仮面の戦士 ホーン

忍 嶺胤

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一章 ソーラーホーン

9.月が一番近づいた夜

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 十一月に入り、立冬を過ぎた。季節が暦に追いつこうとするように、茜色や橙色に色付いた葉達が街路樹の根方を覆ってゆく。
 地上を睥睨する太陽は未だ空気を充分に暖めていたが、次第に侵食する長い夜の勢力にその版図を奪われつつあった。夜の世界が広がってゆく。


 弁天格闘ジムではコンクリートの打ちっぱなしに囲まれたトレーニングルームに、トレーナー兼オーナーの弁天光司が自分とほぼ同じ背丈の大柄な女と談笑しながら入ってきた。淡いピンク色のジャージを着た女で、話の折々に気安く弁天の肩や腕を叩くように触れるのは、筋肉の硬さ、逞しさを確かめたいという意図が現れている。口には出さないが、弁天の方も悪い気がしないのか、いつも以上に口は滑らかで、声のトーンも高目だった。
 弁天の上機嫌の理由は、この女性が女子ボクシングのリーグ戦で優勝を果たしたことにある。スポーツジムから輝かしい実績を上げた選手が排出されれば、ジムの集客にもなるし、トレーナーの株も上がるというものだ。
 この女、名を矢留千秋という。
 男子とは違い、女子のボクシング界では若さは大きなアドバンテージとは言えない。むしろ経験を積んだ方が強い傾向にある。そんな中で二十三歳という若さでチャンピオンまで上り詰めた千秋には素質があったのだろう。大きな体格は生まれ持った恵みであったろう。
 フロアのほぼ中央に設置されたリングの向こう側では、美那斗がトレーニングをしていた。傾斜のあるベンチに逆さになり、足首をバーに引っ掛けて腹筋運動を繰り返している。両手を後頭部に当て、筋肉を酷使して上体を重力に逆らって折り曲げ、額が腿に届く所でそのままの姿勢を数秒間保持して元に戻る。
 二人は話しながら進む内、そんな美那斗の姿を見つけた。正確には、千秋がまず見つけ、脚が停止したことで、弁天がその視線の先を追って美那斗に気付いたのだ。
 あえてにこやかさを作っていた千秋の表情が一変する。美那斗に向けられた眼が何やら尋常ではなくなっていた。
 その理由は解らないが、場を和ませようと、弁天は取り敢えず声を張ってみた。
「おい月崎、へそ見えてるぞ」
 少しわざとらしく笑ってみる弁天。
 美那斗の動きがぴたりと固まる。
 それからゆっくりと上体を起こすと、バーを手で掴んで足を抜き取ると、ベンチから降り立った。黒のタンクトップの裾が捲れ上がっていたのを正すと、弁天に冷たい一瞥をくれてやる。厭らしい。眼だけで雄弁にそう語っているように思え、弁天はたじろぐのだった。
「あの女」
 千秋の呟く声が弁天の耳に入った時にはすでに、千秋はつかつかと歩き出し、美那斗の眼前に迫った。月崎という名を千秋は知っていた。
「おいお前、私のスパーリングの相手しな」
 顔と声にあからさまな怒気を含ませ、高い位置から見下ろす相手に、美那斗としては心当たりが全く無い。近寄れば強烈な香水の匂いが濃厚すぎて鼻を手で覆いたくなる。咳き込みそうになるのを堪えながら、美那斗はその背の高い女を見つめて応える。
「よろしいですが、私、手加減は出来ませんよ」
 その言い草が可笑しかったのか、あるいは上手い冗談のように聴こえたのか、千秋は短く笑った。鼻で笑うような、嘲笑うような、小馬鹿にするような、その笑いは美那斗を苛つかせたが、苛立ちを覚えているのは千秋も同じであるらしい。
「生っ白い腹をみせたりして、嫌らしい。男に色目を使うことしか考えられないのか」
 トレーニング中に肌をチラッと露出するような行為は、男に媚を売ろうとしているに違いない、千秋は合点がいったというように、幾度と無く頷いている。千秋は洗川泰朋がショッピングモールで怪人と闘った際のテレビ放送を想い出していた。画面の中に一緒に映っている女がいた。嫉妬に赤く燃える眼で睨んだ女の顔を忘れることなどあろうはずもなく、今その女が目の前にいる。おそらく自分以外の女は誰であっても怒りを抱かせ、泰朋が伴にいた理由は女が誘惑したからだと結論付けるのであろう。
 そんな千秋にしてみれば、相手が女性らしい容姿をしていればしている程、心は穏やかではいられない。更に輪をかけるのが、そんな女が格闘ジムにいて、躰を鍛えようなどと、あまりに格闘を舐めきっている点だ。所詮は世間知らずな女の気まぐれ、ダイェット代わりのごっこ遊びだろう。
 本気でボクシングに打ち込み、人生を賭けてきた身にしてみれば、遊び半分の女など虫酸が走る。
 ジャージを脱ぐ千秋。
 対戦用のグローブを嵌める美那斗。
「何だ何だ、訳有りか? やめとけってチャンピオン」
 弁天の制止の言葉のチャンピオンという一言は千秋の虚栄心をくすぐった。と同時に、美那斗の闘争心を掻き立てた。
(この人、チャンピオンなんだ)
 強い相手を得るのは願ってもない僥倖だ。
 ジャージの下に着ていたピンクのTシャツを脱ぐと、千秋はスポーツブラとトランクスの姿になった。腹部が露わになっているが、ものすごい腹筋だ。いわゆる6つに割れているというだけでなく、ゴツゴツとした瘤の様に盛り上がっている。腕や肩、太腿にしても同様で、胸の膨らみを除けば、女性らしさは見受けられず、むしろそこいらの男性以上に逞しい肉体であった。
 いくら鍛え上げているとはいえ、どうしても美那斗の肢体は千秋に比べると細く見えてしまう。だが、恐怖心はなかった。怪物の様に見える相手だろうと、それでも人間に変わりはない。
 ラスツイーターと対峙する事と比較すれば、何ら臆する所はないだろう。
 最近、立て続けに受けている謂れのない怒りや暴言に憂さが溜まり、美那斗の精神は暴力的になっており、冷静になれと頭の中で己を諌めるが、リングのロープを潜り、上がる頃には、早くも臨戦態勢は出来上がっていた。
 フロアを蹴って、タンタンと跳ねては、膝を曲げ伸ばし、脚をほぐしていく。
 続いて千秋がリングに上がると、首をボキボキと鳴らしながら、中央に進む。
「解っているだろうけど、女の私に色仕掛けは通用しないからね」
 精神統一、心を穏やかに、意識を集中させようとしていると、相手の言葉に気持ちをかき乱され、逆に怒りが積もってゆく。こんなことでは心が強いとは到底云えない。美那斗の苦悩に解決の糸口はまだ見えてこない。
「オーナー、ゴング鳴らして」
 悩み続ける美那斗への言葉とは全く違う甘い声で、千秋が弁天に乞う様に言うのを聴き、美那斗は思わず毒づいた。
「どっちが色仕掛けよ」
 その呟きに、カーンという鐘の音が重なる。
 軽いステップを踏みながら、美那斗が両腕を上げてファイティングポーズを取る。手は固く握らない。弛く丸める程度だ。その手と手の間から覗く相手はボクシング用のグローブを両手に嵌めて、叩き合わせると、足と足をどっしりと据えるように立っている。
「秒殺する前に一つ訊いとくわ。お前はキャノンーーーー」
 聞き正したくてウズウズしていた泰朋との関係についてだったが、その先の言葉は美那斗の先制攻撃に阻まれた。
 脚を前後に開いて膝を折り、上体をかなり沈めながら、左の拳をストレートに打ち込んだ。攻めは狙い違わず、千秋の鳩尾にめり込んだ。
「うっ」
 千秋の口から呻きが漏れる頃には、美那斗はステップバックして離れると共に、サイドへ移動していく。
 拳が脳に伝達する感触は、強固な岩を殴ったようだと囁いているが、美那斗はそれへは耳をかさず、続けて腹部を、今度は脇から叩く。
 最初の一撃で息が詰まったままの千秋だが、ただ驚いてばかりではないのは流石と言えるかもしれない。続く二打目を咄嗟に下ろした肘でガードすると、逆の拳で反撃に転じようとする。
 が、そこに相手の姿はない。
 気配を探って察した時には、今防いだはずの脇腹を強打され、再び呻き声を溢れさせた。
 どれだけ筋肉を発達させようと、殴られれば痛いし、ダメージを受ける。インパクトの瞬間、殴打点に力を集中すれば、ダメージを軽減することが出来るが、美那斗の繰り出すパンチが千秋には見えない。
 更に加えて、華奢な見た目からは想像できない位に攻撃力が高く、重く強い打撃に驚かされた。
 尚も連続して攻めを受ける。闘いの勘で瞬間的に動き防いだ攻撃もあったが、半分以上がクリンヒットで、千秋自慢の腹筋を次々と傷めつけていく。顔が苦悶に歪む。
 速いだけではない。美那斗の動きは予測が困難だ。
 ボクシング選手特有の動きに慣れた千秋にとって、美那斗の動きはまるで別のスポーツ選手、いや別の生き物の動きのように感じられた。右へ移動するかと思えば左へ動き、反転すると思わせてそこに留まり、留まったと思った時には反対側にすでに居る。
 焦燥感を抱きながら、受けた打撃は十打を越えたろうか。それでも倒れないのは、やはり鍛錬された躯体故だろう。
 ここはひとまず防御だ。あれだけ激しく動き回って攻め続ければ、すぐにも疲れ、動きが鈍るはずだ。攻めに転ずるのはそれからだ。そう考え、千秋は両腕を立て、上体を丸める様に腹部をガードする構えを取った。
 と見るや、美那斗は千秋の正面に廻り込む。右拳で相手の右腕を、左拳で左腕を払うように打ち据えると、観音開きの三面鏡を開くように千秋の両腕のガードがこじ開けられ、美那斗の正拳突きがへその辺りを強打した。
