ロイヤル・ロード

飛龍

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第3章 - 霧とカキ

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健次が待ち合わせた場所へと現れたのは、時計の針が真夜中の零時ちょうどを差したときだった。

月のない冷気の夜、健次のポケットの中ではナイフが静かに眠っている。この金属の塊が健次の心にいくらかの安堵を与えていた。そしてもちろん、健次自身はこれを、本田や他の誰に対しても使うつもりはなかった。

ただ自分の身を守りたいだけだった。

そのカキ工場は遠くから見ると、まるで暗闇の中の正体不明の物体のように思えた。この場所に関する噂話を聞いたことがある。ヤクザが借金を払えなかった者をここへ連れてきて、ドラム缶の中にセメントで固め、海の底に沈めるとか。

そして彼らはカキの餌になるらしい。

最初の一時間が何事もなく過ぎた。レザーのジャケットを着ていても、なお身体は震え、健次はひょっとして騙されたのではと思い始めていた。

(あの野郎はきっと僕に、朝陽を見るまでここに待たせておくつもりだったんだ…)

そしてもう少しで家に帰ろうとしたとき、その足音は遠くから響いてきた。

「よお健次、悪かったな、寝坊しちまってさ。 」

秋の夜霧の中で、本田が幽霊のように現れた。そして健次に向って、まるで仲のいい友達のように手を振っている。

「なんだよ、その浮かないツラは。便秘でもしてんのか?」本田はそう言って、ニヤニヤ笑いながら健次の肩周りを腕で揺らせる。

「触るなよ…。それで僕にして欲しいことって何なんだよ?はっきり言えよ。」

「チッ…つまらなねえヤツだな。もっと明るくいこうぜ。」

「…君は僕の妹を病院送りにして、僕らは二人とも退学になった。僕らが友達になることはあり得ない。だから、さっさと済ませよう…」

「あ、…それだよ、それ。」本田が用心深げに言った。「そう来るのを待ってたんだ、健次。だからお前にこの仕事をやって欲しいと思ったわけさ。まあ、まずは倉庫の中に入ろうぜ。それから説明してやるよ。」

本田は先導して、一度は大勢の人で賑わっていたであろう、今ではただ大きくて空っぽなだけの建物の中へと入って行った。匂いだけは完全には消えていなかった。健次は空気中に藻と塩の香りを嗅いでいた。

「俺はこの倉庫の中で育ったんだ。」

本田が、苦々しげに言った。

「俺の親父がこの工場をやってたんだ。けど、俺はしゃがんでカキを割りながら一生を過ごす気には全くなれなくて、親父の跡を継がなかった。カキなんて、クソくらえだよ。親父は俺をゆりかごの中に入れて、仕事中ここの隅っこに置きっぱなしにしてたんだぜ。悪臭、ハエ、カキの殻のうるせえ音…。今でも時々悪夢に見るよ。」

本田は振り向くと健次を見た。

「本音を言えばな、俺は学校から追い出されたとき、メチャクチャいかってたんだよ、血が煮えたぎるほどにな。お前を痛めつけたり殺す方法なんて、いくらでも思い付けたね。だが結局、俺たちは同じだってわかったんだ。」

「—— それって、どういうこと? 」

「健次、この世界は腰抜けばかりだ。社会のルールに縛られて従い、道を外して職に付けなかったり、みじめな暮らしをすることを恐れてる。ざけるなってんだ、俺は恐れないぜ。そして、そんな奴がもう一人いることもわかった。だから、お前に俺と一緒にやって欲しいんだ。ほんのちょっとの勇気と信念があれば、何でも手に入るさ。」

本田はジャケットから拳銃を取り出すと、健次に渡した。健次の汗ばんだ手のひらを通して、冷たい振動が電撃のように伝わってきた。

―― 重い。

「俺たちは、この倉庫に早朝4時まで隠れている。そうすると銀行の輸送車がこの前を通る。その車には一億ぐらいの金が積んである。… ここまで言えば、お前の脳みそが米粒ほどでなけりゃ、俺が何を言ってるか、わかるだろ。」

―― 強盗。

「健次、もう後戻りはできないぜ。お前の指紋が、この拳銃のいたるところについてるんだ。これで俺といっしょに金をがっぽりいただくか、このまま可愛い妹のところに帰って、それから警察が捕まえに来るのを待つか、二つに一つだ。」

健次は体中がしびれたように、反論する術を無くしていた。本田は健次が思っていた以上に頭が切れる奴だったのだ。前もって罠を仕掛けておくなんて、普段の本田の怠慢な態度からは想像できなかった。

