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四節 高校に行けることになりました。

012 こうして幸紀は、家族になった。

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 年も越し、受験シーズンを控える学生たちにとって地獄の期間が幕を開ける一月となった。高校生なら共通テスト、中学生ならば私立入試だ。

 広海の家族は、実家へと帰省していた。ここ東京都と違ってあちらこちらに雪が積もり、非日常を味わせてくれた。平地にてんこ盛りの雪が微動だにしていない姿は、チラチラ粉雪が降って来ただけで話題をかっさらっていく地域とかけ離れていた。

 その『広海の家族』に、幸紀は入っていなかった。父親に見つからないようにするため、断腸の思いで同伴させなかったのだ。

 年越しそばを食べている時も、正月の特別番組を見ている時も、家に残してきた幸紀のことが頭にちらついて離れなかった。もぬけの殻になっていたらと思うと気が気ではなく、夜も眠れなかったのだ。

「幸紀、起きてるかー?」

 幸紀と出会い、家に住まわせ、二人で一日を共にする……。全て、一週間での出来事だった。これほどまで濃密な時間は、二度と現れないのではないだろうか。

 そんな出来事満載だった冬休みも、もう最終日。今日一日が終われば、また学校生活が再会するのだ。長期休暇の末というものは体が動かない学生も多く、事実広海も夏休みはそうであった。

 しかし、今回に限ってはステップを踏むくらい全身が軽い。寝起きのだるさも吹き飛ぶほど、気分が良いのである。

 物置兼幸紀の部屋となっている和室の扉が音を立てて勢いよく開くと、当たり前のように人の気配はなかった。

 それはそうだ。父親に見つかれば警察に突き出される可能性の高い幸紀は、押し入れで寝泊まりをしているのだから。

 ……帰省してる間、幸紀は何をしてすごしてたんだろうか。

 家が無人となる期間、家の中に閉じ込められていた幸紀は何を思っていたのだろうか。帰宅時に聞いては見たのだが、行動を一切話してくれなかったのだ。

『……ひーみーつ! 広海が困るようなことはしてないから、安心して?』

 そう頭を傾けて微笑みかけられても、幸紀の事だからいたずらを仕組んでいるかもしれないと部屋をくまなく捜索した広海。荒らされた形跡は無く、そこでようやく彼女の言葉が本物だと信じた。

 ……独りなのは、寂しかっただろうに……。

 家から出て運動すれば気分転換にでもなっただろうが、帰省中のはずの家から人が出てきたとなれば、空き巣か泥棒かと間違われかねない。

 幸紀は、家の中で一日中暮らすよりなかったのである。

 彼女が悪女という部類に入る皮を被ったバケモノでなければ、用意されていたインスタントラーメンをすすりながらテレビを見ているだけの生活というのは虚無感があっただろう。

他から人がいることを悟られてはならない以上、電気すらも付けられない。風呂は、明るいうちに入ってしまうしかない。日が落ちれば、寝るだけ。一昔前に戻ったような生活様式だ。

「……広海、おはよう」

 水色のモコモコした冬仕様のパジャマにくるまれた幸紀が、押し入れの下段から姿を現した。目は冴えていて、社会の理不尽さを何も知らない幼稚園児のような純真で透明だ。

「……思ったんだけどさ、いつぐらいに起きてる?」

 押し入れの中に時計がついているという事は無い。が、少なくとも寝坊常連の広海よりは早くに起きている。

「……えーっと、広海が呼んでくれる一時間くらい前かな?」

 かなり早いように思えるが、広海の起床時間が後ろの方へずれ込んでいるだけである。

 ……ヒマじゃないのかな……?

 一時間もの間、なにをしているのだろう。窮屈な長方形の空間で出来ることは、かなり制限されるはずなのだが。

 広海の疑問に応えるかのように、幸紀が再度口を開いた。

「それで、広海が起きてくるまでの間はずっと考え事してる。小説家に負けないくらい、物語を考えてる」

 幸紀の世界観で書かれた、奇想天外な小説。一刻も早く執筆してもらって、書籍を読んでみたいものだ。

「……それより、そんな大声出したら下にバレちゃうよ……?」

 ……まあ、それは心配になるよな……。

 広海の大声で不審に思われるという心配も、もっともだ。何せ、物置に用事が無いはずの広海が独り言の声量ではない音量で何かを呼んでいるのである。

 それだけならば気づかれないかもしれないが、間の悪い事に幸紀を住まわせてもいいようにと父親を説得している最中なのである。

 断片的な出来事だけだと確定できないが、つなぎ合わせると一枚の絵が完成してしまう。そうなれば、この生活は終わりだ。

「……そうだな。昨日までは」
「……え?」

 何を言っているのか分からないらしく、幸紀はきょとんとしてしまった。

 ……いいニュースと悪いニュース、どっちが届くかは俺次第だった。

 『父親を説得している』とは言ったが、実際のところは聞く耳を持たない父親に対して広海が一方的にベラベラとしゃべっているだけである。

 真剣度を感じさせなければ、いずれ限界が来る。今は休み期間であるため何とかなっているが、隠遁生活は長くなれば長くなるほどアクシデントの発生率が高まっていく。ふとしたことから、幸紀がここにいられなくなってしまうかもしれないのだ。