「くっ」
 ガードが意味を喪失させられる程に威力と速度のあるパンチに愕然とし、苦しみに喘ぎながらも千秋は美那斗の拳を両肘で挟んで動きを封じようとした。だが、千秋はボディブローの衝撃で膝が折れ、両足の踏ん張りを欠いていることに気付けず、逆に美那斗はそうと捉えると瞬間的に足裏で千秋の足首を払った。
 巨体が転倒する。
 あっと思った時には、ジムの天井の蛍光灯の明かりが目に入り、その次の瞬間には人影に遮蔽された。飛び上がった美那斗が上空から襲ってくる。拳を引き絞ると、顔面めがけて打ち下ろす。
 一瞬のことで、動かせた体の部位は瞼だけだった。
 思わず眼を瞑る。だが、痛みはやって来なかった。
 眼を開けた時、美那斗は千秋から距離を取った所でステップを踏んでいる。
「顔はやめておいてあげます。男に色目を使えなくなっては困るでしょう」
 皮肉たっぷりの美那斗の言葉に、少しの乱れもない。息が上がっていないのだ。
 開始のゴングが鳴ってから、時は秒から分へと単位を未だ変えていない。
 怒りだろうか、それとも憤りや恥辱だろうか、まるで何が起きて、何の感情が湧いているのか理解することが出来ないように、千秋が美那斗をマットに横たわったままで凝視していると、
「テン・カウントだ、矢留」
 と、弁天の声が掛かる。
「えっ!?」
「私の勝ち、ですね」
 美那斗の声が耳に入り、言語となって意味を理解するまで数秒を要した後、ウェアの色に頬が紅潮してゆき、更に赤黒く染まってゆく。
「んなワケあるか。私が負けるわけないだろ」
 のっそりと立ち上がると、リングを降りようと背を向けた美那斗に突進する。勢いのまま両手を突き出し、美那斗の背を強く押した。
 突き飛ばされた美那斗はリングロープの最上部に胸部を強打した。息が詰まり、ロープの反動で尻餅をつく。
「お前なんかに、私が負けるわけないんだ。立て、立てぇ」
 両足をどんどんと踏み鳴らし、ありったけの大声で叫ぶ千秋を、ロープに掴まって美那斗が睨む。
 格闘技とはいえスポーツである以上、ルールに則って試合を行う。ルールに従って優劣の判定がなされ、勝敗が決する。だが、怪人との闘いにルールはない。どの様な攻撃も制限はないし、勝敗の裁定は生死に他ならない。
 そんな闘いに臨もうという美那斗にとって、ルールを無視した闘いこそ、望むべきものと言えよう。胸の痛みにぜいぜいと喘ぎながら、心の何処かで卑劣な相手を歓迎してもいた。
 美那斗が立ち上がる。
「おい、止めるんだ」
 弁天の声が響き、リング内に入ろうとする。それを美那斗は左手を、千秋は右手を、二人共突き出して制止の姿勢を示す。美那斗はまだ声が出せないが、千秋が代弁して言う。
「邪魔するなっ」
 こんな嫌な女と同意見になるのが可笑しくて、頬が緩み、唇が開くと、げほげほと咳込んだ。
 弁天にしてみれば、美那斗に止められるのはかなり心外だったらしい。
「とんだヒールチャンピオンだ」
 二人の女を交互に見ながら毒づき、どうしたらいいのか迷っている眼前で、早くも試合は再開されようとしていた。
 右の拳を振り上げて顔面に引き付けながら飛び出す千秋は、相手に渾身の右ストレートを叩き込もうと考えていた。対する美那斗はまだ戦闘態勢にすら入れないのか、左手でロープを掴み、右手で胸を押さえながら、半身に構えている。
(今がチャンスだ)
 卑劣にも千秋はそう捉えていたが、いきなり美那斗の体がロープ側へ沈んだ。ロープの反動を利用し、勢いを増幅させた右足の蹴りが千秋の腹に食い込む。百八十四センチの巨体が吹っ飛んだ。対面のロープの近くまで約四メートルもの宙を飛翔した千秋は、尻を強打し、息をつまらせながらも、今度は素早く立ち上がろうとした。膝を立て、手をマットに着く。
 その様を上から美那斗が見下ろしていた。
「私は強くならなければならないのです。さぁ、立ちなさい」
 両の拳を握りしめて構える美那斗に全く隙が伺えない。双眸は憤懣に満ち溢れていた。一つの憤懣は牙を剥き出す千秋に向けられ、もう一つは世界が危機に瀕する中、いつまでたっても変身を果たせない己に向って激しく燃え盛っていた。
 その瞳に射られて、千秋はこのまま座していたくなるような、女子ボクシング覇者らしからぬ弱気を感じていた。それでも靴底をフロアに押し当て、膝に力を入れていくのは、屈辱感を払拭せんがためであったろうか。それとも、燃え盛る炎の中へ身を投じる自暴自棄からだろうか。
「うあーーーー」
 千秋が立つと、大きな叫び声を上げたのは美那斗の方だった。内なる何者かを奮い立たせる声がジムの壁を震わせ、美那斗のパンチが千秋を襲う。相手を人間とは思わず、サンドバッグを打ち付ける様な、めくらめっぽうな連打だ。腕だろうが肩だろうが構わない。ダメージを考慮することもしない。繰り出す拳が当たれば幸いとばかりに抽送をただ繰り返す。
 だが、そのスピードは並大抵ではなく、千秋は受け止めるしか出来ない。しかし、スピードを意識するあまりだろうか、屈強な筋力を有する千秋には充分耐えうるレベルの攻撃で、少しずつ千秋は反撃の間を伺い出す。
 一瞬の隙を見逃すまいと注意を向けるあまり、千秋は気付けなかった。
 美那斗の乱打が、乱打に見えていたものが、次第に上方へと集中していることに。頭部から肩の辺りに打ち込みが増えていく。自然、千秋の腕が上へ上がっていく。
 一瞬の隙を狙っていたのは、美那斗も同じであった。
 両肘の下に腹部が現れると、美那斗の膝が強襲する。
 声にならない空気の漏れる音が千秋の口からこぼれ落ち、体がくの字に折れ曲がる。両腕は顔前にガードの形で残ったままだ。そのグローブ目掛けて、今度はハイキックが襲う。
 派手な音を立てて、千秋がマットに倒される。
「立ちなさい」
 手を伸ばせば足首を掴めそうな距離に立つのは、卑劣な反撃を誘引しようとの意図だが、見下ろす千秋に反応はなく、胎児のように丸く横たわっている。美那斗の脹脛よりも太そうな千秋の二の腕を足で小突くと、体は仰向けに返されるが、千秋の反応はない。
「何よ」
 美那斗は不満だった。
 限界を突破して限界を引き上げる。これを繰り返してゆくことで、どんどん限界を高め、強くなれるというのに、未だ自分の全力を出していない。これではトレーニングにならないではないか。
 口には出さずに、毒づく様な視線を投げると、美那斗はリングを降りた。
 すれ違うように弁天がリングに上がる。千秋の様子を診るためだが、大方の察しはついていた。軽い脳震盪を起こしたのだろう。美那斗の放った蹴りはグローブを直撃したので、衝撃は然程のことはない。転倒の際に頭を打ったと予想できる。蹴りがまともに頭に入っていたら、事は深刻になっていたかもしれない。
 ぞっとしながら弁天が振り返り、美那斗を見やる。その美那斗は、今の戦闘を反芻するように、弛く小さな動きで腕を振っている。
「月崎、髪切ったか?」
「オーナー、それ先日も言ってましたよ」
「そ、そうだったか」
「はい」
 タオルで汗を拭い、ペットボトルの水を飲み干すと、美那斗は弁天格闘ジムを後にした。


 ジムを出た後、ジョギングで街を疾走し月崎邸に帰ると、ゲートの前に見知らぬ男が立って、中の様子を伺っている所に出くわした。泰朋に負けず劣らずの大男で、だが泰朋よりもずっと粗野な、今時の若者といった感じがした。
 着ている服はパーカーにしろ、スウェットのパンツにしろ、どれもかなりダブダブで、あちこちにチェーンが垂れている。黒地に金の刺繍のキャップを被っているが、隠し切れない頭部は肌が見えている。スキンヘッドだ。男は西谷総であったが、美那斗は彼のことを知らない。
「どちら様でございましょう。家に何か御用がお有りですか?」
 丁寧で、しかも上品な気配の漂う声にどきりとさせられながら、西谷が振り返る。身なりこそスポーティなランニング女子と言えなくもないし、髪も乱れてはいるが、物腰が上流階級の令嬢を想像させ、西谷を戸惑わせた。
「ここはあんたの家なのか。スゲェ、デケェな」
「大きいというか、ただガランとした家です」
 住む場所も、言葉遣いもまるで違う女性相手に、なんだか萎縮してしまいそうになる西谷は、普段は覚えない感情が湧き上がってくるのを不快に思うタイプの男で、訳の解らないことは大抵怒りへと矛先を転じようとすることが多いが、何故だか美那斗には負の感情があまり膨らんでこなかった。
 気品に溢れた外見とは全く別種の暗い澱というか、穢のようなものを瞳の奥の方に垣間見たからかもしれない。ふと心当たるものがあった。この双眸は闘争者の光を宿している。深窓の令嬢のような立ち居振る舞いをしてはいるが、闘うことに意識を注ぎ、実際にはその中に身を投じていると嗅ぎ取った。
 相反する二面が、一つの肉体の中にある不思議で複雑な何者かに、西谷は興味を覚えた。
「ここに洗川という男がいると聴いたんだが」
「ああ、洗川さんのお友達ですか」
 同じ様に大きな躯体、鍛え上げた肉体から、同業の仲間だろうと合点した美那斗は、ゲート左側にある通行口のドアにカードキーを刺し込むと、西谷を敷地内に招き入れた。
 車が二台楽にすれ違える程の車道の脇の歩道を美那斗の後ろに続きながら、西谷が「それにしても」と口を開く。あまり急がず歩みを進めながら、高い鼻梁がかすかに見えるくらいに振り返る美那斗に、
「知らない男をこんなに安々と入れるなんて、余程世間知らずなお嬢様のようだな」
