仮面の戦士 ホーン

忍 嶺胤

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一章 ソーラーホーン

7.遠い音楽

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 空から舞い降りる雨粒の一つ一つが、窓ガラスに留まっては風で後方へゆっくりと流れていく。美那斗はぼんやりとそれを眺めていた。雨は大地を潤し、植物や動物の命を育む。雨があったから、地球は水の惑星として生命に溢れる美しい星となれたのだ。
 雨は好きだった。見るのは勿論、うたれることも嫌いではない。
 でも、今だけはそんな癒しの気分に浸ることは出来なかった。
 ラスツイーター<コレクト>を逃がしてしまった。
 後ろを追走しているバイクに乗る泰朋の辛そうな顔が美那斗の心を苦しめる。
 先日の大型ショッピングモールに次いで、今日で二度目だ。
 監視衛生がその姿を発見し、美那斗と泰朋が駆けつけた時、すでに<コレクト>の体は前回よりも可也多数の収集品で全身が溢れていた。それは、また犠牲者が出てしまったということだ。
「フィアット500と言えば、ルパンⅢ世の愛車として有名ですが、このフィアットは初代で、トポリーノと呼ばれています。トポリーノというのはハツカネズミという意味なのですが、名前の通り可愛らしく、愛嬌があるでしょう。オードリー・ヘップバーンのローマの休日に出てくる車なんですよ」
 エンジンやサスペンションの性能など説明しても興味を示さないだろうと考え、辺見なりに美那斗の気分を和らげようと、そんな話をしたのだが、どうやら彼女の耳には届いていないようだ。
 フロントガラスに雨滴が落ちる。エンジン音に掻き消されて聴こえてこないが、そこには小さなメロディが生まれたはずだ。人間が街を造り出したことによって、様々な人工的な大きな音が出現し、自然の多種多様な音は追いやられている。
 鳥の啼き声、樹々の葉枝のざわめき、地を駆ける動物の足音、川のせせらぎ、虫の羽音、星々の息遣い。
 雨音を愛しいと感じるように、未来の世界では言葉を使う人間の声も貴重なものに変わってしまうのだろうか。ラスツイーターの群れに追いやられてしまうのだろうか。
 月崎邸に帰ると、美那斗はそんなことを想いながら、冷たいシャワーを浴びた。
 口惜しさで熱を帯びた全身をクールダウンさせる。幾筋もの水の流れが体中に軌跡を描いてはその姿を変え、美那斗の四肢を伝って降りていく。足の甲や踵からタイルを流れ、排水口へ集まっていく。
 美那斗の体に触れたこの水たちも、やがては再び雨へ還ってゆく地球の循環の不思議を想像しながら、シャワーの蛇口を回して閉める。
「雨に濡れたみたい…」
 何故だかそのまま濡れていたい気分で、美那斗は浴槽の縁に腰を落とした。
 ラスツイーター<コレクト>が出現したのは高層マンションの谷間にある、散策道と公園が合わさった周辺住民の憩いの広場で、その日はちょうどバザーが開催されていた。
 時折ポツリポツリと思い出したように降っては止む小雨の所為か、人の参集は比較的少なかったとはいえ、怪人がその姿を人前に表すだけで、群衆は容易くパニックに陥った。逃げ惑い、悲鳴に喉を枯らし、あまりの慌てように怪人と直接かかわらない場所でも負傷者が続出する。
 バザーの出展品を物色しては琴線に触れた物を手に取り、自らの体表を飾っていくラスツイーター。それが物である内はまだましだが、人の体のパーツを欲してしまうと、おぞましい地獄のような惨事が起こる。
 厚い雲が全空を覆う中、美那斗と泰朋が駆けつけた時には、すでに一名が命を失い、もう一名も重体であり、ラスツイーターの腹部には繋いだ手と手がぶら下がっていた。恋人同士の手にしては、それは大きさのバランスがあまりにも違いすぎていて、親子のもののように推測された。怪人が動くと、その繋いだ手が揺れる。親子の愛情の強さを確かめるためにわざと揺すり、握った手が離れないか試してでもいるかのように。
 そうして戯れている所へ二人が現れると、ラスツイーターは相手に見覚えがあるのか、鴉の嘴を大きく開き、
「イーーーーッ」
と鳴き声を上げ、二人に背を向け逃走を始めた。人も物も何ら関係なく突っ込んでいく。腕でなぎ倒され、足で踏みつけられていく人と物。
 泰朋はコアを太陽のいない天に翳すが、コアは反応を示さなかった。
 美那斗は自信のある脚力で敵を追いかけるが、ラスツイーターの方が俊敏な上に、美那斗の追跡ルートに負傷者を次々と置いてゆくものだから、二人の視界から見なくなるのに数分とかからなかった。
 それでも、人工衛星なら怪人の姿を捉え続けているはずなのに、ややするとそれすらも効力を失ってしまったのだった。
 浴室を出、純白のコットンのバスローブを羽織り、濡れそぼつ髪の水気をタオルに吸わせる。
 コアが太陽エネルギーを受けて発動するシステムである以上、天候は如何ともできないのなら、それ以外の方法を模索する必要がある。その一つが怪人の追跡方法の検討だ。
 勿論、月崎研究チームの全員がその認識を持って研究に精を出してくれているだろう。ただ、その進捗状況を知りたくなり、美那斗は研究棟へ足を向けた。
 自室を出て、一階に降り、研究施設のある西棟へ向かうために玄関ロビーを通ると、ソファーに深々と腰掛けた泰朋が美那斗を待っていた。
「や、やあ」
 部屋着、という程自堕落ではなく、それなりの服装はしていたが、毛髪は未だ乾ききってはおらず、粗略な感は否めない格好に、美那斗は急に気恥ずかしさを覚えた。
 これまでにも汗塗れの髪や化粧気のない素顔、貞淑とはいえない戦闘服姿など、いくらでも見られていたというのに、おそらく泰朋の自分を見つめる表情と、少し吃った口調とに変に意識させられたのだろう。
 ただ、内面の動揺など微塵もない落ち着いた物腰を崩すことはなく、泰朋に気づかれてはいないだろう。
「あら泰朋さん、ごきげんよう。どうかなさいましたか」
「えっと、今日は午後のトレーニングがまだだろう。さっきの騒動があったから」
「トレーニングですか」
「そうさ。日常生活や毎日のルーティンが大切なんだ。試合の結果を左右するのは得てしてそんな些細なと思えるような事柄だ」
 大きくゆっくり首肯すると、少し微笑する美那斗。
 太陽が暗雲に覆い隠されて変身ができず、怪人を逃がして気落ちしているだろうと勝手に想像していたが、そんなに脆弱な格闘家ではなかったようだ。
「そうですね。泰朋さんの仰る通りですわ。さぁ、それでは始めましょう」


 ややあって、二人は月崎邸の広い敷地内の前庭に立っていた。玄関、エントランスから伸びる舗装された路は、右手に研究チームの活動する西棟の荘厳な建築美を眺めながら鉄柵の正門へと続いているが、左手には開けた空間があって、地面に芝生はなく、踏み固められた土が露出している。奥には樹木が外界を隔てる境界線を成している。一見豪奢な館に相応しくないこの広場は、戦時中本土決戦に備えた日本軍が婦人部隊に竹槍の訓練を行う場として開放されたという過去がある。
 棒杭に藁を巻きつけたものを地に打ち立てて敵兵に見立て、竹槍で突き刺す訓練には周辺の婦女子は全て駆り出され、中にはブルマ姿の女子児童もいたという。そうした者達の汗や涙が土に染み込み、足で固められた結果、不思議な事に草が生えて来なくなったのだと、小さい頃美那斗は祖父に教えられたことがあった。
 時代は大きく変転し、敵が変わったが、現在もこの地面は汗を吸い込んでいくのだった。
 美那斗の繰り出す打撃の重さに、泰朋は驚きを禁じ得なかった。こんなにも細い腕から生み出される一撃一撃がスパーリングミットに当たる都度響く低い音、手と腕に伝わる衝撃に、総合格闘技世界チャンピオンであるキャノン泰朋をしてさえも気圧されていく。
 これまで闘ってきた男達と比較して拳が小さいためなのか、当たる面が小さい分、鋭い痛みが走る。男達の打撃が剣道の突きだとすると、美那斗のそれはフェンシングのようだ。
