52 / 81
【第2部】愈々
真打ち
しおりを挟む
「井無田」
さほど大きくもない声量で芹が言えば、カウンターの奥から男がひとり、足音もなく現れる。彼は目の前の男と同じく、黒の蝶ネクタイに紺色のベスト、サングラスを身につけているが、どうやら鼻の下の髭は本物のようだ。
「変わってください」
「かしこまりました」
小さくお辞儀をした今度こそ本物の井無田は、俺にも軽く頭を下げるとテキパキと動き出す。あまりに無駄のないその動作に、これが本来の彼の仕事なのだと納得せざるを得ない。
一方芹はというと、煩わしそうに蝶ネクタイを外し、カウンター下から取り出した赤いネクタイを瞬時に締め、背広を羽織っていた。
芹と井無田のふたりがカウンターの中に立つ状況を見て、俺はふと気づく。
そうだ。年齢だ。本に書いてあったではないか、と。
芹は20代半ば。対して、井無田は40代半ば。喫茶店に入って初めて顔を合わせたあの瞬間で、目の前の人物が井無田でないことにはすぐに気づけるはずだった。
不覚だ。
「あの。お隣、よろしいです?」
急に背後から声をかけられる。いつの間にか、芹は俺のすぐ側まで来ていた。
隣と言っても若干距離のあるカウンターの椅子に腰を下ろせば、芹は俺の方に顔を向ける。
「そうですねえ。どなたのことからお話ししましょうか。あ、大柳佐和子様が宜しいですかね」
「ちょ、ちょっと待ってください。その前に説明を」
「説明? ああ、なぜ私が井無田のふりをしていたのか、でしょうか?」
「いや、まあ……それも気になるっちゃ気になりますけど。それよりこれです、この印! これって俺、契約しちゃったってことになりますよね?」
「おや。不本意でしたか」
「当たり前です!」
契約日数だとか、対価とか、何にも決まっていないまま勝手に決められて。そもそも契約したらすぐに館へと行けるはずなのに、俺は未だに喫茶店の中。これじゃあんまりだ。
「俺は一体、どんな契約を?」
芹はカウンターに腕を乗せると、手のひらを合わせ組む。
「あなたの契約期間は、この喫茶店を出るまでのおよそ数時間。対価はその本に出てくる人物の情報。それでいかがでしょう」
「に、2億円の話は? それに、できれば館にも行きたいんですけど」
たぶん俺の表情は今、間抜けだ。
万華鏡の館。初めてこの本を手にしたのは、前の職場に辞表を出して直ぐのことだった。
小さな古書店。その店先に平積みされた一番上に、その本はあった。最初はタイトルが気になり、手にして捲ればその内容を追うことを止められなくて。どうしても本について調べたい。その一心で、俺は編集部の扉を叩いたのだ。
世の中は、漫然と生きる人間に冷たい。
スポーツや芸事に長けた人間は当然注目され、もてはやされ、精神的にも懐的にも潤う。笑顔が増えて、人に優しくされるぶん他者にも優しくなれて、いいこと尽くめだ。
もちろん、それは類い稀なる努力の結果であることは充分に理解している。この感情が嫉妬だと言われれば、素直に認める。
けれど、誰もが甲子園を目指す高校球児のように煌めけるかといえば、答えはノーだ。
「俺、自分はずっと凡人だと思って生きてきました。勉強も運動も容姿も、どれもパッとしない。深く付き合うような友情も恋愛も築いてこなかったし、なにか秀でた才能があるわけでもない。それでも、普通であることが恵まれている……そう自分に言い聞かせて、今まで生きてきたんです」
芹は今どんな顔をしているだろうか。呆れ顔? それとも面倒に思って、そっぽを向いている? 俺は怖くて、芹の方には顔は向けずに、井無田の仕事ぶりをぼやっと見ながら話を続けた。
「でもこの本に出てくる人たちは皆、必死だった。自分の置かれた状況をどうにか好転させようと必死にもがいて、欲に忠実に行動して。思いやりとか偽善とか、そんなのが一切なかったんです。自分の目的のために他者を利用する……そんな生き方を、俺もしてみたい。そう思いました」
これは賭けだ。芹に気に入ってもらえるかどうかの、芹が俺を利用し得る人間だと判断するかどうかの、駆け引き。
「少し、愚直過ぎたでしょうか」
「いいえ。大変、興味深い」
俺はその言葉を聞いて、すぐに顔を芹の方へと向けた。芹の表情は柔和に微笑んでいる。
「あなたは今、私を利用して自分の欲を満たしたいと、そう発言なさった。素直な人は嫌いじゃありません。では、こうしましょう。今現在の契約は仮契約。これから私がお話しすることを聴いて頂き、それでも尚2億円の報酬のもと館へ出向きたいとあらば……その時は、お望み通りに」
「あの。その際は是非、この本の著者である権堂薫さんも一緒に館へ——」
ボーン……ボーン……
店の奥に置かれている振り子時計の時報が鳴った。
「おや。12時になってしまいましたね。井無田、適当に軽食を」
「かしこまりました」
芹の指示を受け、井無田は奥にあるパントリーへと下がっていく。
「なにか、おっしゃいました?」
「あ、いや」
俺は時報に遮られた言葉を、ひとまず飲み込んだ。
「では気を取り直して。まずは大柳佐和子様について、お話し致しましょう」