「あら、泰朋さんのお知り合いなのでしょう? なら大丈夫ですわ」
「何でだよ。奴と知り合いだろうが、俺があんたに何かするかもしれないじゃないか」
「そうですね。確かにあなたがどんな方かは存じません。けれど、泰朋さんはとても強い方です。私なんかが敵うはずもない位、とてもとても強い方。それはきっと、あなたもご存知なのでしょう。だから大丈夫なのです」
 美那斗の強い、強くないの基準は、今ではどうやらコアを使えるか使えないかにあるようだ。いくら女子プロボクシングのチャンピオンとの格闘技戦で勝利しようとも、コアの力を発現できないのでは、何の意味もない。
 西谷にしてみれば面白く無い話だった。何かあれば泰朋が助けてくれる。泰朋は強いから負けることはない。そう言われているようなものだ。
「やってみなくちゃ解らねえぜ。俺だって、そう何度もやられはしねぇ」
「そういえば、お名前を伺ってませんでしたね」
 強者に立ち向かおうとする闘志に親近感を覚えたように美那斗が尋ねる。
「俺か? 俺は、そうだ」
「ソウさん? 韓国の方ですか?」
「いや、そうじゃなくて、西谷ーーーー」
 緩やかなカーブを曲がってゆくと、月崎の館の玄関が現れてくる。双塔が晩秋の晴れた空へ突き出し睥睨するように、アーチを描いて張り出された屋根に作られた影は、陽光を遮って寒々しく見える。館の反対側には、樹木が点在する広大な庭を背景とした、これまた寒々しさを感じさせる開けた空間がある。踏み固められた広場の一端に、泰朋は立っていた。ただ、棒立ちになっているのではなく、ゆったりと、だが途絶えることなく動き続けていた。太極拳であった。
「あなたには、本当によく驚かされますわ」
 流れる川のように、優雅に力強く動き、変化し続ける泰朋の体に近づきながら、美那斗が声を掛ける。
「色々なことを知っているのですね」
「おかえり」
 美那斗の声を耳にした泰朋は、言いながら両眼を開いた。驚いたことに、眼を閉じて太極拳をしていたのだ。眼を閉じ、体の動き一つ一つを検索するように、自分と語り合うように行うやり方は、彼が好んでやる方法で、体調の不具合箇所を探すのに役立っている。
 眼は閉じていても周囲の物音は耳に届いていたので、美那斗が帰ってきたことも、誰かと共に居ることも判っていたが、彼女の後方に立つ男の正体には、正直かなり驚いた。
「よう、キャノン」
「セブン・ソード」
 互いに名を呼び合った瞬間、周囲の空気が電荷を帯びたようにピリピリとしてくる。
 二人は睨み合った。まるで視線で格闘しているようだった。沈黙を破り先に口を開いたのは泰朋であったが、熱くなっていく空気を無視する内容で、美那斗に向けられたものだった。
「太極拳の動きは体の細部、骨や筋や筋肉の一つ一つに淀みがないか確認するのに使っているんだ。流れが滞る部分には不調があるから、ケアが必要になるんだが、どうやら俺の体は絶好調らしい」
 格闘家にとっては、闘っているのは相手と己の怪我であることが常である。絶えず何処かに傷を負っているし、疲労困憊しているものなのだが、泰朋の体はこの所何時も不調を感じない。
 以前、紙戯と話した際、その疑問点を告げたが、返ってきた応えは潜在意識が活性化することによって、自己治癒力が飛躍的に向上しているからだろうとのことであり、それを可能にしているのはコアの力を起源としたチャクラの力であった。つまり、変身することによって超常力を得ると同時に、エネルギーは常に充填され、回復しているのだ。
「中国にも行ったことがあるのですか?」
「いや、これは我流だよ。見よう見真似さ」
 西谷から眼を逸して美那斗を見た泰朋の表情が少し曇る。彼女の頬はこけ、目の下には薄っすらと隈が見える。今日もまた過酷なトレーニングをして来たのだろうし、夜もあまり眠れていないのかもしれない。疲弊した様子は視るに忍びなく、泰朋の傷一つ無い肉体の中でも、心だけは痛んだ。
 自分のことを蚊帳の外に話し始める二人に西谷は苛立ちをあからさまに示した。踵で地面を削るように美那斗の前に進み出ると、少し大きめに声を張る。
「おい、キャノン。俺と闘え」
 弁天ジムで何時間か前に似たセリフを聴いたと思い出しながら、美那斗はようやくキャノンというのが泰朋のリングネームだと気付いた。ならセブン・ソードというのはこの男の名前で、二人は仲間というよりはライバル関係にあるのだろうか。そういえば泰朋の格闘選手としての面を何も知らないのだと、美那斗は改めて気付かされた。
「戦う理由が無いだろ。断る」
「今シーズンのWMMA、エントリーしてねぇって言うじゃねえか。なんでだ」
 ワールド・ミックスド・マーシャル・アーツ、世界総合格闘技のシーズンは十一月から始まって翌六月までの間、全世界の四会場で開催される。昨シーズン、その四つの大会を総なめにしたキャノン泰朋は、所属事務を通して不参戦を表明した。理由は故障として適当な箇所、幾つかの疲労骨折をでっち上げ、それらしく装った。
 世間がそれを信じたかどうかは別として、格闘の世界から泰朋は一時撤退して、現在は月崎邸に篭っている。英気を養っているなどという言い訳を聴きに来た訳ではないぞ、という鋭い眼光で泰朋を睨む西谷は、何を言っても聞く耳を持っていないと思われた。それでも泰朋は一応の説得を試みたのは、意味のない闘いをしている場合ではないことを熟知しているからだ。
「人類が危機に瀕している」
 どう言葉で表せば真実を伝えられるか考えながら、一言一言ゆっくりと口に出していくと、気持ちとは逆に陳腐な台詞に思われ、事実西谷はその言葉を唾棄するように眉をしかめた。
「人智を超越した怪物が存在している。奇妙な事件があちこちで起きている。怪我人や死者もでている」
「あんた噂になってるぞ。知らないのか、ヒーロー」
「噂?」
 泰朋の説明を遮り、西谷は話の矛先を変えた。
「人智を超越した怪物がいるってのは判ってる。奴等が何なのかは知らないが、最近そいつらを殺してる者がいるそうだ。噂だと、その男は大きな角と派手な金色のコスプレで、かなり強いらしい。コスプレとレスラーを合わせて、コスプレスラーなんて呼ぶ奴もいる」
「コスプレスラー?」
 苦虫を噛んだような表情で目を丸くする泰朋が、見た目以上に恥ずかしくて堪らないだろうと思うと、美那斗は吹き出しそうになって、慌てて顔を背けた。
「天下のキャノン泰朋ともあろう者が、何が悲しくてコスプレヒーローごっこなんてしてるんだ。そんな暇があるんなら、俺と一発ヤレよ」
 西谷の奥にいる美那斗の肩が小刻みに震えているのが判る。西谷の眼には憐れみすら色濃い。そんな二人の反応に汗が吹き出すし、コスプレとの言われように腹も立つが、それでも泰朋は己の行いに恥じる所は微塵もない。その矜持を証明するかのように、泰朋は自分がその噂の人物であることを否定しはしなかった。
「俺は忙しいんだ。怪人をこの世から全て消し去ったら、その時はお前の相手をしてやろう。それまで待ってるんだな」
「待てねぇな」
 コスプレイヤーを誂う形に歪んだ口角から、次には歯ぎしりの音が漏れ出ると、西谷の表情は険しくなり、もう一度同じ言葉を口に出す。
「待てねぇんだよ。今のあんたじゃないと意味がねぇ。グランドスラムチャンプのあんたに勝つからいいんじゃねぇか。化物と闘って疲れきったボロボロのあんたじゃダメなんだ。だから、今ヤレ」
 次第に気分が激昂してゆくのか、西谷の声が大きくなっていく。
 両耳のピアスやスキンヘッドなど、見た目からはこれまで美那斗が関わってきた人達と大分タイプが違う西谷だが、粗野で野放図な中に真摯なものを感じ取っていた。何よりも格闘に重きを置き、まじめに取り組んでいるのだろう。そうでなければ、これ程までに鍛え上げた躯体を所持できるはずがない。当たり前のことだが、見た目に惑わされていた自分に、美那斗は気付き、自省した。
 西谷の二つの瞳が暗い焔を宿して泰朋を凝視する。熱気が両者間に滞ったようで、西谷の両腕に力が漲っていく。一秒一秒、一触即発の雰囲気に包まれてゆくようだ。
 沈黙は迷い故と西谷は受け止めた。泰朋も闘いたがって、内心うずうずし始めたようだ。自然と口元がにやりと緩む。
「やろうぜ」
 そう言って右足を一歩踏み出した瞬間、両雄の間に割って入る者がいた。
 その動きは見えなかった。気配すら感じられなかった。それ程に、その者、美那斗の動きは素速かったのだ。
 両足を肩幅に開いて西谷の正面に立ち、視線を手元に落としているのは、革製のグローブを嵌めているからだ。指を動かして馴染ませ、手首の辺りで固定する。
「私から一つ提案があります」
 いきなり顔前に後ろ姿を晒した美那斗に、泰朋はドキリとした。白い項が眼に飛び込む。長い髪を切ってから後ろ姿を見たのは初めてだったかもしれないし、単に髪型のことなど気に留めていなかっただけかもしれない。それでもこうして無防備に露出された首が、なんと細いのだろう。粗雑に扱うとすぐに割れてしまう硝子細工の置物のようではないか。
 美那斗の儚さに身が震え、泰朋は声にこそ出さなかったが狼狽えていた。
「私は彼の弟子のようなものです。私が闘って差し上げます」
「はぁ!? 差し上げます、だと? 結構ですぜ、お嬢ちゃん!」
「人を見た目で判断してはいけません。ついさっき、私、女子ボクシングのチャンピオンという人に勝ちましたの。あら、そういえばあの人、なんて名前だったかしら…」
「あのなぁーーーー」
 西谷の左手がゆっくりと持ち上がる。相手の肩をポンと叩くような仕草で美那斗の上腕部に大きな手を乗せると、そこから一気に力を放出させて、腕を払った。軽い棒切れか何かのように、美那斗の四肢が真横に吹き飛ばされる。
 物凄い力に圧倒され、驚きながらも、美那斗は空中で体を捻ると、器用に爪先で地面を擦って減速し、両足で着地した。体勢は崩したが、片手で支え、転倒を免れる。
「女はすっこんでろ。そうだろ、キャノン。それとも女に庇ってもらうのが趣味なのか? 女に助けて貰うとは、情けねえ」
「俺を挑発しようとしても無駄だ。お前とは闘いたくない」
 同国の選手として共に決勝まで登った間柄に、泰朋の抱く感情は敵というよりはむしろ同胞に近い。
「それよりも、協力してくれないか。一緒に怪人を斃すんだ」
 妙案をひらめいたというように、泰朋が身を乗り出す。その顔は幾分明るく輝いた風にも見える。
「泰朋ーーーー」
 驚きの声を上げたのは、美那斗だった。泰朋の提案する共闘の意味するものは、もう一つのコアを西谷に与える、そういうことなのか。
 泰朋を見据える瞳が、信じられないと訴えている。
「まさか、コアを貸そうというのではないでしょうね」
「コアの件は別としても、戦力は少しでも多いほうがいいのだし」
「最低」
 美那との言葉は短く冷たかった。それは、思考からではなく感情から放たれた言葉だからだ。
「しかし」
 泰朋が言い淀む姿を見ながら、次第に美那斗に恥ずかしさが浮かんでくる。
 他の人の助力を得るのがいけない訳ではない。美那斗も警察庁に協力を求めたのだし、そもそも泰朋とも初めは面識の全く無い他人にすぎなかったのだ。
 だとすれば、自分は何をこんなに怒っているのだろう。怪人を斃すために協力を依頼するのが、自分なら問題なくて、同じ事を泰朋が行うのは駄目だというのだろうか。
 そんな我儘な考えをする自分に驚いた。泰朋は何でも自分の意のままに動かせる召使だという認識が心の奥底にあったのだろうか。自分はなんて傲慢なのだろう。性格の悪い女のように思えて、美那斗は恥ずかしさと自己嫌悪に唇を噛んだ。
「下らねぇ。怪人だの、人類だの、んなの俺には何の関係もねぇ。あんたはそんなことも解らなくなっちまったのか。そうかよ。挑発に乗らねえのなら」
 妙案でも思いついたのか、西谷がチラリと美那斗を覗き見る。彼女は振り飛ばされた場所にまだ留まっており、距離は四メトール強。思い悩む様子で目を伏せている。
 西谷の滲み出す不穏な意図に泰朋も、美那斗も察するより先に、西谷は動いた。大きな図体に相応しからぬ俊敏な動きで、瞬く間に美那斗との間を詰めると、右手首を掴み上げた。
「あぁ」
 美那斗が小さな声を上げた。爪先が宙に浮きそうになるのを反射的に堪えるが、ウェアの袖口から剥き出しの肩から腕は真っ直ぐ上空へと引き上げられ、さしずめ狩人に捕縛された獲物の様だった。
 小さな声を上げたのは泰朋も同じで、美那斗の姿に心が痛むのには一瞬で充分であった。心臓は鼓動を速め、発汗する。湧き立つ感情は明らかに恐怖だった。どんな凶悪な敵だろうと、己の身に振りかかる脅威に恐怖することはない泰朋だが、矛先が美那斗に向けられれば全く別次元の事態に陥る。
 逆に、美那斗は恐怖を微塵も感じてはいなかった。初めに声を立ててしまったのは動きの速さに驚いたからで、今手首を握っている力は弱く、片手は拘束を受けていないのでだから、逃げることも反撃することも出来る。何故こんな挙動を取るのだろう、西谷の意図を測りかねた美那斗の思惟はその那辺に滞在していた。だが、それは泰朋からは抵抗できずに諦観しているかに思え、露出された脇の下の色白さと相俟って不安と焦燥を煽り立てる。
「自分が傷めつけられるのは慣れっこだろう。だったらこの女へはどうだ? あんたのヤル気に火が点くか、試してみようぜ」
 胸が締め付けられるようだ。
 彼女が傷めつけられる、彼女が苦しむ、想像するだけで、岩の如き巨神の手で軀毎握りつぶされてしまうような痛みが襲う。泰朋は美那斗を解放するためになら、どんなことも厭わないかに想えた。
「止めろっ。美那斗さんを傷つけるな」
 歯軋りの隙間から漏れ出る小さな呻きは誰の耳にも届かなかったが、その表情だけで泰朋の悲痛が大きいのは明らかだった。
「くくくっ、いいぞ」
 思惑通りに事が進みそうだと気が緩んだのか、西谷の注意が美那斗から逸れた。と見るや、美那斗が動いた。
 吊り下げられた片腕はそのままに、蹴り上げた左膝が西谷の鳩尾にめり込む。
「うげっ」
 突然の強襲に西谷は苦悶し、手と顎から力が抜け、躰がくの字に屈む。
 手首の呪縛をすり抜け、高く突き上げた膝を素早く引き戻すと、今度は膝を伸ばしたまま再び蹴り上げる。狙ったのは首だった。美那斗の足の甲がブーツ越しに西谷の喉仏を潰す寸での所で、反射的に首を捻りながら肩をいからせ、直撃だけは免れたものの、それでも筋肉の盛り上がる肩を強打され、西谷の巨体が蹌踉めいた。
 一度流れだした美那斗の攻めは、そう容易くは滞らない。
 巨躯の重心が振れるのを利用して、蹌踉めく方向へ両手で突き飛ばす。次いで体勢を低くして、足掻くように振り回される西谷の腕を躱しながら、水平に薙ぐように脚を振り回す。踵を払われると、驚いたことに西谷程の大男が後方へ転倒した。
 地と肉がぶつかり合う派手な音が立つ。地響きから退避するように美那斗はステップバックして一旦距離を取った。相手が倒れようが、本来であれば追い打ちをかける絶好のチャンスであるが、美那斗は何か気にかかることがあるようだ。
「いってぇ」
 何処が痛くて呻いているのか自分でも判らないまま、西谷の開いた眼に呆気にとられた泰朋の顔が飛び込んでくる。その顔の向こうの青空には、薄ぼんやりと白い月が浮かんでいる。
 美那斗は周りをキョロキョロとしている。
「ーーーーちゃん」
 微かな声を探して回転していたが、ツインタワーの辺りに気配を感じた。二階の窓から身を乗り出して両腕を振っているのは紙戯だ。
「美那斗ちゃん」
「紙戯さん」
 走りだして塔の下へ近寄ると、ぜいぜいという喘ぎ混じりに紙戯が告げる。
「LEが現れたわ。ここからすぐ。大通りの交差点よ」
 紙戯は西の方角を指している。傾き始めた太陽の輝く方向だった。
 後を追ってきた泰朋に美那斗が説明するのを見てから、紙戯は塔の中で湾曲する壁面に背中を預けてへたり込んだ。
「ったく。現代社会に暮らす文化人が叫ぶって、何なのよ。大声なんて、出ないわよ」
 紙戯の掠れたぼやきが届くはずもなく、二人は一斉に走りだした。泰朋は屋敷のゲートへ真っ直ぐに駆けてゆく。美那斗は館の中へ装備を取りに行った。


 交差点を道路封鎖しているのは一般車両だった。先頭の何台かは衝突し、ボディの一部がひしゃげているが、そうでない車共々乗り捨てられている。ドアは開け放たれたままで、慌てて放置されたのは想像に難くない。
 昼日中には滅多に拝見することのないがらんとした静かな光景の中に、それでも規則的に明滅し色を変える信号機が滑稽に想える。その信号機の内の一機の傍らに、ラスツイーターがいた。
 歩道から車道へ飛び出した泰朋には、その姿に見覚えがあった。
「<コレクト>!」
 嘴のある小さな頭、二つの大きく膨らんだ丸い肩、細く短い脚、基礎となる骨格は鴉を連想させるが、全容はそのシルエットを保っていない。採取した物体を自らの躰に取り込んでしまうため、色彩も形状も多様に歪んでいる。
 これが三度目の遭遇になる。
 一度目は大型ショッピングセンターの天井に、二度目は重く垂れ込める暗雲に、いずれも太陽の光を阻まれて変身出来なかったが、今は遮るものは何もない。
 天高く差し出された泰朋の掌の中にはコアがある。光を受けたコアは歓喜に打ち震えるように光の粒子を迸らせている。指間から閃光の照射が四囲へ飛ぶのを、丁度その場に着いた西谷が目撃する。
 頃合いを見て腕が降ろされると、光の濁流が泰朋の腹部で弾けた。
「変身!」
 西谷総が怪人を目の当たりにするのはこれが初めてだった。話に聞いたイメージとはまるで違う。大方何かを見間違えたのだ、ツチノコやビッグフットの様なものだと決めつけていた。だが実際は明らかな大きさと重さを有する動く物体で、しかも今まで見たことのない形態をしている。
 今も信号機の近くの標識が気になるのか、支柱を折り曲げ、先端にある歩行者専用の円形盤を取り外し、右肩に突き立てている所だった。灰色がかった躰には他にいくつかの物が刺さっていて、奇妙なハリネズミのようになっている。
 無数のボディピアッシングをする輩もいるのだから、このような嗜好の怪物だっているのだろう。特別な嫌悪感もなく西谷は怪人を眺めたが、その手前に立つ泰朋の様子が変化していくことに気付いた。
 こちらに背を向けていても変貌しようとしているのは明白だ。両の腰の辺りから細い光の管のようなものが次々と伸びてゆく。神経線維の束か血管、植物の葉脈、そんな形をしたものが初めは腰に巻きつき、次いで縦横に伸び広がって泰朋を取り巻きつつ増殖してゆき、遂には全身を包み込んでも尚ガサガサと蠢いてゆく。そして、一際大きな光に満ち満ちた後、光が収束すると、そこには怪人がいた。体色は違う。黄金色をしている。だが、それは人間ではなかった。
 羊のものを更に捻じりつつ太くし、先端は水牛のように横へ突き出した後に前方へ鋭利な光を向ける大きな二本の角が、何を置いても目につく。
 胸部、肩、首、腕、腹、腿、尻、背、どこも分厚い筋肉の上に、更に分厚い甲冑を着込んだかの様な、否、筋肉そのものが鎧と融合したような、底知れぬパワーを秘めた巨体を有している。
 パワーという点で言えば、鋭い爪を持った手ですら、指の一本一本が太く、掌や甲、手首までもが頑強で、一度掴んだものは決して外しはしないと想像できたし、その点では又、太い鉤爪の大鷲に似た足も同じだった。
 薔薇か甲虫のような棘が全身の所々にあって、強烈な防備能力を宿している。
 全身が金色だが、良く見ると白っぽい模様があちこちに浮かんでいる。どこか異国の言語文字か文様だろうか。魔術か何か、呪術的な護法の力が及んでいるのかと勘ぐりたくなるような神秘性すら湛えている。
 隆々とした巨大な躰に対すると小さな頭部には双の複眼があって、顔は怪人に向けられているが、それでも西谷はその眼に睨まれているようで落ち着かなかった。
「これが、キャノン・・・、なのか」
 思わず零れ出た驚きの言葉に、図らずも応えが返ってくる。
「これが、ホーンよ。コスプレイヤーじゃなく」
 声のした方へ視線を向けると、美那斗が並んで立ち、ちらっとこちらを見上げていた。
 彼女の表情はひどく複雑な心境を含んでいるように見えた。一方では自信や自慢のようなものがあった。わずか数分前、束縛を抜け出し、烈火の攻めで巨漢を倒したことや、力の象徴の如き姿を顕示しているホーンへの絶対的な信頼感が形造る表情だ。それとは別に羨望や憧憬が大きく膨らむ程に、同時に湧き出てくる惨めで情けない自責の念。幾つもの想いが彼女の瞳の中で絡まり合っては暗い光を放っているようだったが、ホーンに奪われた西谷の関心は数秒と美那斗の上に留まりはしなかった。
 夏の眩しい強烈な光ではなく、冬へ近づく穏やかな光の太陽の力をコアに宿した所為だからなのだろうか、ホーンの体色は白金よりも色濃い黄色に近い金色をしている。目を引く色彩に<コレクター>が気づく。鴉に似た嘴をやや聞く上下に開くと、その動きに遅れて
「イッ、イッ、イッ、イーーッ、イーーーーッ」
と、嫌な啼き声が空気を震わせる。
 ラスツイーターの声は何時も不愉快この上なく、ホーンは両手で頭を抑えて苦悶すると、抗うように口腔を大きく開いて叫ぶ。
 己の欲望を包み隠そうともせず、あからさまに、強く、頑なに訴えてくる。自己を恥じることも疑念を抱くこともなく、ナルシスティックで偏狂的だ。人の耳にはイーッとしか聴こえない啼き声も、ホーンの超常的な聴力を宿す耳には言語として、欲望の凝縮した意志として飛び込んでくる。
 理解し難い感情はあまりにも不快であるが故に脳内を蝕むように締め付ける。<コレクト>の名の通り、このラスツイーターは兎に角収集に拘っている。
 欲しい、集めたい、自分のものにして、すぐ傍に置いておきたい。好きなものに囲まれたい。いつでも見られるようにしたい。ディスプレイしたり、手で触れたい。同じものばかりではいけない、新しいものも欲しい。手に入れるためならどんなことも厭わない。何が何でも欲しい。集めて集めて、大切にとっておく。
 そんな偏執的な思いが瞬時に頭の中に雪崩れ込んでくる。そして、無限にループする。同じ意志を何度も何度もぐるぐると繰り返すのだ。今までのラスツイーターが全てそうだったが、<コレクト>は少し違った。
「イーーーーッ」
 道路標識の支柱を<コレクト>が掴む。項垂れたように頭部を抑えているホーン目掛けて、大きく振り降ろした。
「危ないっ」
 誰かの叫びがホーンの耳に届くと、ホーンは両足でアスファルトを蹴り、飛び跳ねて数メートル後退した。一瞬前までにはホーンの足が乗っていた部分に支柱がめり込む。
(コイツ、知ってる。前に邪魔した奴だ。その前にも邪魔した。キレイなものゲットできるはずだったのに。カッコイイものゲットするはずだったのに。面白いものゲットしようとしたのに。コイツが、コイツが、コイツらがーーーー)
 思考、感情、記憶などを一切持ち得ない、単なる欲望に塗れただけの原生動物のように想っていたラスツイーターが、ホーンに対して意識を発露している。
 怪人の叫びが脳内を締め付け、掻き毟るような痛みに堪えながら、ホーンが何度も首を振る。両手を頭から離すと、指の関節が折れ曲がった形で、力が込められていく。
 そして、いきなり走りだした。
 直線的に<コレクト>目掛けて突っ込む。ジャラジャラと多種多様なオブジェを体に取り付けているのが重石になっているわけではないだろうが、怪人はその場から動かない。急激に両者間の距離が無くなると、ホーンの左手が怪人の喉笛に、右手が嘴の下に嵌り、握り潰さんと突き上げる。
(その角いい。欲しい。くれ)
 <コレクト>の丸い眼がホーンの角に据えられる。苦しげな息を嘴から洩らしながら、のろのろと手が伸ばされていく。
 その灰色の汚れた手を嫌悪するようにホーンの片足が持ち上がり、ラスツイーターの腹を蹴ると、巨体が後方へ吹き飛ばされる。
 闘いが始まると、両者の周囲には幾つもの物体が散乱を始めた。それはサングラスであったり、ビール瓶であったり、枯れた花束であったり、ブーツを履いた足だったりした。身体から収集物が落ちこぼれる都度、<コレクト>は歯軋りしながらホーンを呪う言葉を発した。
 耳から得る情報を全て排除するように、ホーンは攻め続けた。
 大きくジャンプし、<コレクト>の背面を蹴りつける。獅子のような尻尾がピシャっと路面を叩く。
「カーッ、カーッ」
 何時の間にか交差点の周囲には、黒い翼を羽ばたかせ鴉が集まってきている。電線に鈴なりに留まり、奇声を上げて首を小刻みに振っている。<コレクト>が落としている腐肉が目当てらしい。何とも無気味な空間に変わりつつあった。
「イーーーーッ」
 怒りの叫びが怪人の喉から噴出する。漸く<コレクト>は反撃に転じた。
 腕も脚も細くずんぐりした体からは予想出来ない程の高速で動くと、<コレクト>は肩でホーンにタックルを食らわせた。
 跳ね飛ばされたホーンは空中で回転すると、四本足の獣のように着地し、頭を下げ、前方のラスツイーターを睨めつけようとしたが、そこに姿はない。
 だが、ホーンの複眼はすぐに相手の位置を掌握する。上だ。
 大きく跳躍した躯体毎踏み潰そうというのだろう。ホーンは四つ這いの姿勢から素早く立ち上がると、頭上に迫り来る巨体をがっしりと受け止め、そのまま放り投げる。
 ラスツイーターがゴロゴロと路面を転がると、幾つもの物体が灰色の体表から剥がれ落ちてゆく。飾り羽根を毟られた鳥のように、色彩を失ってゆく。怪人の怒り、悲しみが増幅してゆく。
 ホーンと<コレクト>の攻防は尚も続いた。陽は大きく傾き、東の空はすでに仄暗さの中に白い星の光が散らばっており、暗碧の空が齢十五の月を従えている。
 ホーンの拳に投げ出された<コレクト>に驚いて鴉が飛び立つ。
(オレのコレクションが) 
 <コレクト>の眼が鴉達に向けられる。かつては人間の体の部位だったものを黒い嘴がこ啄んで奪い合っている。
「イーーーーッ」
 大きな声を上げて威嚇しても動じた様子も見せない鴉達に、起き上がって向ってゆく。パッと飛び退くと遠巻きに見つめ、食事の機会を伺っている。
(あっち行けぇ)
 枝状の細腕を振り回しておっぱらおうとしたが、その腕はホーンに掴まれ、一本背負いで投げられた。アスファルトが凹む程の衝撃で打ち据えられ、震動に驚いた鳥達が一斉に抗議の啼き声を立てる。
 天を向くラスツイーターの胸部に、ホーンの足が乗り、爪が食い込む。そのまま体重を乗せ地面に埋め込んでしまおうという勢いだ。
 <コレクト>は両手をホーンの足に絡め、全身でバタバタと足掻き、逃れようとしていたが、その動きが急に停止した。同時に、ホーンの様子も変わる。顎をあげ、周辺の気配を探っている。
「何!? どうかしたの!?」
 美那斗はホーンの異変に気づいたが、その理由までは解らない。視線を彷徨わせていると、声を掛けられた。
「美那斗さん!」
 そこには痩せた面長の女性が立っていて、明るい表情を向けながら近づいてくる。ラスツイーターの耳を覆いたくなる声、鴉の声、漂う腐敗臭、そんな闘いの場に全く不釣り合いな程の微笑を見せているのは、追分臨(おいわけりん)であった。
 以前は月崎研究チームのスタッフとして活躍していた彼女は、現在は公にはされていない警察庁の研究班に籍を置いている。つまり、警察が出動したのかと美那斗は他の人員を探したが、そのような姿は見当たらない。
 大通りの中央では、両者が再び格闘を再開していた。先程見せた逡巡のようなものは何だったのだろう。怪訝を残したまま、美那斗は一旦追分に相対した。
「追分さん、怪人の調査ですか?」
「お久しぶりね。元気にしてた?」
 美那斗を頭の先から足元までじっくりと舐め回すように眺めながら話しかける追分は、ゆったりとしたジーンズにトレーナー姿で、手に紙袋を下げていた。表情が明るく、気さくで人懐こい印象は、月崎邸にいた頃とは大分変った様に思えて、美那斗は追分を凝視してしまった。
 それで追分は頬を少し赤らめながら、
「調査じゃなくて、ツインタワーに行く所だったの。向浜に頼まれたものがあってね。その途中ここを通りかかったんだけど、美那斗さんがいるじゃない。あなたにも用があったから、ラッキーだったわ」
 照れ隠しのように早口で畳み掛けてくる追分は、紙袋を開くと中から取り出したものを美那斗に差し出した。
 追分の手には黒い防護服がのっていたが、それは今美那斗が身に着けているものと同じに見えた。
「これ、新しいスーツなんだけどね、少しだけ改良してあるのよ。ほらほら、ここ。判る? 判らないでしょ? 目立たないようにしてあるんだ。ほら、美那斗さんオッパイ小さいでしょ。だからパット入れてあるの」
 楽しそうに語る追分の大きめな声に、美那斗の頬がカッと音が鳴りそうな程、急激に赤く染まった。
 そんなことなど気にもとめず、追分の指は防護服の胸元を示している。そこには見たことのないロゴが描かれていた。大文字のアルファベットでSAT、その下に special adviser とある。
「SATっていうのは、特殊急襲部隊の略で、美那斗さんはそこの特別顧問ってこと。この印があれば、取り敢えず街中で銃器を使用しても不問にするって。お墨付きみたいなものね」
「…そうですか」
 警察庁の警視、八橋の配慮だろうか。怪人と戦闘中に警察に制止させられるような間違いは、このロゴで防ぐことができるのだろうか。
「さぁ、着替えて」
「えっ、ここで、ですか!?」
「勿論よ。寸法とかチェックしたいじゃない」
 真面目なのか冗談なのか判断し辛い追分の言動に辟易しながら、数瞬間の困惑と逡巡を見せた後、再び戦闘に入るホーンとラスツイーターに意識を集中させるためには、早々にこちらにけりを付ける必要があると判断した美那斗は、周囲に少なからず野次馬もいる大通りで着ているコートを脱ぎ出した。普段はあまり意識していないのに、追分が凝視しているからか羞恥に耐えるような表情が浮かぶ。
 今まで着ていた黒い特殊繊維のコートを畳もうとすると、
「あっ、いいよいいよ」
 と、気楽な感じで声を掛けながら、さり気なく追分が美那斗の手からそれを抜き取ると、新しい方を手渡す。美那斗の体温に馴染んだ防護服を乱雑に畳むと紙袋の中へ押し込もうとしたが、その前に誘惑に負けて美那斗に背を向けると、一度鼻の近くへ持ち上げて匂いを吸い込んだ。
 流石にこれは不味かったかと、うっとりした目元を慌てて引き締めると、取り繕うように
「ダメージチェックよ。あは、はっ…」
 しどろもどろの体で再び向き直るが、美那斗はこちらを見てはいなかったし、すでに新品に袖を通し終えていた。少しの間剥き出しになっていたであろう太腿に装着した銃や剣も人目を引かなかったようだ。
 追分がほっと胸を撫で下ろしていると、
「これ袖なしなんですね。これからの季節、ちょっと寒くないですか?」
「あーっ、やっぱりそうかぁ。長袖だとマトリックスのトリニティーみたいでしょう。けど私的にはティファのが好きなのよね」
 美那斗には追分の言葉の意味が全く理解できず、二の腕の冷たさは取り敢えず感じないように努めるとして、視線をホーンへと戻した。尚も追分が言い募ろうとした時、頭上から野太い一喝が降ってきた。
「うっせえ。さっきからごちゃごちゃごちゃごちゃと。黙ってろっ」
 西谷の一瞥をくれない態度で示す睨みに、首を短くすぼめて短い悲鳴を上げると、
「そ、それじゃあね、美那斗さん。私は向浜に会いに行くから。えっと・・・」
 尻窄みの言葉を残すと、そそくさと退散していった。たった数メートル先で怪人が暴れていることなど眼中にない様子は、物凄い度胸の持ち主と言えないこともないが、彼女が去ると美那斗は長い溜息を一つ漏らした。
「ありがとう」
 西谷に向けて思わず感謝を口にしてしまったのは、追分に対して苦手意識が少なからずあったからだろう。だが、横目で見た西谷の体は小刻みに震えていたし、両の拳は固く握られ、爪が掌に食い込んでいた。慌てて視線を上げると、その表情は固く強張り、怒りに満ちているように感じられた。
「こいつら何て闘い方をしやがるんだ。レベルが遥かに違いすぎる。くそっ、くそくそ」
 言葉の一つ一つに力が入るあまり、唾を飛散させながら、西谷の瞳は羨望を越えた怒りに満ち満ちていた。
 怪人なのだからあたりまえ、変身したのだからあたりまえ、というように西谷は考えないらしい。あくまでも自分と闘ったらどうか、という捉え方をしている。信号機の支柱をアスファルトに突き刺す力、二メートル半はあろうという怪人の背丈を飛び越える跳躍力、動体視力が追いつけない程の高速移動、動きの一つ一つ、どれをとっても西谷には太刀打ち出来そうにない。
 力の差を推し量って勝ち目がないと感じることは、西谷には屈辱だ。勝負は時の運、やってみなくちゃ判らない、そう自分を奮い立たせることができないからだ。
「あの力、あの…」
 体中の血が熱気を帯びる体内を駆け巡る過程で、血液が沸騰し、体温が激しく上昇してゆく。高い脈動に突き動かされ、西谷は左足を浮き上がらせると、地面を踏みつけ、何度も踏み鳴らした。行為自体は地団駄を踏む幼児のようだが、怒髪天を衝く勢いで、アスファルトが陥没しそうな程だ。
 平穏を望む人がいる一方で、こんな風に闘いをこそ望む人がいる。人間の願望というものは不思議で、多種多様で、罪深く、愛おしくもあって、難解だ。願望を抱く人間は悪なのだろうか。想いを怪人化するラスツイーターとは、どういう存在なのだろう。
「おっ」
 西谷の呻き声で、想念に落ち込みそうになっていた美那斗が髪を掻き上げる。
 ホーンがラスツイーターに乗った。
 怪人の棒状の脚が己の巨体とホーンの巨体を支えて立っている。
 ホーンの足は怪人の肩と頭に乗せられ、曲芸師の様に起立したままで渾身の力を爪先に込めていく。猛禽類の豪然たる太爪が捉えたものを握りしめ、ラスツイーターにあるとすればだが、皮を、肉を掴んで離さない。
 苦悶の絶叫がラスツイーターの嘴から放散されるが、痛みから解放されることはない。腕を上げてホーンの両足を掴むが、爪は深々と食い込んで抜けない。
 それどころか、ホーンは更に両の脚に力を漲らせてゆく。
「イッイッ、イーーッ」
「オオオーーーーっ」
 ホーンの雄叫びがラスツイーターの悲鳴をかき消す程に大きく轟く。
 そして、続いて響いたのは、この世のものとも思えない程、吐き気を催す不快な肉の裂ける音だった。
 バキバキという高く硬い音に混じって、ビチャビチャという湿った粘着質の音が耳を汚していくと、ラスツイーター<コレクト>の首の付根に亀裂が生まれ、そこから斜め下に延びてゆく。
 頭部と肩はもはや首で繋がってはおらず、裂け目は次第に渓谷を拡大し、鎖骨、胸部へと達すると、ラスツイーターの体の向う側が覗けて見えるようになる。
「イーーーーッ」
<コレクト>が頭を振ろうと藻掻くが、ホーンの足の鉤爪に堅強に押さえつけられて動かせず、ただ嘴だけが慈悲を求めて開閉を繰り返し、カタカタと悲しみの乾いた律動を立てて泣いている。
 肉でできた谷はやがて断崖になり、亀裂の先端は今や腹部にまで達した。
 <コレクト>は立っていられなくなった。
 いや、それはもはや<コレクト>ではなくなった。
  怪人の体からすべての力が失せた。
 仰け反るように後方に転倒する。深々と食い込んだ鉤爪が外れず、ホーンは怪人の体がアスファルトにぶつかる衝撃で投げ出された。そのまま二転三転した後漸く止まり、躰を起こそうと膝を着きながら、複眼の端にラスツイーターを見ていた。
 全身が大きく痙攣した後、躰がY字になった怪人は、全機能を停止した。
 灰色のボディは裂けた内部も同色で、そこにはあの不快な音が彷彿させた筋肉や血管や骨が引きちぎられた様な痕跡はなかったし、血も体液も溢れだしてはいなかった。では何があるのか、それを知りたいと思う者はこの場にはおらず、又、当のラスツイーターも次第に影を薄くしてゆくのだった。
「やったわ。勝ちよ」
 美那斗が安堵の声を上げる。横では西谷が苦虫を噛み潰したようなどす黒い顔で立っている。二人共ホーンへ歩み寄ろうと動き出した所で、ホーンが片手を突き出し、制止するように首を振る。二本の角の先端が夕焼けの陽の光を弾いて揺れた。
 ホーンは何かの気配を感じ取り、警戒をしている。先刻も<コレクト>との戦いの最中に感じた奇妙な気配。同様のものを<コレクト>も察していたようだ。恐れ、というのとも少し違う。畏怖に近いのだろうか。
 その何かが来る予感が、ホーンを怖気づかせた。
 いつでも併せ持っている絶対的な自信に満ちた物腰が、急速に減少してゆく。黄金の体色も褪せてゆくように想えるのは、薄暮の所為ばかりではないかもしれない。
「どうしたの」
 美那斗が呟いた時、ホーンの顎が上空へ向けられた。いつの間にか、あれ程集まっていた鴉の姿が皆無になっている。
「上だ」
 西谷が叫ぶ。
 それは上空から急速に落下してきた。
 太くて大きな二本の脚が超重量体の隕石の落下のようにホーンの頭上に迫る。
 ホーンは動けなかった。神々を畏怖する信者のように。魔神に魅了された狂者のように。
 それはホーンの背後に降り立つと、巨大な足とは対照的な細長い節くれだって刺々しい腕を振るった。
 ホーンの躯体がいとも容易く吹き飛ばされる。
「ホーン!」
 美那斗の絶叫が響く中、ホーンは交差点周囲に乗り捨てられた幾台もの車の列に突っ込む。白いセダンが縦に跳ね上がると反転して倒れ、ホーンはその下敷きになった。
「あれは、あれは…」
 うわ言のように声を漏らす美那斗の眼が大きく見開かれる。
 それは不思議そうに首を捻っていた。美那斗が叫んだ言葉を真似るような音が微かに漏れる。
(オーン?)
 それからゆっくりとそれの顔が向きを変え、ひたと美那斗の方へ視線を当てる。逆三角形のプレートを顔面に貼り付けたようなラスツイーター。
 真正面で見つめ合い、数秒、十数秒と、音を立てずに時が流れてゆく。
「マザー」
 擦過する時の流れに耐え切れず、美那斗の唇からこぼれた声は、故知らず掠れていた。
 これまで対峙してきたラスツイーターたちにもあった絶対的な存在感と恐怖とは、比べるまでもない程に別種の脅威や危懼によって、肢体が総毛立ち、強く噛み締めていないと歯がガチガチと音を立てそうになる。
「あれは何なんだ」
 じっと見つめていると闇の世界に魂が吸い込まれ、二度と抜け出せなくなる、そんな畏れから無意識に逃れたいという感情が働いたのか、美那斗は西谷の問いに応えることで理性を保とうとした。だがそれは、してはならないことだったと、後に悔やむことになる。
「あれはマザー。人間を怪人に変えてしまう怪人。私の父の仇で、そして私のーーーー」
 続く言葉は喉の内側に貼り付いた。外へ音として現れなかった分、胸の内で木霊のように反響した。
(私のお母様)
「ーーーー!!」
 西谷はマザーを見た。
 身長は三メートル程だろうか。総じて巨体のラスツイーターの中でも、更に大きく見える。丸く突き出した腹部と腰回りは重量感に溢れ、後方には尻尾のように長く繋がる昆虫のそれに似た別の腹部がある。
 横に大きく突き出した肩から垂れ下がる細長い腕が、スッと持ち上がった。と見るや、するすると美那斗に向けて伸ばされてくる。
「危ないっ」
 流れる時間の呪縛に絡みつかれ動けない美那斗の体を、西谷が抱えて飛び退る。アスファルトの上を転がって離れると、伏せたままの美那斗をそのままに一人立ち上がり、西谷はラスツイーターの側に戻ってゆく。
 邪魔された怒りだろう、<マザー>は西谷に向って顔を突き出す。口腔の外側にある昆虫の大顎にも似たものが観音開きに開くと、唇をめくり上げて牙を剥き出しに、唸り声で威嚇の意思表示をする。
「イーッ、イーッ、イーッ」
 灰色の体の中にあって、その牙はやけに黒く見えた。その牙で肉を噛み千切られ、生きたまま喰われてしまう。そんな恐怖を感じて逃げ出さずにいられる者はそうはいないだろう。数少ない例外が、西谷だった。
 心臓が早鐘の如く打ちつけるが、西谷は強靭な意思で、足裏を地に貼り付け、その場に踏み留まり続けた。
 ラスツイーターの背後でギシギシと金属音がするのは、おそらくホーンが車体に挟まれ、藻掻いているのだろう。
 西谷は言った。
「あんた、怪人にできるんだろ。俺の名はセブン・ソード。俺を怪人にしてくれ」
 <マザー>の首が角度を変える。その動きは蟷螂や蜻蛉が時折見せる仕草に酷似していた。牙が歯茎毎引っ込められ、何やら思案しているようにみえた。
「何を言っているのですか。無思慮な冗談は止めなさい」
 美那斗の視線の描く軌道に、西谷の横幅の広い背中と、その向うにラスツイーター<マザー>の小首を傾げた三角仮面の相貌と、更にその向うの群青の夜の帳を纏いつつある空に浮かぶ真円の月があった。
 <マザー>は動かない。かに見えたが、腕だけがスッと動きだす。
「俺は力を手に入れたい。怪人になれば、奴もその気になるだろうし、そうせざるを得ないだろう。ふっ、俺にしてはいいアイデアだ。力も手に入って、キャノンとも闘える。俺は闘いたいんだ。だからーーーー」
 次第に大きくなってゆく西谷の声が、途中で遮られた。
「ああ…」
 絶望的な喘ぎが美那斗から漏れる。
 西谷の躰は宙に浮かんでいた。両脚の付根辺りに<マザー>の腕が突き刺さっている。四肢が突張り、首ががくっと後方に仰け反る。
 スキンヘッドの頭頂が美那斗を向いている。顔面は天空を見上げているのに、美那斗には彼の表情が愉悦に満たされているように思えてならなかった。
 ブチッ、という筋が断裂する音が聴こえた気がした。
 西谷の心臓が肉体の内側から外へ飛び出し、空気に晒されながら脈を打っているのだろう。鼓動が空気を震わせる波動が皮膚に伝わり、その波が押し寄せる度に肌に粟粒が吹き出すようで、気持ちが悪かった。
 心臓の鼓動がいくつ打ち鳴らされたろう。死へのカウントダウンのようでもあり、勝利を告げるゴングのようでもあった。
 西谷の躰から色彩が奪われてゆく。
 あの日、月崎護がそうであったように、西谷もまた性と生が新たな器官に変容され、鼓動が百八回脈動した後、再度体内に戻される。
 <マザー>の腕が西谷であったものの股間から引き抜かれると、新たなラスツイーターはどさりと地に落とされた。
 遮蔽物が失せると、<マザー>と美那斗の視線が交わう。<マザー>に双眸は見えないから、視線が交錯するという表現は正確ではないが、それでも美那斗は感情のようなものがあるように想えた。西谷が怪人にされた驚きに思考は上手く働かないが、後で振り返り想像するに、それは悲しみのようであった。
 怪人を生み出した腕とは逆の腕が、西谷の頭部を掴む。それは、生まれたばかりの我が子の首元を口に咥える野生動物のように、荒々しくも優しげでもあった。そして、そのまま上空に跳ねた。
 交差点のビルの向う側へ、一気にジャンプし、消え去った。
 呪縛が解けたように漸く立ち上がった美那斗は、ホルダーから装着していた銃を引き抜いたが、銃口は当てるべき照準を失っていた。
「ううっ」
 嗚咽が漏れる。
 車輌の拘束を逃れ出たホーンは、双角の先端を項垂れている。すでにラスツイーターの気配は何処にも感知できなくなっていた。
 尚も溢れ出す嗚咽を聴かれまいとするように、美那斗は両手で銃を構えると、トリガーを絞った。弾丸は天空へ、満月へと放たれた。
 何発も何発も。
 弾倉が空になるまでの間、美那斗は声を上げて泣いていた。


「美那斗ちゃん、ちょっと出て来てくれない」
 スマホ越しの紙戯の声は乾いた軽い調子で、返事をした後も美那斗は部屋でベッドに腰掛けたまま、体を起こす気になれなかった。
 ラスツイーターは煩悩に支配され、人間的思考は持ち合わせていない。理解はしているが<マザー>が母、環汽だという事実は感情に荒波を立てて、静まることが出来ない。
 人間を怪人に変えて平気なのか、そんな怒りや悲しみを覚えてしまう。怪人なのだから、平気もなにもなく、煩悩の赴くままに行動しているに過ぎないのだろう。地球上の殆ど全ての生き物がそうであるように、本能で動いているだけなのだ。
 それでも、あれはかつて母だった。美那斗は苦悩し、両手で顔を覆った。
 すると、手に付着した硝煙の匂いで、自分が帰宅したきり着替えてもいないことに気付いた。シャワーも浴びずに人前に出るのは礼を失するが、あまり待たせるのも憚られ、美那斗は重い腰を上げた。
 館から庭に出ると、紙戯が寒そうに両手で腕を擦りながら立っていた。
「あっ、来た来た」
 夜八時を過ぎ、闇空に星がまたたいていた。満月は今も姿を隠していない。
「お待たせしました」
「うーっ、寒いわね」
「だってそれは、紙戯さん、半袖ですもの」
「えっ、ああ、そっかぁ。でも、そう言う美那斗ちゃんこそ、半袖じゃない」 
「これは…」
 先刻、追分臨が持って来た新しい戦闘服姿のままで、言われて漸く寒気が肌に触れたように、美那斗は子猫のように体をぶるっと震わせた。
 紙戯は少し笑ったが、作り笑いのような不自然さを美那斗は感じた。彼女なりに心配してくれているのかもしれない。もしかしたら、慰めようと夜分に呼び出したのだろうか。
「陰のコア、持って来てくれた?」
 ポケットの中から取り出した円盤型のコアは、明るい月光を浴びると仄白く発光し始め、美那斗は慰撫するように両手で静かにやさしく包み込んだ。
「今日の光は何だか少し青みかがって見えるわね。陽のコアで変身するホーンの体色が夕陽だと赤くなるみたいに、こっちも色が違うのかもね。へぇ」
 何度か頷きながら、紙戯は手にしていた紙袋の中からある物を取り出した。
「これはブースターよ。今日追分さんが持って来てくれた。以前から考えていて、試作品が出来上がったの。で、ちょっと試して欲しいんだ」
 紙戯が美那斗に見せたのは、横長の板状のもので、長方形と楕円形の中間程の形状で、中央にコアより一回り大きい円形の蓋に似たものがついている。
 ベルトのバックルをかなり大型化したようなそれは、やがては改良を重ね、小型のロケットを付随させることで、瞬時に天空を駆け抜け、雲という障害を排除する機能を併せ持つことになる。が、それはまだ少し先の話である。
 そのブースターに配置されたボタンを押すと、蓋がパカッと開く。
「ここにコアを差し込むんだけど、私が指示した仕様とは違うのよね。追分さんが言うに、『私はDSよりもPSP派』だとか。何のことだかさっぱりよ。とにかく、このブースターはコアの力の発動を容易にするための増幅器の役割をさせようというものなのね。コアを光らせて、セットして、お腹に当ててみて。変身よ、美那斗ちゃん」
 変身という言葉に、美那斗はゆっくりと頷いた。
 泰朋の話によれば、変身するとラスツイーターの意志が聴こえるらしい。<マザー>が何を想っているのか、人間らしい感情があるのか、母としての片鱗はあるのか。泰朋の声は届かなくとも、自分の声なら母の耳にも届くのかもしれない。変身ができれば、それらの疑問に答えが出るかもしれない。
 切実な思いを込められたコアを、美那斗は天高く昇る月へと掲げた。
 滔々と溢れ出る泉の湧水のように、美那斗の四つの指間から冴えた白光が照射される。
 揺らめく光は次第に拡大してゆき、美那斗と紙戯を勢力圏内に捉えようとする。
 紙戯から受け取ったブースターにコアをセットし、蓋を閉めると、内包された力が伝搬し、ブースター自体が光を放っているようだ。
 それを腹部に当てる。
 が、変化はない。
 防護スーツは外敵から身を護る特殊な繊維で出来ている。これが力の伝達を弱めているのかもしれない。美那斗はコートの留め具を全て外し、肌着の上から改めて丹田の辺りにブースターを押し付けたが、それでもやはり変化はなかった。