 革製のミットが幾十という音をたてた頃、泰朋が一旦両腕を下げた。
 眼前では美那斗が両の拳を上げてファイティングポーズを取りながら、リズミカルに跳ねている。その度に長い髪が上下に踊る様子は、まるで妖精がステップを踏んでいるようだ。
「どうしましたか。もうおしまいですか」
 怪訝な表情で美那斗が問う声に乱れはない。まだ息が上がっていないのだ。それだけでも相当に体を鍛えていることが判る。
「い、いや。まだだ。今度はミットを横に振るぞ。こうだ」
 泰朋がスパーリングミットを水平にして横に薙ぐように動かしてみせる。
「これを躱して打つんだ」
「わかったわ」
 急いで着替えて戻った美那斗は、いつものランニングウェアにオープンフィンガーのグローブとスニーカーという出で立ちで、防護装備のコートにブーツ、戦闘用の武器である銃と剣は携帯していない軽装であったので、自分の体がやけに軽い気がしていた。
 実際、体はよく動くし、疲労感がない。
 泰朋の構えるミット目掛けてパンチを打つ。スパーリングは弁天ジムでもやっているので要領は判っているし、右へ左へと位置を変えるミットを素早く的確に捉え、叩いていく。
 パンパンッ。ババン。パンッ。
 小気味良い音が鳴り、連打していると、美那斗の頭を泰朋のミットが軽く叩いた。
「あっ」
 自分の迂闊さを恥じ入る美那斗。
「これが敵の攻撃だったら、どうなっていたか判らないぞ」
 一度手を下げて諭す泰朋。
 美那斗がキッと唇を噛む。
「さぁ、もう一度だ」
 泰朋が再度ミットを挙げると、美那斗の拳が襲う。
「何だその気の抜けたパンチは。痛くも痒くもないぞ」
 先刻の頭へ受けたミットの動きが、美那斗には全く見えていなかった。その動きを警戒するあまり、打撃が甘くなってしまう。美那斗から余裕が消えていく。
 パンチを受ける泰朋のミットが横に動く。美那斗が躱す。何度も繰り返していると、徐々に美那斗のパンチが先程の重さを取り戻していく。と同時に泰朋のミットも正確に回避する。順応の速さに泰朋は眼を見張ると、今度は移動をしていく。
 巨体に似合わない俊敏さで、美那斗の細い体を廻り込むように背後を捉え、ミットを薙ぐ。美那斗からは死角であったが、見えるのか、察したのか、上体を傾けて躱しながら振り返り、すぐさま拳を送り出す。
 二人の攻防が何度も繰り返され、どのくらい時間が経ったろう。泰朋が動きを止めた。
「よし、休憩しよう」
 泰朋の声が掛かると美那斗は動きを止め、両手を両膝に当てて体を支えながら大きく肩で息をする。汗が顎を伝って地面に滴り落ちていく。
「すごいな、美那斗さん。センスあるよ」
 肺が急激に空気を求めて喘ぎ、ハァハァと音を立てながら呼吸をしていると、館の方から二人を呼ぶ声が聴こえて来る。
 執事の辺見が立っている。声をかけるタイミングを計っていたのだろう。


 怪人対策を目的とした月崎研究チームが活動する月崎邸西棟の一室に、スタッフが参集して打ち合わせをする会議室がある。その室の壁に大型ディスプレイが掛けられて、無機質な壁面の唯一の装飾品代わりを請け負っている。通常であれば研究に関するデータを皆で閲覧しながら討議を躱すのだが、今そこにはデレビ局の放送したニュース番組が映されている。内容はラスツイーター、勿論放送内でその名称を使われることはないので、怪生物や謎の生命体として語られていたが、最近増加している奇怪な事故、事件関連を報道するものであった。
 画面は先日の大型ショッピングモールの惨状を映し、次いで怪人の目撃情報を人々のインタビューを交えて映している。そんな中、美那斗に見覚えのある人物がインタビュアーに対し話し始めた。
「スゴくびっくりして、もうダメだって思ったんです。ねっ」
「僕は車椅子から落ちてしまうし、彼女も足を怪我して、そこにあの変な奴が近づいてきて」
「それはこの謎の生物ですか?」
 目撃証言を基に描いた絵を二人に見せるインタビュアーに、二人は顔を見合わせて、首を傾げる。
「あんま似てないかなぁ」
「うん。全然ちがくない?」
 翔太、加奈と呼び合っていた、美那斗が怪人から救った二人連れであった。
 その後、画面の二人は怪人の魔の手から如何にして命を永らえることが出来たのかを、興奮した面持ちで、まるで自慢話でもするように語っていくのだった。
「女の子と男の人が助けてくれたの。ね」
「ああ」
「二人の人があなた達を助けてくれたんですね。どんな人達でした?」
「えっと、すんごい大きい男の人だったよね」
「そうそう、スゲエデカかった」
「女の子の方はすごい綺麗で、ナンカのアニメの美少女キャラみたくて。彼ったらその娘に車椅子に載せてもらって、デレデレしちゃって」
「そんなことねぇし。何言ってんだよ、加奈」
 ここで画面はスタジオに切り替わって、ショッピングモール内に設置されている監視カメラが捉えた映像を映す。彩度の低い白黒に近い画像だったが、二人の姿をはっきりと映している。カメラの設置位置の関係だろう、美那斗は頭上斜めからのため顔は隠れて判別できないが、泰朋は大きな体を隠しようもなく、顔も紛れも無く映し出されていた。
「キャノン泰朋さんに似てませんか?」
 スタジオでそんな会話が交わされていく。
 バツが悪そうに泰朋が頭を掻く。
「全国放送で流れちゃいましたね。お嬢様も有名人の仲間入りですかね」
 その場にいる皆の気持ちを代弁しようとする執事の言葉だったが、誰一人としてくすりとも笑いを漏らすものはいなかった。むしろ会議室で一人浮く結果となり、以後辺見は部屋の隅で固く口を閉ざした。
 番組は美那斗のことにはあまり触れず、泰朋に焦点を絞っていった。事務所から現在泰朋が活動休止していること、対外試合の予定は一切なく、スケジュールは白紙であり、所在も不明であることなどが社員の口から説明された。
「つまり、グランドスラムチャンピオンは今、この不可解なバケモノと闘っている、ということなのでしょうか」
 大スクープとでも言いたいように、番組は幕を閉じた。
「ふぅ」
 誰かの大きな溜息が漏れる。室内には美那斗、泰朋、辺見の他、向浜、追分、雄川、清水、川端がいたが、どの表情も重い。いや、正確に言うとその中の二名は少し違う表情であった。一人は追分で、画面の中での美那斗の装備や動作を見られて嬉しいように見える。もう一人は美那斗で、皆とは別種でいささか場違いな憤りを感じていた。それは、助けた女性に「女の子」と呼ばれたことで、秀麗な相貌の眉根を思い切り曇らせているのだった。
「これからどうなるのでしょうか。世間の動きがどう変遷するのか、私の得意分野ではなく、予測が立ちませんが…」
 川端が相手を特定せずに問う。その疑念ももっともなことで、幾つもの懸念材料が生じてしまった。まずは怪人の存在が公にされた事だ。これまでは、何か異変が起っている、未知の物体が怪異を起こしている、という噂はあったが、これが事実だと報道されたのだ。これに対してキャノン泰朋という格闘家の世界チャンピオンが活躍している。別段隠れて生活している訳ではないので、やがれ噂の流れは月崎家に辿り着くだろう。
「今回の放送で触れられていなかったのが、美那斗さんの使用した武器についてよ」
 これが追分のセリフであったなら、「どうして私の作った超絶な武器を大々的にクローズアップしないのよ」という意味合いであったかもしれないが、向浜紙戯の指摘は別所にあった。
「インタビューされてたカップルは、当然銃を見ているだろうし、その話もテレビ局側にしているはず。それが報道されなかったということは、自主的か公的か判らないけど、規制がかかったということになるわね。これは判断が難しい問題になるかもしれない」
「それはどういうことだい?」
 雄川が訊く。
「おおっぴらに武器を使う人物の存在が知られて、警察がどう出るか、っていうことよ」
(ちょっとちょっと、そうじゃないでしょ! かっこいい女戦士がいながら、何故それを放送しないのかって言う事の方が重要じゃない!)