さほど大きくもない声量で芹が言えば、カウンターの奥から男がひとり、足音もなく現れる。彼は目の前の男と同じく、黒の蝶ネクタイに紺色のベスト、サングラスを身につけているが、どうやら鼻の下の髭は本物のようだ。
「変わってください」
「かしこまりました」
小さくお辞儀をした今度こそ本物の井無田は、俺にも軽く頭を下げるとテキパキと動き出す。あまりに無駄のないその動作に、これが本来の彼の仕事なのだと納得せざるを得ない。
一方芹はというと、煩わしそうに蝶ネクタイを外し、カウンター下から取り出した赤いネクタイを瞬時に締め、背広を羽織っていた。
芹と井無田のふたりがカウンターの中に立つ状況を見て、俺はふと気づく。
そうだ。年齢だ。本に書いてあったではないか、と。
芹は20代半ば。対して、井無田は40代半ば。喫茶店に入って初めて顔を合わせたあの瞬間で、目の前の人物が井無田でないことにはすぐに気づけるはずだった。
不覚だ。
「あの。お隣、よろしいです?」
急に背後から声をかけられる。いつの間にか、芹は俺のすぐ側まで来ていた。
隣と言っても若干距離のあるカウンターの椅子に腰を下ろせば、芹は俺の方に顔を向ける。
「そうですねえ。どなたのことからお話ししましょうか。あ、大柳佐和子様が宜しいですかね」
「ちょ、ちょっと待ってください。その前に説明を」
「説明? ああ、なぜ私が井無田のふりをしていたのか、でしょうか?」
「いや、まあ……それも気になるっちゃ気になりますけど。それよりこれです、この印! これって俺、契約しちゃったってことになりますよね?」
「おや。不本意でしたか」
「当たり前です!」
契約日数だとか、対価とか、何にも決まっていないまま勝手に決められて。そもそも契約したらすぐに館へと行けるはずなのに、俺は未だに喫茶店の中。これじゃあんまりだ。
「俺は一体、どんな契約を?」
芹はカウンターに腕を乗せると、手のひらを合わせ組む。
「あなたの契約期間は、この喫茶店を出るまでのおよそ数時間。対価はその本に出てくる人物の情報。それでいかがでしょう」
「に、2億円の話は? それに、できれば館にも行きたいんですけど」
たぶん俺の表情は今、間抜けだ。
万華鏡の館。初めてこの本を手にしたのは、前の職場に辞表を出して直ぐのことだった。
小さな古書店。その店先に平積みされた一番上に、その本はあった。最初はタイトルが気になり、手にして捲ればその内容を追うことを止められなくて。どうしても本について調べたい。その一心で、俺は編集部の扉を叩いたのだ。
世の中は、漫然と生きる人間に冷たい。
スポーツや芸事に長けた人間は当然注目され、もてはやされ、精神的にも懐的にも潤う。笑顔が増えて、人に優しくされるぶん他者にも優しくなれて、いいこと尽くめだ。
もちろん、それは類い稀なる努力の結果であることは充分に理解している。この感情が嫉妬だと言われれば、素直に認める。
けれど、誰もが甲子園を目指す高校球児のように煌めけるかといえば、答えはノーだ。
「俺、自分はずっと凡人だと思って生きてきました。勉強も運動も容姿も、どれもパッとしない。深く付き合うような友情も恋愛も築いてこなかったし、なにか秀でた才能があるわけでもない。それでも、普通であることが恵まれている……そう自分に言い聞かせて、今まで生きてきたんです」
芹は今どんな顔をしているだろうか。呆れ顔? それとも面倒に思って、そっぽを向いている? 俺は怖くて、芹の方には顔は向けずに、井無田の仕事ぶりをぼやっと見ながら話を続けた。
「でもこの本に出てくる人たちは皆、必死だった。自分の置かれた状況をどうにか好転させようと必死にもがいて、欲に忠実に行動して。思いやりとか偽善とか、そんなのが一切なかったんです。自分の目的のために他者を利用する……そんな生き方を、俺もしてみたい。そう思いました」
これは賭けだ。芹に気に入ってもらえるかどうかの、芹が俺を利用し得る人間だと判断するかどうかの、駆け引き。
「少し、愚直過ぎたでしょうか」
「いいえ。大変、興味深い」
俺はその言葉を聞いて、すぐに顔を芹の方へと向けた。芹の表情は柔和に微笑んでいる。
「あなたは今、私を利用して自分の欲を満たしたいと、そう発言なさった。素直な人は嫌いじゃありません。では、こうしましょう。今現在の契約は仮契約。これから私がお話しすることを聴いて頂き、それでも尚2億円の報酬のもと館へ出向きたいとあらば……その時は、お望み通りに」
「あの。その際は是非、この本の著者である権堂薫さんも一緒に館へ——」
ボーン……ボーン……
店の奥に置かれている振り子時計の時報が鳴った。
「おや。12時になってしまいましたね。井無田、適当に軽食を」
「かしこまりました」
芹の指示を受け、井無田は奥にあるパントリーへと下がっていく。
「なにか、おっしゃいました?」
「あ、いや」
俺は時報に遮られた言葉を、ひとまず飲み込んだ。
「では気を取り直して。まずは大柳佐和子様について、お話し致しましょう」
0
あなたにおすすめの小説
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる