47 / 55
47
しおりを挟む
四年後——
二〇二七年 八月某日
運転席のシートを限界まで倒し、アイマスクをつけて横になっていた東伍を起こしたのは、ドンドン、という窓ガラスを叩く音だった。
「まーた車で寝て、エンジンも掛けっぱなし! 何度言ったらわかるんですか。こんなところで寝られていては困ります!」
窓越しで少々聞き取りづらいものの、聞き覚えのある明るい声に観念した東伍は、アイマスクを剥ぎ取ってシートを起こした。
パワーウインドウを開けると、彼女はズイっと顔を寄せる。
「先生? 水野先生、聞いてます?」
「須藤先生。今何時だと思ってるんですか。先生の声が一番騒がしいです。前にも言いましたけど、早朝六時に生徒は誰もいませんから」
「そ、そうですけど! こんな寝方をしていては風邪をひきますし、ちゃんと布団で眠らないと」
「それが最近引っ越したばかりで、家具が何にも。ソファーくらいしかまだ持ってこれてないんですよ。だから、うちに布団はありません」
「いや、今はそんな話をしているのでは」
あすかが戸惑うと、東伍はにっこり微笑む。
「じゃあ、私はもう一眠りします。まだ生徒が登校するまで時間がありますから」
「え、また寝るんですか?!」
「眠くて仕方がないんですよ。なんだか最近、同じような夢ばかり見てよく眠れなくて」
「夢?」
「私が私を俯瞰して見る夢です。まるで幽体離脱みたいに、私は空から私を眺めていて。彼は自分を“俺”と呼び、今より随分、若い様子で」
「はあ」
「じゃあ、須藤先生。何かあったら起こしてくださいね」
「あ、ちょっと!」
東伍はスマホを振って示すと、無理やりパワーウインドウをあげて再びシートを倒した。アイマスクをつけて、胸の前で両掌を組み動かなくなった東伍をみて、あすかはため息をつく。
「しょうがないなあ、もう」
私立淑和学院高等学校。
水野東伍は、そこの社会科教諭である。
「あ、水野っちおはよう!」
「おはよう、じゃなくて。仮にも先生なんだから、水野っちはおかしくないですか」
「えー、いいじゃん。可愛くて。昔そう呼んでる先輩がいたって聞いたもん」
「昔は昔です」
「じゃあ、水野っち先生?」
「脚下」
「東伍先生!」
「無し」
「えー! 全部ダメじゃん!」
「水野先生でいいでしょうが」
「つまんなーい」
「はいはい、部活がないなら帰りなさい」
むくれる生徒を受け流し、東伍は部活準備のためにプールへと向かう。
「……あ、鍵忘れたな」
そうして職員室まで戻っても、プールの門の鍵は見当たらなかった。
どうしたものかとあぐねいていると、一人の男子生徒がやってくる。
「あれ、水野先生。何やってんすか」
「それが、門の鍵を無くしてしまって」
「ああ。それなら大丈夫ですよ。ちょっと待ってくださいね」
男子生徒はカバンから下敷きを取り出すと、門と壁の隙間に挟んで小さな鍵を取り出す。
「それ、門の鍵なんですか?」
「違いますよ。鍵なんてなんでもいいんです。こうして何かをかませながら適当な鍵を入れて回せば開くって。水泳部の伝統みたいなもんっす」
東伍が感心しながら見ていると、門の鍵は男子生徒のいう通り見事に開錠した。
「ね?」
「本当だ。凄いですね」
「水野先生って確か、昔淑和学院の水泳部じゃなかったでしたっけ。知らないんですか、これ」
「そうですね。知りませんでした。今度困ったら試してみますよ」
◇◇◇
「鷹司泉さん問診ですよ。こちらにどうぞ」
とある精神科病棟の待合室。名前を呼ばれた泉が席を立つと、隣に座っていた凛子が声をかける。
「あ、泉。カバン、あたし持ってるよ」
「大丈夫ですよ。自分で持てます」
「いいから。ほら」
「そうですか。じゃあ、お願いします。行ってきます」
「うん」
診察室に入っていく泉の背中を確認してから、凛子はそっとカバンを開いた。
中から一つノートを取り出し、パラパラめくって中身を確認すると、ほっと胸を撫で下ろすように瞼を閉じる。
「良かった。今回も異常無し、か。ありがとう、エル」
あの日、鷹司製薬の第四ラボで意識を失った泉は、その五日後に自室のベッドで目を覚ました。
泉の記憶は二十一歳、美聖が残した鍵の箱を受け取った直後から、ごっそり三年分が消滅。
泉は今も母の遺品として箱と鍵を大事に保管しているが、その用途を探るなんてことはしていない。
「お待たせしました凛子」