「……もう、こんなに狭いところで過ごさなくてもよくなったんだ」
「……」

 期待半分、不安半分といった沈黙だろうか。

 幸紀の立場に立って、広海の発言には二通りの解釈の仕方がある。

 一つは、『説得が成功して正式に住みつけるようになった』という可能性。広海が必死になっていた努力が実って、幸紀が食卓につけるようになった世界。拘束からの解放は、彼女も望んでいたことだろう。

 もう一つは、『家に置けなくなったから自立してくれ』という可能性。家計が圧迫され、これ以上の継続支援は不可能と判断されれば、追い出されるのもおかしな話ではない。

 ……安心してくれ、幸紀。悪い方向に転んだんじゃない。

 広海は、元々彼女を救うつもりで家に連れてきた。その目標が達成されるまでは、何としてでも彼女のそばにいなければならない。

「幸紀がいてもいいって、ついに折れてくれたよ」

 それを聞いた瞬間、幸紀の時間が停止したようにすべてが凍った。続いて、みるみるうちに彼女の目へと涙が溜まっていった。

「……!」

 うるうるした目でこちらを見られると、広海まで涙が出てきてしまいそうだ。それくらい、嬉し涙は美しい。

 ……頑張ったのは俺だけど、ここまでこれたのは幸紀のおかげでもあるんだから。

 交渉が成立したのは広海が動いたからで、その功績は広海に帰依する。が、その広海を陰で支えてきたのは誰だっただろうか。自己主張をほとんど行わない広海をやる気にさせたのは、誰の切なる願いが心を動かしたからだっただろうか。

「……私のために、そんなにしてくれて……」

 幸紀は、泣き崩れていた。熱い滴が、畳にまで落ちていた。灼熱になった目尻を、両手で押さえていた。

 ……人を喜ばせるのって、こんなにも温まるものなんだな……。

 エンターテイナーや小説家は、対象となる客を喜ばせることに特化した職業だ。批判を受けることも多く、下手をすると全く稼げずにひっそりと姿を消していく。

 そんな人生を全否定していたのは、損得勘定でしか行動していなかった広海だ。『人を喜ばせて、何になるんだ』と、その意義をまるで分かろうとしなかった。

 ……でも、俺の目の前には喜んで泣いてくれてる人がいる。

 幸紀は、自分が住めることになったことだけに歓喜しているわけではないだろう。きっと、広海がこの世界を手に入れるべく根気よく説得し続けたという経緯への感謝も含まれている。

「……肩、貸そうか?」
「うん……」

 立てなさそうだったので肩を貸すと、途端に瞬間接着剤かのように貼り付いてきた。しくしくと微笑みながら涙を流している幸紀は、演技にはとても見えなかった。

「……幸紀、泣きたい気持ちも分かるけど、また続きがあるんだ」
「……なに?」

 広海に寄りかかったまま、耳の後ろからそうかすれた声が聞こえた。

 ……幸紀がここにいられるようになったってこともそうだけど、それで終わりじゃない。

 彼女の人生は、まだ序の口である。今からでも、やり直しは十分に効く。

「……条件付きだけど、高校にも行っていいらしい」

 いつか幸紀が語っていた夢物語は、現実となって帰ってきたのだ。

 ……幸紀は、もっと勉強をして恩返しがしたい、って言ってたよな。部活に入りたい、って言ってたよな。

 行くことが無いと思っていた高校に行ける。これがどのような感情を巻き起こすのかは容易に想像できる。

広海は高校に行けない状態になったことがないので実感しずらいが、少なくとも恵まれた家庭で育った子が思うような高校とは全く違った目で見ているはずである。

「……条件って?」

 恐る恐る、尋ねてくる。どこか違法な店に売り飛ばされるとでも思っているのだろうか。

「……週に何回かアルバイトだってよ。『流石に学費を全部は賄えない』って」

 決して大富豪のように一万円札を道端にばらまけるほどの財力はない。一般の家庭と同じ、やりくりして生活している。そこへ高校生が一人増えると、驚くほど負担になる。

 高校の学費は、バカにならない。奨学金の募集期限が過ぎてしまっているので、これから三月までの間はアルバイトで僅かでも補填してくれということである。

 それに加えて、食費もかかる。女子でも運動部で育ち盛りだと相当の量を消費することになる。これらも奨学金が支給されるまで空白期間は幸紀自身が稼がなくてはならないということだ。