 追分は心の中で金切声を上げていたが、必死の自制心でそれを押さえつけるのに、何とか成功したが、腕を組み右の爪先は高速で床を叩き続けている。
「銃刀法違反?」
「それで済むわけないな。月崎財閥に注目が集まれば、当然のようにそこには潤沢な資金が有ると、何も知らない群衆は思うだろうから、どんなことを勘ぐられるやら」
「と、いうと?」
 川端の呟きを清水が問い質す。
「怪人を斃すために私達がしている所業を、警察はそうは思ってくれないだろう」
「えっ」
「怪人は突然現れた。月崎はそれに関与している。そう思われても不思議じゃないわね」
 スタッフの話に耳を傾けながら、美那斗は警察庁の訪問を受けた時の事を思い出していた。
 自分と大して年齢の違わない女性に子供扱いされたようなモヤモヤした気持ちを忘れるよう努力しながら、皆の言葉一つ一つを聞き逃すまいとした。
「なあ、皆」
 少しばかり大きめの声で、全員の注目を一気に自分に向けさせることに成功した泰朋は、一呼吸間を置いて続ける。
「俺達は怪人を斃すために闘っている。これは間違いなく正義だ。警察や世間が何と言おうと、真っ直ぐに胸を張っていればいい」
 力強い泰朋の言葉が、皆の胸に響いた。
 事の性質上、大きな声で名乗りを上げるようなことは出来ないが、名誉や虚栄心を満たすためにここにいるわけではない。正しいことを成すために毎日頑張っているのだと、泰朋は改めて解らせてくれた。
 歳を取り涙脆くなって来た清水などは少なからず眼を潤ませていた。そして、唐突に手を叩く。
「そうね。確かに泰朋くんの言う通りね」
 紙戯も同調し手を叩くと、その波は全員へと伝搬していくのだった。
「体だけじゃなく、人としての器も大きいのかもしれませんね、泰朋くんは」
 辺見の感嘆の呻きが美那斗の耳朶に届く。
 それが自分と彼の違いで、変身出来ない理由なのかもしれない。テレビ画面の加奈という女性の口調などという瑣末な事柄に立腹する自分が、どうしようもない位にちっぽけに想えてしまう。どうすればあんな大きな人間になれるのだろうか。闘って、勝って、自信を持つことが出来たら、人間的にも成長できるのだろうか。
 怪人のいない平和な街を取り戻したい。そのために変身できるようになりたい。美那斗は強くそう想うのだった。
 三々五々、スタッフが部屋を出て行く。美那斗もそれに続こうとすると、清水に呼び止められた。
「泰朋くんの言葉には感動しました。スタッフ一同の志気も高まったことでしょう。迷いも消し飛び、また研究に粉骨砕身してゆけそうです」
「そうですね。私も何てすごい人なのだろうと感心させられました」
「ええ、ただ」
 清水が言葉を濁す。和やかな表情が申し訳無さそうに曇ってゆく。
「どうなさいましたか」
「資金面がやはりかなり厳しいです」
「それでしたら海外ファンドを解約しましたので、相当額の資金供与がなされたはずですけれども」
「はい。それは大分助けられております。ですが、やはり研究というものは金食い虫ですし、それにもましてこの様な未知のもの、未解のものが相手であっては、その資金も国家予算級となってしまいます」
「国家予算、ですか…」
 周りにあるものが、何でもかんでも巨大に想えてくる。大きすぎて呑み込まれてしまいそうだ。押し潰されてしまいそうだ。
「何とか規模を縮小する方策を考えませんと、存続してゆけなくなりそうです」
「現状で継続してゆくとしたら、あとどの位の期間的猶予がありますか」
「そうですね。ざっと見積もって半年は持たないでしょう。早ければ三、四ヶ月かもしれません」
「そんなにーーー」
 美那斗は愕然とした。
 一方、その頃、泰朋は部屋を出た向浜紙戯を呼び止めていた。
「紙戯さん、ちょっと話があるんだけど」
 ワンサイズ上のTシャツはしわくちゃで、染め損ねたような藍色と白の斑模様で、ボリュームのあるハイウエストのフレアスカートはミニで、アースグリーンで、シルエット的には脚を長く見せる効果があるだろうが、Tシャツの裾がスカートの中に納まりきらずに膨れ上がっていて見窄らしい。その下はルーズソックスとサンダルという紙戯の恰好であったが、泰朋は大して気にかかっていないようだ。
「何!?」
 二人は廊下の壁際に体を寄せて、他の人にすれ違うスペースを空けるように向かい合う。
「コアの事を教えてほしい」
「ああ、なるほどね」
 最後まで訊くまでもなく、紙戯には泰朋が言いたいことに思い当たる節があるようだ。
「やはり、太陽が出ていない時に変身は出来ないのか? 怪人と闘うのに武器だけではどうしても限界がある。今日はあっという間に逃走されてしまったが、あのスピードで、もし視界から外れたまま迂回され、背後に回られていたらと思うとぞっとする。怪人はたった一撃で人間を殺す力がある」
「それはそうね」
「皆さんの開発した防護服はすごいが、それだけで美那斗さんを護ることは難しいだろう。曇りや雨の日でも変身できるようにならないだろうか」
「うーん。ちょっと訊くけど、変身したいのは怪人を斃すため? それとも美那斗ちゃんを護るため?」
「えっ、それは同じことだろう。彼女は怪人と闘おうと毎日練習しているんだから」
 意外な事を問われて困惑する様子をみせる泰朋に、ふうん、と鼻を鳴らしてみせる紙戯。
「まぁいいわ。それよりもコアの件ね。コアについては新たな事実を発見できるような性質のものじゃないし、もう探求はしていないわ。チーフが残したデータに書かれている事が全てで、誰よりも詳しいのは実際に装着した経験者であるあなたよ。ただ、私はこれまで得た知識から推測することは出来るから、ちょっと考えてみるけど、そうね。コアは太陽エネルギーを受けて、人の潜在意識に働きかけ、力を発現するためにチャクラを廻すものだから、見方を変えれば、チャクラを廻すことが出来るなら、コアの力を引き出すことが出来るかもしれない。ヨーガっていうの、やったことはある?」
「以前インドを旅したことがあって、精神統一に最適だと言われ、やったことがある。けど、賢者の言うような高次の領域だの、悟りだの、天だのと、小難しいことはさっぱり理解できなかったよ」
「話題がそっちの方面に進むと、私達科学者もお手上げだわ。特に無神教徒の多い日本人には、知識は得られても理解する域まで到達するのも難しいのだけれども、常識と想っていた事を超えた世界を体験したあなたなら、理解は出来なくても、私達には知ることすら不可能な視認できない事象を感じられるかも知れない。太陽を必要とせずに変身できるとしたら、その方法はあなたが自分で探すしかないわ。そうね、もう一つ可能性があるとすれば、怪人なら知っているかもしれない」
「そうか」
 傍から見て判る程、泰朋は肩を落としていた。項垂れた様子を気の毒に感じたのか、紙戯は更に思考を巡らせる。
「後で雄川さんや川端さんに相談して、衛星のデータから、って、おーい」
 紙戯の声はもはや泰朋の耳には届いていないのか、紙戯に背を向けると泰朋は下腹部に手を当てながら去っていった。
「よっぽど美那斗ちゃんが大切なのね。でもそれって、誰の意思なのかな。泰朋くんの? それとねチーフの?」


 怪人から恋人を救った泰朋の姿を撮影したテレビ放送は、あちこちで波紋を生んでいた。
 弁天格闘ジムではモニターを見ながらざわざわしているのに気付いた矢留千秋(やどめちあき)が男達の背後から首を伸ばし、恋する男の姿を覗き込んでいた。