「お願い」
 嘆願の声は悲色に塗りつぶされていた。祈りの言葉を嘲笑うかりように、やがてブースター内のコアは光るのを止めてしまった。
「ごめんなさい。紙戯さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
 首が折れるのではないかという程項垂れる美那斗の体が、力なく揺れている。そのまま倒れるか、さもなくば空気に溶けて消えてしまいそうに思えて、紙戯は手を伸ばして美那斗の頭を抱えると、自分の肩で支えるように押し当てた。驟雨のように足元の土を濡らしていた涙の雫が、今度は紙戯の肩を濡らしてゆく。
「折角紙戯さんが…。なのに…私ったら…」
 言葉は嗚咽を含み、聴き取りづらくなる。
「違うの。これはあくまで試作品で、うまくいく保証は全然なかったの。しかも、たったの一回目なのよ。研究なんてものは何百回も失敗して、ようやく成功するものなんだから。むしろこの結果は普通の事なの。だから美那斗ちゃんが気にすることなんて、全然ないんだから」
 そんな慰めの言葉を口にしながらも、美那斗にとっては何の意味もない、無味乾燥したものだろうと察し、紙戯はそれ以上語らず、代わりに抱き寄せる手を一つ増やした。
 そうやって、夜の時は静かに流れる。空に雲はなく、月光を遮るものもない。
「おやおや。美女が二人でお月見ですか。仲々風流ですなぁ」
 声を掛けてきたのは執事の辺見であった。主人に対してはいつも後方に数歩離れて控えて立つのが常だが、敢えて横に並んで立ち、月を見上げる。
 美那斗が涙していることに気付いていないわけではないだろうに、辺見はわざとおどけた口調で続ける。
「さて、今夜の月の兎のご機嫌はいかがですかな」
 手で作った筒を片目に当て、望遠鏡のように遥か遠くの月面を覗き込む辺見は、しきりと「ふむふむ」「なるほど」等と呟いてから、
「やはり私には判りませんね。月の兎の機嫌は、お嬢様でないと」
「…辺見さん、さっきから何をぶつくさ喋っているの。場違い感が半端ないとは思えないのかしら」
 美那斗に肩を貸して動けずにいる紙戯が、冷めた視線だけでも投げてやろうとするが、辺見は意に介した様子もない。
「あれは六歳の時でしたね。お嬢様はメイドの用意したお月見の団子を人参と交換してしまわれて。兎の好物は人参だから、機嫌が悪そうだと仰っしゃられたのですが、それが誰にも何を言っているのか解らなく。どうしてだと思いますか?」
「さあ…」
 自分に向けられた質問なのか定かでなく、曖昧に返答する紙戯の横で、辺見の肩が小刻みに震えている。
「お嬢様の口の中にはいくつもの団子が入っていて、うごうご言うばかりで…、くくくっ。要するに、お団子が食べたい言い訳だったのですよ。はははっ」
「…知らなかったわ。辺見さんって、笑い方が美那斗ちゃんそっくりなのね」
「へっ、そうですか? うーん、これは失礼しました」
 手の望遠鏡をようやく下ろし、辺見は腰に手を当て、それでもまだ月を見上げ続けた。白と青の淡い陰影の模様に、美那斗の記録が描かれていて、読み解こうとしているようだ。
「月といえば、月がいつも同じ側しか見せていないという話を学校の先生に聴いたと教えてくれたのは、えーと、あれは小学四年生の頃でしたね。月の自転周期と公転周期が完全に同期しているとか、私には難しい事柄をよく理解できたものだと、頻りと関心させられたものですが、その後ーーーー」
 そこで辺見は又しても、くくっ、と肩を震わせて笑う。
「月の裏側には何があるか地球からは全然見えないから、実は宇宙人の秘密基地があるんだと言うのですが、本気で信じて疑わない様子が可笑しくて可笑しくて…」
 月にまつわる昔話には際限がないかのように、今夜の辺見は殊の外よく喋って、よく笑った。笑う門には福来たるを実践しようとするかのようだった。そこへ別の人物がやって来る。
「おい。もう夜も遅いぞ。早く寝ないと明日のトレーニングに響くだろ。それに体だって冷えるし」
 教師が説教するような口調で後ろに立つ泰朋もまた、白く明るい月を見上げる。
「言う程遅くはないでしょ」
「アスリートにとって、規則正しい生活リズムはトレーニングの第一歩だからな」
「はいはい。どうせ私は夜型ですよ」
 闇の空に浮遊する月はとても明るく、周囲に小さく輝く星々を従えて眩い。
 夜の世界の地上は暗く静まり返っているが、少なくとも三つの明るい光があるのを美那斗は感じ、自然と涙は溢れなくなっていた。紙戯の肩から頭を離し、指先で頬を拭うと、皆と一緒に月を見上げる。
 泰朋は偶然を装うように声を掛けたが、本当は一部始終を見ていた。女性が泣くのが苦手で、どうしたらよいか戸惑っていると、辺見が現れて場を和ませてくれた。
「軌道エレベーターを建設して月に往くのが、私の夢なのよ」
 泰朋が変身以外の夢の話を聴くのは、これが初めてではなかっただろうか。
「月に往ってしまうのか? まるで、かぐや姫みたいだ」
 大男がいかにも寂しそうに言うのが可笑しいのか、紙戯と辺見の笑いを誘った。
「そのために大学に入ったのだけれども、休学したし、叶わない夢ばかり増えていくみたい」
「俺が思うに、夢や目標に向ってチャレンジし、挫折を味わった時、そこで諦めるか、立ち上がって再びチャレンジするかで、その人の強さが試されるんじゃないかな」
「泰朋くんは時々いいことを言いますね」
「見てくれはこんなだから、意表を突かれるのよね。私なんて何時もいいこと言ってるのに、当たり前のように取られるから、損だわ」
「い、いや。申し訳ない」
「謝ることじゃないし。ってか、今のは突っ込むところでしょ」
「紙戯さんの冗談は解りにくいですから」
「えーっ、そんなことないでしょ。美那斗ちゃん、何とか言ってよ」
 辺見は自分のことを昔からよく知っていて、世話をしてくれる。紙戯は未来のために頭脳を働かせて、手伝ってくれる。そして泰朋は現在、共に闘ってくれるかけがえのないパートナーだ。空に月があるように、地上には仲間という輝きがある。闇夜に月は一つだけだが、こちらはその三倍だ。
「私はーーーー」
 美那斗が続く言葉を濁したのは、また涙が滲みそうになったからだ。
「さあ、もう中にはいりましょう」
 辺見が声を掛け、紙戯が美那斗の肩を叩いて促すと、皆館に戻ってゆく。
「兎の話、全然覚えてないのだけれど、辺見の作り話じゃないでしょうね」
「まだ小さい頃でしたから、覚えておられなくても仕方ありません」
「美那斗ちゃん、小さい頃は食いしん坊だったのね」
「紙戯さん」
「そういえば丸いものが好きでした。肉団子とか、みたらし団子とか」
「団子ばっかりね」
「ちょっと、辺見!」
「そう言えば、ダンゴムシも好きでしたね。よく庭で探してましたよ。私も付き合わされて、大変でした」
「ふふふ」
「もう!」
 館の中に入る頃には、美那斗の頬に笑顔が綻んでいた。
(大丈夫。まだ頑張れる)
 そう心で呟いた。


(おやっさんや紙戯さんには見えてなかったようだ。それに、本人にも…)
 その夜、泰朋は寝付けなかった。
 広いと落ち着けないからと、元住み込み家政婦の部屋を借りている泰朋は、パイプベッドの布団の中で天井を睨んでいた。灯りは一つも点けていないので、そこには何も見えなかったが、両の目には先程の光景がまざまざと映し出されて消えなかった。
 日付はもう変ったろうから、満月は地球の裏側へ姿を表したろうか。あるいは地平線近くを徘徊しているかもしれない。
 紙戯がブースターと呼んだ装置にコアをセットした美那斗から、天空に輝く青白い満月に向けて伸びていった霧の様な光の帯。
 それはオーラと呼ばれる類のものであったかもしれない。
 泰朋はそれを見ていた。
 美那斗の頭部だろうか、いや、おそらくは額の辺りからだろう。白い螺旋に渦巻くような光の柱が、揺らめくように伸びていったのだが、それは実際に肉眼で捉えたものではなかった。
 眼で見るというより、耳で聞くように視て、肌で感じるように観た。そんな表現が近かっただろうか。
 月に向かって延びてゆく光が長くなると、その白い靄は美那斗の躰にも顕現するようになってゆき、とりわけ項から背中にかけた辺りには、かつてそこにあった長い髪が戻ったかのように、静かな音を立てて揺らめいた。
(何というのだったか)
 美那斗の様子が何かを連想させると泰朋は想っていたが、名称が思い出せないまま、オーラに囲まれてゆく美那斗の姿に魅了されると伴に、不安にかられていた。
 泰朋には美那斗が変身すると想えたのだ。
 だが、実際にそれは発動しなかった。
 それでもあの光景を感じ取った泰朋には、いつか現実に起こる事態という確信を抱かせるに充分であった。
 おそらく、彼自身がホーンに変身する経験を重ねたことによって、人を超えた知覚能力を有するようになったか、又は懐に仕舞っていたコアが、共に生まれ出たもう一つのコアの力に反応したのか。いずれにせよ、泰朋が感じた白いオーラは僅かな時間で解らなくなってしまった。
 何とも名状し難い感情が残った。
 美那斗が変身を果たすのも、それ程遠くない将来のようだ。もしそうなれば、彼女は当然ラスツイーターと闘うだろう。
 あの嫌な声を聴き、強靭な敵との死闘を繰り広げ、きっと心も躰も傷付くに違いない。
 それが泰朋には嫌だった。
 ベッドの中で天井を睨みながら、泰朋は美那斗を護りたいと切に願った。
 闘いから、悲しみから、苦しみから。
 何時だったか視た、無邪気な笑顔だけを見つめていたい。
 ある決意が泰朋の中に密かに芽生えた時、
(ああ、あれはユニコーンだ)
 オーラを纏う美那斗が似ていると感じたものの名を、泰朋は想い出した。
 白いたてがみの一角獣の姿が、泰朋の脳裏から、いつまでも消えなくなった。



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