仮面の戦士 ホーン

忍 嶺胤

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一章 ソーラーホーン

6.街の風景

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 美那斗は駈け出した。転んだ男の子は膝を擦り剥いて血を流しているが、痛みよりも驚きと怖ろしさが勝り、ガクガクと震えている。顔面蒼白、半ズボンのファスナーの辺りに濡れた染みが広がっていく。
 怪人がけたたましく笑っている。
 美那斗は男の子を抱きかかえると、正門へ向かった。ラスツイーターが後を追って来るかと不安だったが、同じ物へはそれ程執着心を見せないようだ。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
 美那斗がいたわるように何度も大丈夫と口にする。それはそのまま自分への囁きにも思えた。
 正門近くに学校の先生と思しき人を見つけ、男の子を預ける。防護用のコートの腰から腹部にかけた辺りが濡れていたが、意に介す暇もなく向きを変える。さっきまでラスツイーターが立っていた場所に、今はもうその姿は無い。
 駈け出して戻りながら周囲を見渡すと、ラスツイーターは新たな嘲りの対象を見出したようだ。
 校舎の裏側に数十名の生徒が身を潜めている。裏門から外に逃げ出す機会を伺っていたのだろう。大人の姿はなく、先頭の男の子が指揮を執っているらしい。ラスツイーターがそちらに指を突き出しながら大声で笑っている。
「イーッ、イーッ、イーッ」
 一体何がそんなに面白いというのか。美那斗の胸の内にふつふつと怒りが湧いてくる。理解し難い憎悪。名状し難い嫌悪。
 大勢人がいる所で銃を抜く愚を犯したい衝動に駆られていると、彼女の左側、比較的太い幹の樹の影で光が弾けた。
 白と黄の巨軀、ホーンだ。
 樹間から飛び出したホーンはラスツイーターと対峙した。注意を子供達から突如出現した異様な風体のものに向けると、今度はホーンの様を侮蔑しながら奇声を発する。
 その声がホーンに与える影響なのか、ホーンが両手を頭に当てて苦悶し、のたうつ。美那斗は不信に思いながらも、この期を逃さないように、ラスツイーターの後を廻り込むと、子供達の方へ走り出した。
「今の内よ。逃げましょう」
 安全な場所へ誘導しようとするが、子供達の足は凍り付いたようになかなか動かない。口々に「また怪物が現れた」「もう駄目」と騒ぎ出し、恐慌を来しているらしい。
「あれは味方よ。大丈夫。さあ早く」
 美那斗には光り輝く猛々しさを感じるホーンも、子供達にはそうではないと知って驚かされながらも、叱咤激励を続け、一人一人確実に学校の敷地の外へ押し出してやる。学校の周辺は混乱状態にあった。校内から逃げ出した者や周辺住民、子供達を心配する親族などが溢れかえっている。
 住宅街の一角に建てられた学校のため、周りを囲む道路は狭く、通学路の交通安全の観点からは非常に有益ではあるが、子供の救出に車で乗り入れる者がいると、混乱に飲まれ進退窮まり、直ぐに車両は乗り捨てられ、更なる混乱を招いてしまう。
 そんな状況であったから、近くに聞こえるサイレンの音が近づいてくる気配がなかった。
 他に取り残された人はいないかと、美那斗が細い首を巡らせる。
 一方、その頃ホーンは叫んでいた。
 人間の耳には届かない声で、天を仰ぎ咆哮を放っている。
 その様子が可笑しいらしく、ラスツイーターが腹を抱えて、絶えず「イーーッ」と呻いている。
 ホーンは欲望の声の奔流に苛まれているのだ。
(何、その姿。気持ち悪い。角が生えて、ケダモノじゃない。色もダサいし。デカイ体して気持ち悪。そんなんでよく人前にでられたものよね。ウザ過ぎ。消えてなくなんなさいよ。ギャハハッ。こんな醜い姿でごめんなさーい。皆に笑われちゃう。かわいそう。かわいそう。ヒッヒヒヒッ。アハハハッ。ヒーッ)
 言葉であれば音が順番に流れてくるだけだが、この怪人の場合は意識が塊となって、ホーンの脳内に一度に飛び込んできては精神にダメージを与える。それが途切れることなく繰り返されるのだ。
 美那斗の目からは、両者は手の届きそうな距離を保ったまま睨み合っているように見えるのだが、今、ホーンは激しく攻め立てられている。
(ワラえる。ヘンよ、ヘンすぎ。ブキミだし、バカっぽいし、恥ずかしすぎでしょ。いい加減帰ったら。ハハハッ。アハハハァ)
(止めろっ)
 常に喋り続けているのは顔面についている口だ。全身の至る所にくっついた唇は言葉は放たず、笑い続けている。パクパクと唇が開いたり閉じたりする様子だけでも充分不気味だが、嘲笑の意識の波動に飲み込まれる感覚がホーンを狂気へ引き込んでいくようだ。
 貶しめ、卑しむ意志が、哄笑の渦となって襲いかかるのに抗うように、ホーンは手を突き出した。
 絶えず動き回り、両足で地面を踏みしめ、両手を叩きながら笑い転げているラスツイーターがホーンの手に押され、尻餅をついた。それでも笑いを止めようとしない。尻を地につけたまま、両手両足をバタバタとさせている。
(ヤダ、マジになっちゃって、オッカシー。プププッ。こっち見ないでくれる。キショイって言ってるしぃ。本ともうカンベンして下さーーーーい)
 こめかみや額を押さえるホーンを尻目に、倒されたラスツイーターの方が寧ろ嬉々としている。動き回る勢いで存外に機敏に立ち上がると、長い両手を腰に当てながら、体をくの字に曲げ、下から覗き見するように、ホーンに蔑視を投げる。
 そしてつと、ラスツイーターの手が伸び、ホーンの角に触れた。
(うげぇ~。きっ、気持ち悪いぃーっ、なにこれっ。うねうねして、ボコボコして。ヒィィィ、手が腐るぅ。腐っちゃうから、消毒ーーーっ。気味悪いよぉ。助けてぇ。ぎゃははははっ。あんたホント気持ち悪いからさぁ、どっか行っちゃってよ。早くぅ)
 堪りかねて再び突き出したホーンの手を、だが今度はラスツイーターは躱してみせた。
 体操選手のような靭やかな動きで後方へとんぼを切る。二転、三転と、ホーンとの距離を取ると、その場に膝を開いてしゃがみ、両腕をダラリと下げる。その様子は猿を連想させた。同じ姿勢のまま両手で地面を叩き、相変わらず全身の唇は嘲笑を続けている。
「ホーン」
 美那斗が声を上げる。ホーンの耳にはラスツイーターの笑い声に掻き消されることなく、その声が届く。不安そうな悲しみの混じった声。ホーンの闘気が奮い立つ。
 腕を振り上げ突進した。怪人の首を締め、声を出せなくする動きだ。だが、ホーンの指がラスツイーターに触れるより先に、ホーンの体が弾かれた。
 スッと立ち上がったラスツイーターの、大きな一輪の花のような頭部の萼に当たる項の辺りから、数本の蔓が急速に伸び出し、鋭利な棘の鞭でホーンの巨軀を縦横に薙いだのだ。たちまちの内に体表が裂け、幾筋もの鮮血が吹き出すようにホーンは痛みに喘いで卒倒した。実際に血が流れることはなかったが、それと同程度のダメージと衝撃を受けた。これは一体、どういうことだろう。
 体に感じる痛みは錯覚だとでも言うのか。訝る様子をもまた、怪人は笑いの種にする。
(このケダモノ、すっ転んじゃいましたぁ。ダサいでーす。みっともなさすぎぃ。おっきな体して、すってーーーんって、カッコ悪いですね。お腹が痛いよぉ。何でそんなに醜いんですか。くくくっ。私に触れもしないし、角も爪も、何の役にも立たないじゃない。ああらっ? 怒っちゃった? 悔しいのかなぁ。ほらほら早く立って。捕まえてみなさい。こっちこっち)
 ラスツイーターはホーンに尻を向けると、自らの手で叩いて挑発のポーズを取る。妖艶な曲線を見せる腰から臀部にかけたラインにも唇が並び、水面で呼吸をする鯉の口のようにパクパクと蠢いているのが、不気味で嘔吐感を誘ってくる。
 鉤爪を地面に食い込ませ、四肢で起き上がろうとするホーンの様子は、雄牛や雄羊に似た形状の野獣を思惟させ、益々怪人の嘲笑を煽っていく。
(お前何それ。あはははっ。いいわ。すんごい滑稽。笑える。ケダモノよ。ケダモノがここにいるわ。キャーーーーッ、怖いよぉ。助けてくださーーい。誰かぁ。この変なヤツに笑い殺されちゃう。ぎゃはっ、ギャハハッ)
 頭部に何本もの矢が一斉に突き刺さるような嘲笑の痛みに耐えながら雄叫びを上げると、ホーンが飛び出した。猪突猛進と呼ぶに相応しい、直線的な動きだ。
 ホーンとラスツイーターの体がぶつかる。
 と、思わせておいて、ホーンは急停止した。先と同じにラスツイーターの蔓が飛来するのを狙い、棘の生えたそれを手で握った。
 掌に棘が深く刺さるが、痛みをこらえて蔦を手繰る。
(ちょっと、野蛮人、何してんのよ。離せ。離せよ。くそ野郎。バカ)
 ラスツイーターは可成り慌ててる様子で、必死にホーンの手から逃れようと背を向け、藻掻きながらも、ジリジリと後ろに引っ張られていく。蔓がぴんと張られ、力が拮抗するかに見えた時、蔓が伸び出し、勢い余ってホーンが後に倒れる。
(うっそーっ。あはははっ。そんなワケないじゃん。ちょっと考えれば解るっしょ。化け物は頭の中身も化け物なのかなぁ? ははっ。ダサいダサーーいっ) 
