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アトリエ
見上げれば、水色の空に重なる、溢れんばかりの桜色。春爛漫。はるか続く桜並木の一番向こうは、花々と木漏れ日で、桜色にキラキラしている。その眩さに細い目を更に細めつつ、優花はトレンチコートを揺らして歩く。
今日は土曜日。だから明日は日曜日。なんて素晴らしいの! 優花は愛読書の“カルメン”を抱えて、春の風景やこれから出会う物語などに胸を弾ませブックカフェへ向かっている。
そのとき、桜並木にたたずむ青年に目を奪われた。何故って、彼は長いグレーのブラウスのウエストを皮のベルトで締め、深緑のタイツという、えらくケレン味の効いた服装で、チラシを配っているのだから。優花と目が合うと、青年はにっと笑って、チラシを一枚くれた。
「来週、劇団こぐま座で、お芝居やります! 絶対いい舞台にするので、ぜひ見に来てください!」
チラシには鬱蒼とした森の木々に囲まれて、白いふわふわしたドレスに、花冠をかぶって微笑む女性が描かれている。青年はまるでピーターパンで、優香には、その微笑みが自分を夢の国へ誘っているような気がした。
優香は青年からもらったチラシの地図を頼りに、劇団こぐま座の公演当日、舞台のあるアトリエへやって来た。
「アトリエ劇研」
と書かれた小さなアトリエ。「アトリエ」なんて素敵な言葉だろう。まるで何かが生み出されそうな、エネルギッシュで夢のあるような、そんな響きを感じる言葉。
アトリエ敷地内にある、屋外の受付に、優香は、あの青年を見つけた。青年は紺色に木の葉柄の大きめのシャツにデニム生地のスキニーを履いていた。
(やっぱり彼はピーターパンだわ)
優香は受付へ当日チケットを買いに行った。
「あ! 桜並木のお姉さんだよね! 来てくれたんだ!! ありがとうございます!!」
青年は人懐っこい笑顔を見せると、大袈裟に頭を下げた。
優香が舞台小屋へ入って座った長椅子には、丁寧に座布団が並べられている。黒い幕や、カーペットの布の、なんとも言えない匂いがする。これがきっと、物語が始まる匂いなのね。誘導係の女性が舞台小屋へ入って女性がパイプ椅子に座ると、黒い幕が全て締め切られ、舞台照明が灯った。
物語は、なんとも儚く美しく、切ない恋物語だった。主人公の青年は婚約者との結婚式の朝、ある女性に恋をしてしまう。青年は婚約者を置き去りに女性を追うが、彼女は青年の手をかすめては、自由気ままに振る舞うのだ。そして、とうとう青年は彼女を捕まえたが、彼女は青年の腕の中でみるみる弱っていき、息絶えてしまう。彼女は、空気の妖精だったのだ。
婚約者を見捨て、空気の妖精を死なせてしまい、全てを失った青年は、呆然と立ち尽くすばかりであった。
優香は愛らしい妖精の死の衝撃や、青年の後悔に胸を射られたかのような痛み、余韻に浸りつつ、退席していく人並みを眺めていた。
外では、ピーターパンがあのにっとした笑顔で、おとぎの国から、現実へと帰る人々を見送っている。
優香はいつも本を読むとき、物語の先が気になって、続きを早く読みたいような、物語が終わってしまうのが寂しいような、甘いジレンマに駆られる。
そして物語が終わると、優香はいつも決まって、なんとも言えない寂しさを覚える。作品が紡ぎ出し広がる世界が、物語の登場人物たちが、みんな消えていなくなってしまったような、そんな寂しさ。
ただ、こうやって、たくさんの物語が優香の胸の中に詰まっていくのだ。物語たちは優香に寄り添い、生活のありとあらゆる場面で、ぴょこりと顔を出して、彩りを加えるのだ。
今日は土曜日。だから明日は日曜日。なんて素晴らしいの! 優花は愛読書の“カルメン”を抱えて、春の風景やこれから出会う物語などに胸を弾ませブックカフェへ向かっている。
そのとき、桜並木にたたずむ青年に目を奪われた。何故って、彼は長いグレーのブラウスのウエストを皮のベルトで締め、深緑のタイツという、えらくケレン味の効いた服装で、チラシを配っているのだから。優花と目が合うと、青年はにっと笑って、チラシを一枚くれた。
「来週、劇団こぐま座で、お芝居やります! 絶対いい舞台にするので、ぜひ見に来てください!」
チラシには鬱蒼とした森の木々に囲まれて、白いふわふわしたドレスに、花冠をかぶって微笑む女性が描かれている。青年はまるでピーターパンで、優香には、その微笑みが自分を夢の国へ誘っているような気がした。
優香は青年からもらったチラシの地図を頼りに、劇団こぐま座の公演当日、舞台のあるアトリエへやって来た。
「アトリエ劇研」
と書かれた小さなアトリエ。「アトリエ」なんて素敵な言葉だろう。まるで何かが生み出されそうな、エネルギッシュで夢のあるような、そんな響きを感じる言葉。
アトリエ敷地内にある、屋外の受付に、優香は、あの青年を見つけた。青年は紺色に木の葉柄の大きめのシャツにデニム生地のスキニーを履いていた。
(やっぱり彼はピーターパンだわ)
優香は受付へ当日チケットを買いに行った。
「あ! 桜並木のお姉さんだよね! 来てくれたんだ!! ありがとうございます!!」
青年は人懐っこい笑顔を見せると、大袈裟に頭を下げた。
優香が舞台小屋へ入って座った長椅子には、丁寧に座布団が並べられている。黒い幕や、カーペットの布の、なんとも言えない匂いがする。これがきっと、物語が始まる匂いなのね。誘導係の女性が舞台小屋へ入って女性がパイプ椅子に座ると、黒い幕が全て締め切られ、舞台照明が灯った。
物語は、なんとも儚く美しく、切ない恋物語だった。主人公の青年は婚約者との結婚式の朝、ある女性に恋をしてしまう。青年は婚約者を置き去りに女性を追うが、彼女は青年の手をかすめては、自由気ままに振る舞うのだ。そして、とうとう青年は彼女を捕まえたが、彼女は青年の腕の中でみるみる弱っていき、息絶えてしまう。彼女は、空気の妖精だったのだ。
婚約者を見捨て、空気の妖精を死なせてしまい、全てを失った青年は、呆然と立ち尽くすばかりであった。
優香は愛らしい妖精の死の衝撃や、青年の後悔に胸を射られたかのような痛み、余韻に浸りつつ、退席していく人並みを眺めていた。
外では、ピーターパンがあのにっとした笑顔で、おとぎの国から、現実へと帰る人々を見送っている。
優香はいつも本を読むとき、物語の先が気になって、続きを早く読みたいような、物語が終わってしまうのが寂しいような、甘いジレンマに駆られる。
そして物語が終わると、優香はいつも決まって、なんとも言えない寂しさを覚える。作品が紡ぎ出し広がる世界が、物語の登場人物たちが、みんな消えていなくなってしまったような、そんな寂しさ。
ただ、こうやって、たくさんの物語が優香の胸の中に詰まっていくのだ。物語たちは優香に寄り添い、生活のありとあらゆる場面で、ぴょこりと顔を出して、彩りを加えるのだ。
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