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第2話 湯けむりと約束
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夏休みに入り、僕は清水屋でのバイトを本格的に始めた。
朝は帳場の掃除と荷物の運び出し。昼は配膳の補助。夕方には浴場の備品確認や客室のチェック。
思った以上にやることは多く、覚えることも多かった。けれど、働いていると時間は驚くほど早く過ぎるものだ。
一日が終わる頃には、くたびれた体に湯気の匂いが染みついていた。
風見さん……いや、風見瑠璃も同じように働いていた。
仲居としてお茶を運び、廊下を小走りに駆けていく姿は、舞台の上の彼女とはまた違って見えた。
「昼と夜、どっちも演るの?」
ふとした休憩中に、僕は聞いてみた。
「うん。昼の部と夜の部で少しだけ演目が違うの。踊りも、変えてる」
そう言って、瑠璃は湯飲みに口をつけた。汗のにじんだ額を、袖でそっと拭う。
「大変じゃない?」
「まあね。でも……舞台に立つと、疲れって、不思議と消えるのよ」
彼女はそう言って笑った。
その笑顔が、午前中に見た“働く人の顔”とはまるで違っていて、僕は少し言葉に詰まった。
昼公演と夜公演のあいだ。館内の人通りが少なくなる時間帯だった。
僕は帳場にタオルを届けたあと、ふと大広間の方へ足を向けた。
舞台は、すでに明かりを落とされていた。
誰もいないと思っていたその空間に、ひとり、舞扇を手にした彼女がいた。
音はなかった。
照明も、観客も、何もない。
それでも瑠璃は、静かに踊っていた。
足運び、手のひらの返し、扇の開き……すべての動きが美しく、息を呑むほどだった。
僕は廊下の陰から、その姿をただ見ていた。
と、背後から声がした。
「……また、舞台袖でぽかんと見惚れてるの?」
振り返ると、叔母さん……清水屋の女将が立っていた。
いつものように、扇子でゆるく風を送りながら、目を細めて瑠璃の舞を見つめている。
「昔もよくあったのよ、こういう光景。あんた、五つ六つの頃かしら。神楽の舞台袖で、他の子が舞ってるの、ぼうっと見てたじゃない」
「……そんなこと、あったっけ」
「ふふ。あったわよ。舞台って、見てるだけで血が騒ぐ子っているのよ。……あの子みたいにね」
叔母は、瑠璃の踊る姿を見ながら、静かに言った。
「やっぱり、舞台の血かね。あんたも、その筋だったら面白かったのに」
僕は何も言わなかった。
ただ、扇の動きに吸い込まれるような彼女の姿を、黙って見つめていた。
と、踊る動きの途中で、ふと彼女と目が合った。
瑠璃の身体が、そこで止まった。
少し間があって、彼女は静かに言った。
「……見ないで」
その声に、僕は何も返せず、そのまま廊下を離れた。
舞台ではない、誰にも見せるはずじゃなかった“彼女の顔”を、
僕は見てしまった気がして、胸の奥が妙にざわついた。
その日の夜。仕事を終えて縁側に座っていると、風が抜けていった。
灯りの消えかけた庭には、夏草の匂いと微かに湯気の残り香が漂っていた。
団扇を仰いでいた僕の横に、そっと気配が降りた。
「……こんばんは」
振り向くと、浴衣姿の瑠璃が立っていた。
彼女はもうひとつの団扇を持ってきて、そのまま僕の隣に座った。
しばらく、何も言葉はなかった。
ただ、風鈴が小さく揺れていた。
「さっきのは……稽古だったの」
やがて瑠璃がぽつりと呟いた。
「舞台じゃない場所で、演じてるところ見られるの、ちょっと苦手なの。なんか、こう……違うから」
「……うん。ごめん」
「でも、本番は……見てほしいの。ちゃんと。
舞台の上でなら、“風見瑠璃”としていられるから」
僕は少しだけ笑った。
「じゃあ、夜の部を見に行くよ。ちゃんとチケット買って。
そのときは、堂々と“観てる”って言えるし」
瑠璃も、それに応えるように小さく笑った。
「うん。そのときは、ちゃんと“演ってる”から」
二人して団扇を仰ぎながら、しばらく風に吹かれていた。
湯けむりの気配がまだ庭に残っていた。
彼女の声が、風の中で静かに溶けていった。
まだ何も始まっていないようで、
