仮面の戦士 ホーン

忍 嶺胤

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一章 ソーラーホーン

8.黄金の時間

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 八橋はスーツのポケットからスマートフォンを取り出すと着信を確認した。事件、殊に怪人に関する情報は真っ先に逐一、担当責任者である彼女に報告が届くシステムを構築してあるが、白い光を帯びる画面に履歴はない。平山へスマートフォンを向け、「確認」と眼で合図を送る。
 平山の視線は八橋と向浜の間を何往復か泳いだ後、自らの端末を取り出すと警察庁への確認作業に入った。
「ここから五km程の野外ホールよ」
 紙戯の声を聴くと、まず辺見が動く。
「お車の用意をいたします」
 応接室から廊下に出た所で泰朋と鉢合わせになり、その巨大な躰を避けるように、辺見は足早にガレージへと向かった。
「広面くんの見解だと<コレクト>とは別のLEじゃないかって」
 イヤホンタイプの小型の通信機を美那斗に渡しながら話すのを聴いていた八橋が言葉を挟む。
「LEというのは、ラスツイーターのことですね」
 その単語を知っているということは、この部屋で交わされたであろう事を大凡察して、紙戯は警察庁の人間の前という遠慮を取り払うようにした。美那斗も紙戯に軽く頷き返す。
「ええ、そう」
 紙戯の肯定を受け、平山を振り返ると、彼は首を左右に振ってみせる。
 怪人出現の報は、彼女らの様子から虚言ではありえないだろう。警察庁の得ていない情報を逸早く入手できる組織がここにある。であれば、美那斗の提示した協力案は受け入れるべきであろうか。
「どうするんだ」
 突然、野太い声が廊下側から聴こえて来た。泰朋がそこに居て、静かに眼を閉じながら陽のコアを下腹部に押し当てている。精神を統一し、穏やかな心で集中力を高め、チャクラを廻す。太陽光を雲に遮られた条件下で変身する方法を模索しているが、コアは少しの反応も示してはくれなかった。
 怪人と闘うのになくてはならない太陽光はもう何日もその姿を現していない。泰朋の頬には焦燥がへばり付いていた。
「そのことなんだけど、泰朋くん」
 泰朋の姿を見つけると、紙戯は応接室から出て泰朋に近付く。美那斗に渡した通信機器と同じものを差し出しながら、
「雄川さんの計算によると、もうすぐ雲が切れるそうよ。ここから二、三十km西に行けば、雲間から太陽が差し込むだろうって」
「おおっ」
 泰朋の表情がぱっと明るくなった。
「泰朋さんはすぐに出発して下さい。ラスツイーターは私が引き止め、時間を稼ぎます」
「雄川さんがリアルタイムの情報を教えてくれるから、通信は常にオープンにしておいて」
 三人が廊下で話し合っていたのも束の間で、泰朋はあっという間に飛び出していった。
 続いて走りだそうとする美那斗を、慌てて八橋が静止する。
「ちょっと待って。何をしようと言うの。詳細を教えて下さい」
 言葉こそ丁寧だが、八橋の感情としては警察の尋問と何も変わらない。重要な機密情報を隠匿するのは犯罪だ。教えろと詰問するのを、辛うじて堪えたが、反面、警察が遅れを取っている事が口惜しく、苛立たしくもあった。
「八橋さん、事は一刻を争います。こういう言い方はおこがましいと思われるかもしれませんが、力を貸して頂けませんか」
「続けて」
 八橋が美那斗に先を促す。
「泰朋さんは今、太陽の光を求めてバイクを走らせています。往って、戻る時間を稼がなくてはいけません。怪人が消える前に阻止します。ですからポイントは2つです。泰朋さんが如何に速く戻ってくるか。怪人を如何に長く引き止めるか」
「ポイントは3つだな。平山、地元警察を緊急配備。キャノン泰朋の搭乗するバイクの走路を確保。及び野外ホールに人員配置。公安を使え」
「は、はい」
 スマートフォンを操り各所へ連絡を取り始める平山の目は画面から頻繁に逸れる。察した八橋が立ち位置を変え、平山の視線を巧みに紙戯から遮る。
「もう1つのポイントと言うのは?」
「どうやって怪人を制圧するかだ」
「聴いたら驚くわよ」
 口元を少しだけ歪める紙戯の顔には、自慢気な香りが漂っていた。
「私はもう行きますが、紙戯さん、ホーンのこと教えてあげて下さい。では失礼します」
 ここに長く留まっている時間的余裕はない。
 軽く頭を下げて、美那斗は駈け出した。
 ラスツイーターをどうやって制圧するか、それは泰朋がホーンに変身さえすれば容易いことと、美那斗は固く信じることが出来た。だが、泰朋が首尾よく変身して警察の前に現れた時、警察はホーンをラスツイーターと同類と見倣さないだろうか。美那斗の懸念はそこにあった。勿論、警察の攻撃を受けたとして、その躯体に傷一つ負わせることは出来ないだろうけれど、泰朋の心はそうはいかない。大きな躰に似合わず、繊細な面を併せ持つ彼のことだから、そんな目に合えば戸惑うことだろう。
 長い髪を揺らして走り去る美那斗を見送って、紙戯がホーンの件を話し出そうとしたとき、先に八橋が口を開いた。
「まずはその白衣をちゃんと着て頂きたい。若い男の眼も気にしてもらわないと」
「えっ、ああ…」
 言われて、改めて自分の服装を見てみると、白衣の袖は片方しか通っておらず、肩に掛かっていた部分もずり落ち、ほとんど引き摺っているようだった。代わりに躰を覆っているのは虹色のボーダーのキャミソールで、それさえもサイズが合わないのか、胸の辺りで引っかかり、裾は大腿部どころかショーツすら隠しきれていない。かなり妖艶で刺激的な恰好だった。
「私は知能派の人間だから、覗くなら肉体ではなく脳漿をどうぞっ」
 面白くもなさそうに呟きながら、紙戯は平山に冷徹な一瞥をくれてやる。白衣の残った方の袖に腕を通そうとするが、その袖は裏返しになっていて、もんどり打つような四苦八苦が続く。その動きがまた、言い様もなく艶めかしく、平山の眼はもはやスマホへは戻れなくなっていた。


