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エピローグ 流水
第180話 満月の浮かぶ夜
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一定のリズムを刻む鐘の音を耳にしながら、俺たちは小道の横にあるベンチへ腰を下ろす。
意外と道は長く、まだまだ先は続いているが焦る必要は無い、時間はあるのだ。このまま進んでみるのも、引き返すのも、横道に逸れてみるのもいいだろう。もちろん、こうして休憩してみるのも。
「……こうしてると、あの時を思い出すわね」
「あの時?」
「戒田から逃げた時のことよ」
「……そうだな」
随分昔の事のように思えるが、確かにあの時もこうして蛍とベンチに座っていたんだった。
「もう終わりか」
「そうね……」
本当に今年は色々な事があった。夏にはPLOWでの事件、そして一週間前には無﨑の襲撃。
だが、それらもようやくすべて終わりを迎えた。……後はこの先の人生をどう生きていくか。
――そよ風に頬を撫でられながら思う。一度付いた心の傷が癒えることは無いのだろう、と。
耐え難い絶望によって一度目の希死念慮は遠のいた。しかし一度乗り越えることができたとしても、もう二度とその波がやってこないとは限らない。いや、一度でも希死に囚われてしまえば、異なる角度、異なる種類の絶望として姿形を変え、何度でもやってくる。音も無く、気が付いた時にはすぐ傍にいる。いや、いたと考える方が正しいか。
いつからか希死とは、そもそもがそういうものなのだろうと理解した時、アンの言っていた〝生ちゃん〟と〝死ちゃん〟という概念の考え方を少しだけ理解した気がした。
その上で思う。蛍となら、そうした感情をうまく隠しながら生きていく事ができるのではないかと。
決して犯した罪を忘れたわけではない。それは蛍も同じだろう。――だが、俺たちは二人ともこれまで頑なに目を背け続けてきた事実があった。分かっていて、知っていて、それでも敢えて直視してこなかった一事。
それは、亡くしてしまった――大切な人たちは、俺たちが苦痛に苛まれ続けることを決して望んでいないということ。それを知っていたから、これまで生きてこられたのだ。もう逢うことはできなくとも、心の中にいる大切な人たちが、今も笑顔で話しかけてきてくれている。
それなのに今もこうして苦痛の中にいるのは、犯した過ちを誤魔化したくない。彼らの生きた日々を忘れたくないという、そんな感情があったから。だからこそ、想い、悩み続ける事を自然と容認しているのだろう。
すでに根を張ったその考えを今さら取り除くのは容易な事ではない。おそらく、生涯苦しみ続けることになる。
「蛍」
「うん?」
それは蛍も理解しているだろう。
でも――だからこそ。
「俺は――」
続く一言を口にしようとして、言葉に詰まる。
……本当にこの言葉を告げていいのか。この想いを告げれば、俺は再び罪を重ねることになる。それもこれまでのような無知の罪とは違う、どうなるかが分かった上での罪。
…………やはり、告げるべきではないのかもしれない。
「どうしたの?」
「…………いや、そろそろ年が明けるな」
一度堰き止められた想いを再び口にしようと覚悟を決めるには、あまりにも短い時間だった。
「ええ、そうね……」
今、蛍は何を考えているのだろうか。それは分からない。
過ぎ行く人たちの何もかもを知らずに、それでも確かにすべてを知った気でまた一日が終わる。人も、街も、虫も、花も。そのどれもが曖昧な感覚の中で生きている。
PLOWで知り合った彼らのことや蛍のことも、多くを知った気でいるが、その実、彼らを象る輪郭程度しか俺は知らない。きっと、他人が何を考えているのかなんてことは、心を配り、気を許した上でもついに知り得ることはできないのだ。
