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沙南無とあいつ

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「一人で大丈夫?」

ママの声を背中で聞きながら、沙南無は小鼻膨らませてぷいっと胸を張った。

「だいじょうぶっ!」

蔵へはじっちゃんと何度か入った事がある。中はちゃんと整理整頓されていて
掃除も行き届いていて小奇麗で沙南無にはそれほど怖いといったイメージはなかった。
ただ一人で土蔵に入るのは初めてだったしあの人形の存在も知っていた。だから不安や心細さはそれなりにあったけど、夕方とはいえまだ陽は落ちていないし辺りはまだ仄明るい。天窓からは光が入るし暗くなるまでに事を済ませて出てくれば問題もないはずだった。

何より今日は私がヒロイン、そんな気持ちが沙南無を高揚させていた。
沙羅柁が生まれてからは音羽家はずっと彼女を中心に回っていて
どこの家族でもそうであるように末っ娘への愛はとてつもなく求心力が高い。
一人娘で一心に愛情を注がれて育った沙南無にできた8歳も年下の妹。

妹が欲しい欲しいとクリスマスにサンタさんに願い込めた時があった彼女だけど生まれてみれば

お姉ちゃんでしょ
沙南無にとってのそのパワーワードは後々トラウマになる程におもくのしかかった
沙羅陀のお姉ちゃんとしての沙南無の立ち位置。
まだ小学生の彼女にとって何をどうすればお姉ちゃんらしい自分になれるのか
日々の暮らしの中でそんなこんなを手探りしながら生きてる沙南無がいたのかもしれない



聖徳太子♪、知恵のお守りこれより出ます♪
  常は出ません今晩かぎり
  ご信心のおん方さまは
  受けてお帰りなされましょう
  蝋燭一丁,献じられましょう♪


口から出た言葉は祇園祭の為に毎年歌ってる京のわらべうた
沙奈無にとっては何にでも効く全知全能の神さんの万能のおまじないのように
思っていたんだろうか。


何でもいいから何か声に出しておきたい、
不安と期待が入り混じった今の気持を沈めるには神様に届く声が何か必要だったんだろう。

手を振り首を振って傍目にはルンルンした風で沙南無はわらべうたを口ずさみながら長い通り庭を奥へと進む。
調子っぱずれな音程と少しかすれて震えた声で無理してる沙南無を感じているのはきっとママだけではなかったはずだ。



※※※





土蔵の前に立つともう鍵は空いていた。
今日は朝から宴の為のお膳やら花を飾る大きな壺やら床の間に飾る掛け軸やら。客をもてなす為に欠かせないあれやこれやはみんなここにしまってあるから今日一日は錠前は外されているんだろう。
おそらく貴重で高価なものは奥の大きな金庫のなかにでもしまってあるはずだ。



外から見ると土蔵の中はそこそこ明るく見えた。天窓から取り入れた光が良い具合に降りてきてあたりにふわっとした空間が出来上がっていたから。

腰が引けていた自分が少し前向きになる。お昼だし、ガヤガヤと宴のざわつきもそんな私の弱気の虫を消してくれていた。




「もちろんあの人形のことは頭の片隅にはまだあって身構えてたはいたけど、その時はこの陽気でこのざわつきで人がいっぱいいたから、もうまさかねって思いになってたんだろうね」


すっかり頭の中にはなかったといえば嘘になるかもしれないけど
とりあえずが忘れてた。宝探しの高揚感のほうが勝ってたということなんだろうか。


ためらいもせず一歩踏み込んだ足は軽やかで履いてきたままの大きなスリッパがパタパタと大きな音を立ててた。
狙いはその時点ではバッグかお財布に変わってた。自分のじゃないママのためのやつ。卒業の日に感謝を込めてママにプレゼントを贈る。それってやっぱり何かお姉ちゃんらしくてもうその時には自分へのプレゼント探しは頭の中からすっかり消えていた。

音羽屋は骨董屋だけどブランド品もそこそこ取り扱っていて特にエルメスは亡くなったばぁばが好きだったこともあってバッグやお財布の類はエルメスは結構揃っているらしい。

あいつは目につくところにはいなかったけど、私はもうそれどころじゃなくてエルメスエルメスと頭ん中で呟きながら蔵の中をぐるぐる回って行ったり来たり。
けど中は思ったより広くて天井が高いせいで一つ一つの棚も高くてまだ背も低くて子供の私にはもうリアルメイズのアマゾンに放り込まれているのと同じで。

「そんな時、ぐるぐる回っていたらあることに気づいたの。壁に大きな黒板があるでしょ、あそこ。
確か入ったときは書いてなかったのに。なんか大きな文字が見えたのよ。何かなって見たら・・」