 屈強な巨躯を包むのは、ほとんどすべてがピンク色の服であった。ウィンドウブレーカーはパーカーの紐の色まで全てピンクだし、ランニングパンツの下のスパッツも肌着もやはり同じ色。違うのはスニーカーとキャップだけだった。伸ばし始めた茶髪がキャップから溢れるように広がっている。筋肉が隆々と盛り上がり、ピンクの服がはち切れそうだ。
 千秋の視線が泰朋を追っていくと、自然と頬が緩んでいく様は、周囲の男達はきっと気付きたくなかったろう。それ程不釣り合いな表情を浮かべながら、今にもモニターだということを忘れて、泰朋に抱きつきそうな勢いがある。ある意味解り易い性格と言えないこともない。
 目元も口元もだらし無く緩み、およそボクサーの顔とも思えなかった千秋の表情が一瞬にして固まり、険しく変わる。泰朋と行動を共にしていると思われる若い女性の姿に眼が釘付けになり、血走っていく。鋭く尖った釘のように硬い凶器で射抜き、攻めているようで、まさしく釘付けにしようとする程に、怖ろしいくらいの力が込められている。
(何よこの女。なんなのよ。くそっ、くそくそっ。私の泰朋様のそばにいるだなんて信じられない。それにしても、どこかで見たことがあるような…)
 嫉妬で喉の奥に苦い塊が詰まり鬼の形相になっているのを、彼女の後ろに立っていては窺い知る術もなく、ジムのオーナーである弁天が気の抜けた声を上げる。
「あれぇ、この娘、月崎に似てないか。なぁ、土南」
「げっ、何で俺に訊くんすか」
「だってお前、月崎とはいい仲じゃないか」
 周りからどっと笑いが沸き起こる。
「ひでぇっすよ、オーナー。あんなヒステリー女、俺の趣味じゃねえって」
「他人の空似かな」
「まぁ、貧乳の感じは似てっかもしんねぇすけどね」
 矢留千秋は男達にあれこれ尋ねたりしなかった。ただ、記憶した。月崎という名を。
 場所は変わって、とある古いアパートの一室。ここにもテレビの画像を食い入るように見つめる者がいた。ギシギシとスプリングの軋むベッドに重たい尻を乗せ、前屈みになって小さなブラウン管に視線を当てている。
「キャノン…」
 苦虫を噛んだ様な呻きが漏れる。
 男の名を西谷総(にしたにそう)という。泰朋に勝るとも劣らない巨大な体躯を有するスキンヘッドで、部屋の中に唯一人という気楽さでブリーフにタンクトップだけという質素な装いと、それとは逆にコテコテした装飾品を多く身に着けている。両耳のピアスにネックレスはどれも金色で、クロスやピースマーク等のシンボルを象ったものが目立つ。肩から腕、太腿、へそ周りにはタトゥーもあった。
 近寄り難い、というよりも他者を寄せ付けないオーラを色濃く纏っているように見える。番組が終了すると、西谷はスマートフォンを取り上げ、太い指で何度となくタップミスしながら誰かと連絡を取り始めた。
 泰朋は世界総合格闘技(WMMA)のグランドスラムを達成した強者であるが、その四つの大会はアメリカ、ブラジル、日本、オランダの四カ国で行われ、最終戦はオランダのロッテルダムにて開催されたが、その大会の決勝戦は奇しくも日本人同士の試合となった。その相手が西谷である。
「マネージャー、俺だけど。キャノンの奴、次の試合には出ないのかよ!」
 電話口の向こうで話しているであろうマネージャーの言葉を聞いていたのも最初の内だけで、スマホを耳から話すと目の前に立て、画面にがなり立てていく。
「あの野郎逃げやがって。納得いかねえ。全く、何だってんだ。ヒーローごっこかよ。ふざけんな。いいから、お前はあいつの居場所を探せ。すぐだぞ、すぐ。ったく」
 一気にまくし立ててスマホを適当に放り投げると、次いでテーブルに置いてあった白い容器を取り上げ、丸い蓋を回して開け、中に大きめのスプーンを突っ込んで救い上げた白い粉末を口に運ぶ。掻き込むように食べているのはプロテインで、たっぷりの水で胃に流し込んでいく。
 続いて二十キロのダンベルを両手で交互に上げ下げしながら、西谷の頭の中には泰朋との決勝戦の記憶が甦っていた。日本人決戦は大きな話題となり、世界中の注目を浴びた。片や、この一戦に勝利すればグランドスラム達成という強者であり、又、片や急躍進で成長する期待の新人。試合予想や勝敗の賭博、論評など、開戦直前まで盛んに行われた。
 分があるのは数々の経験値に勝る泰朋と目されるも、この一年間の死闘の数々は疲労を体内に蓄積させているだろう。対する西谷は若く勢いに乗っている。オッズはほぼ半々に分かれていた。
 そしてその結果は、僅差で泰朋に勝杯が上がったとの報道が多く見られたが、実際は全く歯が立たなかったと、西谷は思い出す度に歯ぎしりを鳴らすのだった。
「ふん、ふん、ふん」
 ダンベルを持ち上げる度に大きな鼻息とともに気合を込めた声が漏れる。
「ちょっとナナちゃん、運動は外でやっとくれよ。床が抜けちまうよ」
 ボロアパートの大家の婦人が大声で怒鳴っているのが開けっ放しの窓の外から聞こえてくる。
「はぁはぁ、くそババアが」
 西谷の罵声は「ナナちゃん」と呼ばれたことに起因している。
 縁起担ぎで、西谷は数字の7に拘りを持っている。ピアスは右耳に4つ、左耳に3つの合わせて7つだし、指に嵌めるリングも7つ。ネックレスには7つのクロスをつけている。
 それに因んで、リングネームをセブン総と付けた。
 その名から派生してセブン・ソードなどと気の利いた呼び方をする者が現れ、西谷自身はかなり気に入っているのだが、格闘技など全く関心のない大家は、「セブン? ああ、七つのことねぇ。ふうん、じゃあナナちゃんでいいやね」となってしまい、以降その名で呼ばれることになってしまった。
 西谷がダンベルをベッドに投げ出すと、ドスッという重たい振動に続いて、再び大家の絶叫が響く。
「ナナちゃん!」
「うるせえババア。今出てくよ」
 スウェットのパンツに取り敢えず足を通し、突っ掛けを履いてアパートの階下に降りてゆく。階段の下に掃き掃除の途中の大家が立ち、箒片手に西谷を睨んでいるが、彼が言う程の年寄りではなく、まだ五十代位の小太りで人の良さそうな婦人であった。
「あんたら男は、みんなクソババアから生まれたのよ。そのことを忘れるんじゃないわよ」
「まぁたその話かよ。ああ、うるせぇ」
 西谷は両手で両耳を覆い、肘を張りながらわあわあと喚き散らしながら、アパートを後にしていった。


 その日は朝から雨が降っていた。自らは音を立てない細かな雨滴が、周囲の物音を吸収して飲み込んでゆく。静かな一日だった。
 そんな天候とは打って変わって、月崎邸は午前中から幾人もの作業員で珍しく賑わっていた。館内にある数十点に及ぶ絵画や彫像、壺などの装飾品の鑑定と査定、売買契約のためである。美那斗と辺見が立ちあう中、月崎家専属の会計士である瀬川がスタッフ数名を引き連れて鑑定士や業者と対応している。
 金額の交渉だけでも多くの時間を労するというのに、今回は鑑定士の驚嘆がそれに拍車をかけていた。政界、財界で名を馳せた月崎新道のコレクションに贋作はただの一つとしてなく、名だたる逸品揃いであった。また、現代においては著名となったアーティストの世間に知られていない初期の作品が数点あり、新道の先見の明に鑑定士が嘆息を漏らす度に作業が停滞するのだった。
 そうした訳で、朝のトレーニングの際に来客を知った泰朋が、長目に時間を潰して戻った時、同じ顔ぶれが並んでいるのを見て驚いた。
「ただいま」
「ああ、泰朋くん。お帰りなさい。雨のようですね」
 撥水効果の高いジャンパーを脱いで手に持っている泰朋に、辺見が声をかけながら執事の慣習で上着を預かろうと手を差し出すが、泰朋は手を上げて断りながら、「そう、雨だ」と、苦い表情を作る。
