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CASE:1
大柳佐和子 50歳 主婦
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「今日も遅くなるの?」
まだ陽も昇って間もない早朝5時半。自宅の玄関先で、佐和子は夫である勝紀に鞄を差し出しながらそう言った。
「ああ」
「例のラブホテルの事件。その事件に関わり始めてから、あなた少し変わったわ」
「変わった?」
「なんだかムキになっていない?」
靴べらを踵に沿わせ、中腰の状態で革靴を履く勝紀。その背中には間違いなく佐和子の声が届いていたが、勝紀はトントンと爪先を床に打ち付けるとすくっと背筋を伸ばし、
『いってくる』
そう言って振り向きもせずに行ってしまった。
バタンと閉まった光沢のある扉を見つめ、佐和子は深くため息をつく。式台に放置された靴べらを手に取ると、定位置に戻して踵を返した。
佐和子の夫、大柳勝紀は弁護士だ。一括りに弁護士といっても、大手企業をクライアントに持つビジネス重視な形態や、刑事事件などを専門に扱う当番弁護士や国選弁護人など様々だが、勝紀の事務所は地元密着型のいわゆる町弁と呼ばれるそれであった。
大柳勝紀法律相談事務所——
小さな事務所ながらも、自らの名を看板に掲げて約20年。街のお年寄りや小さな相談にも真摯に対応する勝紀の事務所は、それなりに評判であった。それなのに。
「どうして急に刑事事件……しかも、被疑者の弁護だなんて」
たったひとりきりの家。草花香る庭でガーデニングに勤しみながら、佐和子はついつい独り言を溢した。
ホームセンターで買ってきた花を鉢に移し替える。土をかけ、栄養剤のスポイトを挿せば、さっきまで枯れていた佐和子の心は庭と共に活気を取り戻した。
枯れた花を弾き、新しい花を植える。
そうして完成した佐和子の花園は、不思議の国へ通ずる穴が探せばどこかに存在するのではないかと思えるほどにメルヘンな仕上がりであった。
カサッ、と。垣根の向こうで音がした。佐和子はスコップを持つ手を止め、首を伸ばして目を細める。その動体視力でかろうじて確認できたのは、揺れながら去っていく若いポニーテールだった。
(花に、興味があったのだろうか)
佐和子は今一度自身の庭を見回し、妙に鼻が高くなる。
「そうだわ、貰い物のカモミールがあったかしら。そろそろお茶にしましょうかね」
佐和子は軍手を外す。首に巻いたタオルで額を拭いつつ、家のリビングへと繋がるウッドデッキを上がった。
よいしょ、と。思わず声に出てしまう。
「これくらいで疲れちゃうなんて全く、歳を重ねるのは嫌だわ。あら……それともちょっと、太ったかしらね」
佐和子は泥のついたエプロンを剥ぎ取り、ふわりと風を含んだ麻のワンピースを腹に押し付けた。なだらかに段々になる腹を見て、佐和子は更に呟く。
「いいじゃない、これくらい。幸せ太りってやつだわ」
大袈裟に眉を上げ、キュッと口を結ぶ。いよいよ独り言ももの寂しく感じてきた折、リビングの固定電話が鳴った。
「はいはいはい、少々お待ちくださいね、と……」
佐和子は小気味よい足音を立てながら電話まで向かい、受話器を取った。
「はい、大柳でございます」
先ほどの独り言に比べ、2段階は高いトーンで佐和子が言う。だが電話の相手は最初、声を発さなかった。
「もしもし? 聴こえていらっしゃる?」
「……あなたの人生」
「はい?」
「あなたの人生、高額買取りさせて頂けませんか」
ガチャンッ
佐和子は思わず受話器を置いた。終了する通話。同時に、不安と気持ち悪さが佐和子の胸中を侵食していく。
「な、なに。今の電話」
間も無く、再びコール音が鳴り響いた。佐和子は小さく悲鳴を上げるも、だんだんと怒りの感情が湧いてきて受話器を取る。
「ちょっと、悪戯なら警察に——」
「おい、佐和子。俺だ」
「え? あなた?」
今度の電話の相手は勝紀だった。
「どうかしたのか?」
「あ、いや。ちょっと」
佐和子は悪戯電話のことを勝紀に話そうとも思ったが、それ以前に気になったことを口にする。
「そっちこそ、どうかしたの? 珍しいじゃない。あなたが仕事中に連絡を寄越すだなんて」
「そうだ佐和子、今すぐに俺の書斎に行ってくれ。机の上にある封筒、それをそのまま金庫に入れて欲しいんだ」
「封筒を金庫に? 一体何が入って」
「中身は決して見るんじゃない!!」
勝紀の突然の大声に、佐和子は耳から受話器を離す。
「な、なによ」
「いいか佐和子、これから言うことをよく聞いて。封筒の中身は極秘資料なんだ。いつも俺のそばにいるお前なら、俺が仕事に対してどう向き合っているか、わかるな? 決して中身は見るな。それから、しばらく自宅には帰れない」