 倒れた際に緩んだ掌の中から、途端に蔓はしゅるしゅると引き戻されていく。ホーンの体を這う蔓のひっかくような感覚が走った時には、眼前にラスツイーターの姿があった。
(バケモノ、バケモノ、ばけもの、このっ、バケモノーーーー)
 嘲笑しながら、ラスツイーターがホーンを踏みつける。
(恐いの? 怒ってるの? 恥ずかしいの? ひっどい顔してるわよ。みっともない。くすくす。ひっひっ)
 踏みつける足を捕まえるタイミングを見計っているのを悟られたのか、怪人はぽーんと大きく後方に跳ねた。両者の間には五十メートル近くも距離が開き、ラスツイーターの体は校舎の直ぐ近くにあった。そこには偶々避難しようとしていた校長がいて、驚愕の眼差しと焦燥の悲鳴が同時に洩れ出す。
 頭頂に髪は薄く、前方に腹が突き出た、定年を控えたスーツ姿の男性だ。
 新たな標的の出現に、ラスツイーターの関心はそちらへ移った。校長の前面に立ち塞がり、首を傾げて眺めている。それは見た目もそうなのだが、それ以上に心の中、欲望を覗き見ようという行為なのか、この時点からあの「イーーッ」という声がぴたりと止んだ。
 その隙に美那斗はホーンの側に駆け寄ると、倒れているプラチナのような光を反射させている体に触れた。意外な程に暖かく感じた。
「大丈夫!?」
 こんなに間近で見て、触れるのは初めてのことで、美那斗は少なからず興奮と緊張を覚えた。昆虫や恐竜を連想させる凹凸や突起があちこちにあって、無思慮に触れると怪我をしそうだが、不思議な事に美那斗に躊躇いは生じなかった。その厳つい全身を覆う武器の様な表層は、おそらく怪人に対してのものであり、人を、特に美那斗本人を傷つけたりはしないだろう。そんな確信に近い想いを抱きつつ、ホーンの大きな複眼を見つめる。
 ラスツイーターの耳を聾さんばかりに響き、精神を切り刻んでいく声が止んだことも勿論あるが、彼女の端正な顔を見、黒目がちな瞳に真っ直ぐに見つめられると、急激に心が落ち着きを取り戻し、癒やされていくようだ。
 泰朋には経験のない感情で、戸惑いはあるが、これは間違いなく父親の娘に対する愛情だろうと理解できた。彼女を守らなければ、彼女を守りたい。その想いはホーンに力を与えるようだった。
 何故、どこからこんな感情が湧き起こるのだろう。唐突すぎる気もするし、自然な成り行きにも想える。
 ホーンが上体を起こす。眼前に手を開くと、蔓の棘を握った傷が無数にあるはずだが、その形跡は全くなかった。掌と美那斗を複眼で同時に見つめながら、ホーンは美那斗が伝えた紙戯の言葉を脳裏に蘇らせていた。
「潜在意識を解き放て」
 紙戯が言いたい事の真意は解らないが、何かヒントになるようなものが、その言葉の内に含まれているような気がする。ホーンは自らの心の内側と対話するよう心に留めることにした。頭の何処か、心の片隅にでも、そっと置いておけば、何かのきっかけでそれを思い出し、役に立つ場面があるかもしれない。
 そんな事を想っていると、再びラスツイーターの声が届いてきた。
(トーサツ!?)
 だがそれは、今度は嘲笑ではなかった。
「どうしたの」
 怪人の言葉を聞くことの出来ない美那斗は、ホーンの様子から何かを察し、ラスツイーターの方を振り返る。
 ホーンと美那斗とラスツイーターと校長、四者の間に数秒間沈黙が流れる。
 川面のうねりのようにゆったりと静かに、怪人の項から蔓が伸びて垂れ下がる。
 そして、怪人の唇が開く。
(盗撮しているのね、お前。小学校の校長先生のくせに、女子トイレにカメラを仕掛けて、毎日チェックして、覗きまくってる。そういうのが好きで、癖になってて、興奮するんだ。止めようとしても止められない欲望の持ち主。そう、そうなの。そういうのが望みなのね。いいわ、その煩悩を昇華させてあげる)
 頭に響く耳を劈くような「イーーッ」という奇声ではなく、まるで相手を諭すような穏やかな声音で「イーーッ」と男に囁きかけるラスツイーターの蔓が、背後から前側に伸びていくと、校長の首に巻きつき、人間の体を空中へ持ち上げていく。
 喉を締め付けられているにも関わらず、校長は何故か抵抗を見せていない。手で蔓を掴み、剥がそうとすることも、地面から離れたつま先をばたつかせることもない。
 この光景に、美那斗は見覚えがあった。
 初めて怪人の姿を目にした夜のことだ。
  月崎護の肉体に怪人の指が突き刺さった夜のことだ。
 その夜、空には真白い真円の月が輝いていた。
 そういえば、今日も満月だった。
 美那斗の中で何かが腑に落ちた。
 校長は今、怪人にされようとしている。
「大変だわ。あの人を助けないと」
 ラスツイーターが心の奥底を覗き込んで掴んだ真実を聴いたホーンは、相手の男を蔑視こそすれども、同情や救助しようという心持ちにはなれなかったが、美那斗がコートのボタンを外し、剣を握ろうとするのを手で制した。
 学校長という立場を利用して女子トイレを盗撮するような男は、人間の成りはしていても、中身は怪物ではないか。片や怪人と恐れられる相手は、人の弱さやミスを嘲弄することに喜悦を求めているが、傷つけたり殺したりはしていない。本当に制裁を受けるべきなのは、一体どちらだろう。
 ホーンは迷った。だが、すぐに考えるのを止めて、本能に任せることにした。すると、体は楽に動かせるようになった。
 ホーンの足裏が地を蹴った。弾丸のようなスピードで巨軀が弾ける。
 瞬く間にラスツイーターへ迫ると、ホーンの右手が下から上へと振り上げられる。怪人と校長を繋いでいる鎖のような蔓が切断された。校長がどさりと地に落下する。
 ラスツイーターの二本の指が異様に長くなっていた。
 この指を男の股間に突き刺し、睾丸と心臓を合わせて取り出し、変容させて体内に戻し、人間をラスツイーターに変えようとしていたのだろう。あの夜のように。
 ラスツイーターはその様に己の体を変化させられる。そしてそれは、ホーンも同じであった。振り上げた右手、そこに掌はなかった。
 最初に闘ったラスツイーター<クラブ>の両手が棍棒の形状をしていたように、今、ホーンの腕の先は刃に変化している。鋭い切先を陽光に煌めかせ、しかもそれは蔓を切るためだけのナイフに似たものから更に伸張してゆき、剣の様に成る。
 ラスツイーターの足が一歩、また一歩と後退る。ホーンの放つ闘気に押されるように。強烈な意志の波動があって、怪人の意識に牙を立てて食い破ろうというようだ。ものすごい雰囲気を、ラスツイーターは嘲笑しようにも出来ずにいた。
 それどころではない。命の危機を覚える程、ホーンは鬼気迫っていた。そして、その予感は間違っていなかった。
 振り上げた剣が上空から垂直方向へ一閃する。
(やめて、やめて、やめて)
 絶えず嘲りの言葉を吐露し続けたラスツイーターの口から、初めて哀訴の声が漏れる。
 頭部に優美に咲く花の頂から眉間、鼻梁を貫いて、唇が縦に真二つに断ち斬られる。
 ラスツイーターの四肢が痙攣しながら、両眼が光を喪い、体中至る所にのぞく口腔が蠢かなくなる。
 ホーンの剣の刃先は怪人の顎で止まり、顔面から腕が生えているように見えた。頃合いを見計らって、ホーンの剣になっていた手が縮み、通常の掌に形状が戻ると、ラスツイーターはそのまま後に卒倒し、動かなくなった。
 美那斗が校長の直ぐ側にしゃがみ込んでいた。校長は恐怖に震えながら、激しく咳き込んでいる。首に絡まった蔓を外してやり、安堵させるように柔らかな微笑を湛えながら声を掛ける。
「大丈夫ですよ。助かったんです」
 慈愛すら覚えるような美那斗の表情に、校長は命を救われた喜びよりも後ろめたさややましさを感じ、何も言えなかった。穴があったら入って顔を隠したい気分だ。
 少しだけ疑念に感じながらも校長の肩をポンと手で叩くと、美那斗は立ち上がりセットフォンで紙戯と通信しながらホーンのもとへ歩み寄る。
 ラスツイーターを撃破した喜びに浸るのは後回しにし、今は周囲の状況把握と脱出ルートの確保が必須だ。
「お疲れ様」
 手を上げて、美那斗がホーンの腰に触れる。
 ホーンはラスツイーターの姿を見下ろしていた。
 二人の目の前で、グレーの躰が徐々に色褪せていく。いや、色彩ばかりではない。肉体そのものが存在を薄めていくのだ。そして数瞬後には、そこにラスツイーターはもうなくなっていた。
「ああーーーー」
 これがラスツイーターの死だ。
 何の形跡もなくなる。無になるのだ。クラブの場合もそうであった。
 ただ、今も美那斗の手は灰色の蔓を握っていた。ラスツイーターの残骸とでも言えるだろうか。
「学校の周辺はパトカーだらけよ。警官もかなりな配備数だから、包囲されているんじゃない?」
 紙戯の声に美那斗が首を巡らす。
「そういえば、すごい数だわ」
 遠巻きではあるが、可成りの制服姿が見え、恐る恐るホーンに接近しようとしているようだ。
 彼らから見たら、きっとホーンもラスツイーターの仲間のように思われるのだろうか。それでも発砲してこないは、美那斗を一民間人と考えてのことかもしれない。ここをどう切り抜けようか、そう考えていると、
「きゃあっ」
 美那斗が悲鳴を上げた。
 体が宙に浮く。ホーンに抱きかかえ上げられたのだ。
