上 下
62 / 80
1986年

紐解く先に見えて来たもの

しおりを挟む
「遅い——って。嘘でしょ……」

 運転席に座る冬子は、助手席の窓から見えたアンクの着こなしに、絶句する。アンクは渡された白いシャツを破いて腰に巻き、スラックスの両足に両手を通して、股の布を裂き頭を出していた。無論、上半身はほぼ裸だ。

 冬子は助手席の窓を開ける。

「それ、本気?」
「すまぬ。どうにも理解できず」

 通行人は、ざわつきながらアンクを見ていた。

「目立ってるから。とりあえず、早く車に乗って」

 冬子はアンクをなんとか車に乗せると、エンジンをかけ発進させた。

 道中、アンクは珍しげに車の内部を物色したり、都会の夜景に目を奪われたり。逐一驚きの声を上げる姿を、冬子は微笑みながら横目で見ていた。

 十五分ほど車を走らせると、人気のない裏路地に入って行く。ゆっくりと徐行する車は、あるアパートの前で止まった。

「着いたわ。降りて」

 アンクは冬子の後について行く。鍵を開けると、冬子は靴を脱いでそそくさと洗面所に向かった。

「ほら、こっちよ。外歩いてきた汚れた足を洗ってちょうだい。ついでにシャワーも浴びたら? なんか薄荷の匂い、キツいわよ」

 アンクがシャワーを済ますと、冬子は視線を逸らしながも、ちゃんとした服の着方をレクチャーした。

「とりあえず、ここ座って。今お茶入れるから」

 アンクは言われた通りに黙って座る。着物からラフな格好に着替え台所に立つ冬子は、初見とはだいぶ印象が違って見えた。冬子は急いでお茶を用意すると、テーブルを挟んでアンクの前に座った。

「もう、訊きたいことが山ほどあるわ。まず、さっきのあれは何?」
「あれ?」
「あの急に消えて現れたやつ! しかもなんで濡れてたのよ」

 アンクは瞬間移動したこと、それから故郷に飛んだらそこに国はなく、海の中に移動してしまったことを伝える。

「故郷って、やっぱり古代エジプト? あなた、名前は?」 
「よく分からぬが、名はアンクと申す」
「アンクねえ……」

 冬子は本棚から、一冊の本を取り出した。

「これはあくまで作り話の神話だけど、さっきあなたが反応してたオシリス? 彼は冥界の王と呼ばれているわ」
「オシリスが、冥界の王……そうだ、その書にニフティの名はあるか? 妹なんだが」
「ニフティ? その名前はないわね。ていうか今、妹って言った? あなた歴史に名を残すくらいの王族か何かなの?」
「私は神だ」

 黙る冬子。互いが互いを見つめ合い、冬子はアンクが冗談を言ったのではないのだと受け取った。

「私の名はアンク。オシリスとは異母兄弟……いや、盟友みたいなもので、冥界で幻獣アンに呑まれたオシリスとニフティを救う為に、ヒノモトのクモシマにやってきた。そこで何とか黄泉へ行く算段をつけたはずだったのだが、弟マウトに身体をバラバラにされたのち、身体を集め……それから気づくと、シンジュクで目が覚めた」
「そ、そう」

 冬子はパラパラと手元の本をめくる。

「あなたがオシリスと兄弟なら、あなたを創ったのは創造主よね。ゲブ? ヌト?」
「ゲブは父、ヌトは母だ。ほう、それにはそんなことまで記してあるのか」
「ならイシス、セト、ネフティスの名に聞き覚えは?」
「それは先ほど申した通り、異母弟妹だ。ジェロス様は亡くなられたようだが、皆ちゃんと民に慕われているようで、安心した」
「ジェロス? その名前はないけど」

 アンクは首を傾げたが、すぐに思い出したように口を開いた。

「先ほど、冬子殿の神殿にてミイラが置いてあったであろう? あれはネフェルティティという名ではなく、ジェロス様だ。人間で唯一、神の母になられた立派なお方でな。オシリスやイシスの母は、そのジェロス様なのだ」
「ミイラって、胸像のこと? でも歴史には、オシリスたちの母はヌトだって書いてあるわ。間違えて伝わっちゃったのかしら……あ! ちょっと待って」

 冬子は時計を確認すると、急いでテレビをつける。

「うわあ。リアルタイムで観れたの、数週間ぶりだわ」

 テレビには、スーツを着た男たちが多数映っている。

「これは?」
「あぶ刑事よ。テレビドラマ、わかる? 私ユージの大ファンなの。一旦タイム、話はドラマが終わってからね。もう少しだから」

 途中で口を挟むアンクを、静かにするよう嗜めつつ、冬子はテレビに夢中になった。

 番組が終わると、冬子は満足したようにテレビを消す。それを見たアンクは慌てた。

「冬子殿! この水晶に映る人々は、ここに閉じ込められたままなのか? 衝撃音や血が沢山出て、倒れた者もおった。最後には消えていなくなったぞ!」
「ああ、これは映像なの。実際人が入っているわけではなくて——」

 アンクの表情を見た冬子は、言葉を止める。今この世界の全てを説明し理解してもらうのは、果てしなく面倒だと思ったからだ。

「とにかく。閉じ込められてるわけでも、消えたわけでもないから安心して。それよりもほら、あなたがどうしたら五千年前に帰れるのか、考えなくちゃ」
「五千年?!!」

 突然立ち上がったアンクを、冬子が見上げる。

「そ、そうよ。古代エジプト神話は、紀元前三千年の話だもの。今は一九八六年。あなた、約五千年前から来たんでしょう?」

 アンクは慌てふためいた。

「どういうことだ……我は五千年もの間、身体を探し求めていたのか? いや、そんなはずはない。私は確かデンと黄泉で……うぐっ!」

 そこまで考えると、アンクは急に凄まじい頭痛に襲われた。脳髄を掻き乱すような痛みに、膝をつく。

「ちょっと、大丈夫?!」
「うぅ……」

 アンクは気を失ってしまった。
しおりを挟む

処理中です...