仮面の戦士 ホーン

忍 嶺胤

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一章 ソーラーホーン

10.休まない翼

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 昔のことを夢に視たのは、昨夜、辺見が月に関係する幼い頃の思い出話をしたせいだろうか。美那斗は月崎邸の幾つもある部屋の何処かに立っていた。おそらくは大好きだった二部屋を一つに繋げて造り直した大きな書庫であろう。古いものから最新のものまでが一緒くたに並べられ、印刷のインクの香りや、少しカビ臭い匂いなどが渾然となって、窓から差し込む光の熱で蒸された嗅覚の記憶が蘇ってきて、それは妙にリアルな感触を伴う夢だった。
 目の前には父と母が居る。木製の椅子を並べて、手を伸ばせば届く近さで、各々本を読んでいる。表情は二人共とても穏やかだ。
 眠りながらも別の意識が、これは夢なのだと知らせる。両親が一緒にいるところを美那斗はほとんど視たことがなかったし、珍しい場面では何時も顔が強張っていたように記憶している。だから、こんな風に幸福感に包まれた二人というのは、夢に違いない。
 夢の中の自分は一体幾つくらいだろう。小学生、中学生、それとももっと上だろうか。そこでは年齢は関係なく、ただ単に二人の娘というにすぎない、あたかもあの世の様な空間であったかもしれない。そして、娘は両親に夢を語って聴かせていた。誇らしげで、少し気恥ずかしくもあり、自信に満ち溢れ、輝く未来に心を弾ませていた。
 護がどんな研究をしているのか尋ねたきっかけは、「お家の人のお仕事」というよくある学校の宿題だった。美那斗にも理解できるよう、学校のクラスメイトにも伝えられるよう、護は噛み砕いて、極力簡単に説明した。太陽のエネルギーはとても大きく、無尽蔵で、公永的だから、皆が利用できるようになれば、地球上の誰もがもっと豊かになれる。貧困や飢餓がなくなり、戦争だって起こらなくなるかもしれない。科学の力で地球を平和にする、その為の研究をしているのだと。
 一度に全てが理解できたわけではなかったが、美那斗は父の仕事に興味を持ち、更に知りたいと自分で本を読んで調べるようになった。
 その研究がいつ完了するか判らないが、未来の地球がどうなるのか想像してみた。
「みんなが豊かになると、幸せな人が増えて、人口も増えて、人が住む所が足りなくなってしまうわ。そしたら、折角お父様がすてきな発明をしても、また戦争になってしまうかもしれない。そんなの嫌だわ。だから、住む所を探さなくちゃいけない。それって、他の星だと思う。月とか、火星とか。私はそういうお仕事がしたいわ。みんなを宇宙に連れて行ってあげるの」
 美那斗が護と環汽にそう打ち明けると、二人は見つめ合い、微笑み合って、手を握り合った。美那斗はうれしくて母の胸に抱きつくと、母の優しい腕とその上から父の力強い腕が重なり、美那斗をあたたかく包み込んだ。
 午睡の陽だまりの様にどこまでもあたたかく、静かで、平和で、美那斗の心は完璧に満たされるのだった。それは、幸福という一語でしか表現できない時間だった。
 目覚めた時、夢と現実のギャップに美那斗は打ちのめされ、暗澹たる想いに沈んだ。
 夢の中にいつまでもいたかった。
 親子三人の幸福感に浸り続けていたかった。
「ミルクチョコレートみたい」
 呟くと、美那斗は歯を食いしばり、一気に布団を跳ね除けてベッドから抜け出した。
 朝の冷えた空気に気持ちを引き締める。
 温もりが欲しくなったり、甘い菓子を食べたくなったり、そんな気持ちなど起きなくなればいいのに、そう想いながら美那斗は今日もまたトレーニングを開始するのだった。


 日課にしているジョギングから帰って朝食を摂る。
 筋肉アップに良いメニューを辺見が考えてくれ、それを適切な量だけ摂ると、少しの休息も取らずに、続いてはヨーガ、ウェイトトレーニングと行っていく予定にしている。更に射撃や剣術、格闘の訓練等、メニューは数知れずある。
「泰朋さんは?」
 美那斗が辺見に問うと、
「今朝、出かけて行きましたが」
「どこへ」
「さぁ」
「さぁって、辺見。どうして訊かないのですか」
「訊いたほうが良かったですか」
「そんな事はとうーーーー、もう結構です」
 執事との短いやり取りの後、トレーニングルームのディープブルーのヨーガマットに立ってポーズを執るが、体幹は振れてポーズを保持できない。何だか気分がささくれているようなのは、朝方の夢のせいばかりだはないだろうけど、美那斗は調子が上がらないという理由でメニューを変更し、館の地下へ場所を移した。
 銃の訓練は、射撃の前に銃器の取り扱いを体に覚えこませる目的で、銃の分解、組み立てを行う。これを三セットこなすと、いつもの調子が戻って来たらしく、続いて射撃訓練を行った。
 地上に戻ると、再びランニングを開始する。
 冬用の長袖のランニングウェアの上に例の防護スーツを着る。内側には銃と剣を収納したホルダーを装着している。
 警察の許可を取り付けたので、本物を携行して走る。
 昼には一度館に戻って、食事を摂る。味付けよりも栄養素に重点を置いたもので、食べて味わうという意味の食事とは程遠い時間を過ごすと、再び外へ飛び出す。
 格闘トレーニングジムで汗を流し、実戦の訓練をする。とはいえ、最近はスパーリングの相手もなかなかいない。存外に美那斗の実力が上がってしまい、相手をしようと名乗り出るものが男女問わずいないのだ。この様な状態では、ジムに通い続ける意味もなくなりつつあるのかもしれない。
 秋の名残もわずかとなったこの季節、陽が傾いた頃に帰宅してからは邸宅内のトレーニングに移る。
 結局その日は、泰朋とのトレーニングの時間は取れなかった。
 そして、そんな日はしばらく続くことになった。
 泰朋は朝早く出掛け、陽が落ちて暗くなった頃に帰ってくる。
 どこへ往っているのか、トレーニングの相手はしてくれないのか、問いかけたい気持ちが何故か美那斗の口から素直に出て来てくれない。
「毎日毎日、どこへ出掛けているのですか?」
 訊くというより、詰問する様に言った相手は、当の泰朋ではなく執事の辺見であった。
「さあ、私は存じませんが」
 責めるような瞳をひたと辺見に当てたまま数秒間。だが、辺見は気づいた様子もない。
「あれ? 泰朋くんならラスツイーターを探してるみたいよ。聞いてなかったの、美那斗ちゃん?」
 紙戯が何の気なしに言う。
「聞いてませんが」
 紙戯にまで棘のある言葉が出てしまう程、美那斗はイライラしていた。
「ふぅん、そうなんだ」
 紙戯の言う「そう」が、どの「そう」を指しているのか、美那斗には解らなかった。
 ともあれ、紙戯によると、泰朋は過去のラスツイーター出現マップを作成したらしい。
 ラスツイーターはその特有の力を発動する際、ある種のエネルギー波を発生させることが判明している。それは単一の物ではなく、幾種もの波動で混紡されており、様々なセンサーを組み合わせて走査し、ラスツイーターの放つエネルギーの認識が可能となった。これを利用し、衛星カメラからラスツイーターが現れると自動検出するシステムを作り上げたのが月崎研究チームだ。
 これにより、仮面ラホーンはラスツイーターの出現場所を知って駆けつけ、撃破してきた。だが、実際にシステムが検知したシグナルは相当な数に上ったし、その殆どが一瞬の煌めきのような儚いものであった。
 怪人の放つ波動がなぜ現れたり消えたりするのか解らないが、泰朋はそこに怪人が普段身を潜ませている方法の謎があるのではないかと考え、シグナルの一つ一つを地図に位置付けした。どこか特定の場所で怪人が出現するのだとすれば、光点の密集地が現れてくるかと想像していたが、シグナルは同箇所に集中することはなかった。それでも比較的多い地域を選択し、泰朋はラスツイーターの影を求めて徘徊してみることにした。
 コアの超常的な力を行使して変身を繰り返す内に、不思議の力は人体にも影響を及ぼし、普通の人間には感知できないものをも感じ取れるかもしれない。淡い期待を抱いて怪人の微かな気配に感応しようと探索行を繰り返したが、泰朋に怪人の姿は見つけられなかった。
 もっと上手い方法はないものだろうか。陽が落ち、帰路に着く泰朋は頭を悩ませていた。無駄な日々を過ごしている暇はない。一刻も早くラスツイーターを掃討し尽くさなければならない。美那斗が変身を果たし、戦闘の渦中に引きずり込まれるより先に。
 その足掛かりとなるものが見出だせない。ただ、漠然と泰朋にはある疑念が生まれていた。ラスツイーターの気配を示すマップ上の点は、この地域にほぼ限定されていたし、比較的月崎邸や、もっと言えば美那斗の生活圏に重なるのではないか。
 後で紙戯に尋ねてみよう。そんなことを考えながら館に戻ると、美那斗がロータリーの石柱にもたれ、両腕を組んで立っていた。
「おかえりなさい。出掛けていたのかしら」
「ああ、ただいま」
 泰朋はそそくさと美那斗の脇をすり抜けて玄関へ向かう。
 美那斗に無防備な背を向けた途端、
「イテッ」
 右肩に鋭い痛みを感じ振り返ると、美那斗の正拳突きを受けたらしいことが、彼女の取るファイティングポーズから伺えた。
「どこへ行っていたの?」
「…いいパンチだ」
 左手で肩を擦りながら、泰朋が口元を歪める。
「知ってるわ。私、結構強くなったのよ。けど、そんなの何の意味もない事でしょ。私は変身したいの。その為に力を貸してくれる約束、契約よね」
「そうだな」
 陽のコアを泰朋が使う代わりに、美那斗のトレーニングコーチを務める。これは泰朋の方から申し出た契約内容だ。コアがなくては美那斗を助けられないが、美那斗の鍛錬が進むと、あの月の夜に魅た幻影のような姿に変身してしまう。泰朋はジレンマを覚えた。
 玄関の左右に灯る常夜灯が怒ったような拗ねたような美那斗の相貌を照らしている。黄色く古めかしい光は暖か味があって、色褪せた写真のように少しノスタルジックだ。美那斗の端正な容貌がはっきりと伺えるのとは反対に、灯りを背負った泰朋の顔は影になっているはずだ。夜陰に乗じて勇気を奮い起こす少年のような心地で、泰朋は躊躇いの後に意を決したのか、口を重く開いた。
「ラスツイーターは俺が全て倒す。一体残らず全て。何があっても、一命に変えてでも。だから、美那斗さんは闘わなくていい。俺が必ず護る。…っていうのは、駄目だろうか」
 人生経験を積んできた辺見が聞いたら、あるいは研究一筋の技術肌で恋愛感情には疎い質の紙戯でさえ、泰朋の今の言葉は告白のように聞こえたかもしれない。だが、拙い言葉で紡がれた想いは美那斗には掬い上げることが出来なかったし、もしかしたら泰朋本人すら気づいていないのかもしれない。
「この前、夢を見たの。母の夢よ。笑っていたわ。幸せだった」
 髪をかきあげる手が途中で止まる。
「何となく想うの。母はもしかしたら、母親になりたかったのじゃないかって。大概の母親のように、子供を育て、触れ合って、仲良く、幸せに暮したい。けどきっと、母はそれが叶わなかった。月崎家という得体の知れない怪物に飲み込まれて、母の役目を奪われて、孤独だったと想う。けど、私には何もしてあげられなかったし、気づいてもあげなかった。もしかして、今なら、ごめんなさいって謝ることくらいできるかもしれないでしょ」
 変身すればラスツイーターの声が聴こえる。それが美那斗が何としても変身しようとしている理由だった。
 泰朋は何も言えなかった。
 もしもラスツイーターの欲望に塗れた自我の叫びを聴くことになったら、彼女の心は粉々に砕けてはしまわないだろうか。
 断崖絶壁に向って猪突猛進してゆく美那斗を制止する術はなく、金剛力ですら解けない呪縛が存在することを泰朋は知った。