一体何が起きているというのか。
まだ陽も昇って間もない早朝5時半。自宅の玄関先で、佐和子は夫である勝紀に鞄を差し出しながらそう言った。
「ああ」
「例のラブホテルの事件。その事件に関わり始めてから、あなた少し変わったわ」
「変わった?」
「なんだかムキになっていない?」
靴べらを踵に沿わせ、中腰の状態で革靴を履く勝紀。その背中には間違いなく佐和子の声が届いていたが、勝紀はトントンと爪先を床に打ち付けるとすくっと背筋を伸ばし、
『いってくる』
そう言って振り向きもせずに行ってしまった。
バタンと閉まった光沢のある扉を見つめ、佐和子は深くため息をつく。式台に放置された靴べらを手に取ると、定位置に戻して踵を返した。
佐和子の夫、大柳勝紀は弁護士だ。一括りに弁護士といっても、大手企業をクライアントに持つビジネス重視な形態や、刑事事件などを専門に扱う当番弁護士や国選弁護人など様々だが、勝紀の事務所は地元密着型のいわゆる町弁と呼ばれるそれであった。
大柳勝紀法律相談事務所——
小さな事務所ながらも、自らの名を看板に掲げて約20年。街のお年寄りや小さな相談にも真摯に対応する勝紀の事務所は、それなりに評判であった。それなのに。
「どうして急に刑事事件……しかも、被疑者の弁護だなんて」
たったひとりきりの家。草花香る庭でガーデニングに勤しみながら、佐和子はついつい独り言を溢した。
ホームセンターで買ってきた花を鉢に移し替える。土をかけ、栄養剤のスポイトを挿せば、さっきまで枯れていた佐和子の心は庭と共に活気を取り戻した。
枯れた花を弾き、新しい花を植える。
そうして完成した佐和子の花園は、不思議の国へ通ずる穴が探せばどこかに存在するのではないかと思えるほどにメルヘンな仕上がりであった。
カサッ、と。垣根の向こうで音がした。佐和子はスコップを持つ手を止め、首を伸ばして目を細める。その動体視力でかろうじて確認できたのは、揺れながら去っていく若いポニーテールだった。
(花に、興味があったのだろうか)
佐和子は今一度自身の庭を見回し、妙に鼻が高くなる。
「そうだわ、貰い物のカモミールがあったかしら。そろそろお茶にしましょうかね」
佐和子は軍手を外す。首に巻いたタオルで額を拭いつつ、家のリビングへと繋がるウッドデッキを上がった。
よいしょ、と。思わず声に出てしまう。
「これくらいで疲れちゃうなんて全く、歳を重ねるのは嫌だわ。あら……それともちょっと、太ったかしらね」
佐和子は泥のついたエプロンを剥ぎ取り、ふわりと風を含んだ麻のワンピースを腹に押し付けた。なだらかに段々になる腹を見て、佐和子は更に呟く。
「いいじゃない、これくらい。幸せ太りってやつだわ」
大袈裟に眉を上げ、キュッと口を結ぶ。いよいよ独り言ももの寂しく感じてきた折、リビングの固定電話が鳴った。
「はいはいはい、少々お待ちくださいね、と……」
佐和子は小気味よい足音を立てながら電話まで向かい、受話器を取った。
「はい、大柳でございます」
先ほどの独り言に比べ、2段階は高いトーンで佐和子が言う。だが電話の相手は最初、声を発さなかった。
「もしもし? 聴こえていらっしゃる?」
「……あなたの人生」
「はい?」
「あなたの人生、高額買取りさせて頂けませんか」
ガチャンッ
佐和子は思わず受話器を置いた。終了する通話。同時に、不安と気持ち悪さが佐和子の胸中を侵食していく。
「な、なに。今の電話」
間も無く、再びコール音が鳴り響いた。佐和子は小さく悲鳴を上げるも、だんだんと怒りの感情が湧いてきて受話器を取る。
「ちょっと、悪戯なら警察に——」
「おい、佐和子。俺だ」
「え? あなた?」
今度の電話の相手は勝紀だった。
「どうかしたのか?」
「あ、いや。ちょっと」
佐和子は悪戯電話のことを勝紀に話そうとも思ったが、それ以前に気になったことを口にする。
「そっちこそ、どうかしたの? 珍しいじゃない。あなたが仕事中に連絡を寄越すだなんて」
「そうだ佐和子、今すぐに俺の書斎に行ってくれ。机の上にある封筒、それをそのまま金庫に入れて欲しいんだ」
「封筒を金庫に? 一体何が入って」
「中身は決して見るんじゃない!!」
勝紀の突然の大声に、佐和子は耳から受話器を離す。
「な、なによ」
「いいか佐和子、これから言うことをよく聞いて。封筒の中身は極秘資料なんだ。いつも俺のそばにいるお前なら、俺が仕事に対してどう向き合っているか、わかるな? 決して中身は見るな。それから、しばらく自宅には帰れない」
一体何が起きているというのか。
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