 逞しい腕に背中と膝裏が乗った姿勢になると、美那斗の顔がホーンの顔に近くなる。巨大な角の先が美那斗に当たらないよう細心の注意を払いながら、ホーンは走りだした。
 校門とは反対方向、グランドの奥、敷地を取り囲んでいる高さ3メートルはあろうフェンスをジャンプで飛び越える。振り落とされないように、美那斗は両腕をホーンの首に回してしがみつく。
 フェンスの向うに着地すると、そのまま目にも留まらぬ速さで疾駆し、家々や警察車両の間を縫って姿をくらませた。
 物陰に潜んで変身を解き、数分後には二人は辺見の前にいた。
 辺見は両者の無事を言祝ぎ、一刻も早くこの場から離れようと促した。
「ふぅ」
 勝利の喜びに満たされているにしては存外に重い溜息が美那斗の喉から溢れ出す。
「また、これに乗って帰るわけね」
 派手な二人乗りの車に収まると、天蓋のない助手席で跳ね暴れる髪を必死に押さえながら、美那斗は運転中の辺見の耳に口を近づけ、大きな底響くエンジン音に負けないように声を張って叫んだ。
「この車、売ってしまいなさい」
 辺見の声は風がかき消したが、心情は十二分に瞳に宿されていた。


 月崎邸に帰還すると、洗川泰朋は歓迎を受けた。熱烈と言っていい。
「ラスツイーターから世界を救う戦士だ」
 紙戯の賛辞の篭った紹介を受け、月崎研究チームスタッフ一同から大いなる拍手と喝采を浴びることとなった。
 紙戯の指名を受けて、辺見がスタッフ一人一人を紹介していく。
 清水高(しみずこう)。民間企業でいえば定年を過ぎる年齢で、辺見とは同年代ということもあって親しい間柄だ。白髪で温和でまめな性格でよく気が利くので、全体の取りまとめ役をこなす事が多い。専門分野は生物物理学である。
 広面遠流(ひろおもてとおる)。清水が最高齢であるのに対し、広面は最年少の二十八歳である。光遺伝学という比較的新しい分野の研究に長けており、脳神経系の情報処理機能を他分野へ利用、発展させようと考えている。辺見に言わせると、若いのに気配りが出来る、らしい。
 雄川開(おがわかい)。四十代でメタボを気にかけている。「中年のおじさん」を絵に描いたような風体ながら、キティちゃんをこよなく愛し、ネクタイやトランクス等、どこかしらに必ず愛らしいワンポイントがついていないと落ち着かないらしい。専門は有機金属化学、生物有機化学、超分子化学など多岐に渡る一方、通信機器や人工衛星にも詳しい。
 雄川と同じくメタボ体型を気にしているのが四十代後半の由利元(ゆりげん)自分の加齢臭を周りの人が気にしていると思い詰める余り、過度に消臭スプレーやアロマオイルを振り掛ける傾向がある。黒縁の眼鏡をし、話し始めに「あのね」と言うのが口癖である。専門分野は応用数学で、カオス理論やフラクタル、場の量子論などに造形が深い。
 五所野泉(ごしょのいずみ)。五十代女性で背が小さく、時々どこに居るのか見失ってしまうが、地球科学全般に通じていて、研究対象のスケールは大きい。気象学、地質学、海洋学の研究を応用した鉱床学、宝石学に関して独自の理論を持っている。世界地図を拡げては、「ここには希少なレアメタルが眠っているはずだ」と、一人ほくそ笑むのが趣味らしい。
 追分臨(おいわけりん)。インフレーション宇宙論が専門。宇宙の起源を説くビックバン理論の問題点を解決すると期待される分野だが、月崎護の研究においては有用性があまり見出だせておらず、怪人対策においても暇を持て余していたのだが、それならと紙戯に委せられた武器の開発に、今ではすっかりのめり込んでいる。紙戯より少しばかり年上の面長の女性である。
 川端住吉(かわばたじゅうきち)。連続体力学、プラズマ物理学を専門とする四十代男性でありながら、ハッカーとしての一面も併せ持つ変わり種である。コンピュータに関する知識が豊富で、護の記憶のデータ修復に大きく貢献している。
 そして最後が、向浜紙戯(むかいはましぎ)。三十代前半の女性で、実は彼女が何を専門分野にしているのか知っている人は誰もいない。ただ、見識は広く深く、他のスタッフの誰とでも対等にディスカッションできる。以前スタッフの一人が訊いた時には鳥類学者だと言ったり、遺伝子レベルでのバタフライ理論を研究していると言ったり。五所野が言うには「煙に巻くのが専門分野さ」とのことである。
 以上が今現在の月崎研究チームスタッフ総員である。
 ここに執事の辺見高雄と月崎美那斗の二名を加えた十名が豪邸と呼んで何ら差し支えないこの館に暮らしている。その輪の中に、今は泰朋が加わり、談笑している。巨大過ぎる躰から朴念仁を連想させるし、先日のテレビ放送では女性が苦手でシャイなはにかみ屋に見えなくもない泰朋だが、意外にも人当たりが柔らかで、口数も然程少なくない。スタッフ一人一人と言葉を交わしたり、軽口をたたき合ったりしている。
 和やかなムードの輪の中に、むしろ溶け込めないのは美那斗の方であった。
 幼い頃から疎外感を美那斗は感じて育ってきた。自分一人だけが周囲から浮いている感じ。豪奢な暮しの中で培われた生活感覚は、共感しあえる友達と出会える機会を奪うに足る齟齬を生じさせた。日々接するのは同世代の子供より、ほとんどが大人であった。
 祖父の名代として社交界やパーティの席に招かれたこともあるが、好奇の視線や賛辞の渦に巻かれながら、借りてきた猫のようにじっとして、それでも顔面に笑みを張り付かせていなくてはならない苦痛の時間は、尚更美那斗を孤立させた。
 まるであの頃のパーティに出席しているのかと錯覚させられながら、喧騒を遠くに押しやり、壁際に一人佇んでぼんやりしていると、なんだか色々な記憶が蘇って来て、切なかった。
「月崎さん」
「えっ、あ、はい。ごめんなさい。私少しぼっとしてしまって。何ですか、追分さん」
 話しかけてきたのは追分臨であった。彼女の方からこうやって声を掛けてきたことがかつてあっただろうかと記憶を辿ってみるが、覚えがなかった。ダボダボのジーンズを履き、同じ様にゆったりしたピンク色のトレーナーを着ている。大きなキャラクターのプリントがあり、学者のようには見えない。
「お疲れ様でした。今日はお手柄でしたね」
「お手柄、ですか?」
 瞬きさえも惜しむかのような熱い視線を向けられるのを感じ、美那斗は多少たじろぎながら、その理由に思い当たる節もなく、名状し難い違和感を胸の奥にしまいながら、それでも微笑を浮かべて追分と言葉を重ねていく。
「戦利品を持ち帰ってきたでしょ。あれはすごく役立つって、雄川さんが言ってたわよ」
「ああ、あれですね」
 追分が言った戦利品とは、ラスツイーターが残していった蔓のことだ。小学校の校長先生を怪人化しようと目論み、その体を蔓で釣り上げていたのをホーンが切り落とした。
 その後ラスツイーターはホーンに頭部を斬られると、躯体は空気に溶けるように霧消してしまった。グレーの体にくっついていた花や棘も一緒に消え去ったのだが、校長の首に巻き付いていたものだけは、美那斗が解いた後も手の中に残されていた。
「ラスツイーターの体の材質というか、構成物質が判明すれば、対抗手段が格段に向上するわ。あれは、その足掛りになる」
 怪人の話はいつでも精神的な重篤さを内包するが、それでも追分の目は美那斗の全身のあちこちを、それこそ舐め回すように、撫で回すように、上へ下へと彷徨った。興味津々に注がれる視線に驚きながらも、身内のことではあったので、美那斗は気づいてない風を装いながら相手をしていた。
「それは良かったです。ラスツイーターの硬い体に有効な攻撃方法があればどんなに助かるか。引き続きよろしくお願いします」
「それは勿論です。新しい武器を開発したら、また使ってください、月崎美那斗さんーーーー」
 追分はまだ何か話し足りない様子だったが、紙戯が近付いて来るのを視界の端に捉えると、そそくさとその場を離れていった。
「何の話!?」
「ああ、紙戯さん」
 安堵が色濃く含まれた声を上げながら、美那斗は紙戯の服装に目を取られた。白衣の下に薄手の黒いセーターを着、膝丈のコーデュロイパンツを履いている。何時になく普通なのが逆に新鮮に感じられた。
「ラスツイーターのパーツが研究に役立つという話です」
「あー、<リップ>の蔦ね」
 紙戯はあのラスツイーターに<リップ>という名を付けたようだ。
 体中に数多くある唇が開いたり閉じたりする様子を美那斗は思い出していた。
「ラスツイーターは個体ごとに様々な煩悩を抱いているようだけれど、嘲笑したいという煩悩は解らなくもないわね」
「えっ?」
「科学者なんて誰しも知識欲の塊のようなもので、多かれ少なかれ、知識をひけらかし、浅識者をあざ笑いたい願望を持っていると言っても過言ではないでしょ。もし私がラスツイーターにさせられたら、あんな感じになっていたかもしれないわね」
「科学者が人を馬鹿にしたいと想っているなんて、そんな事はないでしょうに」
 美那斗が眉根を曇らせるのへ、紙戯は肩を竦めながら美那斗と同じ様に壁に背を預けて、宴会の場を眺めた。追分が遠巻きにこちらをチラチラ見ているのに気付くと、話題を変えるように口を開き、
「追分臨さんは、美那斗ちゃんのファンなのよ」
 至って真面目な表情を崩さない紙戯の横顔へ、美那斗が視線を投げかける。