 ……『無理しない範囲でいい』とは言っていたけど。

 幸紀をこの家に連れてきたのは広海だ。快くとは行かないがそれを承諾し、更には高校へ通う準備までしてくれた両親には感謝の念しかない。

「……もちろん、するつもりだよ? おんぶだっこだと悪いし」

 言われなくても働きそうな様子である。

「それで、幸紀が言ってた高校から許可を取ってきたわけだけども……」

 見えない位置に隠していたアルバイト許可証を手に持ち、見せびらかすようにひらひらさせた。

『本校生徒 宮形幸紀 のアルバイトを許可する』

 捏造などではない、れっきとした本物の許可証だ。本人が居なくても保護者が直訴しに行けば良い方式だったので、幸紀へのサプライズとして水面下で進行することができたのだ。

 ……ただの不登校で済まされてたみたいだったしな。

 学校に来ない、連絡も通じない、保護者も来校しない……。この状態の生徒をよく退学処分としなかったものだ。規則で出来ないようになっているのかもしれないが、詳しいことは知らない。

「……行けるんだ……、高校に行けるんだ……」

 幸紀の緊張が解けたかと思うと、バタリと六畳間の上に仰向けになって倒れた。布団に飛び込むようになっていたが、弾力性のおかげで打撲はしていないようだ。

「……でもでも、教科書も制服も、何も持ってないよ……?」

 そうなのである。ノートくらいは広海と共通で使用していけば良いのだが、教科書は分身出来ない。ICTを活用した授業などでタブレットを使う高校も多い中、幸紀が通う高校は今まで通りのアナログ式だ。デジタル教科書も使えない。

 ……教科書、高いんだよなぁ……。

 中学校までは義務教育なので税金から教科書代が出されていたが、高校となるとそうもいかなくなる。ワークも参考書もテキストも、自費で負担しなくてはならなくなるのだ。

「……教科書代も頑張るから……」
「その必要はないんだ」

 幸紀をこのまま放っておくと、フルでバイトを入れて過労死してしまう。そう危惧させるほど、やる気に満ち溢れていた。

「……幸紀が入るはずだった高校、俺が通ってるとこなんだよ」

 彼女から高校名を聞き出したときはまさかと思ったが、本当だった。黙っていたのは、今日のためである。

 同じ学校に通うならば、教科書は広海のものをコピーすればそれでいい。基本的に著作物のコピーは禁じられている場合が多いが、教育用ならば大丈夫……のはずだ。

「……制服は? 男子と女子で違うよね?」
「卒業した先輩がリサイクルに出した制服が残ってたから、昨日もらってきた」

 幸紀は気付かなかったようだが、この和室の後ろのハンガーにかかっている紺色の上下が、広海の通う高校の女子用制服である。夏冬両方は集まらなかったが、うちわと冷房で酷暑は乗り切っていただきたい。

「スカートだ……。履くの、久しぶりだなぁ……」

 やっと筋肉に力が入るようになって起き上がって来た幸紀。ハンガーからスカートを外し、いろいろと観察し始めた。

 スカートは、防寒に向かない。仮にサバイバルでスカートか長ズボンかを選べと強制されたとすれば、長ズボンを選ぶ。

 ……幸紀のスカート……。

 ズボン姿しか見たことがない。理想の人のイメージ像に、幸紀がどんどん近づいていくような感じがした。

「……それじゃあ、明日は……」
「一緒に行こうな」

 無意識に、幸紀へと手が伸びた。

 ……何してるんだよ、自分らしくない。

 広海の当初の目標は、既に達成された。特急幸紀は軌道に乗り、車体は安定した。もう思い残すことはないはずだ。

 それなのに、また手を繋ごうとしている。

「うん!」

 幸紀の右手が、広海の差し出した手をしっかりと握った。もうすっかり健康体になった彼女の体温が、しみじみと血流に乗って伝わってくる。

 ……俺は、幸紀をどうしたいんだ……?

 保護するという名目は、もう消えている。同情だけで幸紀を拾ってここまできたのならば、後は自力で道を歩いて行ってくれと願うだけでいいのだ。

 ……幸紀は、俺を変えてくれたんだ。

 ふさぎ込みがちで、一晩考えた渾身のギャグは大滑りし、大きなイベントではいつも応援側に周ってばかり。典型的な陰キャとも言えた広海は、一時の偽善でホームレスの少女を助けたいと思った。

 もうボロボロになっていたその少女、幸紀は広海を信じて頼った。もうそうするしかなかった事情を加味しても、広海に全てを委ねられると思ったからだろう。

 これまでの人生で、一度でも人に頼られたことがあっただろうか。暗かった広海の視界に、まばゆい光が差し込んだような気がしたのだ。

「もうすぐ朝ごはんだから、下に降りるか?」
「そうだね。広海のお父さんにも、土下座しないといけないし」

 日本が誇る最上級の感謝が土下座だと思っていそうだ。このどことなくズレているような雰囲気の幸紀は、全く憎めない。

「……明日、楽しみ……」

 ……俺もだよ。幸紀が居るから、今日は一番苦しい日のはずだったのに、一番楽しみの多い日に変わったんだ。

 兄弟姉妹のようにじゃれ合っている二人は、階段を下って食卓の方へと向かって行った。
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