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無くしてしまった鍵が思いもよらぬところから見つかるのは、よくある話で。かくいう私も、今しがたソファのクッションの右端の繋ぎ目、その奥の方に迷い込んだ鍵を見つけたばかりだった。
家の鍵にしては小ぶりで、自転車の鍵にしてはデザインが凝っている。金庫の鍵、書類をしまう引き出しの鍵——思いつく限り鍵の形を脳裏に馳せるが、どれもピンとこない。
前の家のポストの鍵? いや、違う。とすると来客の落とし物だろうか。……いや。その線もない。なぜならこの家に人を招いたことなど一度もないから。
捨ててしまおう。そんなふうに考えるが、思いとどまる。捨ててから鍵の用途を思い出したり思いついたりするのもまた、よくある話だ。
しばらくソファの背もたれに身体を押し付けてから、私はふと思い立つ。
この鍵に合う鍵穴を、探してみよう。
二〇二三年 五月十五日
新緑の季節。ぷつぷつと、フロントガラスに流れ落ちる雨音を聴きながら、水野東伍は運転席の背もたれを倒した。
深夜二時。特に寒くも暑くもない。だがエンジンの切れた車内はどこか息苦しく、口からは自然と長くて温い吐息が漏れた。
街灯の薄明かりを受け、ふいに目についた車のサンバイザーに書かれた注意書きをなんとなく目で追う。それは手持ち無沙汰になった時にやる、ペットボトルやお菓子の袋の成分表を読むふりをするアレなんかと一緒で、行為自体に意味などなかった。だからそこに書かれた内容なんてのも当然、頭には入ってこない。でも——
“エアバックの衝撃により、死亡または重大な傷害に至るおそれがあります”
死亡。その単語だけが、東伍の脳内にしつこく纏わりつく。
ふわりと風を含んだ茶色のショートヘア。振り返り側に微笑む、オレンジ色の薄い唇。
ガチャン、と閉まった玄関のドアに向かって、間抜けに手を振る過去の自分を、東伍は何度殴りたいと思ったことだろう。
五徳の上でクツクツ煮えるビーフストロガノフの鍋を無意味にかき混ぜていた自分を。買ってきたカーテンに鼻歌混じりで金具を取り付けていた自分を。日が暮れても帰ってこない彼女に電話をするだけで、部屋を飛び出さなかった自分を。
間違いだらけだった自分を呪わない日はなかった。
「陽子……」
そう呟く東伍の声は、だんだんと強くなる雨足にかき消される。
徐に懐からサプリメントを取り出し、それを口に放って飲み込んだ後、心地よく目を閉じて数秒。いつの間にか眠りに落ちていた東伍を起こしたのは、ドンドンと窓を叩く音だった。
外はまだ薄暗かったが、滝のように流れていたはずの雨が止んでいた。街灯の明かりは消えて、代わりに陽の柔い光が窓ガラスに吸い付く水の粒をキラキラと反射させている。
車内を覗く人物は、シラけた表情で首を傾げていた。
「また車中泊ですか。水野先生」
車から降りて来た東伍の横顔を見上げるようにして、女は鋭く言った。東伍はその声ごと拭うように両手で顔を擦ると、顔を露わにして微笑む。
「おはようございます。須藤先生」
「おはようございます、じゃなくて。こういうことは控えるようにずっと言ってますよね? 毎回毎回、なんで車で寝るんですか?」
「えっと。前にも説明したと思うんですけど俺、朝が苦手で。特に月曜の朝って休み明けだから、全然起きれなくて。ギリギリまで眠れるようにと」
「だからって、水野先生がこうしていることが生徒に見つかると大変なことになるの想像できませんか?」
「大変?」
寝ぼけ眼の東伍が、目を細める。
その表情を見上げながら同僚、須藤あすかはほんのりと頬を赤く染めた。
「だ、だから。水野先生は人気者でしょう。朝からキャーキャー騒がれて収拾がつかなくなったらどうするんだと、私は」
「でも俺がこうして学校の駐車場で寝るようになってから今までで、一番に見つけて起こしてくださった事があるのは須藤先生、貴方だけです。それに今って何時です?」
「……六時、二十分ですけど」
だんだんと萎んでいくあすかの声に、東伍は寝癖のついた髪をかきあげながら笑った。
「いくら朝練などがあったとしても、こんな早くにうちの生徒は登校しませんよ」
「で、でも」
「それに俺、なんだかんだこうして須藤先生と話せる朝活を結構気に入ってるんですけどね。先生は?」
違うんですか、と東伍が訊けば。あすかはそれ以上の言葉を発せなかった。
「起こしてくれて助かりました。生徒が登校する前に部室でシャワー、浴びてきますね」
「あ、あのっ」
去る東伍をあすかは呼び止める。
「もしご迷惑じゃなかったら、朝起こしましょうか? その。電話とか」
あすかがもじもじと視線を泳がせて言えば、東伍はまたしても微笑む。
「ありがとうございます。いつか本当に必要になったら、お願いします」
軽く頭を下げる東伍。その伏せた瞼にのる長いまつ毛、筋の通った小振りの鼻、それから薄い唇を、あすかは直視できない。
再び遠ざかる広い肩幅。ポロシャツの奥の逆三角形の背中に、引き締まった尻から伸びる筋肉質のふくらはぎ。その全てに見惚れてしまうほど、東伍の存在はあすかの意識を独占していた。