 熱いコーヒーの満ちたタンブラーを片手にテラスに出た紙戯は、月崎邸を囲む樹木の寂れた装飾に眼を遣った後、小鳥のさえずりとは異なる息使いを耳にし、その主を探した。程なく見つけた美那斗は、上下黒の肢体に張り付くようなウェアを身につけ、激しく動き回っていた。
 樹間を縫うように駆けながら、右へ左へと跳躍し、少し開けた空間にてシャドーボクシングのように拳を突き上げる。躰を廻転させ、走り出したかと見せては急制動をかけ、ジャンプし、転がり、蹴り上げる。
 予測の出来ない動きに、紙戯の視線は釘付けになった。
 しなやかに飛び跳ねる捕食動物のようだが、獅子とも狼とも違う。直線的な軌道を示さない知的なハンター。
 約一年前、美那斗の四肢を包む筋肉や腱は社交ダンスやピアノの演奏をするのに使役されるのが精々であったが、今では全く様相を変えてしまった。鍛えた筋力は戦士のものであり、しかも想像以上に強靭なものに紙戯には感じられ、ある意味では哀れさを抱かせもした。
 いつも座るテラスの丸テーブルを意識せずに通り過ぎ、もっと近くでトレーニングの様子を、というよりも躍動する生命体を観察したいという知的衝動に駆られ、紙戯は歩みを前へと送った。すると、その対象とする獣がこちらへ向かって来た。
 まるで襲いかかられるようでドキリとしたが、美那斗は紙戯の数メートル手前で止まった。
「ハァ、ハァ、ハァ」
 荒い呼気の音が大きく聴こえる。
 全身は汗に濡れ、肩と胸が速く伸縮を繰り返している。
 両脚を開いて膝に手を付いていると、額や頬を伝った汗が顎から地面に落ちて、雨のような染みを作る。
「すごい汗ね。水持ってこようか? コーヒーならあるんだけど」
 美那斗に近寄りながら紙戯が言うと、美那斗は顔を上げ、途切れ途切れの言葉をかける。
「大丈夫、水は。それより、紙戯さん。白衣、後前だけど…」
 紙戯の服装の奇抜さにはもう慣れていたし、苦言を呈するつもりもなかったが、今の格好は明らかに白衣の着方が間違えている。前面を止めるはずのボタンがなく、首も詰め襟のような状態だ。だとすると、背中側は何も隠せていない形、つまり後ろから見たら下着姿と同じではないか、美那斗はそれを危ぶんだのだ。
「えっ、あら、だからかぁ。首がなんだか苦しいなって…」
 紙戯が首元に手を当てる。美那斗は呼吸を整えながら、紙戯の背後を確認する。すると、後側もしっかりと白衣が覆っているではないか。紙戯は白衣を二枚羽織っていたのだ。
「何だ、私てっきり…」
「んっ?」
 美那斗の杞憂など気づかぬ様子で、紙戯はタンブラーに口を当てて濃く淹れたコーヒーを一口啜り、大きく息を吐きだした。
「何だか煮詰まっちゃってさぁ。ブースターやシグナルの件もそうなんだけど、この間美那斗ちゃんが言ってた<マザー>の声が、どうも引っ掛ってしょうがないのよね。ホーンって発しようとしてたっていうけど、私にはそうじゃなくて別の言葉を話そうとしていたように感じられて。ラスツイーターは話せないってのは、単に生命としての初期段階に過ぎないのじゃないかとか、『オーン』という言葉自体に意味があるのじゃないかとか。オーンっていうのは創造神ブラフマーから発せられた最初の言葉じゃない、ホーンっていうのは美那斗ちゃんがつけた名だけど、似てるわよね。何だか奇妙な感覚が纏わり付いて離れなくてさぁ。んーーーー。発想が偏り過ぎだし、廻転が悪いし、歳のせいかしらね」
 腕を大きく上げて、身体を伸ばそうとすると、重ね着した白衣が邪魔をする。
 紙戯が現在取り組んでいる研究課題が何なのか、美那斗は尋ねたりしない。おそらくそれは幾つも同時に並行して進行しているのだろうし、一通りの完成を見ない内に紙戯が語ったりしないのを良く知っているからだ。独語のような喋りは、相手に教える為のものではなく、溢れ出す思考が言語になっているに過ぎない。そんな時は尋ねるよりも、むしろ関連のない方向へ話題を振るように美那斗は気を配っている。
「ついさっきね、庭の奥の方で白骨になっている蛇を見つけたわ。頭から尻尾まで、綺麗に残ってた」
「えーっ、美那斗ちゃん、そういうの苦手じゃないの? 普通、女の子はそういうの見てキャーとか言って、悲鳴を上げるものなのよ」
「みたいですね。けど、本当に綺麗だったわ。細い弓形の骨がたくさんあって、それが繋がって、肉も皮もなくなってて、誰にも知られず一人で死んでいったのよね。悲しむこともなく、足掻いたりせず、自分の身に起こることを素直に受け入れて。何て強いのかしら。私はこんなにも藻掻いて、運命をそのままうけいれられないでいる」
「それが人間って奴よ。運命に抗うからこそ進化してゆくの」
 また一口コーヒーを含む。見上げる紙戯の視界に、空を飛ぶ鳥の群れがあった。渡り鳥だった。
「ん、あれ、雁だわ」
 首の長い鳥が天空で編隊を組んで南の方角へ飛んでゆく。奇しくも美那斗が蛇骨の形状を言い表したのと似た、弓のような隊列を成して、雁が懸命に羽ばたいている。薄い青の空を背景に、力強く、ひたむきに飛び続けている。
「鳥は、生まれたばかりの若い鳥でも、何処に行くのか知っているのよ。本能に従っているから、不安や迷いはないのでしょうけど。人間は迷う。迷うからこそ、人間らしいじゃない」
 美那斗も紙戯に倣って空を見上げた。
「渡り鳥って、ずっとずっと飛んでいるんでしょ」
「そうね。種によっては北極圏から南極圏まで、太平洋を縦断する鳥もいるわね」
「すごいのね。私もそんな力が欲しい。どんなに遠くても迷ったりしない力」
 渡り鳥の群れは見る見る内に空の端へ移動してゆく。
「宮古島ーーーー」
 紙戯が言いかけたのは、宮古島に伝わる昔の風習の話だった。
 サシバという名の鳥がいる。鷹の仲間で、翼を広げると一メートルを越し、小動物や昆虫を捕食するが、秋には東南アジアへ渡って越冬する。宮古島はその経由地にあたるが、木に止まって休むサシバは素手で捕らえることが出来る程、疲れ果てているそうだ。
 遠い距離をひたすら飛び続け、予め蓄えたエネルギーも使い果たし、目的地に辿り着く頃には、見るに忍びない程痩せ細ってしまい、人の手で簡単に捕らえられてしまうのだ。
 美那斗にそんな思いをしてほしくないと、この話を切り出そうとした紙戯であったが、自らの意思を容易に覆す美那斗とは思えず、続く言葉を飲み込んだのだ。
 それでも紙戯の表情が曇るのを垣間見、何となく察すると、美那斗は話題を変えるように唇を開いた。
「泰朋さんがね、こんな事を言うの」
 渡りの雁は、もうその姿を空の向こう側へ隠してしまった。薄く白い雲がいくつか浮かんで、鳥達の群れを名残惜しそうに見送っている。
「ラスツイーターは自分が全て斃すから、私は闘う必要はないって」
「へっ、へぇ。そう」
 自分の声がいささか上ずって聞こえ、小さく咳払いしながら、紙戯はその時の泰朋の様子を想像してみた。頬を真赤に染めてなかったろうか。頻りと目を瞬かせてなかったろうか。頭髪をボリボリと掻いてなかったろうか。頭の中の泰朋を紙戯は揶揄するように凝視しながら、笑いを堪えていた。笑いを飲み込もうとしているのは、美那斗がいたって真摯な面持ちを崩さないからだ。
「紙戯さんはどう思った? 私は、なんでそんな非道いこと言うのだろうって、悲しくなったわ」
「ひどい?」
「だって、自分で言う様な事ではないけれど、私、毎日がんばっているわ。変身するために一生懸命やってるの。なのに、そんな事言われて、ちょっと考えてしまったの。あの人の言うように全て任せてしまったら、色々な辛い目に合うこともなくなるし、がんばらなくて良くなる。私、あの人に甘えてしまいたくなったのかもしれない」
「甘えたいって思わせるから、非道い人、なのね…」
 世界中の新技術のレポートや科学論文なら日に何件も目を通している紙戯だが、女性心理については情報を仕入れる術がほぼ皆無である。数少ない参照対象は彼女の姉達くらいのもので、あまり参考にはならないかもしれないが、それでも女心としては頼れる相手がいるというのは安心できることだし、大抵は嬉しいと感じるのではないだろうか。だが、少なくとも美那斗はそうではないらしい。
「どうしてそんなに変身に拘るの?」
 空を見上げていた顔を下ろすと、真直ぐな視線で見つめてくる紙戯の問いに会い、美那斗は躊躇いがちに目を伏せた。
 理由は幾つもあるはずだ。けど、実際はどうなのだろう。改めて自分に問いかけてみる。答えはすぐには見つからず、しようが無しに思い付いた事柄から口に出してみることにした。
「人類の平和のためです。突然現れて人間の生活をめちゃくちゃにしてしまうなんて、絶対許されないことでしょ」
 人類平和などと人が言えば失笑を買うようなことも美那斗は平気で口にする。彼女が言うと正気かと疑う気にもなれないし、彼女自身本気でそう思っていることが澄んだ瞳から感じられる。
「これは父の夢でもあるので、私がその意志を継いでゆきたい。世界から争い事が失くなるよう力を尽くしたいわ」
「うん、そうね。それは良く解るわ。美那斗ちゃん、教授の事好きだものね」
「最近ようやく父の死を受け入れられるようになってきたみたい。もうこの世にはいないんだって。でもお父様が生きていた証は私が残してゆきたい。思いを継いでゆくためには、夢を継いでゆこうって、そう思うの」
「立派だと思う。けど、それって変身しなくても可能なのではないかしら」
「お父様の遺言、覚えてる?」
 <マザー>に怪人にされた月崎護が、単身この館の研究施設に戻ってきた時、その怪人はホワイトボードに文字を書いた後、姿を消した。
「怪人を排除しなければ人類に未来はない。これは夢を叶えようとする人と欲望や煩悩を制御出来ない種との闘いだ。向こう側にとり込まれる前に私はコアとなり、人類の力となる」
 紙戯は一文字たりとも間違えることなく諳んじてみせたが、続く言葉を口に出さなかった。代わりに美那斗が続ける。
「後は美那斗に託する。月崎護」
「それだって、美那斗ちゃんに闘えって言っているのではないでしょ。むしろ父親だったら娘に闘えなんて言わないものじゃない?」
「それともう一つ理由があるの。お母様のことよ」
 紙戯は月崎環汽という人物を実はほとんど知らない。おそらく言葉を交わしたこともないはずだ。
「最近よくお母様の夢を見たりして、昔のことを思い出してみるの。お母様はきっと、母親になりたかったのだと思う。あまり家にいない人だったのもあって、どちらかと言うと私はお父様に懐いていたのね。きっと、辛い思いをしていたんだろうなって」
 環汽は美那斗に対してどんな感情を抱いていたのだろう。子供側の経験しかない二人にとって、親の気持ちというものは想像の域を越えることはないが、少なくとも子の心情は理解できる。日頃会うこともない親を好きになるのは難しく、ましてその親が愛情を傾けないのであれば尚更であろう。
 一般的な家庭とは大きく隔たりのある環境下なのだから、美那斗親子の関係も紙戯には計り知れないものがあろうけれども、母親の薄情が子供の責任だとは思えなかった。
「それを気に病むのは違うんじゃない」
「うーん、気に病むとか、そういう事じゃないの。ただ、もう一度お母様と話がしてみたいの。お父様の事は記憶データを見て、いろいろ知ったわ。中にはつまらない物や、その、男性特有の奇妙な事なんかもあって、知らない方が良かった事も沢山あったけど。けど、お母様の想い出が私の中でどんどん消えて失くなりそうなの。だけど、変身すれば声が聴こえるっていうでしょ」
「…声っていっても、煩悩が言語化したものだから、会話は出来ないのよ」
「それでもいいと思ってます。母親になりたいという欲望に取り込まれているなら、お母様を救ってあげたいの。これは、これだけは、泰朋さんじゃ駄目なの。そう。そうよ」
 美那斗の躰を突き貫くように、空から答えという光明が降りてくるようだった。
「最初は変身してお父様の仇討ちをしたいと考えていたけれど、そうじゃないんだわ。私はお父様のコアと一緒にお母様を救いたい」
 心の靄が晴れてゆくような美那斗の表情の変化を、紙戯は何とも言い表せない複雑な心情で見つめた。
 美那斗をサポートする、その想いも、考えも、以前と何ら変わるものではない。ただ、紙戯という風変わりな名を付けた父親をラスツイーター絡みの事件で亡くしている彼女にとって、怪人を滅ぼすのは共通の祈りであり、誓いであると信じていた。それが、怪人を救うという発想を抱く美那斗に戸惑いを覚えた。
 上手く整理の付かない思惟を抱えたまま、タンブラーの中のコーヒーがいつもより酸っぱく感じられ、紙戯は口の中の琥珀色の液体を無理矢理胃に流し落とした。
 世界は国と国との大規模な戦争、続く大国の冷戦、代理戦争を経て、テロの時代に突入したと云われている。平和な暮らしをしている一般市民が、ある日突然テロという名の戦争の犠牲者となり、家族や友人知人は悲しみの底に突き落とされる。
 いかなる理由があろうとも、許されざる所業であり、断然罰せられるべきである。
 そういった点で、ラスツイーターも同様の存在である。
 憎しみの感情が同一だと思うからこそ、月崎邸に留まっているのだ。足元が揺らぐような気がして、視線を自分の足に落とした紙戯は、サンダルとスリッパを片方ずつ履いていることにやっと気付いたのだった。
「何してんだろ、私」
 小さな声で呟いてみると、切ない気持ちに取り囲まれた。
 初冬の空を雁は渡って行った。シギも渡り鳥だが、こちらのシギは並ぶ仲間もなく、飛行方向を見失ったような、不安な喪失感に胸がざわつくのを制御しかねていた。