「見たら・・」


「エルメスなら右奥の棚の下だよって………。信じられる?」


「・・・・」


「今でも覚えてる、走り書きじゃなくて、きれいな字。女の子が書いたみたいな
今だったら絶対スマホで撮っとくだけどね」



「誰かが書いたんじゃないのん?」


「誰がよ?頭ん中で諳んじてただけのエルメスを誰が書けんのよ」


「・・・・」



あたりの気温が5度は下がったような気がした

もう春だというのに背筋がゾクッとして思わず沙羅陀は首をすくめた


「けど動いたとこを見たって・・」


「おんなじようなもんでしょ。動いたようなもん」


それは確かに言えてた。むしろ沙羅陀はこっちの方がよけいにリアルで事実として認知できたのかもしれない。
あいつが蔵の中で存在しているという事実。沙羅陀の知らないところでずっと息づいているあいつがイメージできた。



二人の会話が止まる。
遠い目に戻って高瀬川の川面に目を落とす沙奈無につられるように沙羅柁も
小さな吐息一つついて空を見上げた。
小さい頃はなにかと言えば連れ添ってじゃれ合っていた二人だけど大きくなるにつれて
その距離は少しずつ遠のいた。大人になればなるほどその世界は拡がるし姉妹の間柄なんて小さい頃の様にいかないのは当然。趣味嗜好も異なってくるしものの見方も変わってくる。それはそれで姉妹関係にはありがちの自然の流れ。ただ沙奈無の場合、大人になるスピードがあまりにも早くて高校を出て京大に入って音羽屋の家を離れてからはからは合うたびに歳が離れていくように感じた。
十代の早い頃から理屈っぽさが先に立っていたような人だったけどそれに輪がかかったように理詰めでものを考える人になってしまってしまっていた。



「ちょっと冷えてきたわね」
組んでいた足を解きながらヒップラインの際まで露出した太腿を両手で擦り沙奈無がポツリとこぼす。
時刻はもう4時、先程まで暖かかった春の陽射しも少し冷気を帯びてきたようだ。


「中に入る?」

「いい、もう帰るから。あんたも聞きたいことは聞いたでしょ」

「うん……」

「もう怖かないでしょ」

「・・・・」


「怖がるどころか、護ってくれてるんだからね。結局じっちゃんを救ったあのメールもあいつだから」


自力でメールもできるし字も書けるし人の心も読める。
そんなスーパーAIロボットでもできそうもないあいつをメルカリに売り飛ばそうとしたじっちゃんってなんだったんだろう。
まだまだ私達の知らない何かがあるのか
その事を沙奈無が知ってるかどうかは知らないけれど。


そのあとはもう沙奈無はいつもの言葉少なの彼女に戻った。
帰るんならタクシー呼ぼうかって言ったら
ふっ、タクシーなんて最近乗ったこともないわ、そう嘯いてiphoneに手をかけて
電話すると5分も経たないうちに目の前の高瀬川のほとりに誰が運転するやも分からない真っ白なレクサスが停まった。

「じゃあね、旬に会ったらよろしくね」

「えっ!?……」

「帰ってこないのよ近頃……」


そう言って車に乗り込み、帰っていった。


結局、その時の顛末はその後メールで送られてきた。
何もゲットできず顔を真っ青にして、沙奈無は履いてきたスリッパも放り出して裸足で母屋の方まで逃げ帰ってきたそうだ。

べそをかいて声が震えるて何を言ってるのかわからない沙奈無に周りはよっぽど怖かったんだろうなと言うことで話は一件落着したらしい。
そのあと落ち着いてからじっちゃんに事の次第を報告すると

「沙奈無も認知されたんやな、
けど他所さんには話さんほうがええな、それに沙羅柁もまだ子供やからもうちょっと大人になってからのほうがええやろ」

そう言って結果的には二人だけの秘密になった。
沙奈無も時が経つにつれてその当時の衝撃や印象は徐々に薄れそんな事もあったんだ程度に記憶の引き出しの奥深くに仕舞われた。

今日話してくれたのもおそらくじっちゃんとはもう相談済みのことなんだろう。
もう大人としてじっちゃんも沙奈無も私を見てくれた、そういうことにしておこうと思う。

あと私にとっての大きな収穫はあいつと向き合える手段がわかったこと。
おぼろげで得体の知れなかった人形がはっきりとした形を持って可視化できるようになったこと。不思議なものでその存在をはっきり認めたらあいつを怖がる自分はもういなくなっていた。

「いつまでもあいつではだめやんな。こんど黒板に書いて聞いてみよっか、
どんな名前がええ?って……」


気がつけば暮れなずむ高瀬川の畔が夕日を浴びて飴色に変わっていた。
木屋町を彩るぼんぼりに灯がともり、お茶屋や置屋の提灯が薄暮の中に浮かび上がっていた。
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