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パン屋 1
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緑色のとんがり帽子のような屋根の店から、焼きたてパンの香ばしいにおいが漂ってくる。ふんわりもちもち食パンと美少年店員が評判の店だ。今も道行く女性たちがちらちら店内を覗いている。
「また戦になるのかねえ」
五十代くらいの女性客の不安げな声に、話題の少年は紙袋を渡しながら「どうでしょうね」と曖昧に答えた。最近、ウイディラが次はケデウムを攻めるのではという話題で持ちきりだ。
「ケデウムは治安が悪くなって、物価も随分上がってるそうだよ」
「それは困りますね」
「バルカタルが負けるわけはないだろうけど、怖い話だね。じゃあアフラン、またね」
「ありがとうございました」
アフランが笑顔で常連客の女性を見送ると、隣で一緒に接客していた二十代後半くらいの小柄な女性が肩を叩いた。
「勉強が忙しいのにごめんなさいね。今日はもう上がっていいから」
「はい、叔母さん」
店の奥の厨房へ行くと、茶色いもじゃもじゃ頭の弟がバターを生地で包んでいた。
「ルファ。お昼ご飯食べた?」
「うん。サンドイッチ作っておいたよ」
「ありがと」
アフランは厨房のすみの椅子に座りハムとチーズとレタスを挟んだサンドイッチを頬張りながら、近くに置いてあった新聞を手に取る。アフランもルファも読み書きが上達し、今は新聞もスラスラ読めるようになっていた。
「ルファ。あの記事、見た?」
麺棒を転がしていたルファの手が止まった。苦々しく眉を寄せる。
「あー……。うん」
何も言いたくなさそうだったのでアフランは視線を新聞に戻し、二枚ほどめくる。そのページの小さな小さな欄には、彼らにとって新聞の一面記事より重大な出来事が載っていた。
【即位パレード襲撃犯 死刑執行】
記事は犯人の名前、処刑日時・場所・方法だけの簡単な内容のみ。重大な事件にしてはあまりに小さい。皇族の威光に影を落とすような記事はこんな扱いなのだろうか。それとも犯人が住んでいた村に配慮してなのだろうか。犯人はアフランとルファの故郷ロナロの村長を含めた数名の男たちだった。
皇族を敬う一部の過激派がロナロ村を襲撃する可能性を考えて、新聞では事件の翌日も村のことには触れていなかったが、数日後に発売されたゴシップ誌では犯人がロナロの者たちであることが書かれていた。皇族陰謀説をよく掲載している雑誌には、すでにロナロ村は国軍によって全員処刑されているという記事さえあったらしい。アフランは信じていないが、その証拠に現在ロナロ村は封鎖されて誰も入ることができないのだと、噂好きのお客さんが教えてくれた。もちろんその人はアフランたちがロナロ村出身とは知らない。知っているのは身元保証人である叔母とその夫だけだ。
アフランは複雑な胸中で記事を見据える。
アフランとルファは彼らに協力していたが、利用されただけということと未成年だということが考慮されて、身元保証人の管理下で暮らし、三年間はエイラト州から出ないことを義務付けられただけだった。皇帝を狙った事件にしてはかなり温情ある措置だ。
同郷の者の処刑をどう受け止めるべきか、まだ子供のアフランたちには整理できない。利用されて悔しい気持ちはあるし、ルファに至っては自爆させられそうになったのだから許せないが、かといって彼らを心の底から憎むことはできなかった。彼らが恨みを抱えて苦しんでいたことも知っているから。
「兄ちゃん、食べてみて」
ルファが焼き上がったばかりの食パンを二つ持ってきた。
アフランは暗く沈んだ気持ちを振り払い、一口ずつ味わう。
見た目は同じだが、噛んだときの甘味に若干違いがあった。
「こっち……かな」
「当たり。はあ。なんでだろ」
甘味が強い方はアフランが作り、もう一方はルファが作った。だが、材料を混ぜただけだ。こねる作業以降はすべてルファが行ったのに味が違う。
「材料も同じなのに、なんで兄ちゃんの方がおいしくなるんだろ」
こうして食べ比べるのはすでに九回目。同じように作っているのにアフランの方が美味しいのが悔しいルファは、どこで差が出るのか見つけるために少しずつ段階を遡り、とうとう材料を入れるまでに至った。
不満顔のルファは材料をどどんと机の上に並べる。