 ストーンウォッシュジーンズとカディ生地の白シャツが辺見のいつものファッションで、シャツには襟の付いたものと立ったものの、二パターンがあるだけで、あとは同じものが何着かあって、それらを着回しているらしい。だが、この季節にはやはり寒さが身に沁みるらしく、渋目のアースカラーのアルパカのセーターを重ね着している。
 そんな冬の装いの辺見の隣で迂闊に口を滑らせてしまった美那斗は、激しく後悔する羽目になる。
「この車、前にも乗らなかったかしら」
 すぐに辺見の大きな反駁が美那斗の右耳を直撃する。
「何をおっしゃいます、お嬢様。一体どのお車と勘違いされているのですか」
 思わず両耳を手で塞ぎ、眉根をしかめる。
「そう言えば、あれは屋根のない車だったわ。そうね、これは髪が乱れなくて助かるわね」
「シェルビーコブラの事を言っているのですか? 全然違うじゃないですか! 車体の色も、大きさも、ハンドルだって逆ですし。何をずぶの素人みたいなことを仰られて。この辺見があれ程お教え致しましたのを、忘れて仕舞われたのですか」
 忘れるも何も、話など聞いてさえいないのに、そう反論したかったが、騒音の遮断に専念することにした。すると案の定、お決まりの車解説が始まった。
「トヨタ・スポーツ800。通称ヨタハチ。日本が世界に誇る小型スポーツカーの最高峰とも言うべきもので、かのトヨタ2000GTとーーーー」
 辺見の口上が一分、二分と続くと、美那斗は心の中の思考に集中しようにも出来ず、やがて諦めてしまった。もうこうなったら、無理やり辺見の口を閉じさせるしかない。頭のてっぺんと顎の下とを両手の平で挟み、ギュッと抑えこんでやろうかしら。そう考えていると、
「おっと、渋滞ですかね」
 前方に長い車列が出来ており、やがて辺見自慢のヨタハチも停車を余儀なくされた。
「降りるわ」
 降って湧いたような僥倖に心中で感謝の言葉を述べ、ドアを開けて飛び出す。黒革のコートの前面を一気に開放すると、開けっ放しの赤いドアから車内に上半身を潜り込ませ、銃と剣を順に取り出し、脚のホルダーに装着する。
「じゃあ、行って来るわ」
「お嬢様、お気をつけて」
 戦いに赴く事を心配する表情の執事に、美那斗は
「辺見、コレも売ってしまうのですよ」
 と言い残すと、列を成す車の間を縫うように一気に駈け出した。
 辺見の情けないような呻き声に少し頬を緩ませたのも一瞬のことで、すぐに表情を引き締める。耳のセットフォンでは紙戯の声がサポートを開始する。
「ラスツイーターはその通りの先の右方向にいるわ。気を付けて。シグナルの光点がいつもより大きいわ」
「まさか、<マザー>?」
「前回出現した時のシグナルのデータと比較参照してみて、一致していない事だけは確認が取れてるわ。けど、別な解析方法でラスツイーターの特徴なりが判定できるかもしれないわね。現在出現中の怪人のデータ収集と解析はしているはずだけど、ちょっと警察庁に連絡してみる」
 紙戯との会話はそこで途切れ、美那斗は大型拳銃と剣をぶら下げながらの走行を苦とも感じずに通りを進むと、そこにラスツイーターの姿を見つけた。
 片側二車線の車道沿いの比較的広い幅員の歩道に立っている。
 何をするわけでもない。時折躰を揺する。車道は怪人の姿を目撃しただけでパニックを起こし、車両を放置して逃げ出す人間たちの阿鼻叫喚で溢れているが、それへは興味を全く示さず、昼の陽の光を灰色の身体に受けて、じっと同じ場所に留まっている。
 その様子は、まるで待ち合わせをしているかのようだ。
 恐慌に陥る人がいるかと思えば、歩道には意外なほどに多くの野次馬が遠巻きに囲み、怪人に視線を向けている。何を酔狂なと内心毒づきながらも、美那斗は彼らの横をすり抜けて前に出る。誰かの制止する声も起きたが、美那斗は気に留めなかった。
 ラスツイーターまで十メートル程の所まで近寄る。周囲に眼をやると、警察車輌の影はなく、サイレンも聴こえては来ない。やはり大きな組織になると出動に時間がかかるものなのだろうか。八橋風火らしくないという考えか脳裏を掠めたが、深く追求することなく、美那斗はラスツイーターの姿を見つめた。
 美那斗の双眸は怪人の左半身を克明に捉える。特徴的な形状を示すのが、頭部から背中、臀部へと並ぶ、大きな突起だった。
 丸い頭の後側に一つ、項の付根に一つ、背骨に沿うように四つ、尻尾のように一つと、計7つある突起は、板状で、大きさはまちまちだが先端が尖っていて、連想させるのは、美那斗の左太腿にセットされた武器と形状が良く似ている。そう、七本の剣が飛び出しているように見えた。
 顔面は丸く、口の周辺が前方へ出っ張り、イボイノシシのように牙が天へ剥き出しになっている。
 上半身は非常に発達して逞しく、肩も胸板も背も盛り上がり、反対に下半身は小さくコンパクトではあるが、雄牛のような脚部は走るのも不得意には見えない。
 首周りは襟を立たせているような襞がV字についているが、十字架が連なった鎖のようにも見えた。
(七本の剣…。セブンソード!?)
 胸に引っ掛かる蟠りがいきなり晴れると、美那斗は眼前に立つ怪人が何かを悟った。かつての西谷総、それがこの猛々しいラスツイーターの人間だった頃の正体だ。
 あの満月の日のことを思い出す。西谷は<マザー>の前へ進み出て、自分をラスツイーターに変えるよう懇願した。ホーンの力に対抗する為に怪人と化し、闘いたいと欲していた。
 これまでのラスツイーターは、出現すると誰かれ構わず暴れていた印象があるが、このラスツイーターがそうではない理由は、欲望そのものが相手を特定したものだからなのだろう。
「俺はセブンソード。俺を怪人にしてくれ」
 西谷の声が耳朶の内に鮮明に蘇る。
「あの怪人、西谷さんだ…」
 美那斗の漏らした呟きは悲愴だ。<マザー>がその特殊能力を発揮する場に居合わせたにも関わらず、両者を制止することが出来なかった。怪人にしてしまうくらいなら、いっそ人間の内に命を奪ったほうがマシだったかもしれない。<マザー>に銃を放てなかった。厭悪を誘う弾丸が一発でも当たっていれば、西谷の怪人化を阻止できたかもしれない。更にそれ以前に、泰朋を諭して西谷と対戦の場を誂えてやっていれば、西谷の願いは叶い、気は収まったかもしれない。なのに自分が闘おうなどという姿勢を示した。あまりにも愚かで、浅はかで、考え無しで、情けない女だ。
「違うわ、美那斗ちゃん」
 悲痛な声音を吐く美那斗を聞き咎め、紙戯が間髪入れずに否定する。
「そいつはラスツイーター。人間じゃないのよ。西谷なんて人間の名前じゃないの。そう、そいつは<ファイト>だわ」 
 美那斗に対し軽い苛立ちのこもった声が思わず紙戯の口を突いて出る。紙戯は先日の会話に続いて、再び違和感を覚えていた。怪人を救うとか言ったり、人間のように感情移入したり、そんな美那斗が信じられなかった。そんな感情をふんだんに含んだ紙戯の声だったが、臨戦態勢にある事に加えて、悲しみの想いに沈みそうな美那斗に気づいた様子はなかった。
「<ファイト>…」
 紙戯の付けた名を口にして、気持ちの整理をつけようとする。
「紙戯さん、泰朋さんは?」
「今向かっているわ」
 美那斗はコートを肌蹴ると、拳銃の握把を掴み、ホルダーから引きぬいた。遊底を引き、左手を台尻に添えて銃口を上げる。射撃場の的が狙いなら腕はほぼ水平だが、ラスツイーターが相手では照準は上を向く。弱点が特定出来ない以上、美那斗の定める狙いは眼だ。美那斗は照星越しにラスツイーターの眼を見つめながら、大胆とも言える速度で前に出る。
 距離が縮む。
 それでもラスツイーターは意に介さない。美那斗の事が見えていないのだろうか。
 逆に、美那斗は<ファイト>の姿がどうしても西谷の姿と重なってしまい、色々な思いが胸に去来する。どれもこれも後悔を従えていた。
 西谷は泰朋と闘うために美那斗を捉え、泰朋の闘争心を煽ろうとした。同じ事を今しないのは、やはり人間としての知能を失ってしまい、煩悩しか残されていないからなのだろうか。
 ラスツイーターまで五メートルの地点に接近し、美那斗は躊躇っていた。
 銃を撃ち、剣を斬り付け、多少なりともダメージを与えた方が良いのだろうか。それとも周囲に危害を与える素振りを見せぬ限り、手出ししない方が良いのだろうか。
「ーーーー撃たないの?」
 静かに時が流れるのを嫌悪するように紙戯が尋ねる。
「ここは泰朋さんにお任せします」
「でも…」
 紙戯の目の前のモニター上で、マップと重なって大きな光点が揺らめいている。その強い光は不気味で、不安と焦燥と敵愾心を掻き立てて止まない。紙戯は思わず視線を反らせた。
 突如、<ファイト>が喉を反らせて上空を見上げると、眼光を反射させた。犬歯を剥き出し、口元を歪めるのは、笑いの表情なのだろうか。あるいは美那斗が勝手にそう感じただけで、表情には何の変化もなかったのかもしれない。ただ、紛れも無く何かの気配を察したらしい。
 と、そこへ、数珠繋ぎに放置された自動車を飛び越えて来るものがあった。
 大型のバイクに似た獣と言おうか、有機物に似せて創造された無機質なオブジェと言おうか、その不可思議な物体がラスツイーターを高速で回り込みながら急制動をかける。けたたましい音と煙を立て、タイヤとアスファルトの焦げた匂いが立ち昇る。
「ホーン!」
「イーッ!」
 美那斗とラスツイーターの二つの声は奇しくも同じく喜色に染まって聴こえた。彼女らと更にその後方の人集りの見守る中で、バイクの形状を模った獣はフロントカウルとハンドル部分が持ち上がっていき、続いて前輪から腕を離すように上体を起こした。側面から膝を引き剥がし、爪先が路面を噛んで立ち上がろうとする。程なくそれは、二つに分離した。一つは泰朋の愛車グロム。もう一つはホーンである。
 ホーンは輝く金の体色を誇るように、雄々しく怪人と対峙した。ガラスを爪で引っ掻くのに似た不快な奇声をラスツイーターが頻りと上げている様子を見る限り、美那斗の考えは的を射ており、怪人の意思を聴くことができるホーンには、相手の正体がはや明白になったことだろう。
 数瞬、両者は睨み合うと、唐突に闘いが始まった。
 あれ程動かなかったラスツイーターの動きは機敏で、両者は両手を固く組み合った。並ぶとラスツイーターの方が背丈が高かった。人間の時は泰朋の方が身長が高かったが、大きくなりたい、強くなりたい、という潜在意識の現れなのだろうか、ラスツイーターの方が頭部丸ごと分、上に抜けている。
 指先から腕、肩、胸は勿論の事、踏ん張る爪先や踵、腹部、尻尾に至るまで、全身に力が漲っていく。たちまち周囲の熱量が増大していくような熱気が、美那斗の髪を炙る。
 力は拮抗していた。
 両の腕に渾身の力を込めて、相手の手首を折り、腕を捻じ曲げてやろうとするが、互いに譲らず、静止画のような闘いが続くかに思えた時の流れを、<ファイト>が変えた。
 丸い禿頭を灰色に塗り込めたような頭部が一度後方へ反らされると、反動をつけて振り降ろされる。ホーンが背を反らせて強烈な頭突きを躱す。<ファイト>の頭頂から生えた剣がもしも額から伸びていたら、ホーンの鼻面は切り裂かれていたかもしれない。
 更に<ファイト>の攻めは連続し、今度は両腕を引き付けながら、頭を逆に振り上げる。逆さに生えた牙がホーンの顎を掠める。ホーンはたまらず、両手を振り払い、大きく後方に飛び跳ねて逃れる。
 遠巻きに見物を決めていた群衆から悲鳴や絶叫が起こる。
 踵を返すと、ホーンは駈け出した。交差点を曲がって逃走するかに見えたが、実際は人々に危害が及ばないよう、闘いの場所を変えようとしたのだろう。<ファイト>の方もそれを察したかのように黙って追走する。
 最初にいた大通りには、およそ五百メートルの距離をとって平行に配された別の大通りがあり、ホーンが入ったのはその二つの大通りを結ぶ道路だ。対抗に車線のゆったりした広さがあるが、この時期になると車両の通行を禁止し、左右に並ぶ街路樹には一本一本に電飾が施され、聖夜の装いに変わる。街路樹の向うに並ぶ店舗はどれも、赤と緑と白を基調とした色彩に飾られ、冬の幸福感を扇動しようとしている。
「イーーッ」
 ラスツイーターの声が上がると、ホーンの脚が止まった。
(ここでいいだろう)
 まるで怪人にそう促されたようだ。
 ホーンや怪人の速度には到底及ぶべくもない美那斗が通りの角を曲がり、ようやく追いついた頃には、両者は再び対峙していた。美那斗の眼には<ファイト>の背中越しにホーンの黄金色の躰が見える。
 右手が持ち上がり、肘を水平にして拳で自らの左胸を叩く。自分を鼓舞するホーンのポーズだが、ドンという音が聞こえそうな程の衝撃で、当たる瞬間、水面に石が落ちるような波動の白い輪が、さっと広がるように美那斗には感じられた。
 波紋は全身に拡散し、三度胸を打った時には、躰のあちこちに白い紋様が浮き出してきた。試合に際しては幾度と無く見たであろうキャノン泰朋のルーティンポーズを、ラスツイーターになってもまだ記憶しているものなのだろうか。<ファイト>は一度首を傾げた後、嬉々とした様子で肩と胸を上下に揺らす。それは闘うことの出来る喜びに満ち溢れているかに見えた。
 ホーンが腕を振り上げて飛び出した。<ファイト>の顔面めがけて拳を突きつける。すると<ファイト>は難なく躱し座間、その腕を捕まえると同時に躰をひねり、ホーンの巨体を一本背負いのように投げ飛ばした。
「イッ」
 訝るように怪人な唸る。投げ飛ばした気がしない。まるで、投げさせられたようだ。その疑念が発した奇声だった。
 宙を舞うホーンは空中で巧みに態勢を整え、着地する。そこは美那斗のほんの目の前だ。自分と美那斗の間にラスツイーターが居ることを嫌ったホーンは、三者の位置関係を変えたのだ。<ファイト>に向かい合いながら、軽く首を捻るホーンの渦巻く角と複眼が美那斗を視ると、あの日の泰朋の言葉が蘇ってくる。
 自分は闘わなくてもいいのだ。むしろ近くにいるとホーンの邪魔になりかねない。美那斗は後退りしながら、頷いてみせた。
「私の事は気にしないで。安心して闘って」
 小さな呟きだが、ホーンの耳には鮮明に届いたはずだ。するとホーンは笑ったように見えた。まるで、普段は厳しい母親に褒められた幼子のように無邪気な感じがして、美那斗は何故か可笑しかった。