 その空間には、まるで悲しい詠唱が響いているようだった。空気のかすかな振動が伝搬し、肌を逆毛立たせ、耳朶に入り込む音無き音は葬歌や鎮魂歌に似た感覚を抱かせる。
 ユニオンジャックのミニクーパーから降り立った美那斗は異様な空気の重量を感じながら天を仰いだ。そこに太陽の姿は見えず、暗灰色の雲が全空を支配している。
「空が遠い」
 グリーンホールの愛称で呼ばれる野外ホールは、扇型に広大に伸びる芝生の広場の先端に、約二百平方メートルのステージが配置されている。ステージの天井は可動式の反射板構造になっていて、音響効果を高めている。この反射板はスライディングウォールと言うが、この設備が異様な空気の震えを増幅し、尊崇対象の信仰流布の如き荘厳と重厚の念を空間に孕ませてしまっている。
「おおお」でも「ううう」でも「んんん」でもなく、無音なのに耳を覆いたくなる震えの充満の正体を、すぐにも彼らは知ることになる。
 両の太腿に装着したホルダーに銃と剣をセットし、予備の弾丸を美那斗が確認していると、野外ホールの周囲を遠巻きにして、三々五々警察車両が集まってくる。彼ら、とは、地元警察、警視庁公安課機動隊、警察庁の各位と美那斗、辺見らのことである。
 長方形のステージの中央に、ラスツイーターが立っている。
 ミニクーパーが乗り入れた広場の端からステージまでは百メートル以上の距離があり、その姿の委細は定かではないが、微かな「イー、イー」というリズムに乗った声が聴こえて来る。それはラスツイーターのハミングだった。
 美那斗は未だ動かなかった。言うまでもなく、怪人を斃すことが目的ではなく、少しでも時間を稼ぐ事が目的だからだ。両腕を脇に揃えたまま直立して、ステージをじっと眺めている。
 少しして、小型の英国車の横に、一台の警察庁の黒塗りの車が停止した。中から八橋風火が、次いで平山森羅が出て来た。
「この雰囲気、まるで戦場のようだわ」
 呟く八橋の耳には紙戯に借りたイヤフォン型の通信機がセットされている。月崎チームとの間に、一時的な協力の同意が結ばれた。指揮系統は八橋が握り、美那斗の行動は監視下に置かれている。とはいえ、殊怪人については美那斗の指示に従うつもりでいる。
「戦場、ですか?」
 この国ではなかなか耳に馴染まない言葉に、美那斗は時折八橋が見せる俗世離れしたような違和感の正体を少しだけ垣間見た気がした。
「そう。肌がピリピリする感じ。事故や事件の現場とは比べ物にならない生々しい感じ。嫌な予感がしてきた」
 八橋は小型の双眼鏡を覗く。ズームレバーを操作し、怪人の姿を拡大していく。オートフォーカス機能が怪異を鮮明に映し出していくと、我知らず声を発してしまう。
「何だあれは! うっ」
 顔から双眼鏡を下ろし、嗚咽感をこらえて二の句が繋げなくなる。怪訝な表情の平山が説明を求めるように八橋を注視している。
「おまえは見ないほうがいい」
 と、差し出された平山の掌に双眼鏡は渡さず、代わりに美那斗へ向ける。
「おぞましい光景だ。見るに耐えない」
 まるで美那斗の度胸を試そうというように訊く。
「借ります」
 覚悟ならとっくに出来ている。美那斗は四角い双眼鏡を覗き、想像を遥かに越える状況に多少たじろいだものの、虱潰しに光景を見つめ、情報収集に意識を集中させた。
 ラスツイーターの姿は大きな嘴の鳥類を連想させた。ハシビロコウというペリカン目の大型の鳥に似ている。木の実や虫を啄む様な小さく鋭い嘴とは対照的な、太くてごつい嘴があり、鶴や鷺に似た棒状の長い二本の脚がステージ上で巨体を支えている。腰のあたりから長く下方へ垂れ下がっている布か鰭のようなものは、羽根というよりはむしろロングドレスを連想させる。そう言えば、両肩に近いところに大きな襞状の突起もあり、着飾った様相にも見える。腰の異常な程の括れは体型を矯正する頑強なコルセットを思わせるし、鳩胸から突き出した二つの丸い塊は、豊満な女性を真似ているのだろうか。
 双眼鏡の覗き窓の端にある目盛りで八橋が見立てたところでは、ラスツイーターの身長は二メートル程だが、その高い位置に重心のあるバランスの悪い体が小さく左右に揺れているのは、恰も歌っているように見える。
 怪人の動きは一種滑稽でも楽しそうでもあるが、言葉を失う惨状はその周囲で起きていた。
 野外ステージ前の観客席に当たる広場に椅子は用意されていないが、その最前列に当たる場所にポールが立てられていた。五本ある。
 照明や音響の土台や足場の組み立てに使用する、鉄筋の鋼管やL字鋼が付近に野積みになっていたものをラスツイーターが見つけ、地面に突き刺したようだ。真っ直ぐに天を向いて立っているものもあれば、大きく傾いているものもあるが、全てに共通している点が一つあった。
 最も左の、比較的垂直に立った銀色の丸い配管鋼が、地表から二メートル強突き出ているだろうか。その上方部に人の体が突き刺さっている。否、その一本に限ったことではない。全てのポールがそうだ。
 左のそれは尻の辺りから刺さり、口の辺りからポールの先端が突き抜けている。
 その隣のポールは脇腹から鎖骨を砕いて抜け出し、大きく傾いているため、万歳をする恰好で人が宙吊りになっている。
 その隣では尾骶骨から一旦胸を抜け、顎から再度突き刺されたポールが脳天を抜けている。
 その隣は上下逆さまで、頬から入って片方の太腿から抜けたポールの先端が上空を見つめている。
 最も右側のポールでは、肩から肩へ貫かれ、人体が旗か流しの様に晒されているため、自らの重さに耐えられず、上側の肩の穴が引き裂け、千切れそうになっている。
 非道なことに、中には未だ命のある者もいた。
 喉を往き来する空気の音、早鐘の様な心臓の鼓動、呻き、全身を襲う痙攣、救いを求めて揺れる力無い手、重力に耐えられず滑り落ちる際のポールとの擦過、それらがこの空間に滞っている空気を震動させ、身に降り掛かった悪夢のような現実を呪う詠唱となっているのだ。
 外径48.6の鋼管、50×50のアングル等、人体に対してあまりにも無骨で太い鋼材が皮や肉を貫通し、骨をへし折ってしまうことなど、にわかには信じ難い所業で、見舞われた人にしてみれば、自分の体から鋼鉄が生え出す異様な状況に半狂乱になりながら、肉体の自由は完全に奪われてしまっている。それでも激しすぎる痛みを和らげようと分泌されたβーエンドルフィンの効果か、死を目前にしながら、現状の認識が出来てしまう事が、何よりも哀れであった。この様な惨劇に遭わせた怪異が、目の前に立って、唄って、踊っている。
 パフォーマンスを魅せつけられているのだと知り、「どうだ、素晴らしいだろう」と称賛を求めるように、灰色の視線を投げ、決めポーズを取っている。
 何故こんな死に方をしなければならないのだろう。悔し涙が頬を伝い、口から血の泡が噴き出してくる。H鋼に支えられた頭部は絶命しても項垂れることなく、死してなお怪人の姿を見せつけられているのだった。
 美那斗は漸く双眼鏡を下ろすと、八橋へ差し出す。その表情は固く強張って動かないが、燃えるような強い思念が双眸に宿っているようだった。死者や、これから死者になろうとする人々への悲しみでも哀れみ以上に、ラスツイーターという脅威に対して、激しい憤りと忿怒を積もらせていた。
「ステージの右側、人がいます。少なくとも二名」
 再度、八橋が双眼鏡を上げる。スコープ越しの視野の中に、ステージの舞台に背を預け、躰を丸くして頭を抱えている人影を見つけた。二人は躰を寄せ合うようにしているが、その奥にも誰か同じ様に隠れている可能性がある。逃げられず、嵐が去るのをただ只管祈っているのだろう。声も出せず、どんなに怖ろしいことだろう。
 八橋は気付けなかった自らを責めながら、平山を通じて救出隊を編成させる。続々と参集する警察関係者はすでに百名を超えていた。
「助けに行くのですか?」
 怪訝そうに尋ねる美那斗に、寧ろ八橋が面食らった。
「えっ」
 当然の発想をした自分の浅慮を避難されている気がした。美那斗の瞳はひたと怪人に向けられ、その一挙一動を見逃すまいとしている様だ。
「助ける気はないと言うの?」
「そうではありませんが、どっちがより多く時間を稼げるか考えています」
「あの人達を時間稼ぎの餌に使うつもりなの?」
 辛辣さを含ませた八橋の言葉に、美那斗は何も言い返しはしなかった。ただ、オープンフィンガーのグローブを嵌めた両手は固く握りしめられている。手を握りすぎると、銃の操作に支障を来すことは判っているが、内から沸き立つ何かがそうせずに居られなくしているようだ。
 八橋は美那斗を冷徹な女だと断定しかけていたが、震える拳を見てその判断を一時保留した。
 二人が怪人の動きを見ている間に、警官が周囲を取り囲む動きを開始した。公安の機動隊は横一列に盾を並べ、大きな壁を作りつつ接近してゆく。凄惨な舞台を創りはしたが、今現在は怪人は暴れまわっているわけではない。ならばあえて刺激はせず、ホーンの到着を待つのが最上の策だが、彼らにそう説いても始まらないだろう。
「紙戯さん、泰朋さんの状況はどうですか?」
「まだよ」
 極端に短い紙戯の返答は、彼女の内心の焦りを示すものであろう。時刻からいって陽はかなり傾いているはずだ。ラスツイーターに似た色の雲が空いっぱいに広がっている。僅かに風は吹いているようだが、野外ホールを包む苦悶の空気を流してはくれない。
「銃は使用させないで下さい。危険です」
 自らはホルダーから特殊な銃を抜きながら、八橋に告げ、美那斗がゆっくりと歩き始めた。多分、警察官達は理性を抑えておけなくなるだろう。そう想像した美那斗は、どのような事態にも対応できるように、怪人に近づこうと考えたのだ。
「銃が危険ーーーー」
 美那斗の言葉を訝る八橋は、部隊にどう指示するべきか戸惑った。ジリジリと包囲網を狭めていく県警及び機動隊の動きが一斉に停止したのは、その時だった。ラスツイーターが動きを変えたのだ。五本のポールに向かって指を突き出し、喚く。「イーーッ」というラスツイーター独特の声に、カパカパという嘴が開閉され叩かれる音が混じって聞こえる。それは観衆の反応が悪いと激昂しているかに見えた。
 何をどう喚こうが観衆は態度を改める気配すらない。これ以上は無駄だと断定したラスツイーターはステージを降りると、部隊の裏手に回って行った。姿が見えない隙に、逃げ遅れた人命の救出を急ごうと、包囲網の右翼側が陣形を歪めたが、ラスツイーターはすぐに戻ってきた。救出部隊の動きに乱れが生じる。急いで救出しようとする動きと一旦退却する動きがぶつかる。
 ラスツイーターは両脇に三メートルは越えるであろう鋼材の束を抱えていた。大きな躰と重量物を細い脚で支えて歩き、更には跳ね上がって舞台上に立つ。先程ひらひらと揺らめかせて喝采を求めていた、人と酷似した形状の手が鋼材の一本を掴むと、槍投げの要領でステージ下目掛けて投じてゆく。同じ作業を繰り返し、持ち運んだポール全てを地面に打ち立てる。その一本一本が、人間一人一人の墓標であることを物語っているのは、すでに誰の眼にも明らかであった。
 続いてラスツイーターは顔面を左右に捻りながら回し、獲物の物色を始めたようだ。幸いと言って良いのだろうか、いつの間にか周辺には人間が大勢近寄ってきている。靴の形に似た不細工な嘴が上下に開く。笑ってでもいるかのように。
 突然、ラスツイーターが跳ねた。
 ステージから一気に三十メートルは跳躍しただろうか。ステージ端に体を潜めていた人を救出すべく近寄っていた公安の集団の目と鼻の先であった。たちまち泣き叫びが溢れ出す。
「うわぁーー」
「ひぃ」
「撃て、撃てぇ」
 前衛に並ぶ、透明なポリカーボネート製のシールドを持つ機動隊員は、恐怖を押し殺すのに必死で、その後方に立つ狙撃手は恐怖を誤魔化すために拳銃を引き抜くと、間髪おかず発砲を始めた。突然のゲリラ豪雨にも似た幾十もの射出音が四囲の樹々を震わせる。
 狙いは唯一点だ。火薬の焼ける匂いと煙が飛散する中、銃撃音に別の音が混ざっていく。跳弾である。
 拳銃及び使用を許可された自動小銃から高速で放たれた弾丸は、数多く怪人の体に当たったが、どれ一つとしてその体内にめり込むものはなく、高速のまま弾き飛ばされる。ある弾丸はステージの壁や天井に当り、あるものは機動隊のシールドに跳ねた。そんな中、「うっ」という呻き声が彼方此方で起き出した。
 人の恐怖が生み出した一斉掃射が取り敢えず収束を見せたのは、拳銃の銃弾を全て射出し尽くしたのと、周囲が濛々たる煙で視界を奪われたからだが、其の時になって漸く身内の被害の甚大さを警察関係者は知ることになった。
 跳弾に撃たれ、一瞬の内に負傷者が続出した。殆どが警察官、機動隊員だったが、二名の一般市民も含まれていたのは衝撃的だった。救出すべく向った市民が、警察の放った弾丸の犠牲になったのだ。
「そんな…」
 八橋の驚愕は大きかった。
 だが、惨劇はまだ続く。
 ラスツイーターから視界を遮る程立ち込める硝煙が幾らか薄らいでいく。美那斗は眼を凝らし、八橋は双眼鏡を覗くが、元居た場所にラスツイーターの姿はもうない。そう解った時には悲痛な叫びが沸き起こる。
「うぐぁーーーー」
 包囲を縮めていた一部隊の背後に、怪異が形を成して立っていた。
 後に紙戯が名を付けることになるこの怪人は<ノート>。注目されたい願望を持つ怪人は、新たな舞台観客を求めていた。
 <ノート>が腕を振ると、機動隊員の躰が防護装備毎握られた。ほんの何分か前にステージの上で踊る様な動きで揺れていた手とは、あまりにも桁外れにサイズが違う手が、続けてもう一名の機動隊員を捕捉した。片手に一人ずつ握り、両腕を左右に広げて立つ怪人に立ち向かえる警察官は、もはや皆無だったかもしれない。
 茫然自失の体で見つめるもの、全身から力が失せて立ち上がれないもの、絶叫しながら逃げ出すもの。
 そんな中、八橋は冷静さを取り戻そうとしていた。これは紛れも無く戦場だ。そうであれば、彼女にとっては経験のあるフィールドだ。かつての感覚を呼び醒ますのだ。自分はタフだ。冷静に状況判断できる。もっと強くなれるし、まだまだ動ける。できる。できる。タフだ。
 奮い立たせる言葉を心の内で呟いた。
 美那斗は手が変化したことに注目していた。
「紙戯さん、ラスツイーターの手が巨大になりました」
 通信器を通して月崎邸にいる向浜紙戯に話しかけながら、一旦止めていた足を再びゆっくりと動かし始める。斉射が始まる前のラスツイーターの位置と、人間二人を鷲掴みにしている位置から、一度の跳躍で移動できるおおよその距離を推測し、それを間合いとみなし、間合いぎりぎり近くまで接近しようと試みている。
「<クラブ>もそうだったわ。最初の遭遇の時は手の形をしていたのに、二回目は球形をしていた。ホーンもやっぱり細部が微妙に違っています。でもこんなに急速に変化するなんて」
「ラスツイーターの姿は潜在意識の力が大きく関与していると思われるわ。言ってみれば想う力よ。こうなりたい、こんな風になれたら、そう想うことで実際に変化が起こるのは、私達人間も同じよ。がん細胞を化学療法なしで根治させた例もある。これは体内での変化だけれど、ラスツイーターの場合、それが急激に体内体外問わず、大きく変えることが出来るということね」
「それも今までのラスツイーター以上に変化の能力に長けているということは、強いのかもしれません」
「そういうこともあるかもね。気をつけて、美那斗ちゃん」
「泰朋さんの方はどうですか」
「それが、通信が途絶えてしまったの。機器の故障かどうか、雄川さんと広面くんが今調べてる」
「そうですか、判りました」
 美那斗の脳裏を不安が過ぎったのも一瞬のことで、意識はすぐにそこから引き剥がされることになった。
「あっ」
 八橋が声を上げる。ラスツイーターが高く跳ね上がっていた。
 人間の体二つを持ったまま高く放物線を描いて、頂点から降下していく。向かう先にはステージ前の鋼材のポールがあった。ラスツイーターの右手が振り上げられる。握られた隊員は自分の胸と背中を締め付ける長大な指をなんとか引き剥がそうとしていたが、空中に躍り上がるとこれから自分の身に起ころうとしていることを想像して戦慄した。喉が裂ける程の大音量の絶叫が、この場にいる全ての者の耳を傷めつける。
「ギャァーーーッ」
 人間の叫びとは到底思えない、聴いた経験のない声というか音というか、そんな何かが脳を抉っていくように感じられた。
「イーーーッ」
 次に聴こえたのは怪人の金属を引っ掻くような不快な声だが、むしろこっちのほうがマシに思えた。
 ラスツイーターの手に握られた機動隊員が、自分がまだ生きていることに気付いた。不思議に思い目を開くと、反対側の手にいたもう一人の隊員の姿がなく、視界の上でポールに全身を貫かれて血を吹き出し、ヒクヒクと体を痙攣させている物体に気付いた。
 L字鋼が股間から突き刺さり、肩甲骨から飛び出している。衝撃が大きかったのだろう、硬質な鋼材が真ん中でくの字に折れ曲がっていた。
「た・す・け・て」
 その懇願は、たった今串刺しにされた男の口から漏れたものなのか、それとも自分で
口走っているのか、もう隊員には判断ができなかった。自分の行く末の惨たらしさを見せつけられ、恐怖は増殖させられ、ラスツイーターが再びジャンプした時には、絶頂に達した半狂乱が自己を崩壊させたので、丸い鋼管が腹部に刺さった時には意識がなかった。見るもの全てがせめて即死させてくれと願いたくなるような惨状が拡大してゆく。
 ラスツイーターが伸びをするように、両腕を高く上げながら奇声を発し始めた。
「イーッ、イイーッ」
 すると、剥き出しになっていた両の脇の下から、別の腕が生え出してきた。
 卵から幼虫が孵化するように、拳が、腕が、うねるように体側から隆起して伸び上がり、拳を広げて、五本の指と掌をカクカク、ウネウネとのたうたせながら、膨張していく。やがて、怪人は四本腕となった。
「イッ、イーッ。イーッ」
 肩が抜け落ちそうな程巨大な手を有する四本腕を掲げて、満足そうに眺めた後、不釣り合いな程細すぎる二本の脚が舞台を蹴りつけ、ポールの列を飛び越えて、警官隊の集団の中に降り立つ。先程とは逆方向に牙の矛先を転じた事に動揺したのか、それともすでに統率が取れるような精神状態ではなくなっているのか、隊員達は逃れるために四散しようと足掻き、喚き散らす。少し距離のある機動隊員は逆で、恐怖を打ち消さんと自動小銃を構えると、八橋を始めとする幹部の制止も耳に届かないまま撃ち放つ。
 ラスツイーターは銃弾の乱射を全身に浴びながらも、自らの行いを思い止まるはずもなく、一人、また一人と、人間の体を握っては持ち上げていく。流石に一度に四人を持ち上げるのは困難なのか、あるいは単にそうしたかったからか、四人目は左の下側の手で頭部を包むように掴み、指の間から首を出し、地を引きずってステージの方へ戻っていく。
 地面から生え出たポールの近くまで行くと、運動会の玉入れのように嬉々とした様子で、頭上に人体を放り投げる。四、五メートルも空へ舞い上がった警察官は、ポールの先端が胸部を直撃したが、防護装備のおかげで串刺しにならずに済んだものの、その位置から地面に落下し、動かなくなった。
 一人の観客を創り損ねた事実への頓着は見せず、<ノート>は残る三人の仕立てを始める。放り投げただけでは突き刺すことは無理だと理解し、上方から叩きつける方法へ切り替える。三人分の重量であれば持ったままで安々と跳躍できるようで、トランポリンを跳ねるように、それを三回繰り返すと新顔の客が三体増えた。ハシビロコウに似た嘴をカツカツと満足そうに鳴らすと、ラスツイーターは次の獲物を求めに往く。
 周辺には仲間の銃弾によって負傷し、動けないものが相当数地に臥せっている。だが、そうした地を這うものには興味が無いのか、<ノート>は立っている人間ばかりを狙っているようだ。
「酷い」
 美那斗の唇の間から絞り出されたような言葉は、制止しきれない感情が溢れさせたものだった。これ以上凄惨な犠牲者が増え続けるのを黙して見ていることに耐えられない。今すぐ駈け出して、弾倉に収められている弾丸を全弾撃ち尽くし、喜悦に満ちた表情を歪ませてやりたい。ありったけの罵詈雑言を吐き出すように超振動する刃を叩きつけて、怪人に憎しみの全てをぶつけたい。
 だが、そうした所でラスツイーターを屠ることは出来ないのだ。
 美那斗の胸中は泣き咽ていたが、八橋にはそれが時間稼ぎにしか想えなかった。部下が、兵士が死んでゆくのを、この女は餌にしてただ見ている。苛立ちというよりは怒りに近い感情に突き動かされ、
「貸しなさい」
 美那斗のぶら下げた銃を引っ手繰ると、そのままステージの方向へ駆け出していく。
 急速に遠ざかっていく八橋のスーツの背中を見つめていることが出来ず、端正な相貌を天へ向ける。薄暗くなりつつある上空に太陽はないし、空もないし、月もない。
 それでも美那斗はポケットの中から陰のコアを取り出して、天に掲げるのだった。
 祈りを込めて、コアを下腹部に当てる。
「変身。お願いっ、変身させてっ」
 だが、コアも躰も、何も変化を示してはくれなかった。
「お願いよ、お父様、泰朋さん」
 崩折れそうになる膝を片手で抑えながら、コアを胸に掻き抱いた。
 一方、八橋は走り出し、銃の構造を調べながら通信器で問いかける。
「向浜さん、この銃はどう扱ったらいい!?」
 通信内容から八橋が銃を手にしている事を察した紙戯は、わずかな逡巡を見せたものの、拒みはしなかった。
「特殊弾が込められてますが、殺傷能力は皆無です。ラスツイーターに当たることで不快感を与えますが、効果の程度については個体差が有ると思われます」
「つまり、奴の気をこっちに向けることが出来るわけね」
「かもしれませんが、逆に逃げ出すかもしれません」
 八橋が舌打ちをする。
「逃げられたくない、という事か」
 煮え切らない様子の美那斗の理由も解るが、今はもうそのような事を言っている場合ではない。死傷者はすでに五十人を越えたかもしれない。このままでは更に数を増し、最悪の場合、全滅も覚悟しなければならない状況だ。今は惨事を止め、撤退すべきと判斷していた。
 串刺しの観覧者数が二十名に達すると、ひとまず<ノート>は舞台の上に戻った。肥大していた手が人間と同じ位に縮んだが、腕は四本のままで、今度はその新しい体を披露するように様々な動きをして見せている。嘴をやや上方へ向け、視線を流す仕草は女優気取りで、八橋の癇に障った。
 ポールに接近すると、人の刺さった鋼材の下の芝生はどこも赤く色を変えており、雨後の水溜りのように、地面に穿たれた暗い穴を連想させ、硝煙と血流の臭いで咽る程であった。頭上から男か女か判らない誰かの呻き声が降ってくる中、八橋は五十口径改造拳銃を構えた。
 標的は大きい。外す事はまずないだろう。ただ、跳弾には十分気をつけなければならない。近くで動ける者は自分だけなのを確認すると、一射。
 意外な程軽い射撃音がした瞬間、ラスツイーターが動きを止めた。
 強く見開かれた双眸が真っ直ぐに八橋を凝視し、大きな嘴を僅かに開く。
「イイーーーッ」
 銃弾に反応を見せたのはこれが初めてだ。何百発と銃撃を受けても、魂が当たったことすら感じていない様子だったのが、ラスツイーターの奇怪な呻き声には怒りや戸惑いが滲み出ている。八橋は実感した、月崎チームの力を。
 続けて二発撃つ。
 狙いは口腔と眼球に定めた。肉体的に脆弱な部位を集中的に攻めれば効果は上がる筈だ。だが、怪人の反応は一発目とさして変化なかった。
 不愉快なのだろう。ギッと八橋を睨みつけ、奇声を発している。その巨体が僅かに沈んだように思えた。膝を曲げたのだ。
 瞬間、八橋は走り出した。反転ではなく九十度右へ転じる。と同時に、ラスツイーターがステージを蹴って跳ねる。ホールの列を飛び越えて着地した時には、相手の姿を見失っていた。首と体をぐるぐると回して探すが見つからない。
 八橋は疾駆してすぐに地に伏せていた。頸部に弾痕のある隊員が倒れ、絶命している。その体の影に隠れるように、全身を地面に投げ打って銃を構えている。そのまま四発目を撃った。
 次の狙いは形状を巨大化させ始めた手であった。蛹からでてきた成虫の体が柔らかいように、怪人も変形直後は柔らかいかもしれない。
 しかし、弾丸を受けた掌を持ち上げて振るうだけで、怪人に傷付いた気配はない。
 ただ、ラスツイーターは八橋の方に向っては来なかった。どこにいるのか判らないようだ。
 八橋の推測はこうだ。
 <ノート>は地表近くは能く見えないのではないか。
 注目を浴びるために観客を必要とするのなら、地面に座らせるだけでいいし、負傷して倒れている者でも充分であるはずだが、わざわざポールに突き刺して、自分に近い目線に配置するのは、その高さでなくてはならない理由があるはずだ。つまり、地面は見えていない。それを八橋は実証してみた。
 五発目、六発目と撃つ。残すはあと一発だが、その前に拳銃がジャムを起こした。
 薬莢がスライド部に挟まったのだ。五十口径のような大型銃は発射時に反動が強すぎ、射手の腕力がないと、このようなジャムを起こし易い。スライドを手で引いて挟まった薬莢を排出してやれば再び使用可能だが、これまでの連射で手が痺れ、八橋は上手くスライドできない。
 その間に、ラスツイーターは両手を地に着けて姿勢を低くして、周りを探っていた。巨大な嘴のせいで、この様な姿勢を取るとまるで恐竜のようだ。その<ノート>と目が合った。
 ニタリと笑ったように八橋には感じられた。途端に全身に汗が吹き出す。それは恐怖だった。累々と転がる、あるいは吊るされる屍。己の末路がそれらと重なる。どうするべきか判断できなかった。銃を捨てて逃げるべきか、排莢を試みて残る一撃に賭けるべきか。
「イーーーッ」
 歪でごつい形状の嘴がかすかに開く。四本の巨大な手と細い二本の足とで、地面を這うように接近してくる。あっという間に八橋の眼前に迫ると、<ノート>は二本足で立ち上がった。上下左右全ての手を振り上げる。
 絶望したわけでも観念したわけでもない。最後の一瞬まで決して諦めない強さが自分にはある自信がある。だが、思考が麻痺したように動けなかった。
「やぁーっ」
 戦場にこれ程不釣り合いな掛け声もないだろうという、若い女性の声が八橋の耳を打った。
 飛び込んできたのは美那斗であった。半袖の黒いコートから、白い滑らかな腕が伸び、その先に剣を握っている。
 低い姿勢でラスツイーターに向けて一閃させた剣の刃が、<ノート>の右足首に斬りつける。硬質な金属音が響く。そのまま斬り抜かず、美那斗は剣を怪人に当てたままだ。怪人の足首からは、回転音に似た金属同士の擦れ合う音が、次いで鉄の焼けるような焦げ臭い匂いが漂う。
「逃げて下さい」
 美那斗は渾身の力を込めて、剣を合わせている。力で敵う訳はない。ラスツイーターは怪訝な様子で美那斗が何をしようとしているのか、首を傾げている。
 剣には銃弾のように特殊な効果があるわけではないが、ブレードが震動し、少しずつ怪人の足に食い込み始める。それはチェーンソーで大木を伐るのに似ていて、徐々に木を削るようにラスツイーターの体に傷をつけていくのだった。
 強大な躯体に見えるこのラスツイータにして、おそらく一番細いのが足首であろう。その部分を狙うため、美那斗は片膝立ちになり、全体重を剣の刃先に乗せていく。
 この隙に八橋は立ち上がり、数歩後退しながら、怪人を見上げた。振り上げた四本の腕が自分から狙いを変えようとしているのが判った。
「あぶない」
 気力の限りを尽くし、八橋は銃のスライドを引く。薬莢が弾ける。
 怪人が手を打ち下ろそうとした時、残る一発の弾丸が近距離から撃たれた。こんなにも近い位置で弾丸が弾けたら、そんな事を想う余裕は全くなかった。
 それでも特殊弾はラスツイーターの動きを数瞬間封じ、その間に美那斗の剣が、彼女のとほぼ同じ太さの<ノート>の足首を切断した。
「やった。斬ったわ」
 美那斗が声を上げる。
「走って。一旦離脱するわ」
 駈け出した八橋は美那斗を抱きかかえる様に捕まえると、二人で怪人の足元から離れるように一気に走った。
「イイイッ、イーーーーッ」
 獲物を逃すまいと、怪人が向きを変える。右足を失った杖のような足首は地面に食い込み、体が斜めになって今にも転倒しそうだ。
 怪人の顔は酷く歪んでいた。痛みでか、怒りでか、手が巨大化したように、表情を作り変えたかのようだ。
 不均等な脚で地面を蹴るが、跳躍力は恐ろしく低下していた。何度かジャンプを試みるも、獲物との距離はどんどん開いていってしまう。
 怪人から離れた所で、美那斗は弾丸が装填されたマガジンを八橋に差し出した。
「私の手じゃもう撃てないわ。あなたよくこんな大きな銃を…」
 感心したように八橋が言う。窮地をまずは乗り切ったことで、八橋にも僅かな余裕が戻ってきていたのだろう。
 剣をホルダーに挿し、八橋から受け取った拳銃から空マガジンを落とすと、新しい物を装着する。銃のグリップが血で汚れていた。八橋が盾にした死体のものだろうか。見ると、彼女の頬もスーツも同じ様に赤黒くなっている。その八橋は周囲の状況を見極めようとしている。美那斗は八橋の前に立つ。怪人との距離はおよそ三十メートル。
 ラスツイーターがしゃがみ込むように見えた。だが、それは脚で走ることに見切りをつけた怪人の動きであった。<ノート>は四本の腕で走り出したのだ。
 四本足の獣のようではあるが、胸から下を引き摺りながら駆けてくる。不器用に腕をふり、一歩ごとに躯体が左右に揺れる。不気味で異様な走法は、遅々としながらも着実に接近はしている。
 タン、タン。
 美那斗が銃を撃つ。
 ラスツイーターは特殊弾の引き起こす共振や共鳴音に不快感を覚え、その度に手を滑らせて転倒するが、すぐにまた起き上がる。注目されたいという欲望が今では様変わりしたようで、二人への妄執に取り憑かれ、我武者羅で、それだけしか眼に入らなくなっているのだろうか。ある種の純粋さすら感じられる程真っ直ぐに突き進んでくる。
「逃げるのよ」
 八橋の指示に従って走る。徐々に疾駆の技術を習得していく<ノート>が距離を縮めてくると、美那斗が再び銃弾を放つ。弾丸が当たると熱いものに触れたようにビクリと反応し、体をよろめかせ、嘴をカツンと鳴らす。だが、転倒しなくなっていく。
 このままでは間もなく追いつかれるだろう。
 どうしたらいい、二人の胸中に等しく不安がよぎる。
 八橋が走りながら振り返ると、美那斗がラスツイーターに最後の射撃を行った所であった。長い黒髪が舞い上がり、銃撃の反動で両腕が跳ね上がる。
 その姿の遥か向うに、八橋が見たものは、赤と黄の光の矢であった。