「えっ」
 思いも寄らない事を言われて美那斗は驚き、紙戯から今度は追分へ視線を向ける。自分を見ていると気付いたのか、追分はまた場所を移動していった。
「八分の一スケールの美那斗ちゃんフィギュアを自作して、ガンやソードのミニチュアを造って持たせてるのよ。武器のデザイン、防護服のデザインは彼女だから、彼女の趣味の世界が現実化して目の前に存在しているようで、つい目で追っちゃうんでしょうね」
 語っている内に紙戯の言葉が楽しそうな色に塗られていくと、美那斗は大きな溜息を漏らした。
「どんな仕事であろうと、楽しみややり甲斐、自己満足を見出だせるっていうのは、とても良いことだわ。熱中して、夢中になった分だけ、より良い仕事が出来るもの」
「それはそう思います。勉強だってやらされて嫌々しても頭に入らないし、将来の夢の為と思えば、目的を見失わずにいられる」
 言いながらも、美那斗の脳裏に浮かぶのは、追分の自室に自分に似せたフィギュアがあり、着せ替え人形のように扱い、様々なポーズを付けては眺めて、愉悦に入っている研究員の姿で、何を空想しているのか、あまり考えたいとは思えなかった。
「ふふ、美那斗ちゃんって顔に出やすいのよね。分かり易くていいけど」
「紙戯さん、そんな」
 左右に首を小さく振った後、美那斗は怒ったように壁へ顔を向けてしまう。その肩に軽く手を乗せると、紙戯も又、宴席の輪の中に戻っていき、再び美那斗は一人取り残されてしまう。
 楽しんだ者勝ち、という理論がある。父は研究を楽しんでいたのだろうか。母は発掘を、祖父は政治を、楽しんでいたのだろうか。そして自分は、これまで何かを心底楽しいと感じたことはあっただろうか。
 時折、自分はこの場所で一体何をしているのか解らなくなることがある。すると脚は浮き上がり、拠り所を失ってしまう。錨を断ち切られた小舟のように波に翻弄されてぐるぐる回転し続けているようで、気持ち悪くなってくる。
 上下の感覚が失われ、どっちを向けば静止できるのか判断できない宇宙空間に投げ出されたようだ。手を伸ばしても、誰の手にもぶつからない。何故なのか、その答えは知っている。自分が異質だからだ。他の人とは感じ方、考え方が違うから、手を取ってもらえない。
 いや、手を取られる事を拒絶しているのは、自分の方かもしれない。
 物事をストイックに捉えるあまり、頑なになり過ぎるのかもしれない。そうは思っても、では自分を変えなければならないかと自問しても、答えは否だと心が意固地に叫んでいる。
 幾つもの言葉達が賑わう室を、そっと美那斗は後にして抜け出した。
 それでも部屋に戻ってベッドに潜り込む気分ではなく、エントランスホールの一角にある螺旋階段を昇っていった。そこは月崎邸のツインタワーの一つだ。塔を最上階までゆき、全周囲に嵌め込んだガラス窓からは光が射す刻限は当に過ぎた夜の空気が見渡せる。塔長は三十三メートルで、最頂部に建つ避雷針まで含めると、建築当時としては他に類を見ない程の高層となる。
 窓の外の景色は暗い空の下に沈む夜の街の灯であった。
 同じ日の午前中に天には満月が居座っていたから、その威風を魅せつけるにはあと幾許かの刻を必要とするらしい。これから現出しようとしている月は齢十六になる。
 この地上の何処かで、昨日もまた新たなラスツイーターが世に生まれ落ちたのだろうか。
 街の景色は遠く小さな光点にしか見えないが、そこには数えきれない程の家があり、それぞれに家族があり、途方もない位の人間の営みがあるのだ。想像するだけで圧倒されてしまう。美那斗は直立したまま片手で片腕を抱きしめ、想いを翔ばした。
 見えるだけでもこれだけ多くの光がある。その光の下には人がいる。見える範囲でもこれ程の数なのだから、地上の全ての人の数といったら、なんと驚く程なのだろう。
 人の数だけ想いがある。欲望や野望がある。
 <リップ>の声を聴いた泰朋の話で、小学校の校長の実態を美那斗は知らされた。
 美那斗が通っていたのがあの小学校で、当時は教頭を務めており、美那斗にもおぼろげながら見覚えがあった。他校へ転任の後、校長に就任し戻って来たのだが、そんな癖があることなど全く知らなかった。もしかすると昔からそのような醜悪事をしていたのかもしれないと思うと、身の毛もよだつ、などという生易しい表現では足りない程の嫌悪感や憤りを覚えた。実際に被害に遭ったであろう現在の女子児童のことを思うといたたまれない気持ちになる。
 そして、そんな校長の命を救って手放しで喜んでいた自分の浅はかさに恥入ったし、いっそ怪人に殺められていたら、そういう考えが一瞬よぎった自分を恐ろしいとも感じた。何て非道な事を考えるのだと、自らを批難もした。
 人間とは何と恐ろしい生命体なのだろう。
 欲望や煩悩に取り込まれ、支配されて、逃れることが出来ずにいる。すべての人がそうだとは言わないが、今目の前に広がる光の瞬きの数は、悪しき思念のほんの一部にしかすぎない様に想える。
 満月になると、ラスツイーターは人の煩悩に狙いを定め、同族へと変えてしまう。その資源は無尽蔵だ。制止出来なければ、いつか地上の人は一掃されることになるのだろうか。
 人間とは悲しい生命体だ。
 美那斗は打ちのめされたような気がしていた。
 月崎邸という外界から護られた中で窓外を眺めながら、自分を矮小だと痛感し、一体何が出来るのかとうちひしがれた。
 戦勝を祝う喧騒を微かに聞きながら、美那斗の気持ちは暗く沈んでいく。
 この夜、美那斗はほとんど眠れなかった。


 翌朝、美那斗はいつも以上に早く目覚め、ぼんやり霞む思考をクリアにしようと冷たい朝の空気に体を晒すために館を出た。この時期、もうタンクトップ一枚では寒くて震えてしまうが、敢えて肌を冷風に触れさせた。
 一歩外へ踏み出すと、薄く靄がかかっていて、朝日はなかった。アーチ型の廂の下を出、関節や筋の伸縮などのストレッチをしながら歩き、徐々に建物から離れていった所で地面に大きな塊を見つける。普段は敷地内に落ちているはずのない、黒く大きく長い物体。見ようによっては大型犬が倒れているようにも見えるが、近付いてみるとそれは大きな寝袋に入って眠っている泰朋であった。
「びっくりした」
 少しわざとらしく言葉を口にした美那斗は、近くまで行くとしゃがんで覗き込んだ。完全に熟睡しているようだ。登山家らが野宿する際はこんな風なのかもしれないが、美那斗には寝室以外で眠ることなど想像したことすらない。
 泰朋には驚かされてばかりだと思った。
「こんな寝方していて、風邪をひいたりしないかしら。体格のいい人は病気にも強いのかもしれない。それにしても、何度見ても大きい体。こうじゃなくちゃ変身できないのかも。私に出来るのかしら。元々自信なんてないけれど、ますます失くしてしまいそうだわ」
 泰朋の寝顔を見ながら独語を漏らしてしまう。
 視線を低くして、頭部近くからつま先の方を見ると、寝袋の先がものすごく遠くに思える程、この男の体は巨大で、まるでガリバー旅行記の小人になった気分だ。
 小さく控え目な寝息がリズミカルに聴こえている。大鼾をかくイメージだが、些細な音さえたてまいと配慮している様で、僅かに開いた唇の隙間から静かに溢れ出してくる。格闘技の世界チャンピオンだなんて嘘のような、あどけないと表現して問題ない寝顔。
 この男は予想を覆す名人だと、美那斗は感心した。
 美人キャスターのインタビューで汗だらけになってどぎまぎしたり、小さなバイクにちょこんと搭乗していたり、兇悪な戦士の経歴を持ちながら子供みたいな寝顔を見せたり。
 美那斗の口元が少し緩んだ時だった。
「ん、んーー」
 呻くような泰朋の声がして、美那斗は跳ね上がるように慌てて後ろに飛び退いた。やましい事があるわけでもないのに、隠れた方がいいのかなどと思考が乱れたものだから、足がもつれた。転びそうになるのを踏ん張ってこらえる際に路面を踏みつける大きな音が立ってしまい、びっくりして慌てて泰朋に視線を落とすと、目が合った。
 目覚めたばかりなのにはっきりとした意志を宿す力強い視線が、真っ直ぐに美那斗を見据えてくる。まるで寝込みを襲ってきた敵の動きを察知し、どのようにでも一瞬に反応しようとする野生の動物のようだが、その野獣のような大男の口から出た言葉は穏やかで、相手を驚かせまいという気持ちが充分に伝わるくらい物静かだった。
「おはよう」
「お、おはようございます」
 両足と両腕を大きく開いて転倒しないようにバランスを取った姿勢のままでそう口にしてから、自分が奇妙な格好で固まっている事が急に恥ずかしくなった美那斗は、視線を空に泳がせながら静かに体勢を直す。羞恥を掻き消そうとするような咳払いの後、
「不審者かと思いました。こんな場所で眠らなくても、客室ならいくらでもありますのに」
「辺見のおやっさんにもそう言われたんだが、家主の許可を得ていないのに勝手する訳にはいかないから。ここだけちょっと貸してもらった」
 言いながら泰朋は遠巻きに見下ろしている美那斗の前で、寝袋の中の体をもぞもぞと動かし始める。大きな幼虫が移動し始めたようだと思っていると、寝袋の中央のファスナーが内側から開かれていく。縦の亀裂の隙間から、幼虫が羽化するように泰朋の素肌が覗けてくる。周りはまだ薄暗かったが、上半身が起き上がると肌が剥き出しなのが判った。