「バズーカ!?」
 八橋風火は驚きのあまり溢れでた自分の声が、コンクリート打ちっぱなしのフロアに殊の外よく響いた事に驚きながらも、相手の追分臨の眼鏡越しの瞳を険しい表情で見つめた。
 解れ毛が一筋も無いようにきっちりと結い上げられた髪、黒い上下のパンツスーツは、共に彼女を凛々しくみせることに成功していた。勇猛な女戦士という代名詞をつけるとしたら、この八橋風火以外の者はまずいないだろう。そんな事を夢想しながら、追分臨は大きく勢い良く首肯してみせた。
「街中で重火器を使用すると?」 
 もう一度確認の意味で八橋が問うが、反応は全く同じであった。
 月崎研究スタッフがアドバイザーとして警察庁に傘下入りしてから、各人専門分野の研究に就いたが、追分だけは専門外の武器の研究開発に関わった。
 フロアには十名以上のスタッフや関係者がいて、各々のデスクで作業に没頭している風を装いながらも、両者のやり取りに注目している。
「さっきは分り易く言ったけど、正確にはバズーカ砲ではなく、ジャベリンよ」
 所謂戦車を含む装甲戦闘車両に対する武器として挙げられるミサイルの発射方式にはいくつか有るが、比較的古い兵器であるバズーカは、実戦においては使い勝手の良くない点が多い。中でも前後に爆風が起きる問題は大きく、射手側に怪我人が出たり、相手側に射出地点を容易に悟られる等、危険性を伴う兵器である。これを改良したものが無反動砲と呼ばれるもので、ジャベリンはランチャーから射出されるミサイルのことである。
 というような説明を始める追分だが、その顔が得意げであることに苛立った八橋が途中で遮る。
「ジャベリンがどういうものかは知っている。私自身何度か射ったこともあるわ」
「えっ!?」
 大袈裟に驚きの声を上げたのは、八橋の後方に立っていた平山森羅であった。
「これは我々警察の扱う様な類の武器ではなく、完全な戦闘兵器。扱えるのは自衛隊だわ」
 平山の甲高い声には一瞥をくれただけで済ませ、八橋は自分の言葉に虚しさを覚えていた。
 ラスツイーターという謎の生命体が突如地上に現れ、人々を襲い、傷付け、あるいは命をも奪っている。理由があるわけでもなく、意志の表明があったわけでもなく、あまりにも一方的で理不尽な怪人の行為に人々は為す術もない。ただ蹂躙されるがままの状態だ。これはテロと何ら変わらないのではないか。つまり、国の領土内で戦争が勃発したも同じなのだ。
 最早、警察の案件の域を超越している。応戦が必要なのに、戦闘兵器を使えないというのは、あまりにも馬鹿げた考えではないか。
 警察の研究スタッフの思考は、追分にはあまりにも稚拙に感じられた。ある者はネットを投げて捕縛し、高圧電流を流そうだとか、怪人にのみ効くウィルスを発見し、体内に打ち込むだとか、またある者は液体窒素で凍らせようだとか。八橋としても、そのような武器の開発に期待していた。
 だが、追分の提示案は大仰でいながらも、一番現実的な気もした。いつの間にか警察という組織の固定概念に縛られていたのかもしれない。
「そもそもラスツイーターはどうやったら死ぬの?」
 追分臨がおどけたように体をくるりと一回転させる。月崎邸でのかつての同僚達がこの場に誰一人としていない事が追分の強みなのか、周囲から回答がない事に勢い込んでいく。続ける言葉は向浜紙戯の受け売りなのだが、そんなことはおくびにも出さない。
「ラスツイーターは人間の煩悩や欲望が強大化したもの、潜在意識が禍々しい形となって具現化したものと言えるわ。つまり、ラスツイーターとは有って無いような物。人間を始めとするいかなる生命体とも違うのよ。奴らが生きていると思えば生きているし、そうでないと思うことが、すなわちラスツイーターの死よ」
 平山が腕を組んで天井を睨み、うーんと唸っている。八橋はじめ他のスタッフも理解できていないようで、反応は等しく薄い。しかし、反駁を好まない追分はかえって意気揚々としてゆく。
「つまり、奴らが死んだと思うことが、死になるのよ」
「それとジャベリンがどう繋がる」
「解らないなら教えてあげる」
 八橋の独語を打ち消すように、追分が続ける。
「どんな目に遭ったら人間は死ぬか、誰でも皆、ある程度は知っているでしょ。銃で撃たれて血が出たり、刀で首を撥ねられたり。ラスツイーターも人間だった時の記憶は多少残っていて、特に生死に関わる重大な事象なんかはね。だから仮に首を斬られたら、ああ、もうダメだ。俺は死ぬんだ。って思って、実際に死ぬわけ」
 少し力説しすぎてテンションが上ったのか、上気する乾いた頬をずり落ちた眼鏡を整えながら、一呼吸おいた追分は、デスクに置かれた筒状の兵器をポンと手で叩いた。
「とはいえ、人間がラスツイーターの首を撥ねるなんて出来っこないわけだし、そこでこの子の出番ってわけ」
「この子って…」
 平山がボソリと呟くのを聴こえなかったことにする。
「ロケット弾の威力でもラスツイーターの体を跳ねとぱすのが精々ね。多分傷付けられはしないでしょう。じゃあ、何のために撃つか。この弾の中には増粘剤を添加した燃焼剤を詰めておくの。そうすれば、暫くの間ラスツイーターは全身炎塗れになって、もう駄目だ、死んでしまうって思って、実際そうなるって算段よ」
「待って。増粘剤の添加された燃焼剤? それってナパームのことよね」
 八橋は開いた口が塞がらない思いだった。
 この国がかつて戦争の当事者であった時、数々の空爆を受けて焼夷弾の豪雨を浴びた。殺戮兵器は進化し、ベトナム戦争ではナパーム弾として使用されたその兵器は、どちらも領土を焦土へと焼き尽くすのに変わりはない。自分は戦争の世代ではないが、焼夷弾と聞いて悍ましい戦争の時代を想起する人はまだ多いはずだ。
「平山、どう思う。街中でナパーム弾を使用する事」
 更に若い世代の戦争に対する考えを聞いてみたいと、八橋は平山に尋ねた。
「一般市民に犠牲者がでそうですね。お偉いさんは根回しに奔走することになる。まぁ、ダイエットには丁度いいでしょう」
「相手は人外の怪物なのよ。悠長なこと言ってる場合じゃないでしょ」
 男と女の声に前後から挟撃され、八橋はこめかみの辺りを指で抑えた。血管が浮き出ていて、指先が凸部に触れた。平山に訊いたのが間違いであったし、もう一方は惨事を望んでいるように思えた。科学者が科学の名の下に、かつてどれ程の殺戮を許してきたか、そして彼らがどれ程の自覚を持っているのか、八橋は理屈ではなく感情で追分の考えに抗いたがっている自分が存在することを知った。
 同性としてではなく、おそらくは母であるかそうでないか、自分の子を持つかそうでないかで、全く違う思考回路に至った二人の女性の食い違いが、暗い闇の渦を生成したのだろう。
 八橋は大いに反対であったが、上官の結論は是であった。
「この際止むを得ないだろう。試験導入という形で、最終的な発射許可は私が下すが、兎も角にも早急に実行しうる態勢、配備を整えておきたまえ」
 課長の柳の命は、追分の新兵器使用に関する意見書を読んですぐのものではむろんなく、他部所を含む上層部での会議の結果を知らせるものであった。
 この様な経緯で開発されたランチャー及び対ラスツイーター用特殊ロケット弾はMAT改と命名され、投入、配備がホーンと<ファイト>が闘う裏で密かに実行されていた。
 まるで格闘技大会の模様をテレビ中継で観戦するように、八橋は特製の小型トラックの荷台を改造した車内に幾つも配置されたモニターを見ていた。ブラックアウトしていた画面が順次明るくなると、様々な角度からホーンと<ファイト>の戦う姿が現れてくる。電飾のとりつけられた街路樹越しに立ち並ぶ店の中や、やや遠くのビルの一角など、警察の特殊部隊がカメラを設置し、その姿をファインダーに捉えていく。
「MAT改の配置は?」
「指定ポイントへの配置完了。発射の指示を待っています」
「周辺の民間人の避難状況は?」
「まだ完了していません」
 車内ではいくつもの声が交錯し、情報の収集、把握が激しく続けられていく。状況はどうあれ、兵器を使用し、怪人への効果を確かめなくてはならない。多少の犠牲が生じようともだ。
(それが多少で済めば好い。というのが、正直な上の考えだろうが、いざそうなった時、誰を人身御供に使う気だか…)
 八橋は心中で唾棄しながら、狭い車内でモニターを睨みながら、自分の微妙な立場に、川面を流れる枯葉に似た無力さを感じながら、モニターの一つに映る美那斗の姿を認めると、真剣な佇まいの彼女の身を少し案じた。今、作戦を決行すれば犠牲を被る可能性が一番高いのは、間違いなく美那斗だろう。
 だが、それでも仮にそうなったとしても、決行の発令を出す責務に心を病むことはないという、妙な自信が八橋にはある。時々、死というものに対して関心が失くなるというか、心が感受性を失うような感覚に陥ることがある。
 かつての戦場での体験が八橋をただの木偶人形に作り変えてしまったのかもしれないし、この所の多忙の結果、子供の事で母と揉めたことで、深くどろりとした倦怠に飲まれてしまったのかもしれない。
「射程がクリアになった者から、順次始めろ」
 八橋の開始命令は唐突で、後方に立つ平山と追分は面食らった。