……ただ吾御崎ではないが、それらを一時でも知ることができるとするのなら、それはやはり何かしらの〝形〟にするしかないのだろう。
「そうだ、私も言いたい事があるの」
「言いたい事?」
「こんな時、朱美がいたらきっと背中を押してくれると思うから……。聞いてくれる?」
「うん? ああ」
すぐに頷きを返したものの、それから少しの間が空く。
こちらの声が聞こえていないというわけではなく、先ほどの俺と同じように何かを口にしようとして迷っているような、そんな表情だった。
そうして暫しの沈黙の後、蛍は意を決したかのように俺の瞳を見つめ――。
「愛してる」
ただ一言だけを口にした。
よくある、よく耳にする言葉。けど、これまで一度も聞いた事の無い言葉だった。
その途方もない勇気と人差し指に遺る古傷に背中を押され、ついさっき蛍に告げようとして呑み込んだ想いを再び〝形〟にしようと唇が動く。
心と躰の一体どちらが先にこの言葉を見つけたのか、それは解らない。
だが、もう迷いは無かった。
「――俺も、愛してる」
俺が口にしたのも、よくある言葉。よくあるが、一度も告げた事の無い言葉だった。
その言葉を形にできるのは、きっと今見つめ合っているお互いだけで。
この言葉を正しく聞くことができるのも、きっとお互いにしかできない。
そうして、どちらからともなく口付けを交わす。瞼を閉じ、除夜の鐘を耳に、目の前にいる愛する人の温もりだけを感じる。
救われるだけの価値は無いのだと理解しつつ、恥知らずにも目の前の救いに手を伸ばし享受する弱い心を詰りながら、もう一方の心で確と想う。
この先もずっと蛍と一緒にいられますように、と。
鐘が一つ鳴る度に願う。蛍がずっと笑顔でいられますように、と。
そうして、愛する人の温もりを感じながら理解する。心と躰は同じなのだと。
今、俺と蛍は同じ世界を見て、同じ空の下にいる。それなら、この世界が消えるまで生きていこう。たとえそれが、どれだけ儚いものであったとしても。
少しずつ、それでも確実に消えてゆく世界を愛しむように瞼を開く。
――満天の星空には、綺麗な満月が浮かび上がっていた。
了
意外と道は長く、まだまだ先は続いているが焦る必要は無い、時間はあるのだ。このまま進んでみるのも、引き返すのも、横道に逸れてみるのもいいだろう。もちろん、こうして休憩してみるのも。
「……こうしてると、あの時を思い出すわね」
「あの時?」
「戒田から逃げた時のことよ」
「……そうだな」
随分昔の事のように思えるが、確かにあの時もこうして蛍とベンチに座っていたんだった。
「もう終わりか」
「そうね……」
本当に今年は色々な事があった。夏にはPLOWでの事件、そして一週間前には無﨑の襲撃。
だが、それらもようやくすべて終わりを迎えた。……後はこの先の人生をどう生きていくか。
――そよ風に頬を撫でられながら思う。一度付いた心の傷が癒えることは無いのだろう、と。
耐え難い絶望によって一度目の希死念慮は遠のいた。しかし一度乗り越えることができたとしても、もう二度とその波がやってこないとは限らない。いや、一度でも希死に囚われてしまえば、異なる角度、異なる種類の絶望として姿形を変え、何度でもやってくる。音も無く、気が付いた時にはすぐ傍にいる。いや、いたと考える方が正しいか。
いつからか希死とは、そもそもがそういうものなのだろうと理解した時、アンの言っていた〝生ちゃん〟と〝死ちゃん〟という概念の考え方を少しだけ理解した気がした。
その上で思う。蛍となら、そうした感情をうまく隠しながら生きていく事ができるのではないかと。
決して犯した罪を忘れたわけではない。それは蛍も同じだろう。――だが、俺たちは二人ともこれまで頑なに目を背け続けてきた事実があった。分かっていて、知っていて、それでも敢えて直視してこなかった一事。