「きゃあきゃあ、何で、嫌だわ、ちょっと」
 慌てふためいて右往左往した美那斗は、廂を支える石柱の影に身を隠した。
 寝袋から脱出して立つと、泰朋はボクサーパンツ一枚だけの姿であった。体中に瘤をくっつけたように、全身に筋肉が張り付き隆々とし、逞しすぎる程に逞しい躯体が、朝の冷気に触れて湯気を立てるかのような熱を帯びて、曝け出されている。
「あっ、これは失礼」
 泰朋にしてみれば競技の格好とそんなに変わらないので、裸同然とか下着姿という意識は全く無かったのだが、美那斗の恥ずかしそうにする反応につられて、急いでリュックに仕舞った服を抜き出して、足や腕を通していく。
「どうしてそんな格好で寝てるんですか」
 柱の向こうから美那斗が声を張り上げる。羞恥心と憤慨が半々なのが、やや速い口調によく表れていた。
「悪い悪いっ、ぐげっ、いってぇ」
 陳謝の言葉を口にし始めた途端、それは悲痛な呻きに変わる。着替えようとして体の何処かを挟んだのだろうか。心配になりながらもそちらを見るわけにいかず、美那斗の口調は更に厳しさを含んでいく。
「どうしました。もう変な格好は終わったのですか。もう、早くして下さい。どうして私がこんな目に遭わなくちゃならないんですか」
「も、もう大丈夫だ。服を着たから」
「本当なんでしょうね」
 疑りながら、恐々と柱から顔を出して覗く。どうやらあの忌まわしい格好は何とか出来たらしいが、腰をかがめて半ば蹲るようにごそごそと何事かやっている様子なので、咳払いをしてから前に出る。
「悪かった。許してくれ」
 詫びながら泰朋は寝袋をたたみだす。その言い方に誠意が感じられないことに多少憤りを覚えながら、美那斗がそのままランニングに行こうとする。だが、泰朋は美那斗に言わなければいけないことがあり、今は無作法を詫びることよりその点に気をとられているのだった。
 空が少しずつ白んでくる。
「走りに行くのか」
「ええ。そうです」
 ストレッチをやり直しながら、問いかけにも顔を向けない美那斗に、泰朋は続ける。
「聞いたんだが、変身するために体を鍛えているんだって?」
 美那斗の躰に触れた時の驚きを、泰朋は今も忘れることが出来ずにいる。
 細いのに硬い肢体の感触が、今も手の平に残っている。
「大学も辞めて、綺麗なドレスでパーティーに出席したり、友達と遊びもせず、毎日怪人を倒すためのトレーニングを続けているって」
 意図的に逸らしていた視線を泰朋に向けると、自分に対して哀れみの感情を抱いているのか、呆れているのか明確には読み取れない表情がそこにあった。少なくとも、美那斗は自分のことを知った人がどう考えるのかは解っている気がしたし、時々自分でもいつまで続けるのだろうかと疑問を感じることがあるのも確かだったから、大方泰朋もその様な意見をしたり顔で言ってくるのだろうと予想した。
「大学は辞めてないわ。今は休学しているだけです。おしゃれは然程興味ないし、友達と呼べるような人とは付き合ってません。怪人のことはーーーー」
 泰朋の言った事一つ一つに異を唱えながらも、話が怪人に及ぶと言葉が濁ってしまった。昨夜思い悩んだ事柄が再び胸に去来する。
 人間に元来ある素養が肥大化し、形を変えたのが怪人だとすれば、怪人を葬り去れば問題は解決するのだろうか。そして、怪人を斃す力すら発顕出来ない自分に、一体何が出来るのか。小さい小さい存在に思えて、自然と美那斗の視線が下を向いてしまう。
「俺に手伝わせて欲しい」
 想いが深く沈み込んでしまいそうで、一瞬聴き逃した美那斗が、間をあけて顔をあげる。
「えっ?」
「鍛錬は自己流よりもきちんとしたトレーナーの下で行った方が効果的だし、体を痛める危険も避けられる。俺も一応は闘い方を知っているから、コーチングとは又別問題だろうが、少しなら教えてやれると思う。だから、トレーニングの手伝いをさせてもらえないだろうか」
 言葉の真意を探らなければならない。何故、この男はこんな事を言うのだろう。本当は何が目的で、何を隠しているのだろう。相手の表情を読み取ろうと視線を上げたところで、泰朋がこちらを見つめる眼と遭った。
 それは真摯で切実な光を湛えた眼であった。
 世界チャンピオンの手ほどきを受けられるなんて、こんなに素晴らしく幸運なことがあるだろうか。
 自己流の限界は美那斗も感じていた。
 思いつく限りのことは今までに散々やってきた。それでも叶わず、どんな手段で行えばよいのか、途方に暮れながらも、同じ事を繰り返す以外の術を見出だせずにいたのだ。
「ありがとう」
 それは、美那斗の素直な想いであった。
 救いの手を差し伸べられることに、本心から感謝した。有難かった。
「その代わり、頼みがある」
「報酬のことですか、それでしたらーーーー」
 金銭を人が望むと考えてしまうのは、金持ちの家に生まれた性だろうか。悪気があるわけではないが、つい口に出してしまってから、慌てて口を手で抑えた。
「コアを、暫く預からせてくれ」
 泰朋はなおも真摯な面持ちで、存外な言葉を紡ぎだしてくる。
 父の形見とも言えるコア。あの日からずっと肌身離さず持っていたコア。自らの命を昇華させて、その身を代えたコア。
「どうして」
「ラスツイーターを斃すために、コアが必要だ」
「泰朋さん…」
 何故この人はこんな事を言うのだろう。
 何の関わりもないのに、自らの危険を顧みず、怪人との戦いに身命を投じようとしている。しかも、そこにはいかなる邪心も感じられない。
「俺はホーンに変身するよ」
 美那斗の口から言葉は出なかった。
 呼気が固い塊になってしまったようで、喉の奥に言葉が張り付いてしまっているようだ。代わりに熱を帯びた何かが双眸に滲み出してくる。
 溢れ出そうとするものの正体を察した美那斗は、それを泰朋に知られることを恥ずかしいと感じたのか、上擦りそうになる声をなだめながら、
「ランニングに行って来ます。トレーニングの計画を立てておいて下さい」
 精一杯の努力でそう言うと、泰朋の横をすり抜けていった。
 泰朋の気配が背後に移ると、たちまち堪えていた物が溢れだし、両頬を伝い流れてゆく。
 朝の光は未だ姿を現していなかったが、美那斗の涙は輝く滴のようだった。


 街は様々な顔を見せる。
 昼と夜で別な顔なのは当然ながら、大通りや路地で違うし、華やいだ表があれば陰鬱な面、陰謀や欲望に塗れた面を持つ。多くの人が集まるからと言えるのは、それだけ人が多様だからともいえる。
 人の多様性が街を複雑にしてしまう。
 泰朋は世界中を旅して回った。時には原住民と呼ばれるある種族の村落に寝泊まりさせて貰ったこともあるが、その様な村落の様相は単純だ。朝が来れば目を覚まし、仕事をし、腹が減れば物を食らい、夜には眠る。全ての基本は生きること、そのものだ。
 そんな小さな村にも、だが文明はある。独自の暮らしの様式を築き上げている。
 では、大きな街に暮らす住民は何が違うのだろう。
 泰朋はビルの影に目立ちすぎる巨軀を隠すように路面に胡座をかいて座り、道往く人の流れや車の喧騒を眺めながら美那斗を待っていた。
 美那斗はこの近くのビルでトレーニング中だ。鍛錬に同行しながら注意やアドバイスをし始めた泰朋は、とりあえず美那斗の一日のメニューのチェックに重点を置いているが、格闘教室で教えている指導者のことを慮って、ジムに共に入るのは辞めた。
 目の前を色々な人が通り過ぎていく。
 黒い背広を着たサラリーマンの二人組が通る。これから商談に向かうのだろうか。どちらもそこそこの年齢で高い役職に就いていそうな貫禄がある。右側の男は右手に、左側の男は左手に各々革の鞄を下げているが、鞄を持たない方の腕を二人は組んでいる。言葉はなく、時折視線を交差させながら歩いて行った。
 ベビーカーを押す若い母親がいた。白を基調にしたゴスロリファッションで、まだ二十代前半に見えるが、実年齢は不詳だ。お腹が大きく突き出しており、時々腰に手を当てている。ベビーカーの中にはドレスとキャップで着飾って、首にバークリミッターを装着した小型犬が乗っている。外からは判らないが、犬は逃げ出さないように紐で固定されているし、母親の妊婦姿もフェイクで、どこか不自然な印象を見るものに抱かせる。
 自転車で通りかかった老人は白いイヤホンが繋がるスマートフォンを両手で素速くタップしながら、ハンドルの上に肘を乗せて運転している。左右に大きくぶれながらも、何とか転倒せずにゆっくり歩道を進んでいくのを、周りの人々が避けていくことで進路が確保されている。誰かの危ないという警告の声も耳には一切届かない。
 ジーンズのよく似合う青年が歩いている。そのおよそ二十歩後を、距離を保って尾行する三十代後半の女性が、カメラとボイスレコーダーを握りしめている。更にその二十歩後方には別の若い女性がストーキングをしている。
 信号待ちの車の窓が開き、左側の運転席に座るサングラスの男が吸いかけの煙草を歩道に投げ捨てると、火の着いた吸い殻が母の手を引く幼子の顔に当たって地に落ちる。すると上から下までボロボロに汚れた服に身を包んだ長髪の男が、その子を突き飛ばして吸い殻を拾って吸い、とろけたような目をして悦に入る。