 ホーンと<ファイト>の闘いは続いていた。
 マーシャルアーツの世界大会を見るようなわけにはいかなかったが、それでも固唾を呑む展開で、一瞬たりとも目を離せなかった。殴り、蹴り、締め、投げ、衝き、引掻き、咬む。全身を行使し、ありとあらゆる攻めが連続して繰り出さる。人間とは違って、兇器はいくつも有ったが、その点でいくとホーンに優位性があったかもしれない。
 戦いの最中、ホーンの拳は次第に形状を変えていった。尖鋭な突起が伸び、指の関節一つ分程も突き出すと、拳を打ち据える度に<ファイト>の体へめり込んでいく。
 <ファイト>が野太く喚き、口腔を開く。
 対するホーンは叫び声一つ上げず、一見優勢に思えたが、どこか焦燥感をつのらせているように、美那斗には感じられた。一刻でも早く闘いを結着させたがっているのだろうか。
 足を<ファイト>の太腿に乗せて深々と爪先を喰い込ませて離さないようにし、片手で首を締め上げ、反対の手で脇腹を殴打し続ける。拳から突き出た鋭利な突起が肉を抉り立てる。<ファイト>は苦悶に耐えつつ、ホーンの腕を捻り上げて首から引き剥がそうとしている。
 <ファイト>の喉が反り返ると、頭部と項と背中の剣先が擦れて、シャリシャリと嫌な金属音を放つ。両肩が異様な程隆起し、渾身の力でホーンの腕を捻じ曲げると、喉と手の間に幾分かの隙間ができた。
 すると、<ファイト>はものすごい勢いで頭を振り下ろした。
 重い打撃音が響き、両者の頭と頭がぶつかる衝戟で、二つの体は別れた。意識が朦朧とするのか、どちらもしばし起き上がることも、動くことも出来ずにいた。そんな状態であっても、ホーンの視線は美那斗を求めて彷徨った。
「えっ、何!? 何を探しているの?」
 特殊な視界を有するホーンには、常に美那斗の位置は把握できているはずだ。それでも美那斗の位置が気になってしかたがないように見える。人間の聴力には捉えられない<ファイト>とのやり取りで、美那斗の話題が上っているのだろうか。それとも何か他に問題視すべき事象が発生しているのだろうか。
「紙戯さん、警察の動きは判りますか?」
 月崎邸に居て、衛星からのデータを走査している紙戯は、ラスツイーターの動きを追いながら周囲の状況を探っている。警察の動向もその一つなのだが、セットフォン越しの紙戯の返答は動きを掌握出来ていない、という内容だった。
「多分秘匿された回線でやり取りしてるのだと思う」
「それってつまり、私達には内緒にしたい事があるってことですよね」
「協力している私達を蚊帳の外にして、なにか企んでるってこと?」
「きっとホーンの耳には警察の動きが聞こえていて、それで焦っているのかも…」
 美那斗の声が届いたのだろう。ホーンは強く頷いてみせた。
 ホーンの注意が逸れたと見るや、<ファイト>が飛びかかる。猪突猛進という言葉がぴったりな直線を描く動きだが、フェイクであった。ホーンの手前で<ファイト>は横へ跳ねると、回し蹴りがホーンの背を襲った。見るからに重量感のあるホーンの巨体が、あっさりと水平方向へ弾き飛ばされると、街路樹の幹にぶち当たる。ホーンの躯体のそこら中に突き出ているトゲが樹皮に刺さり、磔のようになる。
 ホーンは己の愚かさを呪った。自分と<ファイト>、美那斗の三者の位置関係が常に直線になり、その中央に自分が入ることで、<ファイト>の視界から美那斗を遮っていたのだが、その立位が三角形になってしまった。樹皮や樹幹を削り剥がし、自由を取り戻そうとしていると、ホーンの驚異的な聴力がその声を捉えた。
「発射!」
 直後、圧縮された空気が弾ける様な音と共に、空気を引き裂く音がしたのは、ホーンの頭上に近い位置だった。街路樹越しに並ぶ店舗群の中で、東南アジア系の輸入雑貨を所狭しと展示した建物の二階の開け放たれた窓と、申し訳程度に据え付けられたバルコニーから押し出されたミサイルが、まっすぐに<ファイト>の体を急襲する。
 その距離僅か二十数メートルであろうから、着弾までほんの一瞬のことだった。
 その一瞬の間にホーンは疾風と化した。 
 対ラスツイーターのミサイルの速度にすら負けぬよう。
(美那斗ーー!)
 心の内の叫び声に、背後の爆音が重なる。
 ミサイルは<ファイト>の右肩の付根を直撃した。
 凶悪な爆風がホーンの背に追いつき、全身を呑み込みながら焼き、次いで美那斗の前髪と頬を掠めながら焦がした。まさに間一髪、美那斗が爆風に曝される寸での所で、ホーンは美那斗の四肢を抱えることに成功し、そのまま駆け続けた。
 金属の様に硬質に見える躯体が、存外に温かいのだなと感慨を覚えながら、全身を隈なく包まれるように抱きすくめられながら、美那斗はホーンの匂いを嗅ぎ、肌に触れ、少なからず高揚していた。
 それはかつて、朝早い靄の中で泰朋の姿を見た時の恥ずかしさからくるドキドキと似ているようでもあったが、また別の感覚であったかもしれない。ただ、ホーンに対して感じるものと泰朋に対して感じるものとの境界線が曖昧になっていくようだった。
 美那斗を抱いたホーンが車両通行止めした通りの入口まで離れた時、大きな爆発音、大木が砕け、倒壊する音など、幾つもの破壊音が重なって起きた。
「ああ…」
 美那斗の熱を帯びた吐息がホーンの耳元に零れる。目に映る風景は一瞬にして変わってしまった。何が起きたのかさえわからぬままに、美那斗は驚愕に咽いでいる。
 振り向いたホーンと美那斗の眼には、吹き飛ばされた<ファイト>の体が炎に包まれているのが映った。
 ミサイルの威力は絶大であった。通常の武器が全く歯が立たない超硬質な怪人の体だが、吹き飛ばすことは出来たようだ。怪人自らが弾丸と化した様に、大木の幹を砕いて、尚勢いは止まらず、鉄筋コンクリートのビルに衝突して停止した。ビルには無数の亀裂が走り、壁材が大ぶりなブロックで崩落し、<ファイト>の全身を驟雨のように打ち付けた。
 ミサイルの内側にはジェル状の燃焼剤が充填されている。キャンプやバーベキューの際に使う着火剤のようなもので、これが四散し、<ファイト>の全身を覆った。たちまち炎と黒煙が立ち上り、肩といわず頭部といわず、どこもかしこも赤と黒の色彩に飲まれる。
 炎による猛威はラスツイーターだけに限定できる物ではない。薙ぎ倒した大木も、ビルも、路面も、<ファイト>を中心に火の領土を瞬く間に広げてしまった。急激に周囲の温度は上昇する。
「イイ、イーーーッ」
 <ファイト>が呻き、立ち上がる。
 灰色の魔神は炎を身に纏い、ゆったりとした、それでも確実な足取りで歩くと、通りの中央まで進み出た。
 ひっしと抱き締めた細い体を名残惜しそうに離すと、ホーンは美那斗に指を二本立てて見せた。
(ミサイルはあと二発ある。退っていろ)
 と、言いたかったのだが、美那斗には伝わらなかった。それでもホーンが自分を護ろうとしている事は痛い程強く理解できたし、炎の燃え盛る危険な闘いの場にあってさえ絶望的にならずに済んだ。
 美那斗に背を向けて、ホーンが両手を広げて構えた時、二発目のミサイルが<ファイト>を強襲した。
 先程の雑貨屋の二階とは反対側の狭い路地から射出されたミサイルは、まともに<ファイト>の背中にぶち当たり、巨体を吹き飛ばした。地を這うように滑りながら、更なる炎に包まれてゆく<ファイト>は、車道と歩道の境目で止まると、苦悶の雄叫びを放った。
 揺らめく火炎と黒煙。
 ラスツイーターの絶叫が、熱を伴って大気を震撼させる。
 人間にはしては為らぬことがある。犯してはならぬ領域がある。神の逆鱗に触れると祟りにあう。そんな事柄を想起させずにはおかない、それは身の毛のよだつ、聴くだけで泣いて許しを請いたくなるような声だった。
 熱風で街路樹が煽られる。植物やアスファルトの焦げる臭いを引き連れた熱い空気の塊が襲撃する。身を盾にして美那斗を護るホーンは、爆風がやや薄らぐかと見るや、美那斗をその場に残して駈け出した。
 三発目のミサイルが発射されようとしているのを、ホーンは察していたのだ。それは歩行者天国の反対側の入口に当たる大通りに停車した、大型車両のサンルーフに設置されていた。
 全速で<ファイト>を追い抜くと、特殊なミサイルの照準の前に立ち塞がり、大腕を開いた。まるで炎に焼かれて蜿くラスツイーターを庇うような素振りだが、実際に護ろうとしているのは美那斗に他ならない。
 ミサイルが狙う射線上には<ファイト>がいるだけではないのだ。ホーンは警察の特殊部隊の行いに激しい怒りを覚えた。怪人を排除するためには、人間に犠牲が出るのもしょうが無しとする思想は、正義感という観点から許容しがたいと感じ、鋭い眼光を投げつけていた。
 実行部隊と本部の間で、無線によるやり取りがなされ、ホーンから二百メートル程に停止していた大型ボックスカーは数秒後に発車し、視界から外れた。三発目のミサイルは発射されなかった。
 一方、<ファイト>は仁王立ちのホーンとは逆に、全身を炎で攻められながらも立ち上り、大声で叫ぶと、歩道を走り出し、店の壁をよじ登り始めた。両手の指をコンクリート壁にめり込ませ、両足の蹄で穴を穿ち、垂直に二階まで登ると、ミサイルの第一射があったバルコニーの内側に踊り込んだ。
「うわぁーーー」
「くそっ」
 室内から人の声が洩れ聴こえて来たが、多少意味のある言語も始めのことで、あとは聞くに堪えない悲鳴に混じった不快な音が続く。
 ミサイル発射の特殊部隊は二名編成であり、八橋の指令は一撃離脱であった。三脚で固定した砲台にセットしたミサイルは、圧縮空気で放出した後、自立飛行して標的を捉えるが、ミサイルの射程としてはあまりにも近距離での使用であるために、正確な照準が求められる発射となった。無反動砲故に室内でも使用は出来たが、隊員の訓練は決して充分とは言えず、撤収に時間がかかりすぎた感は否めない。
 <ファイト>が壁をよじ登って窓から侵入した時、二名の隊員の内一人は砲台を背に担ぎ、もう一名は持っていたミサイルを使った後は護衛役に変わり、自動小銃を携えていたが、使用の機会はなかった。仮に撃てたとしても<ファイト>の体に傷をつけることも出来なかったろう。数秒後にはバルコニーから上体を乗り出した<ファイト>が窓枠に両手を掛けて外へ飛び出した。残された二人がどのような末路を辿ったかは想像もしたくない。
 聖夜を迎えるにあたって綺羅びやかに装飾された街道は火の猛威に舐め上げられ、火炎は沈静する様子をすぐには示さない。一番の被害を受けているのはもちろんラスツイーターで、その炎の怪人は次の獲物を狙って動き出した。
 けたたましい蹄の音を立てて、雑貨屋の向い側の店へと走る。パン屋、カフェといった飲食店が軒を連ねる先に細い路地があって、その奥へと入ってゆく。巨体を左右の店の壁面に当て、擦りながら進んでいくと、先刻と似た人間の悲鳴がまた起きた。
 アスファルトの上に座したまま、美那斗は両耳を腕で塞ぐように、頭を手と膝頭とで挟みながら呟いた。
「ああ、なんてことなの。西谷さんはただホーンと闘いたいだけなのに…」
「繰り返しになけど、奴はラスツイーターよ。人間ではないんだから、人間に抱く感情は捨てなくちゃ駄目よ」
 耳元で剣のある紙戯の声がする。遠くでは人命が消えるのに抗う声がしている。
「人間がラスツイーターを怒らせた結果、被害が出てしまったのです。さっきだって私がすぐそばにいてもラスツイーターは手出ししなかったわ。人間の時は私を人質にして闘おうとしたのに、怪人になったらそれさえせず、純粋に闘いたくて待っているだけだった」
「純粋…?」
 美那斗の使った単語が紙戯の心に引っ掛った。己の欲望に従っているだけのことを、純粋だと言うのだろうか。そうかもしれない。無邪気な幼子が純粋であるように。だが、純粋だからといって人を殺していいということにはならない。
 ラスツイーターの求めるものを与え、満足が得られれば、闘いにはならないのだろうか。人間が未知なものに畏れを勝手に抱くから、恐怖を振り払おうと足掻くから、争いが起こるのだろうか。
 紙戯が科学者として尊敬する月崎護はラスツイーターになってさえ争いの元凶にはならなかった。だが、自分の父親の死に様を想起する時、怪人に対する怒りの念を拭うことは出来ない。
「仮に煩悩が純粋であったとして、その煩悩を放置すればどうなるか散々見てきたでしょう。<ノート>や<コレクト>だってそうだし、目の前の<ファイト>だって、今は人を殺している。彼らにだって家族はいて、残された人がどんな辛い目に遭うか。美那斗ちゃん、あなたはどっちの味方なの!?」
「そんなこと、決まってるじゃないですか。私はただ…」
「ただ、何!?」
 美那斗の応えはなかった。気持ちがささくれ立って行く様で、紙戯は考えるのを停めたかった。停めたかったが、暗い思惟は澱のように脳内に留まって、積り、気分を酷く落ち込ませるのだった。
 街の破壊音を引き連れて、<ファイト>が通りに戻って来た。
 両手に荷物を持っている。人間だった。片手に一体ずつ。
 この時点で足首を掴まれた者と、腰のベルトを掴まれた者とが、まだ生きているかどうかは問題ではなかった。何れにしても、双方の末路は目を覆いたくなる程に悲愴なものであったのだから。
 <ファイト>が頭を左から右へとゆっくり巡らせる。
 初めの一射が行われた雑貨屋の二階を見定めると、まるでお返しのミサイルを送り届けるように、二体を立て続けに放った。壁面に当たると嫌な音がして、人間だったものは赤黒い大きな円形の染みになった。
 体の至る所から立ち昇る黒煙と血の色に似た煌きは、まるで<ファイト>の怒りを象徴しているかのように揺らめき、熱し、未だ燻りすらしない。
 ホーンがつかつかと歩み寄る。ラスツイーターにあるのは欲だけだとしても、ホーンには感情がある。許してはおけない。ホーンは今、この眼の前のラスツイーターを葬りたいと望んだ。先に手を出したのが人間であったとしてさえ、それが使命に思えた。人間に托され、人間を護る使命。
 炎と炎の切片の隙間から、<ファイト>が牙を揺らしながらにっと笑った様に見えると、ホーンは両手を振り上げ、顔面めがけて打ち下ろした。
 <ファイト>が後方に跳ねて避ける。
 空を切ったホーンの両手は、続いてアスファルトを捉える。こめかみから生えた渦巻く二本の角先が<ファイト>へ向けられる。四肢の獣と化したホーンが突っ込む。
 角の先端で体に穴を穿たれるのを防ごうと、<ファイト>が角を掴むのと、ホーンが両足首を握るのが、同時であった。
 ホーンは上半身に力を漲らせると、<ファイト>の巨体を持ち上げざま、後方へ投げ飛ばした。
 火の飛沫を周囲に散らし、<ファイト>が路面を窪ませながら地に衝突する。
 立ち上がる隙を与えず、ホーンの蹴りが<ファイト>の大腿部に入る。続くのは左拳による殴打だった。歪に飛び出した突起状の棘が、打撃と同時に引っ掻くように体を切り裂いてゆく。
 足蹴りと殴打が続く。<ファイト>の纏う燃焼剤がホーンに飛び移り、小さな火が金色の軀をも燃やし出すと、当初は闘う愉悦に浸っていた<ファイト>の口から「イーッ」というラスツイーター独特な声での苦悩の呻きに変わってゆく。
 <ファイト>は焦っていたし、苛立っていた。
 ホーンの爪先が腹に食い込む機を捉えると、勢いを利用して地面を転がった。そのまま数十メートルも転がると、今度はその勢いで倒れた身体を片膝立ちに起こした。
 火勢は沈静に向かい始めていたが、それでも視界はゆらめく熱気と炎と黒煙に良好とはいえない状態で、<ファイト>はホーンを見失った。太い首をブンブンと振ると、足元に黒い影が出来、それが急速に拡大していくのを見つけた。
 上だと気付いて見上げた顔面に、ホーンの足裏がぶち当たり、<ファイト>は再度路面に叩きつけられた。
 首から背にかけて生え出たソードがアスファルトを貫いて突き刺さり、刀身の半ばまで埋没した後、下層の土砂毎えぐり返した。
 一旦離れたホーンは、何時でも素早く対応できるよう身構えながら、肩と胸を大きく上下に動かしている。
「強い!」
 美那斗の居る通りの入り口から闘いの場まで、二百メートルはゆうに離れている。それでも彼女の眼にはホーンの優勢がはっきり見て取れた。決して<ファイト>が弱いわけではないだろう。それでもホーンは更に超越した強さを宿している。漲る力、迸るエネルギー、人智の及ばない生命体や燃え盛る炎に対して恐れることなく挑む勇気。
 ホーンは闘いながらも見る者に強さや勇気を振り分けているかのようで、激励されるように美那斗はようやく立ち上がった。
 己の進むべき道を信じられる強さ。
 迷うことなく直向に羽ばたき続ける強さ。
 あの日見上げた天空を往く渡り鳥のように、美しく、強い姿。それがホーンだ。
 誇らしく美那斗が想っていると、惨たらしい戦禍の場にそぐわない、甘い香りが漂ってきた。何気なく上空を仰ぎ見た先に、それは羽根音も立てずにゆっくりと羽ばたきながら、優美に浮かんでいた。
 どこで嗅いだのだったか、匂いは記憶野に直結しているというが、過去の思い出は仲々蘇生してくれない。甘いとは言っても、焼菓子とも果実とも似ていて違う香り…。
「美那斗ちゃん、何かいるわ!」
 唐突に耳を打った紙戯の声が、美那斗香りの記憶を辿る回路を遮断した。
 並列脳を駆使する紙戯は、同時に幾つもの事象を考えながら別の作業をこなすのが常であったが、珍しく物思いに更け入ってしまっており、モニターの監視を忘却していた。ふと気付くと<ファイト>を示す光の明滅とは別に、もう一つ、しかも<ファイト>と同じかあるいはそれ以上にも見える強い光が画面上に出現していたのだ。
「ええ、紙戯さん」
 ラスツイーターです。続けて言おうとした言葉を呑み込みながら、美那斗は視線だけを横に向けてホーンを見る。ホーンの位置からだと大通りに浮かぶ新たなラスツイーターの姿はビルの壁に阻まれて視認できないだろう。だが、声に出せば優れた聴力が異変に気づくはずだ。
 今は他の邪魔を介在させずに闘いに集中させたい。そう考えた美那斗は、この不思議なラスツイーターに対して、直ちに戦闘態勢に入ろうとはしなかった。出来うるなら、刺激しないようにやり過ごしたい。
(それにしても、何だかこのラスツイーター…)
 美那斗は綺麗だと感じていた。
 見るからに女性的な美と艶を有するフォルムのラスツイーターで、細い首と肩、豊かに丸く突き出た乳房、絶妙な曲線を描くヒップを強調するように括れた腰、下から見上げている分を差し引いても十分に長く伸びる脚。男性のみならず、女性も皆憧れるような体型は、やはりラスツイーター特有の灰色を基調とした濃淡色で彩色されているが、体を締め付ける衣装のような模様は、所々エナメルやラテックスの幼な光沢を魅せている。
 長い髪を三編にした、太く長い鞭のようなものが、項から踝の辺りまで伸びて揺れている。相貌もまた美しく見える。筋の通った高い鼻梁、秀出た額、細いが柔らかなラインの頬から続く顎は小さく尖っている。
 何より特徴的なのは翼だ。
 大鷲を連想させる、肉厚で力強い翼が、背中から左右に広がっている。上下に一振りすれば、高速で飛翔するだろう天空の覇者の風格を誇示しながらも、繊細さと優美さを兼ね備え、驚くべきことにその翼は純白に輝いている。
 更に小さな翼が軀のあちこちに生えている。蝶の触角のように額か眉間から伸びている翼、手の甲や足首、二の腕にある小さな翼。他には尾骶骨の上辺りにもリボン飾りのような翼があって、どれもラスツイーターには不釣合いな白という色彩を持っている。
 禍々しい怪人でありながらも、どこか天使のように気高い品格を宿した姿に、美那斗は衝撃を覚えると伴に、畏怖した。
「羽根が…」
 晩秋の名残のように枯葉が梢からはらはらと舞い落ちるよりも緩やかで軽やかに、白く細かな毛がふくらんだ柔らかな羽根が一枚落ちてきて、美那斗の足元近くに着地した。数瞬間、思わず見惚れてしまい、気付けなかったが、その羽根の更に向うに、グレーのピンヒールに似た足が視界に入り、美那斗はハッとしながらも目線を上げることが何故か恐ろしくて出来なかった。その代わりに、足の形状だけを克明に見つめた。
 馬の蹄を想像させる爪先のないブーツの様で、細く高い踵部分は、左右に二本ずつの細長い棒のように突き刺さっている。その足を前後にズラして立ち、片手を軽くウエストに当てている姿は、ファッションモデルのようでもあるが、意外にも背丈は美那斗とさして違いがなかった。
 つんと整ったおとがいが真っ直ぐに美那斗に向いている。
 地に降り立ち距離が縮まると、ラスツイーターの放つ香りに肌が震え、総毛立つようだ。おそらく記憶を呼び起こすのを阻んでいるのは、その香りの質ではなく濃密さだろう。あまりにも香りが強烈なために、どこで嗅いだのだったか思い出せなくさせているのだ。
 勇気を振り絞ってなんとか見上げた時、美那斗の正面を見据えていた白い翼のラスツイーターが、ゆっくりと首を左側へ巡らせてゆく。もはや美那斗には興味を失ったというような仕草で。
 様子を窺い始めたのは、闘う者達の姿だった。
 ホーンと<ファイト>の闘いは熾烈さに憤怒を重ねていた。
 <ファイト>の巨軀から炎はようやく消失し、グレーの体を黒く煤けた斑が暴悍な影を描いて、肌はケロイド状に歪んだ凹凸で光を乱反射させている。<ファイト>を襲った特殊弾のわずかばかりの効果であったが、余波による被害は今や惨状に変わりつつある。
 燃焼剤の飛沫を浴びた街路樹や店舗は炎が拡大している。空気の乾燥するこの季節では殊の外火の足は速く、一刻も早く対処しなければ延焼が加速してゆく事になるだろう。
 これは警察庁では想定していた事態であり、特殊部隊の編成にはミサイルの発射班とは別に消火班が、人員数でいくと十数倍にも及ぶ相当数あてられていたし、その背後には消防車の配置もなされているが、彼らは皆等しく動けなかった。
 ラスツイーターに近付くことが出来ず、火勢の拡がりを黙って見ている事しか出来ないのだ。そんな特殊部隊を尻目に、圧縮空気の充填されたタンクを背負った一つの影が高圧放水器を手に近付きつつあった。


 指揮車の後部ハッチ内。左側壁面一杯に貼り付けられた幾つものモニターに映る画像を睨みながら、八橋風火は苦虫を噛み潰したような表情を造っていたが、それは心情を僅かばかりも表してはいなかった。
 あらゆる感情が混濁しながら、沸点に達していた。ラスツイーターに有効だとされた火炎攻撃が、対象体の活動を停止させるどころか、痛手一つ与える事も出来ない事。同行した追分臨が事態の深刻さを承知もせず、データ収集が出来ないとぼやいている事。戦闘を生業とする筈で、訓練を受けている特殊部隊の男達が臆病風に吹かれて敗走を始めた事。戦地へ送り出した兵士が、壁の染みの如くに潰されるという死を迎えた事。為す術もなく、狭い車内で諸々を見ている自分。全てに怒りと悲しみと憎しみと絶望と無力感を覚えた。
 ミサイルの三射目を断念した部隊が撤退指示を求めてきた時、八橋は是の指示を出さなかったが、恐怖に錯乱した隊員は自ら勝手な判断を下した。これを見て指揮車内の警察官たちも、次々に撤退を促してくる。
 モニターの明りが一つ、また一つと消えてゆくのは、中継先のカメラが電源を落としてゆくからだ。
 八橋の手は固く拳を作ったまま揺れているのは、向けるべき矛先を定められないからか。
 追分が個人のノートパソコンをぱたんと閉じると、背負いのザックに収め様としている。
「人が死んだんだ」
 湧き出す怒りを、八橋は抑えられずに叫んだ。
「あんたの考え違いの所為だろ。どうするんだ」
「はぁ!? 何言ってんの!? 相手はネズミやゴキブリじゃないのよ。得体の知れないバケモノ相手に正解なんてあるわけ無い。手探りなの。ふざけんじゃ無いわよ」
 猛烈な勢いの女二人の声が車内に反響する。
 八橋の手が素早く伸びると、追分のトレーナーの襟元を引っ掴み、強く引き寄せる。二人の顔が急接近し、鋭い眼光と勢いに、追分が悲鳴を上げて怯む。今にも殴られそうな気がして、きつく両目をつぶるのを見た時、八橋の拳が宙で静止した。
 極めて感情的な追分だが、彼女は一研究者であって、警察関係者でも、ましてや戦闘兵士でもない。この様な状況下で平静を保てる精神力が無いのが普通だろう。見た目には判らなくとも、内心かなり焦燥し、疲弊しているのかもしれない。むしろ周囲を思いやる余裕を失していた事にようやく気付いた八橋は、突き飛ばすように手を放し、そのまま追分に背を向けた。
 追分は体制を崩し、組まれたラックの角にしたたかに打ち付けられた腕を擦りながら、誰に言うでもなく呟いた。
「どうせ人間はいつか死ぬのよ」
 それを耳にした八橋が振り返る。
「いつか死ぬのと、いつか殺されるのでは、大違いよ」
 己の種族を繁栄させること、DNAを繋ぐこと、生物の生きる目的はこの点に集約されるのだが、唯一人間はその道を逸脱した存在で、己の遺伝子を残すこと以上に、己の生を完遂することに重きを置き、意味を見出そうとする。
 それぞれが想い描く夢に向って果敢に挑んで生きてゆく。夢が果たせようが、叶うまいが、何れにしても全うしようと藻掻くのが人間という存在だ。
 だが、その生命を途中で強制的に終了させられてしまう事態は忌避すべきことだ。
 八橋は脳裏にまだ幼い二人の子供の姿を投影した。
 我が子がいつか殺されてしまったら、あってはならないことを想像しなければならない苦しみが胸を締め付けてくる。子供達を両手に抱きしめたい感情が唐突に沸き起こってくるのを振り払うように、八橋はラスツイーターに立ち向かう事を決意した。
「平山警視、撤退の指揮を執りなさい」
「えっ、あ、はい。八橋さんはどうするんですか」
 八橋は平山の細い腕を押し分けるように擦れ違うと、指揮車の後部ハッチを開いて降車する。不安そうに見ている平山に、一瞬何か声を掛けようかと迷ったが、そのままハッチを閉じた。