「混ぜ方が違うのかな」
「うぇ、また作るの?」
「いいでしょ。売れ行きいいんだから」
「そうだけどさあ。僕は何にもしてないよ?」
ぶつくさ言いながらアフランは材料を順に計量していき、水差しへ必要なだけ水を入れ、蛇口をしっかり閉める。この街は水の精霊の加護があるから感謝して使いなさいと耳にタコが出来るほど聞かされていた。
「ねえルファ。ロナロでも精霊の加護があると云われていたよね」
両手で頬杖をついてじっとアフランの手元を見ていたルファの顔が強張る。新聞記事を思い出したのだろう。
ロナロは精霊の加護があり、そして村人は精霊を守護していると母から教わった。村では一日一回お祈りをし、一月に一度村人全員が遺跡に集まって礼拝していた。食事の前だけでなく、畑仕事や料理をするときも胸の前で四角形と五芒星を切ってから行う。
信心深いアフランはパン作りの前も必ずその印を切っていた。
それを見たルファは手から顔を上げる。
「あ。ぼく、それやってないや」
「ルファは熱心な信者じゃないもんな。でも、これだけで変わるわけないだろう」
すべての材料を大きな器へ入れていき、水差しを持ち上げた。
すると。
”チャ・オ・アーギュスト”
微かにそんな声が聞こえた。
「……何か言った? ルファ」
「ううん。兄ちゃんじゃないの?」
「いや。僕はなにも」
”チャ・オ・アーギュスト デラ・レトク”
「水差しから?」
「そんなわけ……」
アフランはそっと水差しを覗き込んだ。
その中には、眼球のない不気味な魚がいた。
「うわっ」
驚いて水差しを床に落とす。こぼれてできた水たまりの部分だけ床が消え、暗闇の奥から不気味な魚が薄い唇をパクパクさせて泳ぎながら近づいてきた。
”チャ・オ・アーギュスト デラ・レトク”
聞いたことがない言葉のはずなのに、なぜか理解できた。不思議と恐怖もない。
アフランも水面へ近づこうと膝をついた、そのとき。
「アフラン、ルファ。お客さんよー。中に通していい?」
叔母さんの声の方へ顔を向ける。はっとして再び水たまりへ視線を戻すが、不気味な魚は消えていない。
「ま、待って」
この水たまりを見られるのは良くないのではと思ったアフランとルファは慌てて店へ向かい、客の顔を見て止まった。
栗色の髪の少女と、金髪の少年。
帝都にいたとき、助けてくれた人だった。
「また戦になるのかねえ」
五十代くらいの女性客の不安げな声に、話題の少年は紙袋を渡しながら「どうでしょうね」と曖昧に答えた。最近、ウイディラが次はケデウムを攻めるのではという話題で持ちきりだ。
「ケデウムは治安が悪くなって、物価も随分上がってるそうだよ」
「それは困りますね」
「バルカタルが負けるわけはないだろうけど、怖い話だね。じゃあアフラン、またね」
「ありがとうございました」
アフランが笑顔で常連客の女性を見送ると、隣で一緒に接客していた二十代後半くらいの小柄な女性が肩を叩いた。
「勉強が忙しいのにごめんなさいね。今日はもう上がっていいから」
「はい、叔母さん」
店の奥の厨房へ行くと、茶色いもじゃもじゃ頭の弟がバターを生地で包んでいた。
「ルファ。お昼ご飯食べた?」
「うん。サンドイッチ作っておいたよ」
「ありがと」
アフランは厨房のすみの椅子に座りハムとチーズとレタスを挟んだサンドイッチを頬張りながら、近くに置いてあった新聞を手に取る。アフランもルファも読み書きが上達し、今は新聞もスラスラ読めるようになっていた。
「ルファ。あの記事、見た?」
麺棒を転がしていたルファの手が止まった。苦々しく眉を寄せる。
「あー……。うん」
何も言いたくなさそうだったのでアフランは視線を新聞に戻し、二枚ほどめくる。そのページの小さな小さな欄には、彼らにとって新聞の一面記事より重大な出来事が載っていた。
【即位パレード襲撃犯 死刑執行】
記事は犯人の名前、処刑日時・場所・方法だけの簡単な内容のみ。重大な事件にしてはあまりに小さい。皇族の威光に影を落とすような記事はこんな扱いなのだろうか。それとも犯人が住んでいた村に配慮してなのだろうか。犯人はアフランとルファの故郷ロナロの村長を含めた数名の男たちだった。