それは、亡くしてしまった――大切な人たちは、俺たちが苦痛に苛まれ続けることを決して望んでいないということ。それを知っていたから、これまで生きてこられたのだ。もう逢うことはできなくとも、心の中にいる大切な人たちが、今も笑顔で話しかけてきてくれている。
それなのに今もこうして苦痛の中にいるのは、犯した過ちを誤魔化したくない。彼らの生きた日々を忘れたくないという、そんな感情があったから。だからこそ、想い、悩み続ける事を自然と容認しているのだろう。
すでに根を張ったその考えを今さら取り除くのは容易な事ではない。おそらく、生涯苦しみ続けることになる。
「蛍」
「うん?」
それは蛍も理解しているだろう。
でも――だからこそ。
「俺は――」
続く一言を口にしようとして、言葉に詰まる。
……本当にこの言葉を告げていいのか。この想いを告げれば、俺は再び罪を重ねることになる。それもこれまでのような無知の罪とは違う、どうなるかが分かった上での罪。
…………やはり、告げるべきではないのかもしれない。
「どうしたの?」
「…………いや、そろそろ年が明けるな」
一度堰き止められた想いを再び口にしようと覚悟を決めるには、あまりにも短い時間だった。
「ええ、そうね……」
今、蛍は何を考えているのだろうか。それは分からない。
過ぎ行く人たちの何もかもを知らずに、それでも確かにすべてを知った気でまた一日が終わる。人も、街も、虫も、花も。そのどれもが曖昧な感覚の中で生きている。
PLOWで知り合った彼らのことや蛍のことも、多くを知った気でいるが、その実、彼らを象る輪郭程度しか俺は知らない。きっと、他人が何を考えているのかなんてことは、心を配り、気を許した上でもついに知り得ることはできないのだ。
……ただ吾御崎ではないが、それらを一時でも知ることができるとするのなら、それはやはり何かしらの〝形〟にするしかないのだろう。
「そうだ、私も言いたい事があるの」
「言いたい事?」
「こんな時、朱美がいたらきっと背中を押してくれると思うから……。聞いてくれる?」
「うん? ああ」
すぐに頷きを返したものの、それから少しの間が空く。
こちらの声が聞こえていないというわけではなく、先ほどの俺と同じように何かを口にしようとして迷っているような、そんな表情だった。
そうして暫しの沈黙の後、蛍は意を決したかのように俺の瞳を見つめ――。
「愛してる」
ただ一言だけを口にした。
よくある、よく耳にする言葉。けど、これまで一度も聞いた事の無い言葉だった。
その途方もない勇気と人差し指に遺る古傷に背中を押され、ついさっき蛍に告げようとして呑み込んだ想いを再び〝形〟にしようと唇が動く。
心と躰の一体どちらが先にこの言葉を見つけたのか、それは解らない。
だが、もう迷いは無かった。
「――俺も、愛してる」
俺が口にしたのも、よくある言葉。よくあるが、一度も告げた事の無い言葉だった。
その言葉を形にできるのは、きっと今見つめ合っているお互いだけで。
この言葉を正しく聞くことができるのも、きっとお互いにしかできない。
そうして、どちらからともなく口付けを交わす。瞼を閉じ、除夜の鐘を耳に、目の前にいる愛する人の温もりだけを感じる。
救われるだけの価値は無いのだと理解しつつ、恥知らずにも目の前の救いに手を伸ばし享受する弱い心を詰りながら、もう一方の心で確と想う。
この先もずっと蛍と一緒にいられますように、と。
鐘が一つ鳴る度に願う。蛍がずっと笑顔でいられますように、と。
そうして、愛する人の温もりを感じながら理解する。心と躰は同じなのだと。
今、俺と蛍は同じ世界を見て、同じ空の下にいる。それなら、この世界が消えるまで生きていこう。たとえそれが、どれだけ儚いものであったとしても。
少しずつ、それでも確実に消えてゆく世界を愛しむように瞼を開く。
――満天の星空には、綺麗な満月が浮かび上がっていた。
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