 <ファイト>が突っ込んだ。
 頭頂部をホーンの腹に押し当て、そのまま疾駆する。
 喉を仰け反らせると、上向きに生えた二本の牙がホーンの腹を抉って突き刺さる。ホーンの両足が宙に浮く。
 <ファイト>は両手でしっかりとホーンの腰を抱えている。ホーンは両手で<ファイト>の肩を押さえつけて、頭を引き剥がそうと力を込めるが、牙の攻撃に加え、後頭部に生えた剣の刃先が顔面を斬り付けてきて、ホーンは首を捻って回避すると、剣と角とが硬質な金属音を放つ。
 そのまま何十メートルと押し込まれながら、複眼の視界が捉えた映像に、ホーンは驚愕した。
 <ファイト>の剛力で瞬く間に運ばれ、美那斗との距離がたったの五十メートルまで縮んでしまった。そして、その護るべき女性は、もう一体の見知らぬラスツイーターと対峙している。
 得も言われぬ絶対的な存在感をアピールするそのラスツイーターを、ホーンは一瞬にして敵であると悟った。これは相容れない存在だ。何故そう感じたかは理由付け出来無いが、間違ってはいないはずだ。その敵が、美那斗の直ぐ傍らにいる不覚を、ホーンは激しく呪った。
(美那斗ーーーーっ)
 ホーンの絶叫が、無理矢理熱せられた冬の空気を震撼させた。
 ありったけの力を振り絞って足を伸ばすと、大鷲の太い鉤爪がアスファルトを引掻き、傷付け、捉える。爪先は路面に食い込んで突き刺さると、二体の動きが停止した。
 美那斗とは三十メートル余りしか離れていない。だが、今となっては最も深刻な問題はもう一体のラスツイーターで、美那斗に手の届きそうな位置から、小首を傾げてこちらを凝視している。
「イッ、イッ、イッ」
 くぐもった喘ぎを漏らしながら、<ファイト>が頭を捻り、牙をめり込ませ、剣の刃を首の付根に押し当てる。
(美那斗、逃げろ!)
 沈痛なホーンの声が届くはずもないが、美那斗は首に剣が食い込んでゆくホーンを案じて、小さな呻きを唇の間から溢れさせた。
 その時、
「コンナオンナガキニナルノカ」
(!!)
「ーーーー喋った」
 驚きの余り、美那斗の双眸が大きく開き、唇は閉じるのを忘れてしまった。
 それは明らかに音となって現れ、耳に届いて来た言語、声であった。
 これまで遭遇してきたラスツイーターは皆等しく声を有していなかった。奇異で不快な音、例えるなら「イーッ」という音のみを発していた。他の動物のように、この奇声はラスツイーターという種、特有の啼き声だと考えられていた。
 だが、この翼あるラスツイーターはそうではなかった。
 ホーンと美那斗の意識が凍りつく中、<ファイト>は気付いていなかった。いや、他の存在に気付く意思を排除したかのようだ。人間が降り注いだ怒りの種は、単純に闘いを楽しんでいた<ファイト>の煩悩を芽生えさせ、今や敵を倒す事以外眼中になかった。炎に熱せられた躯体に怒りの熱を加えた灼熱の塊へと発展した。紙戯の危惧した煩悩の暴走を具現化したように、<ファイト>はホーンを削ぎ落とすように牙と剣を振り回している。
「キョカシナイ」
 否定、拒絶、批判の強い思惟がホーンを打ちのめすと、それだけでホーンはこのラスツイーターに平伏した方が正しいのではないかという考えに支配されそうになった。そんな自分に驚きと畏れを覚え、僅かに腕の力が緩んだ隙を突き、首元から胸にかけて<ファイト>の刃がめり込んでくる。
「ワタシダケニフクジュウシナサイ」
 美を極めた彫像のような相貌が、再び美那斗に向けられる。
「ジャマナオンナハ、ハイジョシマス」
 大きな翼が広げられ、やや後方にさげられる。
 バサッ、と羽音を立てて、翼が羽ばたいた。


 美那斗は危機感を覚えたものの、どう行動すべきか判断出来なかった。いや、判断云々というよりも、むしろ思考が停止してしまったように感じた。
 甘さも強すぎると不快感を伴うのか、その香りは鼻腔から入って脳を痺れさせている。
 大腿部に装着してあるホルダーから銃を取り出し、発砲するのだ。傷一つ負わせられない弾丸でも、威嚇にはなるし、その間に離脱する突破口が開けるかもしれない。
 解っている。解ってはいるのだが、美那斗の手が捉えたのは防護服のポケットに入れてあった、陰のコアであった。
 ポケットの中でコアを握り、美那斗は心中で叫んでいた。祈りでもあった。
(お父様、助けて。泰朋さん、助けて。ホーン!)
 空に月はない。
 あったとして、コアを掲げ、月光を受け止めたとしても、変身できるはずがない。
 硬いコアを握り締めながら、美那斗の瞳はラスツイーターの両翼が振り降ろされるのを見つめ続けていた。

 ホーンは動けなかった。
 絶対に護ると約束した美那斗の危険を目の前にして、<ファイト>の攻めに耐えるのが精一杯の状態だった。
 腹部には抉られた穴が幾つも開き、首の付根には棘というにはあまりにも鋭利な剣の刃を喰い込んでくる。更に、腰に回した両腕が腰骨を折らんと締め付ける。
 幾つもの攻めに耐えながら、相手の首と顔面に爪を立て、力を込めて引き剥がそうとする。
 両者の剛力は均衡するのか、彫像と化し静止したように動かない。
 左の複眼には美那斗と謎のラスツイーターの対峙が克明に映し出されている。
 ラスツイーターが白い翼を振る。
 憤怒を含んだ「ハイジョ」という言葉からも、美那斗に何かしようとしているのは明らかだ。
 今すぐ駆けつけて、彼女の細くて小さな体を抱きとめて、護らなくてはならない。
 どんなことをしてでも、護らなくては。
(うぉーーーーっ)
 ホーンが叫び、足掻く。
 <ファイト>の体を退かすことが出来ない。
(美那斗!)


