異世界ナノマシン無双

雅けい

文字の大きさ
上 下
1 / 14

第1話 大草原の小さな博士

しおりを挟む
広大な草原を、よれよれの白衣をはためかせて一人の男が激走していた。
 それは尋常ではない速さだった。
 ここにスピードガンがあったのなら、おそらく人類史上最速を記録するだろう。
 決してそれは誇張ではない。
 なぜならば、彼のすぐ後を獰猛な野獣が追いかけてきているからだ。
 体長三メートル以上の狼と猪と熊を足し合わせた凶悪な姿の野獣が、ほぼ全力で彼に迫ってきている。
 普通、野生動物の全力疾走に人間が敵うわけがない。
 しかし、彼は額から汗は流しているものの表情に苦悶の色は一切見えず、ただ何かを悩んでいるような難しい顔をしていた。
「そろそろか……」
 彼はそう呟くと、突然よろけて体勢を崩し、勢いよく転んだ。
 右肩から地面に突っ込んだ彼はすぐさま身体を返して仰向けになる。
 その姿はまるで怯えて尻餅をついているかのようにも見えた。
 野獣はそれを見るやいなや、走ってきた勢いのまま彼に飛びかかった。
 だが、ほんの一瞬のことだった。彼が自分から野獣の方へと身体を滑らせたのは。
 その直後。
 ドスンと重い音が響いたと思うと、着地しかけていた野獣の身体が跳ね飛ばされ、勢いよく軌道を変えて草地に墜落したのだ。
 野獣はそのまま悶絶するようにひとしきり転げ回ったが、やがてピクリとも動かなくなった。
 静かになるのを見計らい、男は衣服についた土を払いながら立ち上がった。
「激しい有酸素運動中に横隔膜の強打による痙攣をおこして呼吸不全、そのまま酸欠、心肺停止からのショック死。ちと可哀想だがしかたあるまい」
 男が屈んで野獣の頭を覗き込み、その口元を確認すると見事に青紫色への変色が確認できた。
「チアノーゼがしっかりと進行している。哺乳類に準ずる生物ならば腹部に骨は無く、肋骨の真下に呼吸を支える横隔膜があると踏んだが、概ね想定通りだったな」
 彼は飛び込んできた野獣の落下位置を瞬時に計算し、その鳩尾めがけて蹴りを叩き込んだのである。
 一見地味な攻撃に思えるが、先ほどまで野獣に追いつかれなかったほどの強い足腰で、落下してきた野獣の体重を利用した上で跳ね飛ばしたのだ。
 その威力が急所を正確に直撃すればどうなるか、結果はごらんの通りである。
 野獣の死亡をしっかりと確認したのち、男は腰を上げて周囲をぐるりと見まわした。
 一面の草原、遠方に山、微かな森林。
 明らかにではなかった。
「いったい、ここはどこなんだ」
 彼の問いに答える者はなく、ただ吹き抜ける風だけが草原を鳴らしていた。
しおりを挟む

処理中です...