皇族を敬う一部の過激派がロナロ村を襲撃する可能性を考えて、新聞では事件の翌日も村のことには触れていなかったが、数日後に発売されたゴシップ誌では犯人がロナロの者たちであることが書かれていた。皇族陰謀説をよく掲載している雑誌には、すでにロナロ村は国軍によって全員処刑されているという記事さえあったらしい。アフランは信じていないが、その証拠に現在ロナロ村は封鎖されて誰も入ることができないのだと、噂好きのお客さんが教えてくれた。もちろんその人はアフランたちがロナロ村出身とは知らない。知っているのは身元保証人である叔母とその夫だけだ。
アフランは複雑な胸中で記事を見据える。
アフランとルファは彼らに協力していたが、利用されただけということと未成年だということが考慮されて、身元保証人の管理下で暮らし、三年間はエイラト州から出ないことを義務付けられただけだった。皇帝を狙った事件にしてはかなり温情ある措置だ。
同郷の者の処刑をどう受け止めるべきか、まだ子供のアフランたちには整理できない。利用されて悔しい気持ちはあるし、ルファに至っては自爆させられそうになったのだから許せないが、かといって彼らを心の底から憎むことはできなかった。彼らが恨みを抱えて苦しんでいたことも知っているから。
「兄ちゃん、食べてみて」
ルファが焼き上がったばかりの食パンを二つ持ってきた。
アフランは暗く沈んだ気持ちを振り払い、一口ずつ味わう。
見た目は同じだが、噛んだときの甘味に若干違いがあった。
「こっち……かな」
「当たり。はあ。なんでだろ」
甘味が強い方はアフランが作り、もう一方はルファが作った。だが、材料を混ぜただけだ。こねる作業以降はすべてルファが行ったのに味が違う。
「材料も同じなのに、なんで兄ちゃんの方がおいしくなるんだろ」
こうして食べ比べるのはすでに九回目。同じように作っているのにアフランの方が美味しいのが悔しいルファは、どこで差が出るのか見つけるために少しずつ段階を遡り、とうとう材料を入れるまでに至った。
不満顔のルファは材料をどどんと机の上に並べる。
「混ぜ方が違うのかな」
「うぇ、また作るの?」
「いいでしょ。売れ行きいいんだから」
「そうだけどさあ。僕は何にもしてないよ?」
ぶつくさ言いながらアフランは材料を順に計量していき、水差しへ必要なだけ水を入れ、蛇口をしっかり閉める。この街は水の精霊の加護があるから感謝して使いなさいと耳にタコが出来るほど聞かされていた。
「ねえルファ。ロナロでも精霊の加護があると云われていたよね」
両手で頬杖をついてじっとアフランの手元を見ていたルファの顔が強張る。新聞記事を思い出したのだろう。
ロナロは精霊の加護があり、そして村人は精霊を守護していると母から教わった。村では一日一回お祈りをし、一月に一度村人全員が遺跡に集まって礼拝していた。食事の前だけでなく、畑仕事や料理をするときも胸の前で四角形と五芒星を切ってから行う。
信心深いアフランはパン作りの前も必ずその印を切っていた。
それを見たルファは手から顔を上げる。
「あ。ぼく、それやってないや」
「ルファは熱心な信者じゃないもんな。でも、これだけで変わるわけないだろう」
すべての材料を大きな器へ入れていき、水差しを持ち上げた。
すると。
”チャ・オ・アーギュスト”
微かにそんな声が聞こえた。
「……何か言った? ルファ」
「ううん。兄ちゃんじゃないの?」
「いや。僕はなにも」
”チャ・オ・アーギュスト デラ・レトク”
「水差しから?」
「そんなわけ……」
アフランはそっと水差しを覗き込んだ。
その中には、眼球のない不気味な魚がいた。
「うわっ」
驚いて水差しを床に落とす。こぼれてできた水たまりの部分だけ床が消え、暗闇の奥から不気味な魚が薄い唇をパクパクさせて泳ぎながら近づいてきた。
”チャ・オ・アーギュスト デラ・レトク”
聞いたことがない言葉のはずなのに、なぜか理解できた。不思議と恐怖もない。
アフランも水面へ近づこうと膝をついた、そのとき。
「アフラン、ルファ。お客さんよー。中に通していい?」
叔母さんの声の方へ顔を向ける。はっとして再び水たまりへ視線を戻すが、不気味な魚は消えていない。
「ま、待って」
この水たまりを見られるのは良くないのではと思ったアフランとルファは慌てて店へ向かい、客の顔を見て止まった。
栗色の髪の少女と、金髪の少年。
帝都にいたとき、助けてくれた人だった。
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