 ナップザックを背負い、3つのトートバックを両肩に担ぎ、ウエストポーチにリクルートスーツの女性が紙袋を下げて歩いて往く。沢山の荷物はどれ程大切な物が詰まっているのだろう。立ち止まっては全ての荷が無事か確認する作業を繰り返しつつ進む。
 見るからに柔らかそうな肉に覆われた小太りの男が待ち合わせらしく、同じ所に立ったまま周囲をキョロキョロと窺っている。そこへ別々の制服を着た女子校生二人が近付き、両側から男を挟む様に立って、明るく大きな嬌声を立てる。男は両の目尻をこれ以上ない位に下げ、二人と手を繋いで何処かへと去っていく。
「キャノン泰朋さんじゃないですかぁ」
 見た目で人を判断できないというが、様々な人がいて、様々な思考や欲望があることを想像させるのは如何ともし難いし、他人の眼には奇行と映る行為も、当人にとっては大切で優先させる理由があるのだろう。そんな事を考えながら通りを往く人々を眺めていると、不意に声を掛けられて、目線を横に振ってみる。いつもならそれだけで相手の顔が視界に入るのだが、その声の主は更に首を上に向けないといけない程、背丈が大きかった。
 上下をピンク色のウインドブレーカーに包み、首にはタオルを掛けている。身長は百八十センチを越えそうな女性がそこに立っていた。髪はごく短く、所々金色に染めている。よく日焼けした顔からは、なかなか年齢が推察できない。三十代のようでもあるし、美那斗とあまり変わらないようにも思える。ただ、軽い口調から若いような感じはする。
「やっぱりそうだぁ。うわぁ、どうしよう。私ファンなんです。すっごいファンなんですぅ。えっ、えっ、本物ですよね。すごーい、なんでぇ、やだぁ」
 興奮して異様にテンションが高いようだが、何となく奇妙な感じもあって、泰朋はついじっとその女性を見つめてしまったが、それが更に相手を高揚させていくようだった。
「えっ、ナニナニ。私の顔に何か付いてますかぁ。あっ、この格好ですか? これは、今トレーニング中なんですぅ。私、ボクシングやってるんですよぉ。ずっとキャノンさんに憧れてて、それでボクシングからまずはってことでぇ。すぐそこの弁天格闘ジムってとこに通っていて、今もその帰りなんです。だからこういうの着てるんですよぉ」
 よく喋る女だと辟易しながら、どこかで聴いたような口調だと記憶を手繰っていると、弁天という名に聞き覚えがあって、確か美那斗が行っているのも其処だったのではないかと、泰朋の思考は矛先を変えていった。
「そうだ、握手してもらっていいですかぁ」
 右手を差し出されると特に何も考えずに立ち上がり、手を握り返す。
「うわぁ、大きい手ですね」
 女が驚いたように言うが、泰朋も同じ感想を抱いた。そして、女の口調に似たイメージを思い出す。テレビインタビューを受けた時のキャスターだ。誘うように絡みつく視線と妖艶な高低差をつけた声音、おそらく女性らしいと勘違いしているであろう胸元や脚のチラ見せなど、苦い記憶を回想しながら、この女がキャスターと同じ振る舞いをして見せている気がしてきた。
 女が騒ぎ始めて注目が集まっている所へ、泰朋が立ち上がったものだから巨体がかなり目立ち、周囲の人が足を止め、ざわついてくる。
「あのぉ、私、矢留千秋(やどめちあき)って言います。いつも応援してますぅ。グランドスラム達成、スゴイです。おめでとうございます。次の試合はいつなんですかぁ」
 全く手を離さないまま、何が起ころうとも離すまいというように手を振っている。
 流石にまずい状況になって来たと思い、女、千秋の手を解こうとするが、大柄な体から想像できる通り力強い手は簡単に解けず、やや強引に力を入れて引き抜く。
「もう行かないといけないから」
「ええーっ、どこ行くんですかぁ。私、この後用事ないしぃ、ついて行っていいですかぁ」
 一体全体何てことを言い出すんだと、ぎょっとした表情を見せていると、周りでは人が集まりだしてくる。所々から泰朋のリングネームを呼ぶ声も起こり、千秋の体を押しのけるように横をすり抜けると、泰朋は足早にその場所から遠ざかっていった。
 背後で尚も千秋が何か喋っているが、声が遠退くのを足がかりに、振り返らずにずんずんと歩き続けた。
「ふう…」
 やっと一息付いた時には自分がどこに居るのか全く判らなかった。
「まいった」
 難を逃れようとして、知らず知らずに人の多い所へ来ていた。雑踏に塗れれば身を隠すことが出来るだろうと考えたのだが、少なくとも頭一つ分、いや二つ分は飛び出してしまう泰朋は雑踏の中でさえ目立ってしまう。それでもとりあえず千秋の眼からは逃れることが出来たようだ。
 しかし、同時に美那斗ともはぐれてしまった。
 手には彼女の預けていったコートを模した防護服がある。特殊繊維で作られた生地の内側に、武器が二つ入っている。普段は同程度の重量の模造品を収納して訓練をしているのだが、より実践に近い方が良いからと泰朋が提案し、装備していた。だが、トレーニングジムのロッカーには鍵が掛からない。他人の眼に触れると物議を醸すことになりかねないと、一旦泰朋がコート毎預かっていたのだ。
 今頃はトレーニングも終わり、ビルの近くで待っているはずの泰朋を美那斗が捜していることだろう。元の場所に戻るにも、この辺りの地理に疎く、キョロキョロと周囲を見渡していると、偶然にも美那斗の姿を見つけることが出来た。彼女も泰朋を探してくれていたようだ。
 秋も深まりつつある時期に、袖なしの薄着姿は巨軀の泰朋とは別の意味で目立っている。ジムでかいた汗で体が冷えては大変だと、急いで近寄ろうとすると、美那斗は誰かから声を掛けられて足を止めた。
 そこは大きな劇場の入口付近であった。横幅の広いステップが続き、劇場の入口は二階に当たる。階段前の広場に立つ美那斗は、ステップを降りてこようとするドレス姿の女性に声を掛けられたのだ。
「月崎様でいらっしゃいませんこと?」
 声のする方を見上げると、高級で華美な衣装と幾つもの装飾品が煌めいて、まるで夜空の星々を纏っているな若い女性が、やはり同様に美しいドレスで着飾った同年代の女性数名と、寄せ植えの鉢の中の花々が揺れる様に笑い合っている。どこかで見た覚えがあったが、名前が思い出せなかった。
「お久しぶりでございますね」
 美那斗の格好をしげしげと見つめてから口元に浮かべた微笑は、社交的なものとは明らかに違う意味を含んでいた。
「月崎様も先生の公演をお聞きにいらっしゃったのですか?」
 言いながら、一段一段ゆっくりと降りて来る相手に戸惑う美那斗。視線を彷徨わせると劇場の入口の看板が目についた。そこには「小久保徳子ピアノコンサート〜種山ヶ原に想いをよせて〜」と書いてある。子供の頃に習い事をしていたピアノ教室の先生の名前から察するに、そこで一緒に教えてもらっていた子だろう。バッチリ決めたメイクのせいで素顔がわからないからなのか、あるいは単に美那斗が関心がなく記憶にとどまっていないからなのか、昔の面影を辿ることが出来ない。
「いえ、私は…」
 話し相手が誰なのか判らず、言葉を濁す美那斗に、その女性は尚も語りかけてくる。
「月崎様のピアノはそれはそれは素敵で、小久保先生もよく褒めてらっしゃいましたわ。特にバッハのメヌエット卜短調がお上手ですのよ」
 周りに立つのは友人だろうか、そちらに向けて美那斗を紹介するように言う。早々にここから逃げ出したい衝動に駆られながら、それでも礼節を欠いてはいけないという意識が働くようで、美那斗はランニングウエアのまま両手を組んでいる。
「まあ、それはそれは。今度是非拝聴させていただきたいですわ」
 横目で美那斗を盗み見るような含み笑いを指先で隠しながら、彼女らが風にそよぐ花のようにそよと飾り立てた頭髪を揺らす。その中央に立つ女性だけはまじまじと美那斗を舐め回すように見つめてくる。
「月崎様、少しお太りになったのではありませんこと」
「えっ」
 女性にとって控え目にしたい言葉をづけづけと口にするのは、相手を怒らせるのが狙いだろうか。確かに美那斗はもう長い間肉体改造と呼んでもおかしくないくらいの鍛錬を続けているから、体のあちこちに筋肉が付き、体重は激増していたし、シルエット的にもかつての令嬢とは程遠いほど変化してしまっているだろう。それに対して後悔はないが、あからさまに蔑みの眼で見られると、急速に羞恥心が全身を駆け巡るようで、美那斗は頬を染めた。
「そういえば、来月柳家のパーティーがありましたわ。そこにお越し頂くことは可能でしょうか、月崎様。最近はあまり月崎財閥の方のお姿をお見かけしませんので、社交の場にいらしていただきたいと思っておりますのよ」
 おそらくは月崎家の状況を知っているのだろう。その上で変わり果てた令嬢の行く末を肴にシャンパンを手に談笑しようとでも考えているのかもしれない。恥ずかしさと口惜しさで、美那斗はそのまま百八十度向きを変えて逃走しようかと考え始めた。
 尚も畳み掛けるように口を開き続けるその女性の言葉が急に止まった。眉根が寄せられ、手を口元に当てる。取り巻きの女性群も同様の反応で、彼女らの視線は美那斗の後方に向けられているようだ。