 グロムの愛称で知られるホンダMSX125が洗川泰朋の愛車だ。マリゴールドイエローというカラーリングの車体で、全長、全高、全幅、といった寸法もそうだが、車体重量さえも泰朋のサイズを下回る。
 泰朋の巨躯に押し潰されそうなバイクが月崎邸を飛び出し西へ往く。西へ、西へ、目指したのは太陽の光だ。
 もう何日も陽の光を見ない日が続き、泰朋はストレスを感じていたし、苦しくてたまらなかった。
 その鬱憤を晴らすように愛車を飛ばしたかったが、実際には中々思う様に進めなかった。夕方の混雑に巻き込まれ、道路は渋滞しがちであった。車と車の隙間を探し、一刻でも早くとルートを選択しながらバイクを走らせた。
 だが、それもしばらくすると状況は好転する。白バイとパトカーが泰朋のバイクに合流すると、一般車両をサイレンを鳴らして退かし、ルートを確保し、先導してくれたのだ。美那斗と警察庁の話し合いが上手く行った証拠と泰朋はとらえ、グロムのアクセルを回した。
 小さな車体は加速し、西へと疾走る。
 目指すのは太陽だが、時間との戦いだった。ほどなく日没の時刻になる。その前に雲の切れ間を見つけ、コアを掲げて翳し、ホーンに変身しなければならない。
 それからラスツイーターの元へ駆けつけ、それを斃す。
 闘う事自体には何ら不安はない。
 ただ、太陽に出逢えなかったら、生身のまま戻るしかなくなる。たとえ変身できたとしても、怪人の元へ往くまでの間、凶悪な化物と対峙している美那斗は無事でいられるだろうか。彼女の身を案じる泰朋の焦燥はあまりにも息苦しく、胸を詰まらせた。
「風が出て来ました。雲が払われる良い傾向ですが、予測ポイントが若干修正されます」
 時々耳に雄川から連絡が入る。月崎邸の研究室で独自の気象衛星からのデータを元に計算された数値と睨み合っているだろう光景を頭に思い浮かべようとしてみる泰朋だったが、脳裏に現れる影はすぐにも美那斗の闘う姿に取って代わられ、不安はいや増すばかりだった。
 美那斗の側を離れるべきではなかった。変身できなかろうとも、彼女を守り続けるべきだった。激しい後悔に襲われながら、今となっては遅すぎる。ひたすら太陽光をコアに受けることを願って走った。
 市街路はやがて山合に入ってゆく。幅員が狭まってゆくと、両側を警察車両に挟まれて疾走ることができなくなり、隊列は縦に陣形を変える。前後をパトカーに挟まれ、先頭は白バイだが、泰朋にはその走行速度が遅く感じられ、焦りは更に増していく。
 高層ビル群が山々の樹々に変わっても、天を覆う雲に変化が見られない。本当に切れ間が現れるのだろうか。
 小さなバイクの車体を傾けてコーナーを右へ左へと曲がり、上り坂を幾つか越えた時、泰朋の眼が幾本かの柱を捉えた。それは怪人との惨劇が展開する美那斗が見ていた禍々しい柱とはまるで違う、天空から地上を貫く光の柱であった。
 泰朋のバイクが加速する。パトカーの脇を巧みにすり抜け、斜めに伸びる光の粒子から形成される柱の中へ突入してゆく。
 中に入ると、それはそれはまばゆい光であった。
 バイクを停止し、跨ったまま足裏を路面に着け、太陽を見る。
 沈みかけた太陽は見上げるほどの高みにはない。あと数十分と経たずに没していたかもしれない。
 泰朋はコアを持ち上げ、光の力を受け取ると、叫んだ。
「変身」


