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濡れ衣

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 フェリクスがマルムの申し出を断ってから、彼女が訪ねてくることはなくなった。
 数週間が過ぎ、平穏が戻ってきたと思われた、ある日。
 いつものように、フェリクスはモンスとシルワ夫婦と共に夕食を済ませた後、くつろぎのひと時を過ごしていた。
 突然、玄関の戸を激しく叩く音が響いた。
「何かあったのかな」 
 モンスが扉を開けると、そこに立っていたのは険しい顔をした五十がらみの大柄な男――村長だった。
「フェリクスは、いるか」
 強い怒気をはらんだ声で、村長が尋ねた。
「いますが……一体どうしたんです?」
 驚きながらも、そう答えたモンスを押しのけて、村長は、フェリクスのほうへ足早に歩いてきた。
 フェリクスは、思わず座っていた椅子から腰を浮かしかけた。
 村長は、彼の前に立つと、胸倉を掴んだ。その手は、怒りの為か、小刻みに震えている。
「よくも娘を傷ものにしてくれたな!貴様のような余所者を村に置いてやっていたというのに、恩を仇で返すのか!」
 何を言われているのか、フェリクスは理解できなかった。
 初めて浴びせられた、強烈な負の感情に、彼は身をすくませた。
「娘は、腹に子がいると……相手は、貴様だと言っている!」
 激昂する村長の顔を見ながら、フェリクスは必死に脳内で状況を整理した。
「つまり村長は、俺がマルムと生殖行為を行ったと言っているのか。そうだとすれば、それは絶対にない」
「娘が、嘘をついていると言うのか?! 貴様は、娘と頻繁に会っていたそうじゃないか!」
「村長さん、この子が、そんなことする訳ありません、何かの間違いです」
 シルワが、村長の腕に縋って言った。
「お嬢さんが身籠っていると、お医者が、そう言ったんですか?」
 モンスが、冷静な口調で問いかけると、村長は、フェリクスの胸倉を掴んでいた手を乱暴に離した。
「医者には、まだ見せていないが……娘が、嘘をつく理由もない。モンスもシルワも、この男を変に庇い立てすれば、村に居づらくなるかもしれんぞ」
 捨て台詞と共に、村長は去って行った。
「フェリクス、本当に、村長のお嬢さんとは何もなかったんでしょう?」
 シルワが、両手でフェリクスの手を握って言った。
「……何度か会って話したことはあるが、村長の言うようなことはなかった。ただ……」
「ただ?」
「少し前に、マルムから『一緒になって欲しい』と言われた。でも、俺は、はっきりと断ったんだ」
 フェリクスの言葉を聞いて、モンスとシルワは溜息をいた。
「逆恨みかもしれんな……」
 モンスが呟いた。
「逆恨みとは?」
「あなたが間違ったことをした訳ではないけれど、お嬢さんは、あなたに振られて悲しかった気持ちを、どこかにぶつけたかったんだね……でも、ひど過ぎるよ」
 フェリクスの手をさすりながら、シルワが言った。
「大丈夫、わしらは、お前さんを信じているよ」
 モンスも言って、フェリクスの背中に手を当てた。
 二人を見ていたフェリクスは、胸が痛くなり、目の奥が熱くなるのを感じた。
「可哀想に……あなたみたいな、いい子が、どうしてこんな……」
 涙を流しているフェリクスを見て、シルワも泣いている。
「……違う……違うんだ」
 村長の捨て台詞を、フェリクスは思い出していた。
「俺は、どうなってもいい。でも、俺の所為で、モンスとシルワに迷惑をかけてしまうのが嫌だ……」
「なに、わしらのことは心配ない。とりあえず、今日は、もう休んだほうがいい」
 赤ん坊を寝かしつける時のように、モンスはフェリクスの背中を軽く叩いた。

 夜も更けた頃、フェリクスは、モンスとシルワが眠っているのを確かめると、物音を立てぬように家を出た。
 二人は心配ないと言ったものの、この家に留まれば、やはり迷惑をかけてしまうと、フェリクスは判断した。
 自分がいなくなることで、少しでも、村長の彼らに対する当たりが和らげば――行くところなど、ある筈もなかったが、フェリクスは村を出て、足の向くままに歩いた。
 冬の初めの冷たい夜気の中、星だけが彼の姿を見ていた。
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