 その時、それは起こった。
 ホーンの金色の軀と<ファイト>の灰と黒の軀がぶつかり合っている状態にあって、ホーンには移動の術がなかった。それでも美那斗を護らなくてはならないという意識が、いや、むしろ本能に近い潜在意識が、それを発動させたのだろうか。
 背中に程近い左肩の辺りが内側から盛り上がる。
 母体の腹部を胎児が内側から蹴り上げているように、動物の皮膚の下を蛭が血を啜りながら蠢くように、体内に産み付けられた虫の卵が羽化して這い出すように。
 体内から肉塊が盛り上がり、盛り上がったと思った時には飛び出してゆく。
 大蛇のように太く畝るのは、陽のコアから伸びる脈管がより合わさったようにも見え、どくどくと脈打ちながら急激に伸びてゆく。
 光を弾き、鱗というよりは鰻のような滑りを有しながらビクンビクンと跳ね、波打ち、欲望のとぐろの様な禍々しさ、毒々しさすらあからさまに晒しながら、肉塊は伸び、美那斗の前に一瞬にして辿り着くと、半ドーム型に拡がり、彼女を護る盾となった。
 重厚にして堅牢だと見る者に知らしめる盾は、路面に接する部分に鉤爪が生え並び、アスファルトに深々とめり込んだ。
 盾のそこかしこから飛び出している錐型の突起は、牙や角のように敵を獰猛に威嚇している。高さは二メートル半、幅も同程度あるその盾は、一端が真っ直ぐに太い棒状となってホーンの左肩と繋がっている。
 つまり、この盾はホーンの軀の一部なのだ。
 美那斗を護る盾の完成が、僅かばかりラスツイーターの攻撃に先んじた。
 白い翼が振り降ろされると、羽根の間からビー玉程の大きさの弾丸に似た物が、大凡百余り一斉に射出された。散弾銃のように高速な風となって飛来する。
(うぉーーーーっ)
 玉は全弾盾に激突し、めり込んだ。苦悶の呻きがホーンから漏れると、それはすぐに絶叫へと変わる。
 襲撃した玉は、少しの間をおいた後、爆発した。
 夥しい数の閃光と白煙が昇る。
 その破壊力は凄まじいものがあるようで、周囲のアスファルトは爆風を受けて捲れ上がり、爆心の盾はボロボロになっている。
 盾、とはいえ、それはホーンの躯体の一部であり、激痛がホーンを襲う。<ファイト>の力を留めておくことができない。
 剣が、その刀身を半ば程ホーンにめり込ませている。
 白煙に霞んで人間の眼にはよく見えないが、ホーンには翼のラスツイーターが再びその白い両翼を広げようとするのが視認できた。
 第一射からは完全に美那斗を護ったはずだ。だが、次は防ぐことが出来るだろうか。
 焦燥にホーンは歯を食いしばる。
「あああああーーー』
 叫び声が上がったのは<ファイト>の後方だった。八橋風火がそこにいた。
 自らを鼓舞するように、立ち向かう勇気よりも逃げ出さない勇気を振り絞るように、八橋は腹の底からありったけの息を吐き出しながら、咽が裂ける程の大音量を放出した。
 手には高圧放水器が握られている。
 別名をインパルス銃と呼ぶ消火装置は、圧縮空気で水の塊を銃口から発射する。本来、消防の用途で使用されるものだが、強力な水の衝撃が暴動鎮圧に向いているとして、公安や機動隊に配備されているものである。
 背負ったバックパックからインパルス銃を介在して射出された水塊は、狙い違わず<ファイト>に命中した。
 右側面、腰から背、肩、脇の下に強い勢いで水が浴びせかけられる。
 ピシッという破裂音がして、熱せられた<ファイト>の半身に亀裂が走る。
「イイーーーーッ」
 <ファイト>の放った声には、今までにはなかった恐怖の色が滲んでいた。
 直後、キーンという高質な金属音が立つ。<ファイト>の剣の一本が折れ、先端が空を飛び去る。
 驚きの余り<ファイト>の四肢から力が緩むと、その隙を逃さず、ホーンが<ファイト>の拘束を振り払い、疾走する。
 首筋には大きな傷跡が溝となり、淵を開いていたが、構わない。
 美那斗を護るんだ。美那斗を!
 気付くと盾は消え、美那斗を抱きかかえるように、ラスツイーターに背を向けてしゃがむホーンがいた。盾以上に盾になり、ありとあらゆる全てを弾き返す頑強さで、ホーンがいた。
「ホーン」
 美那斗の涙がホーンの胸の中で弾けた。
 熱く冷たい涙の雫が、ホーンの軀に染み入っていく。
 まるで巨大な巌であった。
 鋭利な刀剣だろうが、大型口径の銃弾だろうが、砕くことの出来ぬ超硬の意志が、そこに垣間見える。
 その想いは不動だった。
 一秒、二秒、十秒…。
 白い翼からの散弾の照射の雨は、だが降ってはこなかった。
 凝り固まっていたホーンの軀が僅かに弛む。後方の気配を油断なく伺い、美那斗のガードを一分も崩さぬように首を捻る。
 そこにラスツイーターの影が無いことを確認すると、幾種もの視認機構を駆使して全方位を走査した。人間の眼には見えなくても、怪人はそこにいるかもしれないのだ。だが、白い翼のラスツイーターは、完全に何処かへ去っていた。
 そして、<ファイト>も又、この場所を去ったようだ。
 美那斗の全身を圧迫するでもなく、それでいて隙間一つなく覆い尽くしていたホーンが、ゆっくりと彼女を解放してゆく。
 ホーンの腕と角の間から差し込む光の眩さに、しばし離れがたい感慨と共に眼を瞬かせてると、視界の先に八橋が倒れているのを見つけた。
 <ファイト>がミサイル部隊員を襲い、二名を投げつけた壁の下側に倒れている。全く動かないのは意識を失っているのか、あるいはーーーー。
「八橋さん!?」
(こんな目にあったばかりなのに、他人のことを気にできるんだな)
 美那斗の思いやりの波動が肌から伝わり、不安といたわりの声が泰朋の耳を打つ。そう、泰朋の。
「えっ!」
 美那斗に泰朋の巨体がもたれかかってくる重みに、美那斗は両手で支えきれずに抱きしめる。
「泰朋!」
 彼も又、全く動かなくなった。


 暗い闇の中で、微かに聴こえる音がある。
 体も瞼も重く、ニカワで固めたように動かせないので、意識を耳に集中してゆく。
 鈴のように軽やかではあるが、大きくも騒がしくもない。
 オカリナの響きに似て、心安らかにさせるが、自己主張しない。
 唄うように、話しかけるように、一定の律動で奏でるメロディ。
 何の音かと突き詰めるよりも、ただ身を任せて聴いていたいと想いながら、泰朋はまどろみの中へ引き戻されていった。
 そこから再び深い眠りに陥り、どの位時が移ったのか。浅い眠りを取り戻した時にもまだそのメロディは残されていて、泰朋は怖い夢を見た幼子が母親の布団に潜り込んだように安堵した。
 瞼の向う側に柔らかな光を感じると、ゆるやかな速度で意識が回復してゆく。
 腕に触れる暖かな感覚。メロディの源もそこにあるようだ。
 窓から白い光が室内を薄く照らしている。
 泰朋はベッドに横たわり、天井を見上げた頭を傾けた。頭と枕が擦れる、意外な程大きな音にたじろぎ、眠りを妨げたのではないかと心配になったが、静かで心地の良い寝息は変わらなかった。
 短い髪の女性が、ベッドの端に自分の腕を枕に、顔を沈めて眠っている。その腕の先は泰朋の掛布の中で、いたわるように泰朋の腕に添えられている。治癒のパワーを送り込んででもいるかのようだ。
 肩まで毛布を被ってはいるが、足元は冷えるのではないだろうか。気にはなったが、泰朋はそのままただじっと彼女を見つめ続けた。
 夜の暗闇を照らす月光は白く、ほんの少し青さを混ぜ込んで、彼女の姿を浮かばせている。
 そのまま月光の中に溶けて消えてゆきそうな程儚げでありながら、心も躰も力強く鍛え上げられ、凛として、勇気に満ちている。彼女が美しいのは外見が整っているからではなく、きっと内側から溢れ出すもののせいなのだろう。
 彼女に初めて出逢った日の事柄を、泰朋は思い出そうとするでなく、勝手に記憶が蘇ってくるのに任せながら、じっと、ただ見つめていた。
 そうやってどれ位時間が経ったろう。次第に大きくなってゆくある衝動を抑えられなくなってくる。泰朋は彼女の名を呼びたいと感じていた。
 そして、そっと呟いてみる。
「美那斗ーーーー」
 まるで魔法の呪文のように、現実世界が反応を示す。
 一つは、泰朋の鼓動が大きくなったこと。
 武闘大会前の緊張感を漲らせる時の鼓動の昂ぶりとは違う。全身を血流が駆け巡るわけではなく、ただ心臓の辺りが藻掻いているような感触。
「んっ」
 そしてもう一つの反応は、彼女の覚醒だった。
 寝返りを打つように、彼女の顔が向きを変え、泰朋の方を見る。
 髪の毛が邪魔をしてよく見えない。泰朋は手を伸ばして、垂れ下がった前髪を掻き上げたいと想いながらも、奥の方で彼女が目を開くのを見た。
「気がついたのね。よかった」
 ゆっくりと静かに言う美那斗の口元は、笑っているようも、泣いているようにも見え、泰朋は心配させてしまったことを知り、恥ずかしく思ったが、同時にあの脅威から目の前の女性を護り抜いたことで安心もしたし、自分を誇らしくも感じた。
 美那斗が上体を持ち上げる。胸の辺りに隙間が出来て冷気が流れこむと、ちょっと体を震わせて、肩の毛布をたぐり寄せる。
「この部屋、カーテンもないのね」
 窓の外のやけに輝いている月の光を受けた双眸が煌めいている。それは月光だけが原因ではなかったろう。
 その原因が、堪え切れずに眼から零れ落ち、頬を伝わってゆく様に、泰朋は狼狽した。
 月崎邸の東館一階の最奥にある六畳部屋は、元はこの豪邸に住み込みで働く家政婦が使用していたが、隆盛期を過ぎて部屋が空いてくると、出口に隣り合うことを嫌悪されて放置されるようになった箇所を、あえて泰朋が借りたのは、館への出入りがし易いのがその理由の一つと、あとは辺見のガレージに近いことが挙げられる。
 室内にはベッドが一つ置いてあるだけで、私物は常にリュックの中にまとめられていたし、他に所有しているものといえば、愛車のグロムくらいのものだ。
 泰朋の脳裏にそのバイクのことがよぎった。
 小さな車体に、大柄な泰朋が跨る姿を見て、美那斗がカラカラと笑ったものだ。そのバイクに乗って、<ノート>との闘いに馳せ参じたこともあった。
「俺のグロム、置いてきちまった」
 美那斗には何の事だか解らない。バイクと言っていれば、辺見がここまで運んだと応える事もできたし、泰朋も安心できたろう。ただ、今彼女にはそんな事はどうでもいいことであった。
 闘いの後に倒れ、気を失った泰朋は、変身が解けて美那斗の体にのしかかったまま、声を掛けても、揺すっても、意識を取り戻さなかった。
 このまま死んでしまうのではないか、縁起でもない胸騒ぎを拭えず、不安で一杯だった。
 ベッドに横たわる姿を目の前にして、気持ちが捩じれて千切れそうな程、嫌な想像ばかりが脳裏を掠めては浮かんだ。
(死なないで)
 何度そう願ったろう。
 だが、泰朋は眼を醒ました。そして、自分の名前を呼んだ。
 熱いものが胸に広がってくる。
「あのラスツイーターはどうなったんだ。向浜さんはモニタリングしてたんだろ。それにあの火事は、もう収まったのか。そう言えば、八橋さんが来ていた。奴に飛ばされて」
 気を失う直前の事を一気に想い出したようで、泰朋の言葉は湧水の様に滔々と噴き出してくる。
(ひとが感動しているというのに…)
 乾くことを忘れたかのような双の瞳で見つめながら、美那斗は身を乗り上げた。
「少し黙っていなさい、泰朋」
 白くやけに明るい月光が射し込む中で、二人の影は一つに繋がる。
 互いの唇の感触を互いの唇で感じると、明るい闇がようやく静寂を取り戻した。


第一章 完 
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