 マガジン最後の弾丸を射出したあと、一瞬嫌悪感を示した<ノート>が四つの掌で地面を掴むようによたよた歩き出すのを観察しながら、次の一手をどうするのか美那斗は迷った。弾丸七発入りの弾倉はもう一つ持っている。装着しなおして銃で威嚇しながら後退するか、あるいは剣での攻めに転じるか。
 あの細い枝のような脚ならば、再び切断できるかもしれない。しかし、四本腕による移動手段を得た怪人の動きを封じることは出来ないだろう。それでも、先程の件に恐怖に似た感情を抱いているとしたら、剣を持つこと自体が精神的な攻撃になるとも考えられる。怪人に人間と同じような感情があるとしたらの話ではあるが。
 戦闘の戦略に思考を巡らせながら、美那斗の内側ではもう一人別の彼女がいて、今にも泣き叫びたくてしかたがなかった。
 多くの人が犠牲になり、今なお瀕死の重体の人も多く、見たことも聞いたことも想像したこともない惨状が広がっている。広野は痛みと悲しみで満ち、これを創造した怪人が自分をもその中のオブジェの一つに仕立てようと、怖ろしい姿で迫ってくる。
 心は逃げ出したいと叫んでいる。何故逃げてはいけないのか。
 感情と思考が激しく軋み、嘔吐しそうになるのを堪えながら、美那斗は剣を選択した。
 後方で八橋の声がするが、彼女はもう全てを理解できなくなっていたのかもしれない。耳は単に音を受けるだけの器官にすぎず、情報を脳へ伝達することもないし、脳はいくつもの事象を同時に処理できなくなっている。
 剣を正眼に構える。
 ラスツイーターが向って来る。
 正面から打ち合ってはいけない。足を使って回り込み、相手の弱点を狙うんだ。頭の中で誰かが叫ぶ声が聞こえるのに、脚が棒のように地を離してくれない。
 ラスツイーターの大きな嘴が大きく開く。
 人間の上半身などひと飲みにされてしまいそうな大きさと、そのまま躰が両断されてしまいそうな鋭さで、急激に嘴が接近してくる。
(ああ、舌まで灰色なんだ)
 間の抜けた事を思っていると、突然ラスツイーターが姿を消した。
 赤い何かが目の前を横切っていった。行く先に首を捻る。
 ラスツイーターが倒れている。その前に、一台の大型バイクが停止している。搭乗者の姿はない。
 いや、それは本当にバイクと言えるのだろうか。
 全体に赤いシルエットで、カウルの先端からサイドへ黄色い三角形のラインが後方へ伸びている。泰朋の乗っていたバイクの色と、この黄色は良く似ていた。
 だが、バイクにしては形状があまりにも長く、大きく、歪だ。
 美那斗の瞳が細部を捕らえられるようになってくると、バイクのハンドルに当たる部分が、螺旋状に渦巻く様に突き出ていると解った。羊の角の形に似ている。
 これはホーンだ。
 直感が閃くと、前輪を支えるサスペンションは腕のようだし、後輪を支えるのはやはり脚だ。ライトのように光っているのが複眼で、その眼が美那斗の眼と合った気がした。
「ホーン」
 美那斗の唇の間を呟きが漏れ出ると、応じるようにそのバイクが動いた。脚が持ち上がると、猛禽類を連想させる太い鉤爪の足が大地に食い込む。大きな上体が車体から剥がれるように浮上し、隆々と盛り上がった肩に乗る巨樹の幹のような首が捩れるように頭部を振り向けさせる。
 二本の大きな角は黄金色だが、体色も、眼も、朱よりも濃い茜色で、全身に白い文字とも絵画ともとれる不思議なアボリジニアートに似た模様が細かく浮き出ている。
 今や完全に立ち上がったホーンは、長い尾を有しており、それを一度振ってみせた。
 以前とは色も尾も違うが、恐ろしい姿というよりもやはり神々しさを美那斗は感じずにいられない。ホーン。その巨体の足元に、元に戻った小さなグロムがちょこんと置かれていた。
 ホーンが頑丈で長い脚で大股に美那斗に近寄ってくる。怪人と闘っている最中にも関わらず、美那斗はホーンの巨躯のディテールに眼と心を奪われていた。ホーンが来てくれて、もう大丈夫だという安心感が、彼女の臨戦態勢を溶かしてしまったのだろうか。
 手を伸ばせば届く所まで来ると、見上げる美那斗にホーンは頷いてみせた。
 何て頼もしいのだろう。
 怪人が襲ってくる恐怖や、いとも容易く消えてゆく人命の悲しさ、痛ましくむごたらしい惨状を何とかしなくてはならない重責に押し潰される寸前であった美那斗は、絶対的な信頼感を見せるホーンに抱きつき、泣き出したい気持ちを抑えていた。
 ホーンの手がゆっくり伸ばされる。
 無骨な躰で繊細な女性を傷つけぬよう気を配りながら、ホーンは美那斗の剣を取った。
「えっ」
 美那斗の吐息は驚きによるものだった。武器を奪われては闘えない。だが、それはホーンが肩代わりするという意思表示に想え、美那斗は甘んじて受け入れたくなる自分を抑えておけなくなりそうだった。
 剣を持たない左の手が、美那斗に退るように身振りで促す。美那斗の脚が素直に数歩後ろ向きに動くのを待って、ホーンの頭部がラスツイーターにひたと向けられる。視線を動かさなくとも、ホーンはそのままでほぼ全周囲を複眼で知覚することが出来る。それでも相手に眼を向けるのは、威嚇のためだ。
 ラスツイーターの動きを警戒しながら、右手に握った剣の柄の部分を、自らの左の腕に載せるような仕草をする。すると、腕のそこかしこからナーディ(脈管)が生え、伸び、うねり、柄に絡みつくと、瞬く間に腕と剣とが一つに融合してしまう。ホーンの右手が離れても剣はそこに融着したまま、ホーンの躰の一部に化した。
 先程のバイク同様、機械や武器と合体することが出来る、というのだろうか。
「すごい…」
 呆然と美那斗が呟く。
 体の形を変えてしまうラスツイーターと、他の物体と融合するホーン。紙戯の説に拠れば、それは潜在意識の為せる技であるから、ホーンもラスツイーターのように潜在意識の力が強いと言えるのだろう。
 剣の生えた左腕はだらりと脇に下げ、変わって今度は右の拳を持ち上げ、自らの左胸を強く叩く。美那斗は知らなかったが、それはキャノン泰朋が格闘試合に臨む際に見せるファイティングポーズであった。心臓を強打し、自分は強いと自身を鼓舞するのだ。
 ラスツイーターと対峙して二度、三度と胸を叩くホーンを頼もしく見つめる美那斗とは逆に、八橋は動揺と言って差し支えないぐらいに戸惑っていた。ホーンの存在は月崎邸で向浜に教えられていた。怪人と同等以上の能力を有しながら、人間の意志を持ったまま闘う強い力。現在怪人を倒し、滅することの出来る唯一の存在だと。
 だが、その姿は禍々しく、恐ろしく想えた。
「まるでビーストだ」
 八橋の呟きは小さく、美那斗には届かなかったが、変身により超常的な聴覚を得たホーンには聞こえていた。大抵の人間にはそのように見えるのだと気付かされたが、気に留める暇はなかった。
 ラスツイーターが躰を起こした。
 四本の腕で上半身を支え、下半身を引き摺っている。全体のシルエットは酷く不格好な大型犬を連想させ、ホーンに比すると全高はその胸まで届かない。天を衝くような巨体に思えていた美那斗は意外の念を覚えた。やはり恐怖に心が縛られて真実を見誤ってしまっていたのだろうか。ドンドンとホーンの拳が胸を打つ力強い重低音の響きが、思い込みを払拭し、美那斗に平静さが甦ってくる。
 起き上がった怪人は、左上手を前に進め、次に右上手、左下手と順に進めていく。夏には濃厚な緑色をしていた芝を手の平で捕まえ、あるいは握り拳で叩くように、前後左右に躰を傾がせながら、不器用に歩いてくる。だが、それも凄まじい勢いで上達すると、急激に加速していき、跳びかかった。
 ホーンには回避する気は全くなかった。
 ここで食い止めなければ、ラスツイーターの向かう先には美那斗がいるので当然である。大きく両脚を開き、身構える。
 <ノート>の巨体が跳ねたかに見えた。が、そうではなかった。立ち上がったのだ。元々あるフラミンゴのように細く長い脚で立つ。片側は美那斗に切り落とされた。残る一本の足で地面に爪を立て、四本の腕を振り上げる。
「イーーッ」
 ラスツイーターの欲望に塗れた心の叫びが、強烈な意志の濁流となって、ホーンの耳に雪崩れ込んでくる。頭部を強打されたような衝撃に耐え、ホーンは両手を上げて<ノート>の上側の両手を掴む。がっしりと四つに組む形だが、下側の両手がホーンの両脇腹を捉えた。
 万歳の姿勢のまま、全身に力がこめられて行くと、渾身の力を試し合うように静止する。<ノート>の握力がホーンの胸部を圧迫しつつ、ホーンの手を吊り上げて離さず、邪魔をさせまいとしている。
 剛力は均衡しているかに見えたが、<ノート>、ホーン、両者のそれぞれ一本の腕だけは弛く動いていた。円を描くように下へと回されていくホーンの左腕。そして、
「イーーーーッ」
 ラスツイーターの絶叫が溢れ出す。
 ホーンの左腕から生え出した剣先が<ノート>の下側の右手を切り裂いたのだ。ラスツイーターには体液や血流といったものは無いのか、体表の亀裂から吹き出すものはなかったが、それでも傷口は大きく深い。
 <ノート>はホーンの手を離し、自分の傷を抑えこんだ。痛みに堪えながら、ハッとしたような表情を見せる。ホーンの左手だけが自由に使える状態にあることに気づき、双眸が目まぐるしく回転する。ホーンを見、美那斗と八橋を見、周りを遠巻きにしている警察官や犠牲になって倒れている物を見る。
「イッ」
 ホーンの握り拳が下で煌めく。と、次には嘴の付け根に剣が突き刺さる。ラスツイーターの嘴が上空へ開かれ、ホーンの剣は喉の内部を刳りながら、首を裂いていく。
 嫌な、例えようも無い位に嫌な音がする。
 ラスツイーターの奇声ではない。怪人の躰がちぎられる音だ。
 下側の嘴をホーンの右手が掴んでいる。左手の剣は伸び、項の後ろから突き出している。そして、<ノート>の躰と頭部が別々のものとなった。
 怪人の頭を高々と掲げるホーンの姿は、勝ち誇った雄叫びが聴こえて来そうだ。
 ラスツイーター特有の灰色に濃淡のみの体色が、徐々に薄れていく。やがてそれすらも空気に溶けるように、消えて、なくなってしまった。
 怪人の死であった。
「ラスツイーターを斃したわ」
 喜びの声を上げる美那斗。
 それを聴いた八橋は小さく、彼女に聞えないに呟く。
「まだ一体いるじゃない」
 ホーンの大きな眼が八橋を凝視する。気後れするように八橋の瞳が伏せられるのに、然程時間はかからなかった。


