【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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 四年後——
 
 二〇二七年 八月某日
 
 運転席のシートを限界まで倒し、アイマスクをつけて横になっていた東伍を起こしたのは、ドンドン、という窓ガラスを叩く音だった。
 
「まーた車で寝て、エンジンも掛けっぱなし! 何度言ったらわかるんですか。こんなところで寝られていては困ります!」
 
 窓越しで少々聞き取りづらいものの、聞き覚えのある明るい声に観念した東伍は、アイマスクを剥ぎ取ってシートを起こした。
 パワーウインドウを開けると、彼女はズイっと顔を寄せる。
 
「先生? 水野先生、聞いてます?」
「須藤先生。今何時だと思ってるんですか。先生の声が一番騒がしいです。前にも言いましたけど、早朝六時に生徒は誰もいませんから」
「そ、そうですけど! こんな寝方をしていては風邪をひきますし、ちゃんと布団で眠らないと」
「それが最近引っ越したばかりで、家具が何にも。ソファーくらいしかまだ持ってこれてないんですよ。だから、うちに布団はありません」
「いや、今はそんな話をしているのでは」
 
 あすかが戸惑うと、東伍はにっこり微笑む。
 
「じゃあ、私はもう一眠りします。まだ生徒が登校するまで時間がありますから」
「え、また寝るんですか?!」
「眠くて仕方がないんですよ。なんだか最近、同じような夢ばかり見てよく眠れなくて」
「夢?」
「私が私を俯瞰して見る夢です。まるで幽体離脱みたいに、私は空から私を眺めていて。彼は自分を“俺”と呼び、今より随分、若い様子で」
「はあ」
「じゃあ、須藤先生。何かあったら起こしてくださいね」
「あ、ちょっと!」
 
 東伍はスマホを振って示すと、無理やりパワーウインドウをあげて再びシートを倒した。アイマスクをつけて、胸の前で両掌を組み動かなくなった東伍をみて、あすかはため息をつく。
 
「しょうがないなあ、もう」
 
 
 
 
 
 私立淑和しゅくわ学院高等学校。
 水野東伍は、そこの社会科教諭である。
 
「あ、水野っちおはよう!」
「おはよう、じゃなくて。仮にも先生なんだから、水野っちはおかしくないですか」
「えー、いいじゃん。可愛くて。昔そう呼んでる先輩がいたって聞いたもん」
「昔は昔です」
「じゃあ、水野っち先生?」
「脚下」
「東伍先生!」
「無し」
「えー! 全部ダメじゃん!」
「水野先生でいいでしょうが」
「つまんなーい」
「はいはい、部活がないなら帰りなさい」
 
 むくれる生徒を受け流し、東伍は部活準備のためにプールへと向かう。
 
「……あ、鍵忘れたな」
 
 そうして職員室まで戻っても、プールの門の鍵は見当たらなかった。
 どうしたものかとあぐねいていると、一人の男子生徒がやってくる。
 
「あれ、水野先生。何やってんすか」
「それが、門の鍵を無くしてしまって」
「ああ。それなら大丈夫ですよ。ちょっと待ってくださいね」
 
 男子生徒はカバンから下敷きを取り出すと、門と壁の隙間に挟んで小さな鍵を取り出す。
 
「それ、門の鍵なんですか?」
「違いますよ。鍵なんてなんでもいいんです。こうして何かをかませながら適当な鍵を入れて回せば開くって。水泳部の伝統みたいなもんっす」
 
 東伍が感心しながら見ていると、門の鍵は男子生徒のいう通り見事に開錠した。
 
「ね?」
「本当だ。凄いですね」
「水野先生って確か、昔淑和学院の水泳部じゃなかったでしたっけ。知らないんですか、これ」
「そうですね。知りませんでした。今度困ったら試してみますよ」
 
 
 
 ◇◇◇
 
 
 
「鷹司泉さん問診ですよ。こちらにどうぞ」
 
 とある精神科病棟の待合室。名前を呼ばれた泉が席を立つと、隣に座っていた凛子が声をかける。
 
「あ、泉。カバン、あたし持ってるよ」
「大丈夫ですよ。自分で持てます」
「いいから。ほら」
「そうですか。じゃあ、お願いします。行ってきます」
「うん」
 
 診察室に入っていく泉の背中を確認してから、凛子はそっとカバンを開いた。
 中から一つノートを取り出し、パラパラめくって中身を確認すると、ほっと胸を撫で下ろすように瞼を閉じる。
 
「良かった。今回も異常無し、か。ありがとう、エル」
 
 
 
 
 あの日、鷹司製薬の第四ラボで意識を失った泉は、その五日後に自室のベッドで目を覚ました。
 泉の記憶は二十一歳、美聖が残した鍵の箱を受け取った直後から、ごっそり三年分が消滅。
 泉は今も母の遺品として箱と鍵を大事に保管しているが、その用途を探るなんてことはしていない。
 
「お待たせしました凛子」
「先生なんだって?」
「また一ヶ月後だそうです」
「そっか。アイスでも食べてく?」
「いいですね」
 
 凛子はあの日以来、泉の定期検診につきあっては、こうしてノートを確認している。
 今日のノートは白紙。近頃は白紙な日がほとんどで、その度に凛子は安心する。
 
 
 “私はエル。泉を守るものである。これから先、小春や陽子、それ以外の人格が出現した際には速やかに報告する。異常がなければノートは白紙。それ以外の場面で、私が顔を出すことはもうないだろう。さようなら。泉を、どうか頼む”
 
 
「あ、そうだ。泉、今日事務所来る? 便利屋の依頼、結構きてるんだよなあ」
「なぜ私に? 私は社員ではないのですが」
「釣れないこと言わないでよー、家事代行も物や人探しも、あたしより泉の方が細かく仕事してくれるって評判いいんだよ。最近掛かってくる電話のほとんどが【バッカスの泉さんはいらっしゃいますか?】ってさ。シャチョーはあたしだってのに」
「あの。質問してもいいですか?」
「うん」
「なぜ社名をバッカスに? バッカスって、お酒の神様ですよね」
「あー、それね。恭ちゃんがつけたんだよ。なんでも、泉にはバッカスの加護が必要だ、とかなんとか」
「私に? 私、あまりお酒は飲みませんけど」
「まあ、そのほかにも響きとか? 他にも語呂とか、深い意味はないんじゃないかな」
 
 泉はどこか納得いかない表情で何かを考えるも、数秒後には忘れたように別の話題を口にしていた。
 
「で、どうする? 事務所来る?」
「しつこいですね」
「今月ピンチなんだよぉ、稼がないと恭ちゃん、みるみる晩御飯ケチってくるしさぁ」
「……仕方ないですね。わかりました、手伝います」
「本当?! まじありがとう泉! これで今晩は焼肉にしよ!
「調子に乗るのが早いです」
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