【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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番外

side 朔夜 ②

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「ちょっといいかな」
 
 
 突然の背後からの声に、美聖は慌ててパソコン画面の電源を落とした。
 瞬時に立ち上がり振り向けば、そこにいたのは直幸だった。
 
「……どうしたんですかわざわざ、研究所になんていらして」
「ここに来れば、会えるかなって」
「どういったご用件で」
「結婚しないか、僕たち」
 
 不意を突かれ、美聖は呆気に取られる。
 
「えっと、それはどういう。私たちは既に婚姻関係では……あ。なるほど、美和とかいうホステスと藉を入れるために、勝手に離婚届を提出なさった、とか」
「違う。そうじゃないんだ。何もかも、違うんだよ」
 
 直幸は、慶三に逆らい続けていた。
 美和を鷹司の本邸に招いたのも、無理やり自分と結婚させられた美聖に申し訳がたたず、せめて顔を合わせなくて済むように使用人宿舎へと送り出す口実が欲しかったからだと直幸は告げた。
 
「そんなことを考えて……まあそれでも、勝手なことには変わりないですけど」
「そう、だよな」
 
 あからさまに落ち込む直幸を、美聖は煩わしく感じる。
 
「で? どうして今更結婚しようなんて思考に? 別に私に許可を取らなくても、元々結婚している気でいたんだから、ちゃちゃっと勝手に手続き済ませればよかったのでは?」
「それは……」
「あ。そうだ。そうじゃない。あなたには娘がいるでしょう。それなのに、私にそんな話を持ちかけるなんて無責任にも程が」
「千紗子は僕の子じゃない! 昭彦の子なんだ!」
 
 直幸は必死だった。美聖が理由を訊けば、父慶三の狂気と美和のそれは似通っている点が多く、更には直幸も鷹司製薬の極秘研究を調べているのだと口にした。
 
「きみに協力したいんだ。あんな悍ましい一族に生まれたことを恥じている。心から」
 
 暗がりの研究室。ほんの一メートルにも満たない距離で直幸の瞳を見つめた美聖は、その誠意が本物であると受け取ると同時に、逆の言葉を発する。
 
「信用できない。私があなたに協力するメリットを提示してもらえる? それに、私の持っている情報以上のものをあなたが持っているとも思えない」
「僕が検体になる」
 
 美聖は目を見開いた。
 
「必要な情報は僕の身体から抽出してほしい。今まできみが発見したどんなゲノムを組み込んでくれても構わない。鷹司慶三が人生の全てを賭けた計画がぶっ潰れるなら、僕は本望だ。それから」
 
 直幸は持っていたカバンから紙を一枚取り出すと、美聖に差し出す。
 
「核ゲノムが人体に及ぼす影響を統計してデータ化したものだ。きみの既知の情報ももちろんあるだろうが、精査してみて欲しい」
 
 直幸から紙を受け取ると、美聖はパソコン画面の電源をつけて明かりを確保し、目を通す。
 そこには美聖がサプリメント化に成功したrinathetaリナシータと瓜二つのゲノム式、更にはpasregunパレスガンを投薬として量産できる計算式が羅列されていた。
 美聖は顔を上げ、真っ直ぐに直幸を見つめる。
 
「これを、あなたが?」
「どこかに欠陥があるかな」
「いや……それどころか、これがあればゲノム研究に犠牲になった方達を救えるわ。rinathetaリナシータに似たこれは、消滅した人格が不用意に姿を現す混乱を防げるし、分裂した人格を、pasregunパレスガンで一つに統合・・できる。元の人格とは異なってしまうかもしれないけれど、これがいちばんの解決策だわ。あなた、私より研究者としての才がある」
 
 美聖の歓喜の反応をみて、直幸は小さく笑った。
 
「そうかな。なら、そこだけは親父に感謝しなくちゃね」
 
 
 
 ◇◇◇
 
 
 
 美聖はパソコン上のチャットを閉じると、ベッドに背をついて目を閉じた。
 
「……ねえ、咲也。明日あなたに妹が生まれる。喜んでくれるかな」
 
 瞼の裏には、いつものように美聖に笑いかける咲也の笑顔。
 
「あなたを忘れたりしない。あなたはこれからもずっと私の息子よ。咲也」
 
 
 
 
 
 ——その日。美和が点滴バッグに注射したcopmonteコプモンテウイルスにより、美聖は残酷な死を遂げた。
 
 蒸発する身体に無念を抱いて。
 お腹の子供に、奇跡を願って。
 
 うずくまった美聖は、ポケットから取り出したrinathetaリナシータカプセルを口に放り込む。
 
「お願い。この子を、妹を救って。咲也」
 
 身体に痛みはない。それでも、美聖の動悸は止まらなかった。
 浅い呼吸に頭中が痺れて目の前が眩む。
 
 とうとう真っ白になった視界のまま、美聖の身体は動きを止めた。一人きりの病室。崩れていく身体は蒸気をあげて、腕、足と、みるみる消滅を進めていく。
 
「咲、也……たすけ……て……」
 
 刹那。美聖の頭中で、笑顔の咲也の口元が動いた。
 
 
 “もちろんだよ、みさと。ぼくは朔夜さくや。始まりの夜だ”
 
 
 
 
 
 二〇〇六年 泉 七歳
 
「泉さん! 話をちゃんと聞きなさい!」
 
 恭一の強い語気に、泉は我に帰る。
 
「……え? なに?」
「だから、勝手に外出するなんてどういうおつもりですか? 凛子も心配していました。丸井理仁くんとはいつお知り合いに? まったく、髪まで勝手に短く切って」
「髪?」
 
 泉がおもむろに頭に触れれば、肩まであった髪が首の後ろあたりまでごっそりなくなっていた。
 
「わあ。髪がない」
 
 泉の反応に、恭一は目を細める。
 
「泉さん。最後に覚えていることはなんですか」
「最後……えっと、斎木の森に。小春さんを訪ねて、それから」
 
 そこまで口にして、泉はキョロキョロ辺りを見回すと首を傾げた。
 
「ここ、おうち?」
 
 恭一は考える。
 泉が斎木の森から姿を消して三日、見つかった泉が放った言葉はこうだった。
 
 
 “まずはひとつ。託したよ、みさと”
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