角を曲がって東伍の姿が見えなくなると、あすかは一人ため息をつく。
「……いつかなんて、こないくせに」
家の鍵にしては小ぶりで、自転車の鍵にしてはデザインが凝っている。金庫の鍵、書類をしまう引き出しの鍵——思いつく限り鍵の形を脳裏に馳せるが、どれもピンとこない。
前の家のポストの鍵? いや、違う。とすると来客の落とし物だろうか。……いや。その線もない。なぜならこの家に人を招いたことなど一度もないから。
捨ててしまおう。そんなふうに考えるが、思いとどまる。捨ててから鍵の用途を思い出したり思いついたりするのもまた、よくある話だ。
しばらくソファの背もたれに身体を押し付けてから、私はふと思い立つ。
この鍵に合う鍵穴を、探してみよう。
二〇二三年 五月十五日
新緑の季節。ぷつぷつと、フロントガラスに流れ落ちる雨音を聴きながら、水野東伍は運転席の背もたれを倒した。
深夜二時。特に寒くも暑くもない。だがエンジンの切れた車内はどこか息苦しく、口からは自然と長くて温い吐息が漏れた。
街灯の薄明かりを受け、ふいに目についた車のサンバイザーに書かれた注意書きをなんとなく目で追う。それは手持ち無沙汰になった時にやる、ペットボトルやお菓子の袋の成分表を読むふりをするアレなんかと一緒で、行為自体に意味などなかった。だからそこに書かれた内容なんてのも当然、頭には入ってこない。でも——
“エアバックの衝撃により、死亡または重大な傷害に至るおそれがあります”
死亡。その単語だけが、東伍の脳内にしつこく纏わりつく。
ふわりと風を含んだ茶色のショートヘア。振り返り側に微笑む、オレンジ色の薄い唇。
ガチャン、と閉まった玄関のドアに向かって、間抜けに手を振る過去の自分を、東伍は何度殴りたいと思ったことだろう。
五徳の上でクツクツ煮えるビーフストロガノフの鍋を無意味にかき混ぜていた自分を。買ってきたカーテンに鼻歌混じりで金具を取り付けていた自分を。日が暮れても帰ってこない彼女に電話をするだけで、部屋を飛び出さなかった自分を。
間違いだらけだった自分を呪わない日はなかった。
「陽子……」
そう呟く東伍の声は、だんだんと強くなる雨足にかき消される。
徐に懐からサプリメントを取り出し、それを口に放って飲み込んだ後、心地よく目を閉じて数秒。いつの間にか眠りに落ちていた東伍を起こしたのは、ドンドンと窓を叩く音だった。
外はまだ薄暗かったが、滝のように流れていたはずの雨が止んでいた。街灯の明かりは消えて、代わりに陽の柔い光が窓ガラスに吸い付く水の粒をキラキラと反射させている。
車内を覗く人物は、シラけた表情で首を傾げていた。
「また車中泊ですか。水野先生」
車から降りて来た東伍の横顔を見上げるようにして、女は鋭く言った。東伍はその声ごと拭うように両手で顔を擦ると、顔を露わにして微笑む。
「おはようございます。須藤先生」
「おはようございます、じゃなくて。こういうことは控えるようにずっと言ってますよね? 毎回毎回、なんで車で寝るんですか?」
「えっと。前にも説明したと思うんですけど俺、朝が苦手で。特に月曜の朝って休み明けだから、全然起きれなくて。ギリギリまで眠れるようにと」
「だからって、水野先生がこうしていることが生徒に見つかると大変なことになるの想像できませんか?」
「大変?」
寝ぼけ眼の東伍が、目を細める。
その表情を見上げながら同僚、須藤あすかはほんのりと頬を赤く染めた。
「だ、だから。水野先生は人気者でしょう。朝からキャーキャー騒がれて収拾がつかなくなったらどうするんだと、私は」
「でも俺がこうして学校の駐車場で寝るようになってから今までで、一番に見つけて起こしてくださった事があるのは須藤先生、貴方だけです。それに今って何時です?」
「……六時、二十分ですけど」
だんだんと萎んでいくあすかの声に、東伍は寝癖のついた髪をかきあげながら笑った。
「いくら朝練などがあったとしても、こんな早くにうちの生徒は登校しませんよ」
「で、でも」
「それに俺、なんだかんだこうして須藤先生と話せる朝活を結構気に入ってるんですけどね。先生は?」
違うんですか、と東伍が訊けば。あすかはそれ以上の言葉を発せなかった。
「起こしてくれて助かりました。生徒が登校する前に部室でシャワー、浴びてきますね」
「あ、あのっ」
去る東伍をあすかは呼び止める。
「もしご迷惑じゃなかったら、朝起こしましょうか? その。電話とか」
あすかがもじもじと視線を泳がせて言えば、東伍はまたしても微笑む。
「ありがとうございます。いつか本当に必要になったら、お願いします」
軽く頭を下げる東伍。その伏せた瞼にのる長いまつ毛、筋の通った小振りの鼻、それから薄い唇を、あすかは直視できない。
再び遠ざかる広い肩幅。ポロシャツの奥の逆三角形の背中に、引き締まった尻から伸びる筋肉質のふくらはぎ。その全てに見惚れてしまうほど、東伍の存在はあすかの意識を独占していた。
角を曲がって東伍の姿が見えなくなると、あすかは一人ため息をつく。
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