夏空 ……一夏の想いで。

Ilysiasnorm

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第3話「扉のむこう、光る声」

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昼の帳場を抜け、浴場へ向かう廊下。
瑠璃の姿を、今日はほとんど見ていなかった。

「忙しいのかもな……」

小さく独り言を呟きながら、僕はタオルの束を抱えたまま歩く。
団体客が入る前の準備に追われる午後の時間帯は、いつも静かだ。
だけどその日は、妙に胸の奥がざわついていた。

……彼女が、どこかに行ってしまったような。
そんな感覚だった。

配膳の手伝いを終えた午後の一時。
僕は足の向くまま、大広間の裏手へと歩いていた。

開かれたままの舞台袖。
薄暗い照明の奥、幕がまだ閉じられているその空間に、誰かの声が響いていた。

「……うちの男をなめたら、承知せんで!」

強い語気と、怒りをはらんだ視線。
すぐにそれが、瑠璃の声だと気づいた。

だけど……その声は、僕が知っている“彼女”とは、まるで違っていた。

小柄な身体を大きく使い、立ち姿も所作も、堂々としていて。
ただのセリフ回しじゃなかった。
彼女はその役を“生きている”ようだった。

口喧嘩の場面から、泣き崩れる場面へ。
数歩下がり、扇を手に、そこから踊りの場面に切り替わる。

静かな笛の音が、CDラジカセから流れた。
優雅な扇の開き。足捌きの柔らかさ。
そして……時折こちらに向けられる目線の鋭さ。

僕は、息を呑んで立ち尽くしていた。

そのとき……

「おや。神谷の坊、久しぶりやな」

後ろから小さな声がかかった。
振り返ると、舞台道具を担いだ年配の座員が笑っていた。

「まさか、舞台の袖でまた会うとはな。あんた、昔ここで踊っとったやろ? 神楽で」

「……覚えてないです。小さい頃だったから」

とっさに、そう返してしまった。

「はは、そうか。まあ、忘れるような年頃だったか」

彼は気にする様子もなく、舞台の奥へと消えていった。

僕はしばらく、立ったままだった。

静かな舞台袖に、彼女の声と気配がまだ残っていた。

僕は誰にも見つからないように、そっとその場を離れた。

廊下の先から、ほんのかすかに湯けむりの匂いが届いた。

さっきまで踊っていた彼女は、もう舞台袖にはいない。

でも、目を閉じると、その声が、姿が、まだそこにあった。

「……風見瑠璃」

僕は小さくつぶやいた。

舞台の上で、“誰かになる”彼女。
舞台の外で、また違う“誰か”になる彼女。

誰かを演じる彼女を見ていたい……

そんな気持ちが、不思議と胸に灯っていた。

明日……舞台を観に行こう。

“風見瑠璃”という名前を、もう一度、確かめに。

“扉のむこう”で光っている声を、僕はちゃんと見ていた。
そう思えた、一夏の午後だった。

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