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【第2部】愈々

真打ち

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「井無田」
 
 さほど大きくもない声量で芹が言えば、カウンターの奥から男がひとり、足音もなく現れる。彼は目の前の男と同じく、黒の蝶ネクタイに紺色のベスト、サングラスを身につけているが、どうやら鼻の下の髭は本物のようだ。
 
「変わってください」
「かしこまりました」
 
 小さくお辞儀をした今度こそ本物の井無田は、俺にも軽く頭を下げるとテキパキと動き出す。あまりに無駄のないその動作に、これが本来の彼の仕事なのだと納得せざるを得ない。
 
 一方せりはというと、煩わしそうに蝶ネクタイを外し、カウンター下から取り出した赤いネクタイを瞬時に締め、背広を羽織っていた。
 
 芹と井無田のふたりがカウンターの中に立つ状況を見て、俺はふと気づく。
 
 そうだ。年齢だ。本に書いてあったではないか、と。
 
 芹は20代半ば。対して、井無田は40代半ば。喫茶店に入って初めて顔を合わせたあの瞬間で、目の前の人物が井無田でないことにはすぐに気づけるはずだった。
 
 不覚だ。
 
「あの。お隣、よろしいです?」
 
 急に背後から声をかけられる。いつの間にか、芹は俺のすぐ側まで来ていた。
 
 隣と言っても若干距離のあるカウンターの椅子に腰を下ろせば、芹は俺の方に顔を向ける。
 
「そうですねえ。どなたのことからお話ししましょうか。あ、大柳佐和子様が宜しいですかね」
「ちょ、ちょっと待ってください。その前に説明を」
「説明? ああ、なぜわたくしが井無田のふりをしていたのか、でしょうか?」
「いや、まあ……それも気になるっちゃ気になりますけど。それよりこれです、この印! これって俺、契約しちゃったってことになりますよね?」
「おや。不本意でしたか」
「当たり前です!」
 
 契約日数だとか、対価とか、何にも決まっていないまま勝手に決められて。そもそも契約したらすぐにやかたへと行けるはずなのに、俺は未だに喫茶店の中。これじゃあんまりだ。
 
「俺は一体、どんな契約を?」
 
 芹はカウンターに腕を乗せると、手のひらを合わせ組む。
 
「あなたの契約期間は、この喫茶店を出るまでのおよそ数時間。対価はその本に出てくる人物の情報。それでいかがでしょう」
「に、2億円の話は? それに、できれば館にも行きたいんですけど」
 
 たぶん俺の表情は今、間抜けだ。
 
 万華鏡の館。初めてこの本を手にしたのは、前の職場に辞表を出して直ぐのことだった。
 
 小さな古書店。その店先に平積みされた一番上に、その本はあった。最初はタイトルが気になり、手にしてめくればその内容を追うことを止められなくて。どうしても本について調べたい。その一心で、俺は編集部の扉を叩いたのだ。
 
 世の中は、漫然と生きる人間に冷たい。
 
 スポーツや芸事に長けた人間は当然注目され、もてはやされ、精神的にもふところ的にも潤う。笑顔が増えて、人に優しくされるぶん他者にも優しくなれて、いいこと尽くめだ。
 
 もちろん、それは類い稀なる努力の結果であることは充分に理解している。この感情が嫉妬だと言われれば、素直に認める。
 
 けれど、誰もが甲子園を目指す高校球児のようにきらめけるかといえば、答えはノーだ。
 
「俺、自分はずっと凡人だと思って生きてきました。勉強も運動も容姿も、どれもパッとしない。深く付き合うような友情も恋愛も築いてこなかったし、なにか秀でた才能があるわけでもない。それでも、普通であることが恵まれている……そう自分に言い聞かせて、今まで生きてきたんです」
 
 芹は今どんな顔をしているだろうか。呆れ顔? それとも面倒に思って、そっぽを向いている? 俺は怖くて、芹の方には顔は向けずに、井無田の仕事ぶりをぼやっと見ながら話を続けた。
 
「でもこの本に出てくる人たちは皆、必死だった。自分の置かれた状況をどうにか好転させようと必死にもがいて、欲に忠実に行動して。思いやりとか偽善とか、そんなのが一切なかったんです。自分の目的のために他者を利用する……そんな生き方を、俺もしてみたい。そう思いました」
 
 これは賭けだ。芹に気に入ってもらえるかどうかの、芹が俺を利用し得る人間だと判断するかどうかの、駆け引き。

「少し、愚直過ぎたでしょうか」
「いいえ。大変、興味深い」
 
 俺はその言葉を聞いて、すぐに顔を芹の方へと向けた。芹の表情は柔和に微笑んでいる。
 
「あなたは今、私を利用して自分の欲を満たしたいと、そう発言なさった。素直な人は嫌いじゃありません。では、こうしましょう。今現在の契約は仮契約。これから私がお話しすることを聴いて頂き、それでも尚2億円の報酬のもと館へ出向きたいとあらば……その時は、お望み通りに」
「あの。その際は是非、この本の著者である権堂薫さんも一緒にやかたへ——」
 
 
 ボーン……ボーン……
 
 
 店の奥に置かれている振り子時計の時報が鳴った。
 
「おや。12時になってしまいましたね。井無田、適当に軽食を」
「かしこまりました」
 
 芹の指示を受け、井無田は奥にあるパントリーへと下がっていく。
 
「なにか、おっしゃいました?」
「あ、いや」
 
 俺は時報に遮られた言葉を、ひとまず飲み込んだ。
 
「では気を取り直して。まずは大柳佐和子おおやぎさわこ様について、お話し致しましょう」
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