「先生なんだって?」
「また一ヶ月後だそうです」
「そっか。アイスでも食べてく?」
「いいですね」
凛子はあの日以来、泉の定期検診につきあっては、こうしてノートを確認している。
今日のノートは白紙。近頃は白紙な日がほとんどで、その度に凛子は安心する。
“私はエル。泉を守るものである。これから先、小春や陽子、それ以外の人格が出現した際には速やかに報告する。異常がなければノートは白紙。それ以外の場面で、私が顔を出すことはもうないだろう。さようなら。泉を、どうか頼む”
「あ、そうだ。泉、今日事務所来る? 便利屋の依頼、結構きてるんだよなあ」
「なぜ私に? 私は社員ではないのですが」
「釣れないこと言わないでよー、家事代行も物や人探しも、あたしより泉の方が細かく仕事してくれるって評判いいんだよ。最近掛かってくる電話のほとんどが【バッカスの泉さんはいらっしゃいますか?】ってさ。シャチョーはあたしだってのに」
「あの。質問してもいいですか?」
「うん」
「なぜ社名をバッカスに? バッカスって、お酒の神様ですよね」
「あー、それね。恭ちゃんがつけたんだよ。なんでも、泉にはバッカスの加護が必要だ、とかなんとか」
「私に? 私、あまりお酒は飲みませんけど」
「まあ、そのほかにも響きとか? 他にも語呂とか、深い意味はないんじゃないかな」
泉はどこか納得いかない表情で何かを考えるも、数秒後には忘れたように別の話題を口にしていた。
「で、どうする? 事務所来る?」
「しつこいですね」
「今月ピンチなんだよぉ、稼がないと恭ちゃん、みるみる晩御飯ケチってくるしさぁ」
「……仕方ないですね。わかりました、手伝います」
「本当?! まじありがとう泉! これで今晩は焼肉にしよ!
「調子に乗るのが早いです」
二〇二七年 八月某日
運転席のシートを限界まで倒し、アイマスクをつけて横になっていた東伍を起こしたのは、ドンドン、という窓ガラスを叩く音だった。
「まーた車で寝て、エンジンも掛けっぱなし! 何度言ったらわかるんですか。こんなところで寝られていては困ります!」
窓越しで少々聞き取りづらいものの、聞き覚えのある明るい声に観念した東伍は、アイマスクを剥ぎ取ってシートを起こした。
パワーウインドウを開けると、彼女はズイっと顔を寄せる。
「先生? 水野先生、聞いてます?」
「須藤先生。今何時だと思ってるんですか。先生の声が一番騒がしいです。前にも言いましたけど、早朝六時に生徒は誰もいませんから」
「そ、そうですけど! こんな寝方をしていては風邪をひきますし、ちゃんと布団で眠らないと」
「それが最近引っ越したばかりで、家具が何にも。ソファーくらいしかまだ持ってこれてないんですよ。だから、うちに布団はありません」
「いや、今はそんな話をしているのでは」
あすかが戸惑うと、東伍はにっこり微笑む。
「じゃあ、私はもう一眠りします。まだ生徒が登校するまで時間がありますから」
「え、また寝るんですか?!」
「眠くて仕方がないんですよ。なんだか最近、同じような夢ばかり見てよく眠れなくて」
「夢?」
「私が私を俯瞰して見る夢です。まるで幽体離脱みたいに、私は空から私を眺めていて。彼は自分を“俺”と呼び、今より随分、若い様子で」
「はあ」
「じゃあ、須藤先生。何かあったら起こしてくださいね」
「あ、ちょっと!」
東伍はスマホを振って示すと、無理やりパワーウインドウをあげて再びシートを倒した。アイマスクをつけて、胸の前で両掌を組み動かなくなった東伍をみて、あすかはため息をつく。
「しょうがないなあ、もう」
私立淑和学院高等学校。
水野東伍は、そこの社会科教諭である。
「あ、水野っちおはよう!」
「おはよう、じゃなくて。仮にも先生なんだから、水野っちはおかしくないですか」
「えー、いいじゃん。可愛くて。昔そう呼んでる先輩がいたって聞いたもん」
「昔は昔です」
「じゃあ、水野っち先生?」
「脚下」
「東伍先生!」
「無し」
「えー! 全部ダメじゃん!」
「水野先生でいいでしょうが」
「つまんなーい」
「はいはい、部活がないなら帰りなさい」
むくれる生徒を受け流し、東伍は部活準備のためにプールへと向かう。
「……あ、鍵忘れたな」
そうして職員室まで戻っても、プールの門の鍵は見当たらなかった。
どうしたものかとあぐねいていると、一人の男子生徒がやってくる。