 空を雨雲が覆い尽くしている。それはつまり、太陽の姿が見え無いという事で、今この瞬間に「LE発見」の一報が伝えられたとしても、闘う術がないという事になる。チームの開発した二つの武器の内、ラスツイーターの体に当たることで不快な音を立てる弾丸を撃つ銃は、敵を威嚇し、しばし動きを止めることは出来る。刃が超高速で振動する剣は敵の体を傷つけることが出来る。上手く使えば体を切断することも出来るかもしれない。しかし、動きの速度を補うことは出来ない。事実、先日は<コレクト>の逃走を許している。
 泰朋はトレーニングの仕上げに、月崎の敷地内に威風堂々と聳え立つ菩提樹の根本に座し、長時間瞑想を続けた。大樹の枝葉からふり降りる雨水の滴が体を冷やし、大抵の人間なら風邪をひきそうなものだが、鍛え上げた泰朋の体温は下がることなく、肌を濡らした雨は辺見の目の前で瞬く間に蒸発してゆくかのようだった。
 玄関ホールに何点か掛けられている大きな絵画の前に立ち、その名作を男達が眺めている。その少し後ろ側に立っている美那斗は凛としつつも清楚で優雅な装いで、泰朋はしばし眼を離せなくなった。
 淡いメタリック調のスカイブルーのブラウスに、繊細な花柄が浮かぶターコイズブルーのタイトスカートは、レースを取り入れて高級感を漂わせながらも、透けて見える素肌が大人の女性らしさを醸し出している。肩から首に柔らかく織ったシルクスカーフをふんわりと掛けている。スカートに合わせた色調のパンプスを履いている。
 屋敷内の名画たちより何より、泰朋には美那斗の方が格段に美しいと感じられるのだった。実際、正装した時の美那斗と戦闘服姿やトレーニング姿の彼女とはまるで別人のようだ。あれ程激しく闘う女性が、何と優美な佇まいを造景して見せるのだろう。
 会計士らの話を聞き、時折長く黒く伸びた髪を撫でて整えながら、決して穏やかな表情も姿勢も崩すことはない。その所作が優美なのだ。
 泰朋が戻ったことに気付いた美那斗が、ちらりと視線を向け、溜息とは悟られないように長く息を吐きだした後、二言三言何か呟き、両手を組んでゆっくりと会釈し、静かな足取りでそこを離れ、泰朋の側に近寄ってきた。
 隣に並ぶように立ち、窓外に目を遣る。四十センチの身長差で視線を躱すのは難しく、美那斗は見上げようとしないが、泰朋は彼女の頭部を見下ろす。黒髪の間から鼻梁や頬がかすかに見え隠れする。
「雨は昔からずっと好きなんですけど、そんな事を言っていられない状況ですね」
「世界の大抵の国では、雨は貴重な天の恵みだ。生命の源だからな。雨の神様を悪く言うつもりはないよ」
「それはそうなのですけれど…」
「変身したいのに出来ない。美那斗さんの気持ちが少しだけ判った気がするよ」
 自分が辛い時に他者を気遣う事ができる。泰朋の大きさと優しさを感じながら、美那斗は窓に当たる雨滴から、鑑定士らへ目線を巡らせる。
「泰朋さん、お願いがあるのですけれど。ここから連れ出していただけませんか」
 高校に通っている頃、授業を抜けだして武道の鍛錬をしたいとウズウズした。
 格闘家になって怪我をした時、病院のベッドで焦燥感を覚えた。
 そんな疼きと同種の感情を美那斗も宿していることを、ようやく見上げた彼女の表情に察した泰朋は、素早く思考した。
「お安い御用だ。ちょっと大きな声を出すぞ」
「解りました」
 美那斗が相貌を上へ向けたまま、瞬きで頷く。
 おもむろに泰朋の巨体が動く。絵画の前に立つ人と美那斗の間に移動すると、向こうからは美那斗の様子も泰朋の顔も見えないようにする。
「おい、冗談じゃねえぞ」
 突然の大声に、居合わせた全員が体をビクリとさせる。予め知らされていた美那斗だけは例外で、むしろ興味津々の体で怒った演技を始める男を見上げている。
 泰朋は内心で「やはり」と呟いていた。美那斗の反応は普通とは少し違う。いきなり大音量で怒鳴り散らされたら、殆どの人は驚き、表情は強張り、萎縮してしまうものだが、物おじしない性格なのか、楽しそうですらある。
「約束が違うだろ」
「ふざけんじゃねえ」
「俺をコケにしやがって」
 そんな意味のない言葉を並べ、がなり立てた後、泰朋の手が美那斗の腕を掴み上げた。
「痛いっ」
 細腕が捻じり上げられる。ブラウスの袖に皺が寄り、覗ける手首から指先までが天井を向いて救いを求めるような苦悶の形状に歪められている。巨大な男が女性の腕を取っただけだが、吊り下げられて、囚われの身になった様に思える。泰朋が美那斗の腕だけを背後の者達に見えるようにしていたので、その印象は殊更強まる。
「やめなさい。放しなさい」
 実際には強烈な握力で掴んでいる訳ではなく、十分に鍛えた躰の美那斗には痛くはなかったが、泰朋の思惑に乗って悲痛な声を上げてみせる。
「うるさい。黙ってこっちに来るんだ」
 今度はその掴んだ腕を引っ張っていく。
 固く捕まえて離さない大男の手に抗うにはあまりにも華奢な美那斗の手が引き剥がそうとするが、男の手はびくともせず、パンプスが床を引き摺るように引っ張られていく。
「お、おい君、何をしているんだ」
 鑑定士の一人が怯えながらも勇気を振り絞って声を張ると、一瞬泰朋は動きを止め、声の主を、次いで周囲の全ての者をギロッと睨みつける。
「この女は借りて行く。文句のある奴はどいつだ」
「ひっ」
 誰かの口から悲鳴に似た息が漏れる。そこに追い打ちをかけるように、泰朋は顔面を前に突き出し、大きく口蓋を開き、歯を剥き出しにした。獣の咆哮が轟き、鋭い牙の奥にどこまでも深い闇の淵が覗けるような気がしてしまう。
「よし、こい」
 力に物を言わせて服従させる必要はないと、首をすくめる群衆に満足して眼光を逸らすと、後はずんずんと重い足音を立てながら、美那斗を引っ張っていく。広く開けた玄関ホールから東棟へと続く廊下を曲ると、二人は視界から消えた。会計士や鑑定士が互いに顔を見合わせて、ざわめき立ち始めた所へ、尚も美那斗の消え入りそうな悲鳴が続く。
「痛いことしないで。やめなさい。嗚呼、何をしているのですか。もう止めて」
 聴き様によってはどこか淫靡な感がないとも言えない、艶めかしい美那斗の声も、やがて聴こえて来なくなった。
 彼らの視界から完全に外れた処まで来ると、済まなそうに手を離す泰朋に、美那斗は真面目な顔つきで一本指を口元に立て、手招きをする。手摺のある木の階段は古く、手前でパンプスを脱いで素足になると、泰朋へは唇と指の動きで音を立てないように指示を出し、階段を昇っていく。二階フロアに出ると、廊下を玄関の方向へ戻っていく。
 月崎の邸宅は玄関のエントランス部分は吹き抜けになっていて、正面の二階部分は舞台のように迫り出したバルコニー状になっている。左右から弧を描いて広い階段が伸びているが、西棟東棟それぞれの二階からも廊下で繋がっている。バルコニーの先端から階下を覗けば、装飾品を鑑定する者達の様子が見えるはずだ。
 進むに連れて姿勢を低くしながら、後ろに続く泰朋にも同じ様にするよう、手のひらを上下に動かして促す。床に手と膝を付いて進む美那斗の後ろに従う泰朋だったが、目の前に広がる光景にドキリとし、顔を赤く染めながら驚きの声を上げそうになった。視線を当てられずに困惑する泰朋を腰を捻って振り返る美那斗は、照れて焦る様相など気付かずに、泰朋の体の大きさが気になり更なる低姿勢を要求する。
 心臓が高なっていくのを自覚しながら、誤魔化すかのように匍匐前進の姿勢を取り、美那斗のすぐ後ろではなく少しずれて横に並ぶように位置を変え、美那斗に続いて柵の間から階下を覗き見た。