 美那斗が怪訝そうに振り返ると、そこにはいかにも粗野な風体の大男がのそっと立っていて、女達をじっと見ている。まるで美姫を物色する下劣な野蛮人が出現し、自分たちを拐っていくのではないかと怯え始める。
「坂田様、そろそろまいりませんこと」
「そう、ですわね。それでは私共はこれにて失礼しますね。またご連絡致しますわ」
 そう告げながら、そそくさとステップを戻っていく。
「邪魔したかな」
 あっけにとられるように振り向いて見上げると、そこには一言も発せずに女達を追い払った巨軀の持ち主がいた。
「いいえ、助かったわ」
 それは美那斗の本心の吐露であった。
「ピアノが上手なんだな。メヌエット? いつか聴いてみたいな」
「立ち聞きとは下品ね」
 少し怒ったように頬を膨らませる美那斗。
「メヌエット卜短調っていう曲は、初心者向けで、要するにさっきのはあの人の皮肉よ」
「そうなのか…」
 上流階級と呼ばれるような人間同士の社交辞令や交流が美那斗にはどうしても馴染めないし、何が楽しいのかも理解できずにいる。小学生の頃に習い始めたピアノだが、教室に入った時に同じ年齢の子たちはもうかなり上手に弾けていた。いつもクスクスと笑われながらピアノを弾くのが嫌で、長く続かず辞めてしまったのだ。
 少し暗い曲調が美那斗は好きだったのだが、その点をも揶揄された記憶が蘇ってきた。それでも坂田某という名前は思い出せなかった。
「そんなことより、一体何処に行っていたのよ」
「すまん。謝る」
 頭をペコっと下げて、重いコートを手渡す泰朋。大きな体で済まなそうな様子を見せる泰朋の仕草に少し気をよくした時、突然大きな叫び声が聴こえた。
 劇場の少し先の方からだ。
 近代建築の美しい景観の劇場に隣接して大型ショッピングモールがある。昔の商店街の再構築、再開発を目的として造られたモールで、集客が上手く機能し、一通りの成功を収め、現在は順次商店街の店舗が移ってきている。今も空いたテナントは有るが、毎日かなり賑わっている。
 地上部分には大きな樹木が所々に植えられ、そこを中心に吹き抜けとなり、囲むように通路を配し、その周りに店舗がある構造になっている。主に四階建てで、その上に波型のドームが覆っているので、緑はあっても雨が降り注ぐことはない。
 隣のビルや劇場とは連絡通路や遊歩道で繋がり、そこかしこから大勢の人が慌てふためいて飛び出してくる。人の流れに逆らって、泰朋と美那斗がショッピングモール内に入っていく。
 人混みを躱して周囲を見上げながら、悲鳴の出処を探る。
「上の階だな」
 泣き叫ぶ声に混じって聴こえるのは、人が口にする怪人という言葉と助けてという懇願だ。
 ラスツイーターが暴れているに違いない。美那斗はコートのポケットから腰のベルトと一体になっているホルダーを取り出して装着していく。次いでコートで包んでいた銃と剣をホルダーにセットする。
 人前で銃器や武器を所持することは銃刀法に違反し、警察に通報される事になるが、今この状況でそんな事を気にする余裕のある者はほとんどいないだろう。そう結論付けての美那斗の動きに、泰朋は感心していた。怪人を恐れておらず、度胸がある。
「別れましょう。私は二階を、あなたは三階を。発見次第呼び合うように」
 コートに腕を通しながら、早くも美那斗は走り出した。
「エスカレーターは人が多すぎる。階段で」
「わかったわ」
 二人の意思の疎通は非常に滑らかだった。怪人討伐という共通の目的があるとはいえ、長年共に戦ってきた戦友のように互いの言葉一つに的確で迅速に反応出来る感覚は不思議であった。
 非常階段を駆け登る途中で二人は別れたが、三階のフロアに出た途端、泰朋は不安に駆られた。美那斗を一人にさせてしまったことを後悔する。だが、今は怪人を探す方が先だ。人の悲鳴を頼りに怪人の姿を見出そうとするが、大分人も避難したのか、叫びが少なくなっている。
 一方、美那斗は声を上げていた。
「誰かいますか。誰か」
 大声で呼びかけながら、テーブルや椅子や商品が散乱したフロアを走り回る。
「イヤーッ、助けてっ」
 緊迫感の充満するフロアの空気を切り裂く絶叫が響く。美那斗の足は瞬時に方向を変えて走り続ける。百メートル程緩やかなカーブに沿って走ると、それがいた。
「いたわ。泰朋さん!」
 右の太腿に吊るした銃を抜き取ると、ラスツイーターへ構える。
 そのラスツイーターは、奇妙な形をしていた。何よりまず目を引いたのは、色を有していることだ。色彩を怪人化の際に奪われてしまうのか、ラスツイーターの体は灰色を基調とした濃淡でできているのが、これまで遭遇した怪人達の共通の特徴である。
 一歩一歩怪人に近付きながら進み、相手を観察すると、それが何なのか判明していく。
 両肩が丸く盛り上がり、二本の脚は細く短い。胸が前方へせり出し、頭部には短いが鋭利な突起物がある。どうやら嘴のようだ。天狗か鴉を連想させるフォルムだ。その怪人の巨体に、様々な物が付着している。
 首には鮮やかな朱色のスカーフが垂れ下がっている。首に巻かれているのではなく、スカーフの一端を体表に埋め込むように留めてあるようだ。右耳の穴の中からぶら下がっているのは銀色のチェーンで、ネックレスなどの装飾品ではなく、ペットのリードらしい。
 左側の腰には棒状の長い突起がくの字形に付いている。その正体を知った時、美那斗に戦慄が走った。白く長いそれは、女性の脚だ。爪先には青いペディキュアが丁寧に塗られ、怪人の動きに合わせてブラブラと上下に揺れている。
 後に向浜紙戯によって<コレクト>と命名されるこの怪人は、様々なものを収集し、自らの身体に取り付けることに執着しているようだ。
 他にも金属片やガラス瓶、植物、わけの判らない物体がいくつも付着している。
 後頭部に張り付いている金色の繊維状の束は髪の毛のように見えるが、ウィッグではない証拠に頭皮が付随していた。
 ラスツイーター<コレクト>は食器類が並ぶ日用雑貨店の商品を物色するように、瞬きの多い眼で覗き込んでいる。
 その少し向側に人がいた。先刻の叫びの主と思われる女性が倒れている。腰が抜けて起き上がれないのか、両手で這って怪人から遠ざかろうとしている。更に向うには男性が車椅子毎倒れ、全く動けない状態だった。
 現在位置からでは、二人に被害が及ぶ可能性があって発砲出来ない。美那斗はラスツイーターを迂回するように移動する。
「大丈夫ですか。立てますか」
 救出に来てくれたと思ったのだろう、女性の顔に生気が戻ってくるようだった。
「立てない。足が」
 一人で怪人を相手にしながら二人を救出するのは不可能だ。美那斗はそう判断すると、銃のトリガーを引き絞った。
タン、タン。
<コレクト>の背中に二発の銃弾が当たって弾ける。
「イーーーーッ、イーーーーッ」
 怪人が叫び声を上げる。耳から入る奇異な音は、人間の精神を引っ掻く様な不快さを持っている。それでも美那斗は怯まず、相手の出方を窺っている。今の銃声は間違いなく泰朋に届いているはずだ。もうすぐ来てくれる。
 怪人はよろめいて、店内の陳列物を破壊しながら前方へ倒れた。弾丸は命中したが、突き刺さりはしなかった。それでも意外な程ダメージを受けた様子で、改良弾の効果を目の当たりにした思いだった。
 美那斗の手にする銃に籠められた弾丸は、これまでのものとは違う。ラスツイーターの躰の一部を研究することによって、新しく開発されたものであった。
 怪人が頭を振りながら、起き上がろうとしている。
 その隙に美那斗は二人の方へ駆け寄ると、怪人の動きに注意しながら、まずは車椅子を起こし、男性をそこへ乗せようと体を持ち上げる。二人共二十代半ばだろうか、まだ若く見えた。男性の方は膝から下が両方共なかった。
 少し乱暴な扱いになりながら、車椅子に落とすように乗せた所で、ラスツイーターがこっちを見た。
 嘴を大きく開き、「イーーッ」と叫ぶ。
 タン、タン。
 再び美那斗の銃口が火を噴く。狙いは開かれた嘴だった。ラスツイーターの顔面が左へ右へと頬を張られたように揺れる。両手で顔を覆い叫ぶ怪人。これでまた少し時間が稼げるはずだ。今度は女性の方へ手を貸しながら、立つように促す。だが、足を踏ん張ることができないようだ。片足を引き摺りながら、美那斗の肩を支えに車椅子まで辿り着く。
「加奈」
「翔太」
 二人は名を呼び合う。
「もう大丈夫。さあ、逃げましょう」
 加奈と呼ばれた女性が車椅子の手押しハンドルを握り、寄りかかるように翔太という名の男性を押していく。このショッピングモールへは二人で来たのだろう。とすれば、車椅子を押す行為自体は彼女の日常の一部かもしれない。慣れた動作でラスツイーターから離れようとしている。足を痛めてはいるが、これなら二人だけで逃げられそうだと思っていると、<コレクト>が襲ってきた。
 警戒を忘れていたわけではない。あまりにも相手の動きが速すぎたのだ。
 大きく膨れた肩に比べれば、あまりにも細く、骨ばかりのように見える腕が突き出される。鉤爪状に湾曲した指は美那斗よりむしろ、その後に庇っている二人の方へ向けられているらしい。何かが<コレクト>の興味を誘い、収集欲を駆り立てているのだろう。
 急速に眼前へ接近するラスツイーターの腹部に何らかの生物の眼球がぶら下がっているのが見えると、美那斗は嫌悪と恐怖に動けなくなっていた。
「んおーーっ」
 雄叫びが美那斗のすぐ側で聴こえた。
 次の瞬間には強大な体同士がぶつかり合う音が聴こえた。
 泰朋が飛び込んできて、ラスツイーターの巨体を弾き飛ばしたのだ。
「大丈夫か!?」
「ええ、大丈夫よ。ただ少し気持ち悪いだけ」
 瞼に焼き付いてしまいそうになる映像を振り落とそうとするように、美那斗が首を振る。泰朋にはその言葉の意味がよく飲み込めなかったが、美那斗に怪我はないようだと咄嗟に判断する。
「剣を貸してくれ」
「えっ、どうして。変身ーーーー」
 何故ホーンに変身しないのかと問おうとして、二人に聞かれると支障があると思い、慌てて口を噤んだが、それだけで泰朋には充分通じた。
 ポケットからコアを出して見せ、怪人の挙動を見据えながら言う。
「コアが光ってくれない」
 美那斗が頭上を見上げる。そこにはショッピングモールの天井があるだけで、更に上方にある大空も太陽も遮ってしまっている。
「最初からそうしていれば良かったんだが、モールの外は人が大勢いたしな」
「一度外へ出てきたらどうかしら」
「奴がそれを許してくれたら、そうする」
「そうね」
 美那斗は防護服の裾をはだけ、左側の白い脚を剥き出しにすると、武器を抜き取って泰朋に渡した。剣と呼んではいるが、刃渡り三十三センチで泰朋が持つと短剣、あるいは少し長めのナイフにしか見えない。美那斗の躰に合わせて造られため、柄の部分も美那斗なら両手で持つことも可能だが、泰朋は片手持ちだ。
「その二人を、どこか安全な所へ」
 唐突に露出された脚の細さに内心ドキッとしながら、泰朋は美那斗を怪人から遠ざけようとする。
 細く短い脚をジタバタさせて起き上がるラスツイーターの眼が瞬き、泰朋の剣を捉える。
「イーーッ」
 怪人の鳴き声が響く。泰朋にしてみれば、人間の姿をしている時に聴くラスツイーターの声はただの音にしかすぎず、言葉でもなく、意志も伝わって来ないのが有難かった。
 手の中で剣がウーーンという唸りを上げる。こちらも銃同様改良がなされていた。
「銃には殺傷能力はないわ。色々と検証したけれど、ラスツイーターの躯体を貫通させる事は出来ない。勿論、科学者としては今現在は、という前提条件は提示するけどね。殺害に至るプロセスには、銃器というものの根本的な方針の転換が必要な気がする。ただ、発想の顕現を待っている訳には行かないから、出来る限りの方法を検討した結果、弾丸を特殊なものに変更したわ。言わば、これは怪人に不快感を与えるものよ。ガラスや黒板を引っ掻くと嫌な音がするでしょ。あれと似た感じ。でも、剣は違う。こっちは殺傷能力をを得ることが出来たわ。程度は検証が要るけれど、たぶんいける」
 美那斗と泰朋はそんな説明を紙戯に受けていた。
 泰朋が今はホーンに変身できない以上、この二つの手持ちの武器で戦うしかない。むしろ、偶然にも武器を携帯していたのは可成り幸運だった。
 だが、怪人と闘うと決めた頃に較べて、なんという違いだろう。
 武器の進化もさることながら、直ぐ側に泰朋がいる。それ自体が美那斗には一番心強い。
「今の内に、さあ行きましょう」
 美那斗は怪人に完全に背を向けた。泰朋が対峙している以上、自分はそっちを気にかける必要はないし、むしろ二人を逃がす方が彼の助けになる。そう思えた。
 女性の腰を抱えるように体を支え、二人で車椅子を押す。外へ出るためには階段やエスカレーターよりもエレベーターが必要だと考え捜していると、カーブを曲がった先にあった。ボタンを押して扉が開くのを待つ時間が長く感じられる。後方を振り返るが、この位置からは怪人の姿は窺い知れない。見えないことがかえって恐怖を煽る。
「早く開いてっ」
「落ち着いて下さい。大丈夫ですから」
 力強い瞳に逢い、若い二人は不思議に安堵感を覚えた。年齢の近い美那斗が浮かべるかすかな微笑には信頼に足る絶対の自信があるのか、それが二人に伝わり、パニックに陥らずに済んだようだ。
 何秒か経ってエレベーターが開くと、二人を乗せ、美那斗はそこに残った。
「駄目っ。あなたも一緒に逃げなくちゃ」
「大丈夫。大丈夫です。さぁ、行って下さい」
 扉の外側に立って腕を伸ばし、1Fと閉のボタンを押した美那斗は扉が閉まりかけると、もうそこには留まっておらず、いま来たルートを戻っていった。
 走りながら若いカップルの事を思っていた。体のハンデがありながらも互いに信頼しあって、悲愴感よりも明るく前向きな印象を周囲に与える、見ていて微笑ましい二人だったが、足を怪我した彼女をあのままにしてよかっただろうか。
 その時、ラスツイーターの絶叫が響いてきた。
「イーッ、イッイーーッ、イーーーーッ」
 警戒しながら駆けつけると、<コレクト>は這々の体で逃げ出そうとしていた。
 骨ばった細い脚でヨタヨタとふらつき、美那斗に背を向けている。グレーの体色に色々な彩色が散らばる躯体を、やや離れた所から泰朋が茫然とした様子で眺めている。
 剣を握る右手はだらりと下に垂れている。
「泰朋さん!?」
 何故ラスツイーターが逃走しようとするのに、何もしないのか。もしかしたら怪我を負ったのだろうか。不安に駆られ泰朋に呼びかけるが、反応がない。
 慌てて駆け寄り、泰朋の前に回り込むと、岩石のような太い腕に手を当てて、体を揺する。
「どうしたの?」
 下から覗き見て表情を読み取ろうとすると、泰朋の瞳が少しずつ美那斗の相貌に焦点を結んでいく。
 泰朋の眼に美那斗の顔は何に見えたというのだろう。まるで迷子になった幼子が母親に漸く見つけてもらった時のような、今にも泣き出しそうで、それを一生懸命に堪え、安心して気が抜けて、ただただその胸に抱きしめて欲しいとでもいうような。
「イイーーーーッ」
 再び怪人の悲鳴が聴こえ、振り返ると、ラスツイーター<コレクト>はショッピングモールの吹き抜けの手摺を乗り越え、階下へ落下していった。
 急いで駆け寄り、フェンスに身を乗り出して下を見た時には、もう怪人の姿はそこにはなかった。
 逃げられた。
 逃がしてしまった悔しさはあったが、それより美那斗は泰朋の様子が気掛かりであった。手摺から離れ、視線を戻すと、床に転がっているそれに気付いた。
 真っ赤な血の痕が尾を引き、その先に白い素脚が一本、本来の宿主から切り離されて動けずにいる。五本ある指の先には鮮やかな青に丹念に塗られた爪がある。
 その青に美那斗は見覚えがあった。
 <コレクト>が腰にぶら下げていた女性の脚だ。
 鋭利な切断面が見える。闘いの中で泰朋の剣が切り落としたものだろう。彼の受けた衝撃の様子から察するに、それは意図したものではなかったのだろう。
 状況を飲み込んだ美那斗は泰朋の側まで行くと、固く握られた形の手をこじ開け、剣の柄を引き抜いた。
「あぁっ」
 男の開きっぱなしの口から、小さな呻きが漏れる。
 美那斗は戸惑った。世界チャンピオン程の屈強な大男でも、こんな脆弱な面を容易く晒すものなのかと驚いたし、それに対してどう慰めていいのか、それ以前に慰めることが男性の自尊心にとっていいことなのか、美那斗にはあまりにも経験のない状況であった。
 先ずは剣を自らのホルダーに収める。
 辺りはしんと静まり返っているかと思いきや、状況をわきまえない呑気な音楽が流れている。
 美那斗はまだ固まったままの泰朋の手を手で包み込んだ。
「このことも、これから先のことも、気に病むことはないわ。あなたは決して悪くない。悪いのはラスツイーターなのですから」
 美那斗の声が耳に届くと、泰朋の眼に正気が帰ってきた。
「ああ。ああ」
 同じ呻きを何度も口から吐き出し、自分を納得させるように泰朋は頷いた。勿論頭では理解している。それでも、自らの振るった剣が女性の脚を切り落とし、鮮血が飛び散った光景は、心的衝撃とともに脳裏に焼き付いてはなれない。
「怪人と闘うというのは、こういう事なんだな」
「ーーーーええ。そうね」
 泰朋の言葉を美那斗も自分の胸に深く刻みつけようと思った。
 これからも沢山の苦しみや悲しみや試練が立ちはだかるだろう。相手はあまりにも巨大で、異質で、底知れず、巨岩や大木よりももっと計り知れぬ高層ビルのようだ。見上げるだけで圧倒されてしまう。
「美那斗さんは強いんだな」
 人間の肉体を斬った感触が手の平に残っている。だが、美那斗の手が不快感を溶かし、消し去っていくのを泰朋は知覚していた。心の底から彼女の強さを想った。こんな時、女性のほうが余程度胸が据わっているものなのだろうか。
「そうかしら。それなら、今度また変身を試してみるわ」
 美那斗のポケットには陰のコアが収まっている。
 強くないから未だ変身出来ていない。もし強さを手に入れたのなら、きっとホーンになれるはずだ。美那斗は強くなりたかった。
 強さとは何だろう。
 まるで永遠に解けない謎のように、泰朋はまたその疑念に捕われていた。
 そして美那斗は泰朋の強さを羨ましいと思いながら、頼もしいとも感じていた。
「さあ、帰りましょう」

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