「あれ、水野先生。何やってんすか」
「それが、門の鍵を無くしてしまって」
「ああ。それなら大丈夫ですよ。ちょっと待ってくださいね」
男子生徒はカバンから下敷きを取り出すと、門と壁の隙間に挟んで小さな鍵を取り出す。
「それ、門の鍵なんですか?」
「違いますよ。鍵なんてなんでもいいんです。こうして何かをかませながら適当な鍵を入れて回せば開くって。水泳部の伝統みたいなもんっす」
東伍が感心しながら見ていると、門の鍵は男子生徒のいう通り見事に開錠した。
「ね?」
「本当だ。凄いですね」
「水野先生って確か、昔淑和学院の水泳部じゃなかったでしたっけ。知らないんですか、これ」
「そうですね。知りませんでした。今度困ったら試してみますよ」
◇◇◇
「鷹司泉さん問診ですよ。こちらにどうぞ」
とある精神科病棟の待合室。名前を呼ばれた泉が席を立つと、隣に座っていた凛子が声をかける。
「あ、泉。カバン、あたし持ってるよ」
「大丈夫ですよ。自分で持てます」
「いいから。ほら」
「そうですか。じゃあ、お願いします。行ってきます」
「うん」
診察室に入っていく泉の背中を確認してから、凛子はそっとカバンを開いた。
中から一つノートを取り出し、パラパラめくって中身を確認すると、ほっと胸を撫で下ろすように瞼を閉じる。
「良かった。今回も異常無し、か。ありがとう、エル」
あの日、鷹司製薬の第四ラボで意識を失った泉は、その五日後に自室のベッドで目を覚ました。
泉の記憶は二十一歳、美聖が残した鍵の箱を受け取った直後から、ごっそり三年分が消滅。
泉は今も母の遺品として箱と鍵を大事に保管しているが、その用途を探るなんてことはしていない。
「お待たせしました凛子」
「先生なんだって?」
「また一ヶ月後だそうです」
「そっか。アイスでも食べてく?」
「いいですね」
凛子はあの日以来、泉の定期検診につきあっては、こうしてノートを確認している。
今日のノートは白紙。近頃は白紙な日がほとんどで、その度に凛子は安心する。
“私はエル。泉を守るものである。これから先、小春や陽子、それ以外の人格が出現した際には速やかに報告する。異常がなければノートは白紙。それ以外の場面で、私が顔を出すことはもうないだろう。さようなら。泉を、どうか頼む”
「あ、そうだ。泉、今日事務所来る? 便利屋の依頼、結構きてるんだよなあ」
「なぜ私に? 私は社員ではないのですが」
「釣れないこと言わないでよー、家事代行も物や人探しも、あたしより泉の方が細かく仕事してくれるって評判いいんだよ。最近掛かってくる電話のほとんどが【バッカスの泉さんはいらっしゃいますか?】ってさ。シャチョーはあたしだってのに」
「あの。質問してもいいですか?」
「うん」
「なぜ社名をバッカスに? バッカスって、お酒の神様ですよね」
「あー、それね。恭ちゃんがつけたんだよ。なんでも、泉にはバッカスの加護が必要だ、とかなんとか」
「私に? 私、あまりお酒は飲みませんけど」
「まあ、そのほかにも響きとか? 他にも語呂とか、深い意味はないんじゃないかな」
泉はどこか納得いかない表情で何かを考えるも、数秒後には忘れたように別の話題を口にしていた。
「で、どうする? 事務所来る?」
「しつこいですね」
「今月ピンチなんだよぉ、稼がないと恭ちゃん、みるみる晩御飯ケチってくるしさぁ」
「……仕方ないですね。わかりました、手伝います」
「本当?! まじありがとう泉! これで今晩は焼肉にしよ!
「調子に乗るのが早いです」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
寄生虫の復讐 ~美咲の冷徹な一刺し~
スカッと文庫
ミステリー
「お前みたいな寄生虫はゴミだ」
10年尽くした夫・雅也から突きつけられたのは、離婚届と不倫相手。
彼は知らない。私が家を飛び出した「サカモト・ホールディングス」の令嬢であることを。
そして明日、彼が人生を賭けて挑む調印式の相手が、私の実父であることを。
どん底に叩き落とされたサレ妻による、容赦なき「経済的破滅」の復讐劇。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
なお、スピンオフもございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる