
「……また、一緒に座ろう?」
幸紀が、石垣へと広海を誘う。腕をしきりに引っ張って、催促してきた。
無言でうなずいた広海は、幸紀に連れられるがままに石垣へと腰を乗せた。
「……こうやって、私が下の方を向いて座ってたんだよね」
あの日の再現と言わんばかりに、両脚を揃えてコンパクトに縮こまった。寒さを耐え凌ぐために、身を寄せて保温しようとしていたのがよく分かる。
……今は昼間だからまだ暖かいけど、幸紀は二十四時間外気に触れ続けてたってことだからな……。
暖房の効いた部屋から外へ出た時の冷たさなら、扉を閉めれば元に戻る。しかし、外には風は防げても寒気まで防止できる場所がない。公衆トイレは一見良さそう見えるが、不特定多数が出入りするため犯罪の危険も付きまとう。単身で長時間滞在するには向いていない。
「そこに、広海が座って……、私が咄嗟に腕をつかんだんだっけ」
溺れている人が流木につかまる時よりずっと優しく、広海の腕がふにゃふにゃのカイロに巻かれた。落ちた肉はそう簡単には戻らないことを、やや薄い幸紀の手が示している。
「あれさ、何でつかんだかは話してなかったよね? あれは、もう限界だったから。一人で頑張ってくのが、もう嫌だって思ったから」
広海はクリスマスイブの夜、幸紀のとなりへと身を寄せ、コミュニケーションを取らんと話しかけた。そのことが、彼女には久しぶりの事だったのだろう。
……一人で頑張って、それでも状況は全く良くならなくて。決壊しそうだったんだな。
たった一人でも、お金が稼げて希望が見えるならいくらでも体は動く。どうしようもなくても、仲間がいれば励まし合える。幸紀は、そのどちらも持っていなかった。
「……変な言い方になっちゃうけど、私が食べ残しを求めてここに来なかったら。広海がケンカで家を飛び出してくれなかったら……」
そこで、声が完全に崩れた。吐く息ばかりで、声になっていなかった。
幸紀の目から、恋愛映画を見て出るのとはまた違った雫が目尻を赤く染めていた。
もしもの世界が存在したとするのならば、そこはどのような世界なのだろうか。広海がケンカをしなかった世界、幸紀が炊き出しの場所周辺でじっと体を固めていた世界……。ありえた未来は、無限大にある。
そして、それらの中に広海と幸紀が映っている写真はない。大半が出会うことなくすれ違っていて、残りも広海から避けて会話にすら行きつかない。
……幸紀は、生死の境目を彷徨ってたからな……。
それほど大袈裟な表現でもない。生きることにのみ的を定めてやってきた幸紀の体は、きっとタイムリミットを迎えてどこかの路上に倒れていた。遅かれ早かれ、彼女は自力で生きる術を失っていた。
底なし沼に沈む寸前だったのを、広海が綱を引っ張って引きずり上げたのだ。
「……そんなこと言うなよ。こうやって、幸紀は生きてるだろ。死んでるんじゃない、生きてる」
過去を振り返ったとて、幸紀には思い出したくない地雷がたくさん埋まっている。掘り当てて爆発させても、気分はますます落ち込んでいくだけ。いいことはなにもない。
彼女は、生きているのだ。何処をどう言う風に通ってきたにせよ、広海と一緒に街を散歩できるくらいには日常を取り戻しているのである。
「想像してみてくれ。まだ何も決まっては無いけど、高校生活が待ってるんだろ? 部活動、入って頑張るんだろ? もっと人生を楽しみたいんだろ?」
幸紀を奮い立たせられそうな言葉を、思いつく限り挙げた。
何も、悲しい思い出を脳内再生して感傷にふけるためにこの場にきたのではないだろう。ただ広海と会った場所だと、記念として訪れたつもりだったのだろう。
それでも、悲哀が爆発してしまうのだ。幸紀にトラウマを根深く生やしているホームレス生活は、除草剤を撒いても除去しきるのは難しい。
……それなら、俺が。
幸紀が自分でどうにかできないのなら、広海が川に流して忘れさせてやる。良い方向に二人で歩み、二度と彼女が過去を思い出さないようにさせてやる。
「……広海、ありがとう……」
いつの間にか、幸紀が広海の太ももにうずくまっていた。遮ることなく透明な涙を垂れ流しているらしく、ズボン越しでもヒンヤリさが伝わって来た。
……これしたら、幸紀、嫌がるかな……?
親しい間柄しか、やってはいけないこと。それを、幸紀にしてもいいのだろうか。同性ならまだしも、異性に。
もう、よく分からなくなっていた。幸紀はただの拾った女の子のはずなのだが、付き合っている彼女が弱みを見せてくれたような、辛い出来事があった子供が泣きついているような。
……幸紀を、もっと楽にしてやりたいな。
「……嫌だったら、ごめんな……」
フリフリと揺れる幸紀の後ろ髪を見て、泣き続けている彼女を見て、勝手に手が動き出していた。
広海は頭頂部に手を置き、それを重力に沿って先端へと撫でていく。一部逆立っていた髪の毛も、広海の手に馴染んでいくようにおとなしくなっていく。
幸紀の頭が動かなくなった。広海が頭をなでているのが不快なのか、それともじっと感じているのか。
「……広海、女の子にそんなことして、いいの?」
内心、ドキっとした。授業中に晒上げで分からない問題の答えを執拗に聞かれ続けているような感覚になった。
この問いにも、答えはない。肯定すれば常識のない人だと拒否されてしまうかもしれず、かといって否定すれば広海の行動と矛盾する。
……俺が思ったことを、そのまま伝えるだけだ。
誠心誠意だったからと言って、本人が嫌がっているなら苦手な人認定されてしまうかもしれない。が、それはいい加減にする理由にはならない。
「……幸紀がずっと泣きついてるのを見てると、小さい子を見てるみたいでつい……」
娘がわんわんわめいて帰ってきたとしたら、父親はどう対処するだろうか。幼稚園に通うくらいの幼い子ならば、頭をなでなでして機嫌を直してもらおうとするはずである。
……初めて見た時、幸紀とそういった小さい子の姿が被ったんだ。
今の幸紀とズタボロになっていた幸紀が同じとは言わない。でも、元は拾って来た子だったのである。
「……うん、許す! ……もうちょっと、しててほしいな……」
威厳を付けようと命令したのが気になったか、口調が数段階ほど緩くなった。
幸紀からのお墨付きも得て、今度は遠慮せず、しかし強すぎず、もつれている髪の毛をほどいていく。散髪したての髪には細かな残骸が付着していて、手にもまとわりついた。
「……家に帰ったら、シャワー浴びてな」
「……一緒に入るつもり?」
「そんなわけないだろ。切った髪の毛がまだついてるから、落としてこいってことだよ」
確か、幸紀が渡されていたお金はシャンプーも込みでの金額だったはずだが。おそらく、『家でできる事にお金を払う必要はない』と断ってきたのだろう。お金を節約しようとするクセも、困りものである。
……遠慮なく使えばいいのに。
使うところではきっちりとお金を使えるように、常識をまた身に着けてもらいたいものだ。
「……うん、うん。これからのこと考えてたら、バカらしくなっちゃった。何で終わったことばかり考えてたんだろう、って」
広海に優しくマッサージされ、落ち着いてきたようであった。
経験と言うものは、毒にも宝にもなる。記憶の片隅に保存してあった宝の地図の欠片から、ノーベル賞級の発明が出てくるかもしれないが、蓋をしてあった脅迫の記憶を思い起こして悪夢にさいなまれることもある。
宝となるものはもちろん良いのだが、毒になるものは厄介だ。
水銀や青酸カリと言ったような化学的な毒物は、近くから取り除いてしまえばそれで終わりだ。遠隔操作で対象者を死に至らしめることなどできない。
ところが、過去の記憶はそういう訳にも行かない。本人の脳にしまってあるものは、他者が取り出せるものでは無いのである。パソコンの記憶装置のように、初期化すれば解決するといったことも無い。
