氷の薔薇は愛に目覚める~婚約破棄された令嬢と救国の王子~

イアペコス

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断罪の夜会と赤い選択 3

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「婚約破棄」――その言葉は、大広間のシャンデリアの光さえも凍らせるかのような冷たさで、エリザベスの全身を貫いた。
一瞬、世界から音が消えた。周囲のざわめきも、音楽も、何もかもが遠のき、ただエドワードの冷酷な宣告だけが、彼女の頭の中で木霊する。絶望、屈辱、そして心の奥底から湧き上がる激しい怒り。しかし、それと同時に、どこかで「やはりこうなったか」という冷めた諦観も彼女の胸をよぎった。
ここで泣き叫び、取り乱せば、それこそ彼らの思う壺だ。「嫉妬に狂った哀れな悪女」という役柄を、自ら演じることになる。長年、感情を押し殺し、完璧な淑女を演じ続けてきたエリザベスの矜持が、かろうじて彼女の崩れ落ちそうになる身体を支えていた。
彼女はゆっくりと顔を上げ、唇を強く噛み締め、震えを必死に抑えながら、できる限り平然とした声で答えた。
「……謹んで、お受けいたしますわ、エドワード殿下」
その声は、まるでガラス細工のように脆く、しかし、決して砕けはしない強さを秘めていた。

その痛々しいまでの気丈さに、ルシアンは眉を顰めた。彼は再びエリザベスの前に進み出ると、胸元に挿していた一輪の赤い薔薇を、ためらうことなく抜き取った。それは、この夜会のために特別に用意された、ベルベットのような光沢を持つ、燃えるような深紅の薔薇だった。その鮮やかな赤は、エリザベスの青いドレスと対照的で、見る者に強烈な印象を与えた。
「エリザベス嬢」と、ルシアンは低いが明瞭な声で呼びかけた。「もし貴女さえよろしければ、この場から私がエスコートさせていただきたい。真実が歪められ、不当な扱いを受け、貴女の尊厳が踏みにじられるような場所に、これ以上貴女を留めておくのは、私には耐えられない」
彼の言葉には、疑いようのない誠意と、エリザベスへの深い敬意が込められていた。
周囲の貴族たちは息を飲んだ。婚約破棄されたばかりの、いわば「傷物」となった令嬢に、隣国の王子が公然と手を差し伸べるなど、常軌を逸した行為だった。エドワード王太子は、信じられないという表情でルシアンを睨みつけ、その顔は怒りで紫色に変わりつつあった。リリアでさえ、一瞬、怯えた演技を忘れ、驚きの色を浮かべていた。

エリザベスは、差し出された赤い薔薇と、ルシアンの揺るぎないアイスブルーの瞳を交互に見つめた。
この赤い薔薇は、あまりにも鮮烈で、危険な色をしていた。これを受け取ることは、エドワード王太子だけでなく、アルカディア王国の貴族社会全体に反旗を翻すことにも等しい。それは茨の道であり、これまでの全てを失う覚悟が必要な選択かもしれなかった。
彼女の脳裏に、二つの道が幻のように鮮明に浮かび上がった。
一つは、目の前で力強く咲き誇る「赤い薔薇」。それは、痛みを伴うかもしれないが、真実と、奪われかけた自身の尊厳を取り戻すための道。それは、ルシアンが差し伸べてくれた、予期せぬ希望の光。
もう一つは、いつの間にか固く握りしめていた、自分の手の中にあるレースの縁取りが施された「白いハンカチ」。それは、この場で屈辱の涙を拭い、おとなしく罪人のように引き下がる、安全だが魂を殺す道。それは、これまで彼女が歩んできた、偽りの仮面を被り続ける道。

一瞬の逡巡。しかし、エリザベスの心は既に決まっていた。もう、偽りの仮面を被り続けることにも、不当な扱いに黙って耐えることにも、うんざりだった。
彼女は、ゆっくりと、しかし迷いのない、凛とした仕草で、ルシアンが差し出す赤い薔薇に指を伸ばした。冷たい指先が、薔薇の棘にそっと触れる。チクリとした微かな痛み。しかし、その痛みは、彼女に現実を、そして自らの意志をはっきりと認識させた。
「…ありがとう、ございます。ルシアン殿下。そのお申し出、謹んでお受けいたしますわ」
彼女の声は静かだったが、そこにはもはや先程までの脆さはなく、新たな決意の硬質な響きが宿っていた。
ルシアンは、その言葉に微かに口元を緩め、エリザベスの手を取り、恭しくエスコートの体勢を取った。
二人が騒然とする大広間を横切り、出口へと向かう間、モーゼの海が割れるように人々が道を開けた。囁き声、非難の視線、好奇の眼差し、そして少数ながら同情的な眼差し。それら全てを背中に受けながらも、エリザベスは背筋を伸ばし、一歩一歩、確かな足取りで進んだ。彼女の人生の歯車が、今、大きな音を立てて、未知の方向へと力強く回り始めた瞬間だった。その手には、燃えるような赤い薔薇が、まるで未来を照らす松明のように握りしめられていた。
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