 そこには鑑定士らや会計士ら、大の大人が互いに顔を見合わせ、どうしたら良いのか迷い、戸惑う姿があり、自分たちの演技が見事成功したとみて、美那斗は肩を小刻みに震わせながら、声を出さずに笑っていた。泰朋は唖然とした。こんな子供みたいなことで、心底笑い転げている様子の美那斗に呆気にとられたし、男を狼狽させる妖艶なポーズも全く意に介さないというよりも、そのような男の心理に気を回す習慣がないのだろうことに驚いた。
「んっ、んーっ」
 そこにあえて大きく音量を上げた咳払いが立つ。戸惑う人達をよそに、唯一人辺見だけは横目でバルコニーを見上げ、無邪気な美那斗の表情に苦言を呈したいのを堪えていた。他の者の注目が辺見に集まると、
「お嬢様の様子は私が見てまいります。時間も押しているようですし、皆様は作業をお続け下さい。瀬川様、後はよろしくお願いします」
 何とか事を収拾させて辺見が再びバルコニーを見上げた時には、そこにすでに美那斗の姿はなかった。


 ダーーン、ダーーンという炸裂音がこだまする。
 東館の地下室は奥に長いワインセラーになっている。かつては年代物の希少なワインが何百本と保管されていた棚も、今ではたった一本の瓶すら置かれていない。コンクリートで囲まれたフロアーは壁も仕切りもなく長大であったので、その構造上の特徴を活かして、今は改築され、射撃場に用途を変えた。防音効果が厳重に施されたため、銃撃音が上階まで届くことはない。
 射撃用のヘッドホンで耳を覆い、両手でコルトガバメントを構えているのは美那斗である。服装は先程のブラウスとスカートのままだ。タイトスカートが両足の踏ん張りをやや奪っているが、体の軸が振れない構えで、弾丸を放つ反動を巧みに吸収し、弾倉内の弾丸全てを撃ち尽くすと、目の前の台に銃を、続いてヘッドホンを置くと、首を左右に振って髪を揺らす。
 ついさっき、二階のバルコニーから玄関を見下ろしていた悪戯っ娘のような表情はそこには微塵もなく、鋭い眼光で銃という武器を難なく操作している。
 台に据え付けられている赤いボタンを押すと、およそ十メートル先に吊り下げられた的が手前に移動してくる。用紙の中央に黒い円が描かれた的に、弾丸が開けた穴がいくつも開いている。撃ち損じは一発もなかった。
 新しい用紙をセットし、設定用のメモリを調整して再度ボタンを押す。今度はおよそ十五メートルの距離まで的が離れていく。銃を取り、カートリッジを装換し、同じ様に射撃を始める。
 射撃練習も、今では毎日の日課になっている。その腕前は驚くべきレベルにあった。
 美那斗の後方には泰朋が立って、彼女の動きに感嘆の頷きを繰り返していた。
 線の細い躰を肩から下方へ目線を落としていくと、つい何分か前に見た光景が脳裏に甦ってくる。四つ這いで腰を突き出した後方にいた泰朋の目に映った、ターコイズブルーの彩りのスカート、そこから伸びるふくらはぎの緩やかな曲線。
 思い出した映像に照れたように狼狽していると、ふと気配を感じて目を上げる。美那斗が何かを言っている。ヘッドホンをしていたのを思い出し、慌てて外す。
「泰朋さんも、やってみますか?」
 操作を教わり、言われるがままに十メートル先の標的目掛けて引き金を引き絞る。
「ふぅ」
 大きく息を吐き出した泰朋は、酷く肩が凝ったのを気にしながら、標的を引き戻すボタンを押すが、先刻から頻りと聴こえて来る美那斗のクスクスという小さな笑い声が気にかかる。
 目の前に来た的には、穴が一つも開いてなかった。
「くくくっ」
 堪え切れなくなった美那斗は両腕で腹部を被い、上体をくの字に折り曲げて笑い出す。
「気にすることないですわ。誰だって最初は・・・。あはははっ、ダメっ、ひぃ、苦しい」
 そんなに笑うことではないだろうと、悔しい気持ちはあったが、不思議と怒る気にはなれない。
「世界チャンピオンにも苦手なことはあるってことよね」
 ガバメントを卓上に戻すと、泰朋は拗ねたように退り、壁に背を押し当てた。
 笑いが収まるまでしばし時間を要した美那斗は、次には別の銃を取り出し、再び射撃練習に取り掛かった。先に使用していたコルトガバメントが四十五口径であるのに対し、新たに取り出したものは五十口径という大型の拳銃で、イスラエル製のデザートイーグルという。対ラスツイーター用の拳銃は、このデザートイーグルを基本とした改造ガンであ。大型拳銃故に取り扱いが難しく、特に射撃時の姿勢が重要になってくる。
 銃に関する知識に乏しい泰朋に取って、難なく弾丸を吐き出し続ける美那斗の凄さは知る由もなかった。
 その後は場所を変え、トレーニングは続いたが、美那斗の様子は終始明るかった。
 トレーニングルームでベンチプレスをする合間に、思い切って泰朋はどうしたのかと尋ねてみた。
「今日は何だか上機嫌なんだな」
 首筋を伝う汗をタオルで拭いながら、美那斗は素直に認めた。
「そうかも。願い事を訊いてもらえたのが随分久しぶりだったから、嬉しかったのかもしれないわ」
「願い事? 絵がいい値段で売れたのか?」
 その問には答えず、ただ思わせ振りな微笑が返ってきただけで、泰朋には美那斗が何の事を言いたいのか全く理解できず、戸惑うばかりであった。
 そんな鈍いところにも、美那斗は腹を立てたりしない。泰朋とはそういう人物なのだという安心感に似た感情を覚えるのだった。
 一方、空模様同様にすっきりしないまま一日の訓練を終えた泰朋は、いくつかある月崎邸の風呂で汗を流し、間借りしている部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、かすかな音楽を聴いた気がして、メロディを辿って足を彷徨わせた。
 ピアノの音色であった。
 あまり自己主張せず、柔らかで繊細、それでいてどこか淋しげな旋律を耳にしながら玄関ホールに出ると、泰朋は音を探すように見上げた。
 ツインタワーの異名を持つ月崎の館は、玄関をくぐると広いホールがあって、その左右にゆったりと湾曲しながら伸びてゆく幅員の広い階段があり、やめらかな曲線の飾り彫の施された勾欄が連なり、二階に達するとホール側に張り出しながら一つに繋がってバルコニーを形成している。昼に腹這いになって階下を見降ろした辺りだが、その奥にこの豪邸にしては少し控え目な赤茶色のグランドピアノが置いてあるのだが、階下では音がなければ存在すら気づかない。
「この屋敷にピアノの音が響くのは久しぶりです」
 玄関ホールの壁際の処々に配されている高い背もたれの椅子の一脚に、研究チームの一員である清水が座り、沁々と呟く。泰朋がそちらに視線を巡らせると、清水は続けた。
「名画は全て売ってしまったようで、眼福に預かれるのもあと僅かとあって、こうして至福の時を堪能しておりました。あのピアノも売ってしまうのでしょうか。いくら研究のためとは言え、申し訳なく、心苦しく…」
 最後の言葉は消え入りそうになり、清水は目を閉じ、静かにメロディに耳を傾けているようだった。
 鍵盤の奏でる音の合間に、遠く微かに雨の調べが聴こえて来る。夜陰に紛れて雨脚を強めている空に対して、今だけは憤りよりも伴奏を寿ぐ気持ちを携えながら、泰朋は足音で両者のセッションを邪魔せぬようにゆっくりと階段を昇り始めた。段も中程までゆくと、背の高い泰朋の眼にはピアノが見えてくる。更に行くと、鍵盤に指を乗せている美那斗の姿が。
 彼女の方も泰朋に気付いたようだ。
「この曲がバッハのメヌエット ト短調よ。幼稚園生でも弾ける簡単なメロディでしょ」
 階段を上り終えると、鍵を叩く指の動きが目に止まる。軽く体を揺らしながら踊る指先の滑らかさ、ラフな雰囲気のマキシ丈のワンピースの七分袖から伸びる二の腕、時折フットペダルを操作する際に揺れる裾。泰朋は眼を奪われたように、何と返事をしてよいか想いつかない。否、奪われていたのは眼だけではなかった。美那斗という女性を知り、次第に心が捕らえられているのかもしれない。
 彼女には驚かされてばかりいる気がする。
 優雅な仕草でピアノを奏でるその指は銃の扱いにも長け、引き金を絞っては的を正確に撃ち抜いてゆく。不気味な怪人相手に怯まず挑む勇気があるかと思えば、子供のように悪戯をして笑ったり、社交界での所作や言葉遣いがしっかり身についていて、どこから見ても絶佳の令嬢である。
 最後の音を弾き終え、美那斗の両手が鍵盤台から離れ、腿の上に置かれる。そのまま立ち上がろうとするのを制し、自らはバルコニーの柵に背を預けるように胡座をかいて座すと、
「もう一度弾いてくれないか」
 と言って、静かに目を閉じるのであった。
 そんな泰朋に、美那斗は応える。
 静かに更けてゆく夜はピアノの旋律と雨音の調べがゆっくりと溶け合って、重なってゆくようで、邸内の空気の微かな震えが肌に伝わってくる内に、美那斗はこの感触を想い出していた。指は鍵を叩いているが、自らの耳に聴こえて来るのは遠い日の記憶であった。
 幼い頃に聴いたメロディー。
 泰朋が音源を求めて彷徨ったのと同じく、美那斗も微睡みのベッドから抜け出すと、ピアノの音に誘われるままに、素足のまま屋敷の廊下を歩いた。寝ぼけ眼を擦りながら見つけたのは、ピアノに座って奏でる母、環汽の姿であった。
 母のようにピアノを弾きたいと教室に通い始めたことをすっかり忘れていたが、練習曲にメヌエットのト長調をすすめるピアノ教師に無理を言ってト短調を教えてもらったのも、あの日母が奏でていた曲だったからだ。
 いつしかすれ違うようになってしまったが、美那斗は多分、母のことが好きだった。少なくとも母の弾くピアノは好きだったし、どこか物悲しいメロディーは心に切なく染み渡り、母の体にぎゅっとしがみつきたい衝動に駆られて、胸に飛び込んだこともあったはずだ。
 遠い遠い記憶。
 確かな事実。
 時は経ち、奏者を変えて響かせるピアノのメロディーは今、母の胸に届いているだろうか。不思議な程穏やかに、母を想うことが出来たのは雨の所為だったろうか。それとも、身動き一つせず、まるで眠るように傾聴する巨漢の戦士が側にいるからだろうか。


 屋敷の玄関ホールに直接陽の光は差し込んでこないが、それでも長い年月は幾分かは壁を色褪せさせ、名画を取り外された箇所に建築当時と現代との境界線を人々に知らしめていた。
 何箇所にも及ぶ痕跡は痛々しくすらあったが、八橋風火はあえて言及しなかった。彼女が邸宅内部に足を入れるのはこれが初めてである。前回訪れた時は西館の外側のテラスで、ここの家主と会談した。今日は小雨がぱらついている事もあって、執事の辺見に招き入れられた。豪奢な館特有の静謐で重厚な空気の中に身を置く。時刻は午後三時を少し回った頃であった。
「お待たせ致しました。八橋様、平山様。お嬢様がお逢いになられます。こちらへどうぞ」
 金持ち特有の物言いが多少鼻についたが、言い返しもせず、八橋は辺見の後方をついて行く。警察にしてみれば、一般市民が国家に協力するのは至極当然の責務であって、逢う逢わないの選択肢はないし、そのような発想そのものが高家の証に想えた。
「今年は雨が続きますね。野菜の価格がまた上がったようで、どうにかならないものでしょうか」
「今度取り締まりを強化させますよ」
 執事の軽口など聞き流すつもりの八橋に反し、平山がふざけたことを言うので、八橋のこめかみがピクリと動く。
「これは、ははっ、警察ジョークですか」
 応接室に通されたが、そこに主人の姿はなく、当然のようにまた待たされるのだろうと八橋の口を重い溜息が漏れたが、意外にも彼女の入室は早く、八橋は礼儀として軽く会釈してみせた。
「ようこそおいで下さいました。どうぞお座り下さい」
 丁寧なお辞儀をすると、自分は入口の扉に一番近い椅子に腰掛ける。長いテーブルには合計七脚の椅子があって、エントランス同様、この応接室の壁にも掛かっていたであろう名画の取り外された四角い跡を残す奥の一面が上座に当たる。当然美那斗はそこに座すだろうと意外な念を抱いた。続いて、お茶の乗ったお盆を持って入ってきた辺見も同じような疑念を覚えたらしく、
「お嬢様、こちらでよろしいのですか?」
との確認をとった。美那斗の優雅な所作の首肯を見届けると、その前に白磁の茶碗を置き、向かい側に座った八橋に、更にその隣にもう一つ茶を置く。平山は椅子には座らず、八橋の後方の窓近くに立ったままだったので、座を勧めると両手を胸の辺りに掲げてにこにこしながら断る。表情は固くないが、眼と耳は周囲の異変をすぐにも察知できるように、油断なく全方向に配されているような厳しさがあり、美那斗は警察という職責の厳格さに感心されられた。
 平山程厳格という言葉が相応しくない警視がいないことをよく知る八橋には思い当たる節があり、隣りに座るよう促すが、平山の意識は固く、繰り返し辞退し、直立していたが、すぐにじっとしていられなくなり、三人からは少し距離をとって退出のタイミングを計っていた辺見の方へすっと近寄り、小声という程には低くない声で尋ねた。
「あのお、今日は紙戯さんは?」
 八橋の眼は冷たくきつく向けられ、美那斗の眼は物言わぬように伏せられる。女性二人の憤慨や呆然を斟酌せず、平素と変わらぬ様子で、辺見の形通りの対応が返ってくる。
「向浜でしたら研究室にいると思いますが、呼んでまいりましょうか?」
「いいんですかーーーー」
 一オクターブ声のトーンを上げる平山が是非と言い掛ける所へ、八橋が語気鋭く
「結構。どうぞお構い無く。平山、マジ黙ってろ」
「うへっ。そんなに怒ることないじゃないっすかーーーー。はい、黙ってますーーーー」
 再び先と同じ両手を掲げるポーズで謝ると、その場で両手を組んで立つ。救いを求めるように彷徨わせた視線が辺見のそれと交差すると、同姓のよしみか、黙したままの頷きが返ってきた。
 テーブルの上に両手を組んで置く八橋は、平山もそうだが、今日も黒いスーツ姿だ。ネクタイは着けていないがアイロンのよくかかった皺のないスーツで、彼女の性格を表しているかのようだ。
 対面に腰掛ける美那斗は少し椅子をテーブルから離し、やはり組んだ両手が乗るのは素肌の太腿の上だ。一度シャワーを浴び、服装を正すべきかと悩んだが、待たせるのを嫌って、トレーニングを中断したまま逢うことに決めた。半袖のシャツとホットパンツは白地にプラチナ色の細かいスパイダー柄がついている。足には黒い編込みブーツがあって、脹脛の辺りまでを覆っている。
「今日は率直に伺いたいと思って来ました。単刀直入に訊きます」
 そう言いながらも、八橋は次の言葉を躊躇うようで、両者の間に沈黙の間が広がった。
 言い淀む八橋とは対照的に、美那斗には迷いは見られなかった。これまで何度か、何体かの怪人と対峙して決意が固まったのだろうか。泰朋という心強い味方を得たからだろうか。<コレクト>との闘いの際、悪いのはラスツイーターであって、気に病むことはないと泰朋を慰撫したが、そのまま自らの胸にも刻みつけたのかもしれない。
「ショッピングモールでの事件ですが」
 八橋が重い口を開いていく。戸惑っているのは、今目の前に居る生真面目で頑なに見える年若い女性に対する己の感情と、異常な事態への対処として国として、法的に、どういった姿勢で臨むのが正しいのか、という点であった。
 意思の未決のままに話すのは、話の矛先を向ける方角が不明であるということであり、それが八橋を迷走させないか不安なのだ。
 だが美那斗の方はといえば、確固たる意志を双の瞳に宿している。これでは相手に優位に事を運ばれかねない。