「で…できないよ。これは犯罪だ、本田。輸送車なら、きっと警備だって何重にもされてるはずだ。そんな大金を丸腰で運ぶはずないだろ。」

「今さら何言ってるんだよ。だから拳銃を持って来たんだろ、ナイフじゃなく。」

「————. 」

健次は拳銃を持った手を下ろし、視線は本田に向けた。

「し…正気の沙汰じゃない。君が強盗を働くのを手伝うなんて。」

健次がそういうと、風の音がカサカサと鳴った。なんとか勇気を振り絞れたものの、それはわずか数秒だけのことだった。彼はこれまで誰に対しても、こんな口の利き方をしたことはなかった。が、こんなにシビアな問題では、最初から反対するしかない。でなければ、彼の人生は地獄の中へと転落していくだろう。

「ふーむ…、それはがっかりだな。わかった、もう帰っていいぞ、健次」

「え?」

「帰っていいって言ったんだよ。ただ、拳銃は返せよ。それは親父のなんだ。 」

健次は一瞬ポカンとしてしまった。本田がこんなに簡単に自分を帰すとは、思ってもみなかったのだ。本田に拳銃を慎重に返すとき、健次の心臓はバクバクだったが、倉庫を出る頃には、どうにか落ち着いていた。

少し過ぎてから、肩越しに振り返ってみた。本田の気が変わっていないか確かめるために。ラッキーなことに、そこには霧と影があるだけだった。

(早く近くの交番に知らせに行かないと。本田は銀行強盗をするつもりなんだ。)

そう思って健次は歩を速め始め、やがて真っ暗な通りをダッシュしていた。最初から携帯電話を持ってきていればよかったと、後悔しながら。

街の片隅に何かがあることに、健次は気付かなかった。少なくとも、今になるまでは。

道は予想以上の暗闇だった。街灯や、真夜中を彩るような照明になるものも何もなかった。

(もし僕がここで殺されても、きっと誰にも気付かれないだろう…朝になるまで。)

突然の思い付きに、彼は大きな戦慄を覚えていた。そして、さらに猛ダッシュで、近くの交番を目指した。まるで死にかけた蛾が、地球上の最後の灯をもがき求めるように。

その時、一筋の光が闇を横切り、健次は一瞬、目をくらませた。

そして次の瞬間には、何かが彼を突き飛ばしていた。それはまるで、押しつぶされたボールが破裂しながら当たって、どこかへ飛ばされたような感じだった。彼の右腕は即座にしびれ…いや、右腕だけでなく身体の右半分が、もはや何のシグナルも感知しなくなっていた。まるで瞬時に石になったかのように。

彼は叫び声や泣き声、喘ぎさえ上げられなかった。衝撃で言葉を失い、そしてできるのはただ、弱々しい息の音をいくらかさせただけだった。ダメージが少しずつ体に吸収されていくのがわかった。

健次は空中で、少なくとも2回は回転していた。それから地面に激突した。

それは黒いセダンだった。そして運転席から出てきたのは、他でもない、本田だ。

健次には次に起こることがわかっていた。そもそも事が順調過ぎたのだ。

「お前には本当にがっかりさせられたよ、健次。お前の家はこの通りの反対方向のはずだよな? 」

本田はしゃがみこんで、煙草を一本取りだして火をつけた。それから手のひらを健次の首に当てた。おそらく脈を調べるためだろう。

「ふーん…、まだ生きてんのか。でも返事はしたくないわけだな。まったくもって礼儀を知らねえ、なってない下級生だったよ、ここのところ。」

本田は健次のポケットから、財布と、そしてナイフを取り出した。

「いいもん持ってるじゃねえか。」

本田がクックと笑った。

「死んだ奴に金は要らないだろ。だから、これは全部もらっとくぜ。安心しな、お前が10分以内に死ねるように、車の速度を上げておいてやったよ。もし例え誰かがお前を今すぐ見つけたって、一番近い病院まで30分はかかる。前にも同じことをしたんでな。俺はこれでもプロだからさ。 」

健次は反応するために瞬きや、指を動かそうとしてみた。だが何かできる前に、本田は立ち上がり、彼が見つけたものを、まるでトロフィーかのように振り回していた。

「それじゃあな。…お前の可愛い妹、葵がベッドで待ってる。すぐに充分な見舞いをしてやるよ。」

(この野郎、この野郎、この野郎、この野郎、この野郎、この野郎、この野郎、この野郎、この野郎、この野郎、この野郎、この野郎…)

沈黙の罵言が健次の頭の中で渦巻いた。だが、舌は動かなかった。どんなに指令を与えても、彼の身体はまったく動くことを拒否していた。

「さようなら、健次」

本田は古いセダンに乗り込むと、走り去っていった。背後に健次を、土と血の中に残したまま。

健次の意識がだんだんと遠のいていく。もはや痛みも何も感じなかった。あたかも彼の心も身体も魂も、淀んだ海底の中に沈んでいくように。

彼を取り巻く世界は、ただ真っ黒になっていった。

ただ出来るのは、妹があの野獣から逃れられるように、神に祈ることだけだった。
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