 月崎研究チームは解散になった。
 およそ十五年前に月崎護が私設の研究チームを発足した。目的は様々な技術の開発、とりわけエネルギーに関連する新技術で人類に貢献することであった。一時は三十名を越すスタッフが月崎という豪邸の地下に潜り、研究に没頭する年月を重ねていた。
 その後、チーム創設者の護の父、新道の死により莫大な資金援助を失うことにより、規模は縮小したものの、存続はしていた。それも護の死によって娘の美那斗が引き継いでいたが、ほぼ一年で幕を閉じることになった。
 屋敷の裏門が大きく開け放たれ、大型トラックによる機材の搬出が三日間かけて行われると、敷地内はすっかり閑散としてしまった。
 邸内の廊下をうろついてみて誰かに逢うことも、足音を聴くことすらない。
「身だしなみに気を使う必要がなくていいわ」
 人の去った寂しさを紛らわせる笑みを浮かべながら、美那斗が辺見に言ったのは、ある朝の事だった。
「そうでございますね。もっとも、向浜さんは昔から気を遣ってはおられませんでしたが」
「それもそうね。ところで、辺見」
「はい、何でしょう、お嬢様」
「お前ももう自由にしていいのよ」
「何をおっしゃいます。私には大切なお役目がありますから」
 辺見の言う役目とは、私の面倒をみたり世話をすることなのだろう。ほとんど無償で親身になってくれる人がいる有り難さへの照れ隠しのように、美那斗は自分の祖父程の年齢の辺見に向って言うのだった。
「辺見、車は売り払うのですよ」
「お、お、お嬢様ーーーー」
 情けない声が辺見から上がる。
「朝っぱらから奇妙な声を上げて、一体何の騒ぎなの、辺見さん」
 大小様々なサイズの絵画が外されたエントランスホールの壁の前に立つ二人に、声を掛けてきたのは向浜紙戯であった。研究室に詰め込まれた種々の器材が運び出されると同時に、各々専門に使用していた担当者が新たな設置場所での起動や再設定が必要で、一人また一人と美那斗に別れを告げて館を出て行った。そして西館はすっかり空っぽになってしまった。
「向浜さん。いやぁ、お嬢様が先々代のヴィンテージカーを蔑ろにするような事を言うものですから」
 大きな欠伸を隠そうともせず現れた紙戯は、彼女にしては比較的まともな恰好をしていた。白いYシャツはどのボタンもしっかり止められていたし、ジーンズの裾が片方だけ捲れているようなこともなかった。奇しくもこのスタイルは辺見のいつものものと良く似ていた。ただ、良く見ると、首に掛けられているのは黒いネクタイの様に見えて、実際はストッキングであった。
「男の人は車が好きね。ただの移動手段でしょ」
「今何とおっしゃられました」
 心底驚いたというように、辺見の目が真ん丸に変わる。
「車は芸術作品です。女性には理解できないと仰るのですか。そんな筈はありません。実際、女性にも拘りはあるでしょう。香水や宝石やバッグなどコレクションする人もよくいらっしゃいますしーーーー」
「はい、はい。もう結構よ、辺見さん」
 軽くあしらおうとする若い娘に、口にこそ出さないが辺見は腹を立てていた。何か言い返してやりたいのだが、うまい言葉が思い浮かばず、しどろもどろしてしまう。
「そんなことより朝ごはん作ってくんない? 軽い奴がいいかなぁ」
「今起きたばかり、なのですか。あぁ、成る程」
 含む所を十二分に持たせた意味深長な言い方をする辺見を、手櫛で髪を整えながら紙戯が聞き咎める。
「何が、『成る程』なのかな?」
「いえ、いつもはセクシーを全面に押し出したファッションなのに、今朝は随分お淑やかだと思ったら、どうやら寝間着でしたか」
「はぁ?」
「あら、そうでしたの、紙戯さん」
「べっつにぃ、パジャマなんてないし、この服だっていつ着たかなんて覚えてないし、第一セクシーでもなんでもないし…」
 中指の腹で目ヤニを取りながら言う紙戯の歯切れが悪いのを見て、辺見は内心でガッツポーズを取りながらも、外見的には少しだけ眼を大きく見開くに留めた。
「いえいえ、向浜さんは容姿端麗ですし、セクシーダイナマイトですし、いつも男どもの視線を釘付けではありませんか」
 紙戯が視線を下げる。ボサボサの髪に隠されてよく見えないが、両の頬が赤く染まっていた。照れているのだと辺見は理解し、更に追い打ちをかけようかと意地の悪いことを考えていたが、美那斗は気付いていないようで、
「私の頂いたフルーツがまだ残っているでしょう、辺見。用意してあげて」
「ーーーー」
 尚も何か言いかけて口を開いたまま数瞬止まったままの辺見だったが、口を閉じて一つ咳払いをした。
「そうですね。畏まりました」
「今起きたところなのですか。夜、眠れませんか」
 心配そうに美那斗が訊く。
「そんなことないわ。いつ寝たのかは判らないけど、睡眠時間は十分取れているわ。美那斗ちゃんはいつも早起きね。一体何時に起きているの?」
「毎朝五時です」
「うわっ、早っ。早起きって三文しか得しないのよ」
「塵も積もればって言いますよ」
「dust to dust. 塵は塵に。山もいずれは塵に帰すのよ」
 言いながら、紙戯は罰の悪そうな表情になっていった。ストイックな美那斗の日々の努力を否定しているように聞こえなかったろうか。
「では、用意してまいります。ああ、泰朋くん。おはようございます」
 辺見が厨房へ行こうとした所へ泰朋が現れた。
「おはようございます。人の声が聴こえたので、何だろうと思って」
 泰朋の姿が視界に入ると、美那斗は無意識の内に眼を逸らせてしまった。今までは和やかな雰囲気だったが、さっと緊張感が走る。
「おはよう。泰朋くんも朝食はもう済ませたの?」
 話題を変える絶妙なタイミングに喜んだ紙戯であったが、自分の首にぶら下がっいるのがネクタイではないことに気付き、驚いた表情になる。手に取り、引っ張って、収縮させる。
「ああ、さっき食った」
「そう。やっぱりスポーツ選手は規則正しい生活が基本なのね。私のようにだらしのない者には無理だわ。そう思うでしょ、美那斗ちゃん」
「私、ジョギングに行ってきます。帰ったらスパーリングの相手、お願いします」
 チラチラと泰朋の方へ視線が向うようで向えない美那斗は、そのまま玄関のドアを開け、屋外へ飛び出していってしまった。
 残されたエントランスの空間は急に静まり返る。
「あーあ、変なこと口走っちゃったかなぁ。私ってダメね。思ったことがすぐ口から飛び出ちゃう」
 美那斗の素っ気ない様子を自分のせいだと勘違いした紙戯は、両手で髪を掻きむしった。
「変なことって?」
 紙戯はその場から少しだけ移動すると、階段に腰を下ろした。両の足首を交差させて投げ出す。
「美那斗ちゃん、あなたがホーンになってもずっとトレーニングを止めないじゃない? どうしても自分で変身したいみたい。でも出来なくて、きっと口惜しいんだろうなぁ。私ってそういう気遣いっていうの、そういうの駄目なのよね」
「そういえば心を強くするにはどうしたらいいかって、訊かれたな」
 座った紙戯につられるように、泰朋も床に腰を下ろす。
「ああ、それ。私も似たような事訊かれたわ。潜在意識の力が高くないと変身は出来ないと思うけど、どうすれば高められるのか。ちょっと調べようかって返事したけど、実際の所、格闘家としてはどう? 武術は心技体と言うじゃない。やっぱり心は大切なのでしょ」
「よく言われるのは、自分を信じる心、自分に打ち克つ心、人を思い遣る心、相手を尊重する心、平常心、そんな所だが、心と技は身体の様に数値で表すことが出来ないから、強い弱いの解釈が難しいな」
「程度の件は別として、どんな訓練をして心を鍛えるの」
「よく言われるのは、精神修行だな。滝行、座禅、コーチング、マインドコントロール、瞑想などの精神統一によって、心の乱れを生じさせない、またはすぐに落ち着かせるというーーーー」
「あのさ、よく言われる、のはどうでもいいから。泰朋くんの方法を教えてよ」
「俺か、俺は、そうだな…。経験に勝るものはないと思っている」
「ふーん」
 紙戯が口を尖らせる。


 一方、館を飛び出した美那斗は全力疾走していた。月崎邸の北側へ向うと、大通りを経て都市部へと続くが、南側へ向かい住宅街を抜けると、自然の多く残る公園や緩やかな山林へ繋がってゆく。美那斗はよく自然公園を走った。緑の中を走るのは爽快だったし、人の多い都市部を疾走するのは気恥ずかしく、足は自然と人通りの少ない路を選択してしまうのだった。
 早朝、という程の時間帯ではないが、それでもこの時季にもなれば、最低気温が十度を下回る日もあり、空気は冷たく、吹く風は秋が冬へ近づいていくのを連想させる。それでも、比較的大きな邸宅街を抜ける頃には美那斗の体温は上昇し、乾いた空気で汗が蒸発する以上のスピードで発汗し、ウェアはすでに多量の汗で肌に張り付いていた。
 公園の入口前の信号待ちで、肩を激しく上下させながら呼吸に喘いでいると、戦闘防護用コートを着用して来るのを忘れたことにようやく気づいた。まるで慌てて逃げ出してきたみたいだと、美那斗は頬を弛めもせず自嘲した。
 大きく息を吸い込んで長く吐き出すと、その場で素早い足踏みやジャンプを繰り返し、信号が変った瞬間に道路を爪先で蹴りつけて飛び出していく。
 公園内への車輌の進入を防ぐ柵を飛び越え、そのまま路を進んでいき、左手の小路へと折れる。色付き始めた樹木の間を縫うように、路は緩やかな傾斜を描いているが、いつしか美那斗はその小路すらも外れて走ってゆく。
 登り坂をあえて選ぶのは、その方が脚への負荷が上がるからで、苦しさで肺と心臓が爆発しそうになり、筋肉は悲鳴を上げるが、そうであればある程、内なる所でもっともっとと叫ぶ者がいて、美那斗を叱咤しながら脚を止めさせない。
 約一年間、まだ平穏以外の日々を知らなかった頃に比べ、全身はかなり鍛えられてきたという自信はある。技という面ではまだまだ至らないだろうが、それも訓練を重ねていけばスキルの上達は無理だとは思えない。
 だが、心はどうだろう。
 心を鍛えるにはどうしたらいいのだろう。
 樹間を縫うように走破し、坂を登っては降りる。これを繰り返しながら心の中での問答に夢中になりすぎた美那斗は、地面から盛り上がった木の根に爪先を引っ掛け、転倒した。
「ううっ」
 倒れた所にちょうど大きめの石があり、右の脛を強打した。背中を土に預けたまま、両手で右脚を抱えて痛みに悶絶する。
 心が強くなれば、こんな痛みも苦ではなくなるのだろうか。痛みを痛みと捉えずに済むのだろうか。あるいは良い教訓になったと根や石に感謝できるようになるのだろうか。そういうことではないはずだと想いながら、美那斗は何とか立ち上がり、足を引き摺るようにして前方に見えてきたベンチに辿り着くと、とにかく腰掛け、次いで打ち据えた脛を見た。
 全身に幾つもの痣がある。一つが治癒する頃には新たな別の痣が出来ている。痣が出来る度に、肌が硬くなっていくような気がする事が悲しい。手の平にはマメが出来ているし、関節も太くなってゴツゴツしてしまった。毎日少しずつ女性らしさを喪ってゆくのを哀しいと感じなくなる心の強さが欲しいと願った。
 時間が経って、痛みが引いていく。
 何とか走れそうだと立ち上がる。七転八倒。今、自分に唯一ある心の強さはこれかもしれない。兎に角、今は転んでも立ち上がろう。今はまだ光が見えなくても、手探りでも一歩一歩進んでいこう。そう想った。
 ふと周囲を見渡すと、腰掛けていたベンチや背景に見覚えがあった。まだ夏の暑い盛りの頃だった。ある親子連れに出逢ったのを、美那斗は記憶していた。
 その男の子も走って転んだのだった。
 美那斗が助け起こそうと手を差し伸べると、その子の父親に制止された。立ち上がる練習の邪魔をしないでくれ、そんな風な事を言われた気がする。
 立ち上がることを教えて貰えるその男の子を、美那斗は羨ましいと想った。
(お父様なら教えてくれたのかしら)
 博識な父親で、大抵のことは訊けば答えてくれたものだが、スポーツや人間関係には疎かったので、おそらく期待はできないだろう。それでも久しぶりに父の記憶データにアクセスしたくなった。
 美那斗はまた走り出した。


「美那斗ちゃんに聴いたんだけど、この間のホーンは赤かったんだって?」
「ああ、それは覚えている。山の坂道を登って、光を受けて、変身した時、手も、体も、以前とは違う色だった。あれは夕日の色だ」
「体色の相違は能力にも現れるの? 例えば力が強くなるだとか、そういう見た目じゃない部分で違いはなかった? バイクや剣と融合したそうね」
「ああ、あれは不思議な体験だった」
 エントランスの床の上に胡座をかき、腕を組んでいると、まるで一個の大きな岩のようだ。岩石が喋るのを、紙戯は辺見の用意した数種類のフルーツを頬張りながら聴いていた。
「ホーンに変身したあと、兎に角一刻も速く戻らなくてはと、そればかり考えていた。警察が誘導してくれて、開通前の道路を使わせてくれたんだが、ホーンになった途端、通信が切れて、状況がわからなくなった。焦っていたと想う。怪人がどうなっているか判らないし、万が一のことが起きてやしないかと不安だった」
 その時の感情が甦ってくるように、泰朋が大きな体をぶるっと震わせた。
「祈るようにグロスに頼んだよ。もっと速く走ってくれって。そしたら、急に景色が歪んで真っ直ぐ走れているのかも解らなくなって、気が付くと怪人を突き飛ばしていた」
「へぇ。それは可也興味深いわね。ふーん。そうなんだ」
 バイクと融合したとして、機械の性能を凌駕する程の速度で走行したのだろうか。だとすると、走行路で何らかの被害が発生しているかもしれない。
 もし、そうした痕跡が無いとすると、別な現象の可能性が出てくる。
 つまり、空を飛んだか、あるいはテレポーテーション。
「剣が腕にくっついたとも言ってたけど」
「ああ、それは覚えている」
 泰朋は自分の眼前に左腕を持って来て、角度を変えながら眺めた。
「今でも腕に感触が残っている。ここに剣が生えて、腕に剣の温度や唸り声が伝わってきたんだ。まるで剣が俺も一緒に闘わせてくれと言っているようだった」
 奇妙で不思議な発言をする泰朋を、だが紙戯は侮蔑することが出来ない自分がいることに気づいて、科学者だと名乗っていいのか疑問を抱くのだった。
「お前も彼女を守りたいのかと尋ねると、奴は俺の中に潜り込んできたんだ」
「うーーーっ」
 突然、紙戯が唸り声を上げる。
「すっぱっ。このグレープフルーツすっぱすぎだよ。辺見さん、砂糖かけて」
 一口大に切り分けたグレープフルーツを頬張って口を窄める紙戯に、辺見は
「ビタミンCは美肌に効果的ですよ。セクシー路線の向浜さんには必要かと存じますが」
 と、飄々とした様子で紙戯の反応を伺っている。先刻は不覚にも顔を赤らめてしまったが、今度はそうはさせるものかと表情を強張らせる紙戯。二人を見つめる泰朋はやや放心したように思考が停止した所で、大きな欠伸をして肩を揉み解したりしてみた。


 息を吸って吐き出す音と靴底が路面を叩く音とが、リズミカルに躍動し、メロディーを形成している。公園を抜け出した美那斗は住宅街の人通りの少ない小径を通り、淋梅寺を目指していた。
 自然公園のベンチで親子連れの事を思い出した時、潜在意識が囁きかけてくるように連鎖的に頭に浮かんだのが、淋梅寺という寺の和尚であった。かつて座禅を勧められたが、精神修行にはうってつけかもしれない。
 住宅が並ぶ通りを走っていると、角にある一軒の家のブロック塀が様々な色彩の市松模様で、まるでクレパスで描いた絵本のようで、見上げると建屋の壁や屋根も同じ様な雰囲気に塗られた、可愛いものだった。
 思わず目を奪われながら角を曲がると、出会い頭に一人の老婆とぶつかりそうになった。反射的に避けたので接触はしなかったが、驚いた老婆のけたたましい悲鳴、次いで罵声が起こる。
「ひえーーーーっ、こ、殺されるーーーー。馬鹿野郎、何てことすんだい。死んじまうよお」
「ごめんなさい」
 立ち止まり、息を切らせながら頭を下げて謝罪する。
「何だい何だい、人を突き飛ばしておいて、しかもそんな変な恰好で外を出歩くなんて、まるで変態女じゃないか。気持ちの悪い露出狂に殺される。誰か、誰か警察を呼んどくれーーーーっ」
 あまりの非道な言われ様に、心の中に暗く重い塊のようなものが降りてくる。
 美那斗は謝るのを辞めた。この人には何を言ってもしょうがないだろう。だが、驚かせてしまったのは自分の落ち度だ。誠心誠意お詫びすべきだ。二つの想いが心の内で葛藤を見せたが、くるりと踵を返して走りだすと、背中に尚も投げつけられる汚い言葉に耐えて進んだ。心の澱がどんどん濃度を増していくようだ。
 全力で走るのが逃げているように感じられ、更に気分を落ち込ませていく。
 それでも寺の山門が見えると、とにかく一息つくことは出来た。世俗から離れた社寺という空間は、美那斗の疲れ、悩む気持ちを多少でも癒やしてくれるだろうか。
 毛筆で書かれた淋梅寺の看板の下を潜り、梅の木の並ぶ玉砂利の路を進んでいく。美那斗の求める理芳和尚の姿はなかった。
「答えは己の中にある」
 そう言った理芳の破顔を思い浮かべながら、どうやら留守らしい和尚をこのまま待つか出直すか迷っていると、後方で砂利を踏む音がして振り返ってみたが、それは別の僧であった。まだ極若い僧で、顔には気恥ずかしさやあどけなささえ残っていて、もしかすると美那斗よりも歳下かもしれない。袈裟を掛け、両手にコンビニ袋を下げている。
「あっ」
 と、驚きの声を発するなり、そそくさと美那斗の脇をすり抜けて寺務所の方へ行こうとする。袋いっぱいに入っているのは弁当にペットボトルのジュース、菓子類、それに雑誌のようだが、この格好でコンビニで買物をして来た事や、世俗的な商品など、色々ばつが悪いといった所だろうか。美那斗の眼を避けるように小走りで離れていく。
「あの、失礼ですけれど」
 美那斗が呼びかけると、その僧は肩を大袈裟な位びくっと震わせ、いからせた肩越しに振り返った。血色の良い丸い頬が引き攣っている。
「何かーー」
「嶺道理芳和尚様はいらっしゃいますでしょうか」
「えっ」
 理芳の名が出ると、僧の挙動は増々怪しくなる。直ぐにもその場を立ち去りたいらしく、トイレを我慢する児童のように足をバタバタ踏み鳴らしながら、体をグルグルと回転させる。
「突然失礼な人ね。亭主は不在ですが、何か!?」
 境内の方から棘を孕んだ声がする。声の主は四十代半ばの肉付きの良い体格の女性で、濡縁に立って睨み下ろしている。黒を基調にした落ち着いた感じの和装ではあったが、指や首、耳に付いている装飾品はどれも金色の光を反射している。
 母親と近い年齢だからだろうか、あるいは同性としての気安さもあったのかもしれない、美那斗は数歩近寄りながら、突然の訪問を素直に謝罪し、その女性に訊いた。
「以前こちらで和尚様に親切にしていただきました。私、月崎美那斗と申します。悩み事を相談したいとーーーー」
 慇懃で丁寧な美那斗の言葉を遮るために、あえてトーンを上げた声で、
「月崎? あぁ、あんたがそうなの! あの人が先に話していたわ。この汚らしい泥棒猫!」
 美那斗は面食らった。いきなり冷徹な言葉を投げつけられ、何が何だか解らない。
「よくものこのこと出てこれたもんね。寝取った男の妻を笑いに来たのかしら。大人しそうな顔して、何て意地が悪いのかしら」
 顔が赤黒く怒りの形相に転じていく女を見るのに耐えられず、救いの手を若い僧に求めて視線を転じるが、そちらもおろおろするのを体で表現するばかりで、話になりそうにない。
「何をおっしゃっているのか、私には解りかねるのですが、少し落ち着いてお話いたしましょう」
 美那斗が努めて冷静にしようという様子が、かえって相手の感情を煽るのか、その女性は濡縁を渡って、階段を足袋のまま降りると、玉砂利を蹴散らすように鳴らしながらすごい勢いで美那斗に詰め寄ると、有無を言わさず頬を平手打ちした。


「泰朋くんは世界中あちこち旅して来たんでしょ」
「世界中という程ではない。ブラジル、ネパール、アメリカ、オーストラリア、そんなとこだ」
「格闘の修業?」
「そうだ。そういえば、どこも技の修業というよりは、精神を鍛える旅だったかもしれないな」
 口直しに依頼したコーヒーが淹れられたマグカップを辺見から受け取り、一口啜って大きく息をつく紙戯は、経験と言った泰朋の言葉に考えを巡らせていた。
 自分は経験豊富な方ではないと紙戯は想っている。行動するより頭脳を行使して考えるのが好きだし、これに関しては並々ならぬ能力が有ると自覚も自負もある。
 経験に勝るものはないと言うが、脳は外的な刺激による情報と内的に想像した刺激による情報とを明確に分けることが出来ない。
 例えば過去の恥ずかしい経験を思い出しただけで顔が赤くなったり、脇に汗をかいたりする。レモンの味を思い出すと、口の中に唾が広がってくる。実際の外的刺激を受けずに想像しただけで、体が反応するのだ。これを利用した訓練がイメジトレーニングで、頭の中でその時のことを想像することによって、脳内であらかじめ体験してしまう事が可能なのだ。潜在意識もこれで鍛える事が出来るのではないか、つまり経験とは脳の記憶操作と言い換えられないか。
「アメリカンインディアンやアボリジニの人達と逢ってきた?」
「ああ、そうだ」
「美那斗ちゃんが言ってたわ。ホーンの体にはアボリジニアートのような模様があったって」
 脳の中で想像を膨らませてイメージするには、だが基になる体験が必要だ。恥ずかしいと感じたり、レモンを食べたことがなければ、その時の場面や味覚を思い出すことが出来ない。より多くの経験、それも同じ事を繰り返すのではなく、初体験を多く記憶することが大切になってくる。紙戯は納得した。
 大概の情報は現在インターネットを介して知ることが可能だ。動画も氾濫しているから、情景を見ることは出来る。だが、実際に経験してどう感じたか、その時の臭いや温度、空気などは画面から知ることはできない。
 情報が不十分だと、研究や理論に偏りや抜けが生じるのと同じで、イメージトレーニングも充分なものになり得ない。
「原住民の生活に触れることが目的で?」
「彼らは戦いに際して、体中に奇妙な絵を描くんだ。あれは自己に獣や神や、時には悪魔の魂を取り入れ、強大な力を借りたり、同化したりしようというものだ。日本や東洋の密教系で印を結ぶのは、非常な脅威を防ぐための守護だ。所詮人は弱いものだから、何か大きな力を借りたいのだろう。俺とて例外ではない。意識しなくとも、アボリジニの真似をしていたのかもしれない」
 マグカップにたっぷり入ったコーヒーを飲み干した紙戯は、辺見におかわりを頼んだ。
「いいですが、一つ言っておきますと、私はあなたの執事ではないのですよ。今は研究スタッフではなく、単なる居候なのですからね」
「あら、居候とは失礼ね。私は美那斗ちゃんのアドバイザーよ。それも無償でしてあげてる。あまり軽くあしらわないでくれる?」
「全く」
 ブツブツ言いながら辺見が退がる。
「紙戯さんは、どうしてここに残ったんだ」
「アドバイザーっていうのは冗談よ。美那斗ちゃんはしっかり者だから、アドバイスなんて必要ないわ。自分で答えを出せる娘よ。そうね、私がここに居るのはーーーー」
 思いつめた様子で紙戯はじっと泰朋の顔を見つめた。短い沈黙が二人の間に流れる。
 じっと動かない熱を帯びた眼差しは、男にしてみると恋情を連想させるに充分であったが、泰朋はそのような事象に敏感な質ではなかったし、それは紙戯にしても全く同じで、自分の仕草や見つめる瞳が相手に何を思惟させるかなどと考えたことすらなかったので、両者間の空気が熱を孕んでゆくことはなかった。
「天才だから、なのかもしれないわね。私には頭脳さえあれば立派な施設も、スタッフも、環境も必要ないわ。どこにいっても考えることは出来るから、何処かへ移動する無駄な時間を浪費することはないし、雨さえ凌げればそれでいい。まあ、もう少し別の理由を付け加えるなら、教授への恩義になるのでしょうね」
「教授って、月崎護って人のことだよな。使命感の強い人だったのだろう。コアからそれは伝わってくるよ。怪人は皆、己の欲のためだけに行動しているっていうのに、それに抗って娘や人のために自分の身を賭すことが出来るなんて、信じられない強さの持ち主だ」
 時間はいつしか正午を回っていたが、二人の話題は尽きることを知らず、いつまでもエントランスの大階段の下に座って話し続けていた。コアになった護のこと、怪人のこと、そして美那斗のこと。
 時折、館の奥から車のエンジンを吹かす音が聴こえて来る。辺見が秘蔵のヴィンテージカーの整備をしているのだろう。それ以外は静まり返った館内を騒がす者はなかった。
「この前のラスツイーターはどんな欲望に駆られていたの? ホーンに変身すると奴等の声が聴こえるのでしょ」
「声というか、心の叫びとか、意志に近いかもしれない。あのラスツイーターは自分を観て欲しがっていた。まるでファッションモデルか舞台女優のように、観られ、称賛され、拍手喝采を浴びたがっていた」
「称賛されたい、収集したい、嘲笑したい、破壊したい、護りたい、それに…」
 これまで紙戯が関連してきたラスツイーター達の元凶になる最初の一体、マザーと呼んでいるが、これは人間を怪人に変化、生まれ変わらせる能力を有している。このマザーの欲望は何なのだろう。怪人化はその能力であるだけでなく、奇しくもマザーと紙戯が命名した通り、母になりたいという欲求があるのだろうか。
 最初のラスツイーターに想いを巡らす紙戯とは逆に、泰朋はこれからの怪人のことを考えていた。
「これは一体いつ終わるんだ。あと何体斃せば、ラスツイーターはこの世からいなくなるんだ。いつになったら、彼女は闘いの世界から解放されるんだ」
 泰朋の吐き出す言葉は苦渋と悲愴に満ちていた。
「そうね、最初のラスツイーターがここへ現れたのが、ちょうど一年前になるわ。ラスツイーターが新しいラスツイーターを生み出すのに、満月が関係しているらしいから、十三体いる可能性がまず考えられるわね。ただし、一月に一体かどうかは不明だわ。もしかすると一度に二体、三体と産んでいるかもしれないし、それに新しいラスツイーターがフィメール体の場合、そのラスツイーターがまた新しいラスツイーターを産み出しているとも考えられる。現にあなた達の出逢った<リップ>はフィメール体だったと推測できる」
「それだと、今現在も相当な数の怪人がいるかもしれないし、これからもどんどん増えていくっていうのか」
「そうなるわね」
「なんてことだ。何か先手を打たないと」
「その通りよ。今までずっと後手に回っているから、何とかしないとね」
 現在運用しているラスツイーター探索システムは、怪人が暴れた際に発する特殊な信号を監視衛星から認識する方式であるが、通常時の怪人を発見することが出来れば、こちらから打って出ることも、相手の不意を打つことも可能だ。そうすればより優位に闘えるし、被害を少なくできる。
「怪人の殲滅には新しい探査システムが不可欠だわ。それもあって美那斗ちゃんは警察の協力をとりつけた。見事な手腕よね。こういうのは私には不向きなのよね」
 出来ない、という言葉を紙戯は使わない。
「けど、警察機関にそれが出来るのか? しかも早急に開発しなければならないのだぞ。次の満月には、また何体もの怪人が産み出されるのだろう」
「そうね」
 泰朋の緊迫感が伝播したように、紙戯は深々と考えこんだ。確かに事は一刻を争う。紙戯はブツブツと呟きながら目まぐるしく考えを巡らせていった。泰朋が掛ける声も耳に入ってこない。眼は開いているが、何処も視てはいない様だ。
 意識していない動きで、手が首元へ持ち上がり、ネクタイのように巻いていたストッキングを掴んでは弄び、結び目を解いていく。まるで両手だけ夢遊病者になったように、紙戯の意識を離れて動いている。
「おい。何をしているんだ。よ、よさないか」
 泰朋の制止の言葉も何の意味も成さない。泰朋の目の前で紙戯の手は黒ストッキングを
襟元から抜き取ると、無造作に放り投げ、続いて白いブラウスのボタンを外し始める。上から順に全てのボタンが解放されると、ブラウスの袖を腕から抜き、全く日焼けのしていない白い素肌を曝け出したまま、今度は空いた手が周囲を探っている。指先に触れたのは先程のストッキングで、脚の部分を腕に通していく。レモン色のブラに素肌、黒いストッキングという、奇抜なファッションが出来上がった。
「こりゃあ、よっぽどすごい変身ですな」
 泰朋が振り返ると、そこには辺見が立っていて、驚いているとも、吹き出すのをこらえているとも取れる、なんとも言えない表情をしていた。
「おやっさん」
 ストッキングの先に行き場を奪われ、猫のように丸くなった手で紙戯が髪を掻き上げている。
「こんな時は見なかったことにするのが一番です。さぁ、行きましょう」


 乾いた高い音は手の平と頬とがぶつかって発せられた。肉厚な手の平は淋梅寺の和尚の妻の、頬は美那斗のものだ。女の指に二つ嵌められた指輪が美那斗の頬に赤い筋を残し、血が滲んでいる。
 激しい痛みに皮膚がヒリヒリと熱を帯びるが、手を当てたりせず、睨むように見降ろした。身長百七十センチある美那斗よりも二十センチは低い女は、だが逆にウエストは二十センチ以上上回りそうだ。腕を組み見上げる顔は怒りに震えるというよりは、どこかほくそ笑んでいるように、歪んでいた。
「こんな貧弱な躰でよく誘惑できたわね。ま、あの人も一時の迷い、据え膳を頂いただけなのでしょうけど。とっとと帰ってあの人に伝えなさい。性悪女に飽きたって、もう戻る場所はないわ。うちにはもう若い和尚様がいるの。年寄りの陽物はもう用無しだってね」
「よ?」
 美那斗には聴いたことのない言葉で、意味を測りかねたが、それでも剥き出しの敵意はあからさまに伝わってくる。謂れのない責め句を叩きつけられ、気分が悪くなってくる。思考が痺れ、言葉よりも別の手段でやり取りしたくなる衝動に駆られるが、それではビンタを繰出したこの女性と同類になってしまう。それだけは美那斗の品格や理性がどうしても許さなかった。
「仰ることが全く理解できないのですが」
 女の口元が歪む。歯ぎしりが聞こえそうな形相で腕組みを解くと、再度手を上げ、赤い傷を目印に平手を振るう。
 だが、今度は高い音は響かなかった。美那斗が上体を反らせて躱したのだ。
 勢い余ってたたらを踏む足袋の爪先が小石を蹴散らかす。
「痛っ、何するのよ、痛いじゃない、糞女」
 口汚い罵りを並べ立てながら、脚を引き摺ってそのまま寺務所の方へ歩いてゆく。前屈みに背を丸めると、余計躰が丸い塊に見える女を、美那斗は途方に暮れて見送った。
 深く重い蟠りが残り、胃の辺りを押し続けている。
「理芳和尚は突然行方知れずになられました。私は玄心と申しまして、住職不在で成り行かなくなった当寺の法事等執り行うようにと、本寺より申し付けられて参った者で、本来であればまだ袈裟掛けも許されぬような若輩です。聡子さんは突然のことでお心を病んでいらっしゃるようでして。お怪我なさいましたか」
 言葉遣いは丁寧だが、代わりに謝罪するわけでもなく、終始言い訳しているようにしか感じられない若い僧は、腹の中では美那斗を早々に厄介払いしたくてたまらぬのだろう。それを証明するように
「玄心和尚様、来て。ほら早くぅ」
 先程とは打って変わった艶を含んだ声音が奥の方から聴こえて来ると、レジ袋をガサガサ鳴らしながら、礼の一つもせずに小走りに遠ざかってゆく。
「理芳様が行方知れずに」
 気を逸らすようにあえて口に出してみる。
 梅の樹の間で陽の光を頭上に浴びるが、暖かさは然程感じられない。秋の冷たさのせいではないのだろうか。心が弱いせいなのだろうか。悩みを告白し、救済を求めてやってきた場所は、もうかつてのあの場所とは違ってしまった。
 帰ろうと向きを変えて歩き出すと、背後に嫌な嬌声がする。女という生物が嫌いになってしまいそうな、媚や淫猥が混じった性欲に満ちた喘ぎ声で、聴くに耐えぬものであった。
 バサバサと雄鶏の羽音が立つ。
 美那斗は走り出した。


 午後二時を過ぎた頃、美那斗は月崎邸に戻って来た。季節を少し後戻りしたような秋晴れの陽気で、陽が高く昇るにつれ、外にいるだけでほんのり汗ばんで来るくらいだったが、乾いた空気で快い穏やかな天気であった。だが、それとは逆に、美那斗は重く沈んだ様相であった。
 全身多量の汗にずぶ濡れで、顔面は蒼白、足取りは鈍く冴えない。
 泰朋は異常な程に疲れた様子の美那斗に気が付かなかった。彼は館の入口前に植えられた美しい樹勢を見せる一本の姫沙羅の根本に座していた。いつものお気に入りは庭園の奥にある高樹齢の菩提樹なのだが、今日は美那斗の帰還がすぐに解るようにと、この場所を選んだのだ。
 だが、眼を閉じて深く瞑想すると、すぐ近くまで美那斗が来ても気付かなかった。
 荒い息を続ける美那斗は、泰朋の近くで両手を腰に当てて休みながら、大きな男を睨むように見つめた。
(何よ、坐禅しているじゃない。最初から教えてくれていたら、淋梅時に行く必要も、あんな嫌な想いすることもなかったのに。ひどい人)
 怒りがこみ上げてくるようだった。
 ラスツイーターと闘うために、コアの力を発現させるために、毎日のトレーニングを自らに課し、苦しみに耐えている。それでも未だ変身を果たせないのは心の鍛錬が足りないからだと気付き、修業に座禅を組み込もうと訪問した寺で暗鬱な出来事に打ちのめされて帰ってきた。今にも泣き出したいし、何もかも投げ出したくなる。それでも人々を救わなくてはという責任感と重責に押し潰されそうになる。また、その救おうとしている人類に辛い目に会わされたことも、美那斗の悲しみに輪をかけた。
 頼りにし始めた男は、座禅を組んで瞑想している。心を鍛えるにはと問い掛けた時、何故座禅のことを教えてくれなかったのだろう。
 まるで自分が道化のようだと思った。
 泰朋は枝葉が生む影の揺れる下で結跏趺坐している。両の足の裏が天を向くように組む姿勢で、右足を先に腿の上に載せ、その上に左足を載せる。これは降魔坐といい、己の中に生まれる煩悩魔や、外界から襲来する悪魔を降伏する坐法であった。ラスツイーターと闘うにあたり、どう対処すればよいのか泰朋は考えており、その力を、強さを、更に求めていたのだろう。
 それ故の座禅だったが、美那斗には理解することが出来ない。
 正面まで歩み寄る。上から見下ろすという程の位置にならないのは、泰朋が巨体だからだ。手を伸ばせば触れられる位置にあると思うと、美那斗の右手に力が入った。肩を引き、手が僅かに持ち上がる。先程、淋梅寺でされた行為と同じ事をしようとしている自分に気付き、愕然とした。
「私ーーーー」
「お、おかえり」
 不意に泰朋が眼と口を開いた。
 岩と岩を繋いで造型したような筋肉で鎧った体に、姫沙羅の葉と葉の間から揺れながら太陽光が降り注いでくる。まるで彼の躯体がキラキラと煌めいているかのようだ。それは金色に輝くホーンの姿と重なって視えた。眩くて、眩しくて、輝き煌めいている。
「随分走り込んできたんだな」
 泰朋はいつもと変わらない口調、声音で言う。
「ここで待ってて、すぐ戻ります」
 喉の奥に半ば張り付いた声は弱く、はっきり泰朋に聴こえたか解らないまま、美那斗は向きを変えると足早に館の中に姿を消していった。
 様子がいつもと違うことに気付いて泰朋は慌てた。精神統一をし、瞑想し、心を穏やかにしていたはずなのに、事が美那斗のことになると、途端に乱されてしまうのは何故だろう。泰朋は立ち上がりながら、自分の心の内に沸き起こるざわめきが不思議で仕方なかった。
 自然と足が館の方へ動いてゆくと、かすかに呻く様な声が聴こえて来て、泰朋の足を停止させた。どうしたのか不安で仕方なかったが、詮索するのは憚られるような女性にとってデリケートな問題に思え、腫れ物に触れるように、今度は足を後退させた。
 美那斗が発したのは、嘔吐の音であった。
 自分は何て嫌な女で、何て心が醜いのだろうと思う。そうでありながらも内から沸々と沸き立つ怒りや憎しみ、憤りといった負の感情が抑えられないばかりか、そちら側へ身を投じることが甘美に想えてならない。そんな自分が無様で情けない。
 幾つもの感情の糸が複雑に絡まり、瘤を作り、大きくなって毛糸玉のようになって喉の奥に引っかかって息が出来なくなる。暗い激情が堪え切れずに嘔吐になった。
 苦しい息に喘ぎながら、洗面台の鏡に映る自分の顔を視ると、再び嘔吐感に襲われる。胃液以外何も出てこない。それでも嘔吐感は治まらず、繰り返しえづく。だらしなく唇を開き、汚し、醜悪な女が鏡の中に居る。
 白い綿のタオルで口元を拭うと、美那斗はよたよたと洗面所を出ていった。
 やや経って館外へ現れた美那斗は両手に革製のオープンフィンガーグローブを嵌め、大股に進める足には編み込みのブーツを履いていた。どちらも黒いのに対して、身につけているのは白いウェアだ。いつ解いたのか、いつもは項の辺りで結わえている黒くて長いポニーテールが背中に流れるままになっている。夏には多少陽に焼けた肌も、彼女本来の肌理の細かい白に秋の空気が戻してしまったようだ。
 健康的とも言えるスタイルとは逆に、顔面は蒼白でありながらも底知れぬ闇に取り込まれたようで泰朋の心配を煽ったが、美那斗の雰囲気は有無を言わせず、館前の広場で二人はスパーリングを開始した。
 両手に嵌めたミット目掛けて、美那斗のパンチが立て続けに繰り出される。ミットを打つリズミカルな音は空気を震わせるが、どこか暗い響きを含んで聴こえた。
 短く鋭く呼気を吐き出す音、足が地面を蹴って踏みつける音がする。
 泰朋のミットが一通り美那斗の拳を受け止めると、時々水平に薙ぐ動きが加えれていく。その高さに応じて、美那斗は身を低くして躱したり、上体を反らせて躱し、すかさず次の攻めに転じる。
 おびただしい量の汗が吹き出る。全身に疲労感が襲い来る。動きの一つ一つに汗が飛び散り、頬や額に髪が貼り付く。それでも美那斗は休むことなく、一心不乱に泰朋のミットを叩く。まるで、そうしなければいけないと強要されているかのように。
 標的が移動を始めた。
 腰を捻って右側で拳を振り、左へ転じては拳を叩きつける。
 じりじりと後退してゆくミットを追いつつ叩く。
 退っていたはずが、不意に攻勢に出てくるのでステップバックして躱し、すぐさま前方へ踏み出して拳を殴りつける。
 躰が熱い。熱くて堪らない。
 それでも目の前の敵を倒すまで休むことは出来ない。
 敵が後方へ跳ねた。自分も追いすがりつつ、パンチを繰り出す。
 だが、その拳は空を切った。
 勢い余って転びそうになったが、踏みとどまり、敵を探す。
 いた。
「うあーーーー」
 思い切り強打する。
 もうミットを打っている意識はなかった。
 ただ敵を、怪人を倒さなくてはならない。
 と、いきなりその敵が姿を消した。目の前にいない。
 どこ?
 どこだ!?
 コツン。
 左のこめかみを泰朋のミットが軽く小突いた。
 自分の横、それもすぐ近くに彼が接近していたことに、全く気付けなかった。
 動きが見えていなかった。
「ズルいわ。髪が邪魔で見えなかったのよ。死角に入るなんて。こんなのズルよ」
「打ち込みに夢中になりすぎると、相手の動きが解らなくなるぞ。眼に頼るだけじゃなく、動きを感じるようにしないと」
 小突かれたこめかみがジンジンと熱い。
 そのすぐ下の頬には引っ掻かれた傷痕があって、痛みと熱がぶり返してくる。
 よりによって、何故左側の顔をこの男ははたくのだろう。
 再び負の感情が内から沸騰してくる。
 美那斗の両手が下がるが、掌は固く握られたままだ。
「どうした。今日は何だか変だぞ。休憩にしようか」
「そこで待ってなさい」
 言い残すと、美那斗は館の方へ走り出した。


「はぁ、はぁ、はぁ」
 激しい息遣いが充満する。まるで闇に取り込まれしまいそうで、眼を固く閉じたくなるのを非常な忍耐力で抗い、鏡の中の誰かの顔を凝視する。
 悪鬼、いや、そのような者ではない。
 もっとドロドロして、実体が有るようで無いような、暗黒の意志の塊か、醜い妖魔かなにか。正体は解らないが、名は判る。月崎美那斗だ。
 生まれてから何千回、何万回と見てきた自分の顔とは想えなかった。
 魔に立ち向い、魔を祓うように睨む。
 美那斗は両手で髪を束ね、片手で掴んだ。
 鏡の中の自分から目を離さずに顔を横に向ける。
 右手は鏡台の上に置かれた鋏を取り上げる。そして、ずっと伸ばしていた長い真っ直ぐな黒髪に、項の辺りで刃を入れた。
 何かを断ち切るように。
 何かを振り払うように。
 切り終わり、鋏を鏡台に戻し、隣に切り落とした髪の束を乗せる。
 目を閉じる。
 これで元の自分に戻れただろうか。
 だが、美那斗は鏡の中の顔を視ることは出来なかった。以来、ずっと。




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