(それもいいんじゃないか)
 ふと、その想いが八橋の頭に浮かぶと、途端に気が楽になったのか、言葉が溢れ出すようになった。
「車椅子の男性を怪物から救った女性がいたそうです。私共の考えで様々な規制を敷いたので、報道はされていませんが、モールの監視カメラはその時の様子を鮮明にとらえています。その人物とは、月崎美那斗さん、あなたではありませんか?」
 詰問口調にならないように気を付けているからだろうか、八橋はゆっくりと噛み砕くように言葉を紡いでいった。美那斗は眼を逸らすことなく、真っ直ぐ受け止める。
 鮮明に映し出していると言っている以上、それは質問ではなく断定事項であろう。肯定の過程を省き、美那斗は話を進めた。
「私達はラスツイーターと呼んでいます」
 虚を突かれたように互いの顔を見合わせる八橋と平山に、美那斗は一つ頷いて続ける。
「ラスツとは煩悩のことです。あの怪人は人間の欲望が極限まで高められた存在で、己の欲するままに行動します。煩悩を喰らう者、ラスツイーターです」
 平山が内ポケットから手帳を取り出し、メモを走らせる。八橋は姿勢を変えずに美那斗が続けるのを待った。
「私達はラスツイーターに対抗すべく活動しています。ショッピングモールに出現したラスツイーターは<コレクト>と呼んでいますが、偶然近くにいましたので、駆けつけました。先程の質問の答は『はい』です」
 何ら臆することも恥じることもなく、胸を張っている。
「月崎さんは私達という言い方をしましたが、あなた個人ではないのですね」
「私と執事の辺見、月崎研究チームの皆、そして洗川泰朋さん、これが現在、私と一緒に活動しているメンバーになります」
「キャノン泰朋…」
 メモを取りながら、平山がボソリと呟く。
「カメラ映像もですが、若者二名の聴取も得ています。それによると銃器の使用があったようです。これは犯罪に当たりますが、認めるのですか」
「私が発砲しました。間違いありません」
 きっぱりと美那斗は言う。この国では銃も刀も使用することはおろか、所持することさえ刑法に違反する。財閥のお嬢様の世間知らず故などと言い逃れする気はなさそうだ。とすると、罪を甘んじて受ける覚悟なのか、あるいは財界のコネでもあるのか。
 今この場で手錠を取り出して両の手首を括ることだって出来るのに、美那斗にはそのような思考は微塵もないのだろうか。執事の根回しがあるのかもしれないと、八橋はいらぬ勘ぐりをしながら続ける。
「そのラスツイーターなる怪異とあなたは闘っているというのですね」
「はい。その通りです」
「それは、何故ですか」
「何故、ですか? 当然人を護るためです。ラスツイーターによる被害はどんどん広がっています。何とかしなくてはなりません」
「私がお訊きしたいのは、それを誰でもないあなたがする理由です。言っては何ですが、あなたの様な財閥のご令嬢が危険な行為を敢えてするのはどうしてなのか、腑に落ちません。お金持ちの戯れか、あるいは罪滅ぼし」
 罪滅ぼしという単語に、一瞬美那斗の眉根が曇る。
「そうですね。理由はいくつかあります」
 考えながら、一度茶碗を唇に当てて啜る。汗が乾き、冷えてきた躰に温かい緑茶が嬉しかった。
「一番の理由は、父と母のためです」
 これは罪滅ぼしを単に言い換えただけかもしれない、という自嘲が美那斗の脳裏をよぎった。数カ月前の美那斗であれば、そこで母という言葉は出なかっただろう。母のために、という考えに至った心の変化を自然に受け止め、受け入れている自分に驚きながらも、不思議には想えなかった。複雑な心境を言葉にして説明するのは難しいと感じたのか、美那斗は八橋に聞き返される前に、話の矛先を変えるように続けた。
「それに、怪人を斃すのに一番近いのは、失礼ですが警察ではなく、私共だと自負しております」
 静かな微笑に絶対の自信が垣間見えると、八橋は感じた。怪人への対処の有効性を比較し、月崎と警察との優劣を決するという考え方自体、八橋には不快であった。警察機関が一般機関に劣ることなどあり得る筈はないし、あってはならない事だ。
 ただ、そんな自尊心を抱く自己を愚かだとも、哀れだとも思う自分がいて、年老いたように感じられた。対する美那斗が何とも眩しく感じられると、自分の役割は最前戦を征くSAS入隊当時とは変化しているはずだと気付いた。力で相手を捩じ伏せ、服従させるのを是とする若さを恥じるくらいの良識は備わってきたのだろう。ただし、それは赦すという行為を己の判断で行うべきか、その一抹の迷いを払拭するには至れずに居た。
「現在、この国にある脅威を何とかしなくてはなりません。これは共通の認識と思ってよろしいでしょうか」
 昂りつつある気持ちを落ち着けるように、組んだ手を一度解き、結い上げた髪の毛のほつれを直す。
「はい。そこで提案があります」
 提案という言葉が口をついて出た意外さに、美那斗自身が驚いていた。美那斗がずっと思い悩んでいた事柄であり、明確な考えにまとまっていなかったものが図らずもこうして提示されようとしているのは、心の何処かで八橋になら打ち明けても大丈夫だと感応する自分が存在しているのだろうか。
「月崎研究チーム、総勢八名。日々ラスツイーターの研究を重ねていて、専門的知識は他に類を見ないと思います。彼らを警察の研究施設で雇っていただけませんでしょうか。ここ以上に高度な設備、環境があれば、怪人研究は飛躍的に向上すると思います。有効な手段も講じられる筈です。それも早急に」
 スタッフ一人一人の生活を考える時、美那斗はいつも心苦しいものを覚えた。彼らと話をしていても環の中に入れなかったり、堅苦しい挨拶に終始するのは、拙劣な主人である自分を情けなく感じている現れであった。
 国家機関の下で正式に認可されて研究を行えるなら、犯罪者扱いは受けず、後ろ暗い気持ちを抱くこともなく、堂々と研究に専念できるだろう。我ながら良いひらめきだと、美那斗は満足していた。
 専門的知識の豊富な科学者を擁することは願ってもないことだが、八橋には別の疑念が湧く。
「研究スタッフ総勢、ですか。そこに月崎さんと洗川さんは含まれない、そういうことですね」
 じっと八橋の瞳が美那斗の瞳を覗きこむ。
 そのまま両者の間に沈黙が長い。
「何か重大な事を、まだ隠してますね」
 怪人討伐という宿望を成すことは、美那斗の揺るぎない意志であろう。しかし、その祈願成就に研究班は必要ではない。切り捨てることが可能だ、と言い換えることは出来ないだろうか。八橋の疑り深い眼光に、美那斗は僅かに口元を緩ませる。
「ええ。コアのことです」
「コア!?」
 聞き慣れない単語に、八橋が身を乗り出す。
「話すのは構いませんが、渡しませんよ」
 美那斗にしては珍しい軽口を叩きながら、腰を浮かせる。椅子の横に立ち、ウェアのポケットに手を入れ、それを取り出した。
 細い指を開くと、掌には銀色の円盤が乗っていた。月の形の文様が浮き出た陰のコア。
 八橋も立ち上がり、美那斗の持つ物体を凝視する。
 競技会の銀メダルのようにも見えるが、それは何故かしら暖かさが感じられた。まるでそこに生命が宿ってでもいるような温もりに満ちているようで、冷たい光を弾くことはなかった。
 触れてみたいという渇望に、八橋の指先が動いた時、唐突に応接室のドアがノックされると同時に、紙戯が飛び込んできた。
「美那斗ちゃん、LEが現れたわ」
 平山が奇声を立てているが、気にするものは誰もいなかった。



 



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