……前を向いて生きていくしか、忘れ去る方法はないんだから。
短時間での対処法は無くても、時が経てば数多の出来事が上に積み重なっていき、やがて悲劇も見えなくなる。それまでの辛抱だ。
「……広海、もう起きる。……通りがかりの人の目線が突き刺さって、気まずいよ……」
すっかり泣き止んだ幸紀は、辺りをキョロキョロして広海にアピールしてきた。
クリスマスの日、彼女が広海に倒れ込んだ時。広海はそれどころではなかったが、遠目から見ていれば女の子が大好きな男の子に身を預けたようにも映っただろう。服装に目を瞑れば、カップル成立である。
あの日は、幸紀が目線を気にすることなど無かった。ふらつく体と朦朧とする意識で、他者からの客観的な評価にまで思考が回っていなかった。生と死の瀬戸際まで追い詰められて、そんなことを考える余裕などなかったのだ。
……どんどん、成長していってる。いや、本来人間に有るべき感情を取り戻してる、のかな。
喜怒哀楽は、人間に備わった基本四感情である。喜と楽の境界線があいまいで線引きが難しいのはさておき、どれか一つでも欠如してしまうと途端に目の前から色が消え失せる。目標を達成しても充実感を感じず、友達がいなくなっても哀愁を覚えない。
そんな人生で良いのならばそれでも構わないが、人は皆価値のない生き方を選びたくはない。貧乏でも恵まれなくても、人間らしく生きていきたいのだ。
……生きることに必死になって、すべての感情をそぎ落とした結果が、あの無感情さだった。
遠くから見掛けた時の幸紀は、灰色に埋もれていた。混み合う通りの中に、空気のように溶け込んでしまっていた。その姿は、石ころ同然だった。
今になって言える事だが、幸紀は会話強者だ。巧みに相手の言質を引き出し、またある時は悪ふざけに乗っかってくる。ペン派遣よりも強いと言うが、彼女の言葉は魔法と言っても差し支えない。
そのような魔術の使い手が、完璧に魔法の使用を封じられていた。感情の全てを捨てるということは、惰性で今日を生きるという事なのだ。
「……これで手を繋いだら、お似合いのカップルだね? やってみる?」
「冗談もたいがいにしなさいな。また『つられた?』とか罠張ってそうだから遠慮しとく」
「……何回も同じ手は通用しないかー」
幸紀は、広海を学習しない猿か他の動物とでも思っているのだろうか。
……お得意の台詞が飛び出すということは、もう大丈夫そうだな。
精神ダメージに意気消沈していた幸紀は、どこにもいなかった。
「……時間も時間だから、そろそろ家に帰るぞー!」
太陽が空高く昇っている。十二月は流石に高度も低く日差しも弱いが、腐っても太陽だ。直射日光を受けていると、ほのかな暖かみを感じる。
「よーし! 一番ホームから、弾丸ライナー幸紀二号が発車します。閉まる扉にご注意くださーい!」
「……特急列車、好きだな……」
鉄道が好きで模型を手に遊んでいた少女時代でも送っていたのだろうか。あと、弾丸ライナーは野球用語である。
「……ごめん、道どこか忘れた」
「えっ……。……この列車は、行先を広海に……」
「ウソだよ」
何か聞こえたような気がするが、とことん無視しておく。問い詰めてものらりくらりと躱されるであろうし、逆質問されると答えに詰まる。
先導車である広海を先頭にして、二台の列車は一路広海の家を目指すことになったのであった。
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