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1986年

生兵法は大怪我のもと

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 “ほら、アンク様! 今お腹の子が動き申した!”
 “これがシエル様の花?”
 “これで、幼きうちは稚児も丈夫に育ちまする”
 “ア……ンク、様? いったいどうして”
 “苦しい……子が、我らの子が”
 “ハル……ハル……”

 
「ハル!!」


 アンクは勢いよく目を覚ました。布団はぐっしょり濡れ、アンクは肩で息をする。

「嘘、これ汗? 熱? 布団干すから、起きて。着替えはこれね」

 冬子はアンクの額に手を当てる。アンクは昨日の記憶を手繰り寄せた。

「すまぬ。寝てしまったのか」
「いや。あれは寝たというよりは、気絶に近かったと思うけど。熱はないわね、なんか飲む?」
「いや、結構だ」

 アンクはギュッと目を閉じて、頭を振った。

「私これからお客様とお食事で、その後お店に出るから。帰りは夜中になると思う」

 化粧台に座る冬子は、後方のアンクに手を伸ばす。アンクはその手から鍵を受け取った。

「あまり外出は勧めないけど、出かけるなら扉に鍵をお願いね。これお金。暇だったら撮り溜めたビデオがそこにあるから、適当に観ていいわ。あ、録画消したりしないでよ?」

 冬子は化粧を終えると、イヤリングをつける。

「それじゃ、留守を頼むわね」

 冬子は足早に部屋を出て行った。残されたアンクは、とりあえず服を着替えてぼーっとする。

(外に出よう)

 アンクは冬子が用意してくれた靴を履いた。少し違和感があったが、裸足で出歩くのは禁止されたため、仕方なくだ。扉に鍵をかけると、空を見上げる。天気は晴れ。透き通った風に、綺麗な空。

「五千年前も今も、空の青さは変わらぬのだな」

 少し歩くと、車が沢山走る大通りに出た。その道を、人々が歩く速さに合わせて歩いてみる。車のエンジン音、排気ガス。同じ空間にいるのに皆が他人で、その笑い声や話し声に混じって流れる、多種多様な音楽の旋律。

 アンクは聴覚を閉じた。あまりにうるさ過ぎるのだ。すると、今度は視覚が気になった。見慣れぬ顔貌、似たり寄ったりの髪型、服装。この場所に生えた植物はどこか孤独で、自由がない。

(はあ……だめだ、帰ろう)

 アンクは来た道を戻る。すると、道の反対側に見つけたものに目を輝かせた。

 
 プップップーっ!! ——ドンっ!
 

「お、おい。勘弁してくれよ」

 気のまま道路を突っ切ったことで、アンクは車に轢かれた。その勢いで歩道に吹っ飛んだアンクの周りに、人が集まる。

 “今の当たり方、絶対死んだ”
 “嫌だもう、自殺?”

 悲鳴と混じって皆が騒ぐ中、アンクはお腹を抑えて起き上がった。

「あちらの道からこちらに来るには、毎度こんな思いをせねばならぬのか。大変だ」

 いてて、と笑うアンクに、人々は呆然とする。

「おい兄ちゃん、無事か? 今警察来るから、すぐに救急車で病院に行かなきゃ」

 アンクを轢いた男性は、恐る恐る声をかける。見知らぬ単語が数多く出る中、アンクは思い出したようにポケットを探った。

「これは、トラブルか?」
「え? ああ、まあそうだろうな」
「そなたは怒っておるのだな」
「???」

 いきなり摑まされたくしゃくしゃな一万円札に、男性は意味がわからないと引いている。

「冬子殿に言われていた、トラブルに遭い相手を怒らせたら、これを渡せと」

 アンクは立ち上がると、思いのままに目的の店へと向かう。

「それは、魚だな」
「へ?」

 事故を目撃していた魚屋の店主も、アンクの思わぬ態度にギョッとする。

「ほとんど見たことがないものばかりだ。その薄い赤色の魚は、何という?」
「これは、鯛だな」
「それをくれないか」
「えっと……二八〇〇円、だが」

 アンクはハッとする。同時に道を振り返ると、先ほどの事故の男性がまだそこにいたことに安堵の表情を浮かべた。

「すまぬ。そのお金を、いま一度くれないか。物を買うには、お金と交換しなければならぬことを忘れていた」
「あ……はい」

 男性は言われるがまま一万円を返すと、アンクは魚屋にそれを渡す。

「これでいいか?」
「はいよ」

 店主は鯛を袋に詰める。

「はい、これお釣りだよ」
「なっ?!」

 アンクは手元に返されたお釣りを広げ、目を見開いた。

「なぜ増える?! 交換したのだ、これではそなたが損ではないか!」
「……兄ちゃん、ふざけてんのか?」

 アンクは至って真剣だ。

「あのう」

 振り返ると、そこには警察官と救急隊がいた。

「あなた被害者の方? 怪我は……なんか、元気そうだね」

 鯛の入った袋を片手に、佇むアンク。救急隊も苦笑いだ。

「一応、身分証ある?」
「ミブンショウ……」
「きみ、名前は?」

 そこまで訊かれて、アンクは再びハッとした。

(まずい。冬子殿に身分を明かしてはいけないと言われていたのだった!)

「えっと……今、持ってなくて」
「よく見ると君、もしかして日本人じゃないのかな。まさか不法滞在者じゃないよね?」

 一歩、また一歩近づいてくる警察官の手が、アンクの肩に触れた。

「ちょっと署に来て話を——」
「すまぬ!」

 アンクは警察官の手を振り払うと、慌てて指を弾いたのだった。
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