けれど、何かが少しだけ動いた気がした。
それが何なのかは、僕にもまだ、よくわからなかった。
朝は帳場の掃除と荷物の運び出し。昼は配膳の補助。夕方には浴場の備品確認や客室のチェック。
思った以上にやることは多く、覚えることも多かった。けれど、働いていると時間は驚くほど早く過ぎるものだ。
一日が終わる頃には、くたびれた体に湯気の匂いが染みついていた。
風見さん……いや、風見瑠璃も同じように働いていた。
仲居としてお茶を運び、廊下を小走りに駆けていく姿は、舞台の上の彼女とはまた違って見えた。
「昼と夜、どっちも演るの?」
ふとした休憩中に、僕は聞いてみた。
「うん。昼の部と夜の部で少しだけ演目が違うの。踊りも、変えてる」
そう言って、瑠璃は湯飲みに口をつけた。汗のにじんだ額を、袖でそっと拭う。
「大変じゃない?」
「まあね。でも……舞台に立つと、疲れって、不思議と消えるのよ」
彼女はそう言って笑った。
その笑顔が、午前中に見た“働く人の顔”とはまるで違っていて、僕は少し言葉に詰まった。
昼公演と夜公演のあいだ。館内の人通りが少なくなる時間帯だった。
僕は帳場にタオルを届けたあと、ふと大広間の方へ足を向けた。
舞台は、すでに明かりを落とされていた。
誰もいないと思っていたその空間に、ひとり、舞扇を手にした彼女がいた。
音はなかった。
照明も、観客も、何もない。
それでも瑠璃は、静かに踊っていた。
足運び、手のひらの返し、扇の開き……すべての動きが美しく、息を呑むほどだった。
僕は廊下の陰から、その姿をただ見ていた。
と、背後から声がした。
「……また、舞台袖でぽかんと見惚れてるの?」
振り返ると、叔母さん……清水屋の女将が立っていた。
いつものように、扇子でゆるく風を送りながら、目を細めて瑠璃の舞を見つめている。
「昔もよくあったのよ、こういう光景。あんた、五つ六つの頃かしら。神楽の舞台袖で、他の子が舞ってるの、ぼうっと見てたじゃない」
「……そんなこと、あったっけ」
「ふふ。あったわよ。舞台って、見てるだけで血が騒ぐ子っているのよ。……あの子みたいにね」
叔母は、瑠璃の踊る姿を見ながら、静かに言った。
「やっぱり、舞台の血かね。あんたも、その筋だったら面白かったのに」
僕は何も言わなかった。
ただ、扇の動きに吸い込まれるような彼女の姿を、黙って見つめていた。
と、踊る動きの途中で、ふと彼女と目が合った。
瑠璃の身体が、そこで止まった。
少し間があって、彼女は静かに言った。
「……見ないで」
その声に、僕は何も返せず、そのまま廊下を離れた。
舞台ではない、誰にも見せるはずじゃなかった“彼女の顔”を、
僕は見てしまった気がして、胸の奥が妙にざわついた。
その日の夜。仕事を終えて縁側に座っていると、風が抜けていった。
灯りの消えかけた庭には、夏草の匂いと微かに湯気の残り香が漂っていた。
団扇を仰いでいた僕の横に、そっと気配が降りた。
「……こんばんは」
振り向くと、浴衣姿の瑠璃が立っていた。
彼女はもうひとつの団扇を持ってきて、そのまま僕の隣に座った。
しばらく、何も言葉はなかった。
ただ、風鈴が小さく揺れていた。
「さっきのは……稽古だったの」
やがて瑠璃がぽつりと呟いた。
「舞台じゃない場所で、演じてるところ見られるの、ちょっと苦手なの。なんか、こう……違うから」
「……うん。ごめん」
「でも、本番は……見てほしいの。ちゃんと。
舞台の上でなら、“風見瑠璃”としていられるから」
僕は少しだけ笑った。
「じゃあ、夜の部を見に行くよ。ちゃんとチケット買って。
そのときは、堂々と“観てる”って言えるし」
瑠璃も、それに応えるように小さく笑った。
「うん。そのときは、ちゃんと“演ってる”から」
二人して団扇を仰ぎながら、しばらく風に吹かれていた。
湯けむりの気配がまだ庭に残っていた。
彼女の声が、風の中で静かに溶けていった。
まだ何も始まっていないようで、
けれど、何かが少しだけ動いた気がした。
それが何なのかは、僕にもまだ、よくわからなかった。
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