ヴィオレットの森の扉の魔女

神田柊子

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 満月の夜、ヴィオレットの森は姿を変える。
 大陸の北側の寒冷地域でありながら、暖かい地方にしか育たない樹木が生えているなど、通常からおかしな植生だけれど、満月の夜はさらにそれに拍車がかかる。
 ヴィオレットの森は人間界にありながら、魔界と接している特殊な場所だった。そうはいっても、物理的に接しているわけではない。
 本来は魔術なしで行き来ができない魔界と人間界が、ヴィオレットの森では意図せずにつながってしまうことがあった。魔力が強まる満月の夜、逆に弱まる新月の夜は、特に境界があいまいになるのだ。
『扉の魔女』の家にいたエマは異変を感じて、カイを見た。カイは代々の魔女と契約している使い魔だ。魔界出身で、虎の姿をしている。
「誰か来たみたい」
 エマの言葉にカイは無言でうなずいて立ち上がる。
「迷子? どんな相手かわかる?」
 エマと一緒にカードゲームをしていたタクトが心配そうに聞く。そうしながらも彼はエマに夜空色のケープを着せ、首元のリボンを綺麗に結んで整えた。
「たぶん子どもだと思う」
 外の気配を探っているエマの菫色のふわふわの髪を押し込むようにして、タクトはケープのフードをかぶせた。タクトがここに来てから十年。その間の生活で、エマの身支度をタクトが整えるのがお互いに自然になっていた。
「はい、できた」
「ありがとう」
 師匠が亡くなって一年。ここ何年かは迷子の対応を一人で任せてもらっていたから、そこまで不安は感じない。それでも師匠がいるのといないのとでは全然違う。
 エマは師匠がよく座っていた揺り椅子に自然と目がいってしまう。
「エマ……」
 何か言いたげにエマを見下ろすタクトに、彼女は笑った。
「行ってきます」
 ヴィオレットの森に長期滞在できる『界の狭間(はざま)から落ちてきた者』であるタクトだけれど、『道しるべの魔道具』を持っていても、満月の夜に魔女の家から出るのは危険だった。
 戸口に佇むタクトに手を振って、エマはカイと森に駆け出した。
 満月の森は明るい。月光を隅々まで取り込もうとするように、木々は天に枝を伸ばす。空いた隙間から差し込む光を、今度は草花が奪い合う。夜行性の昆虫がうごめき、小動物が駆ける音がかすかに聞こえる。
 そろそろ遅い春がここまでやってくるころだ。森の植物は好き勝手に咲いたり実ったりしているけれど、風は春らしく甘く香るようだった。
 月の灯りを縫うように駆け、いくらも行かないうちにエマは迷子を発見した。
 数本まとまって生えている赤い山茶花の足元。魔界からの迷子は子猫だった。
 魔界には魔族と彼らに従う使い魔が暮らしている。使い魔は人型もとれるけれど本性は動物だ。この子猫も使い魔の一族だろう。
 赤い花びらの絨毯にちょこんと乗った飴色の小さな体は震えている。親とはぐれて人間界に来てしまったのだろうか。
「はじめまして。私は『扉の魔女』」
 少し距離を置いて立ち止まったエマに、子猫は首を傾げた。
「ここは人間界のヴィオレットの森。人間界に何か用事があるの?」
「ううん。ない」
 子猫はか細い声で答え、怯えたように周囲を見回した。子猫と話ができることにエマはほっとした。
「自力で帰れる?」
「わかんない」
「それなら私が帰していい?」
「うん」
 子猫は素直に応じた。エマは笑顔を浮かべて、
「名前を教えてくれる?」
「なまえ……? なまえ、ない……」
「え、っと……」
 予想外だった。相手の名前を知らないと『帰還の魔法』は発動できない。
 エマは困ってカイを見る。
「名付けてやりなさい」
 今まで黙って見守っていた虎の姿の使い魔は、低い声で言った。
「私が名前を付けてもいい?」
 エマが尋ねると子猫はうなずいた。せっかくなら個性的な名前の方がいいだろうとエマは考えて、
「それじゃあ、あなたの名前はイセエビ!」
「イセエビ!」
 子猫の声はうれしそうだったから黙っておいたが、カイは内心がくっと肩を落としていた。イセエビはタクトの話に出てきた異界のエビだ。
 エマは両手をぱんっと合わせ、ブーツのかかとを打ち鳴らす。彼女の足元できらりと星が散った。
 菫色の宝石のような瞳が使い魔イセエビを見つめる。ケープのフードが背中に落ち、エマの髪はふわりと浮く。手のひらに集まった光をそっと渡すように、エマはイセエビに両手を掲げた。
「ヴィオレットの森の魔女が扉に命じます。イセエビを元の場所に帰しなさい」
 エマが呪文を唱えると、イセエビの周囲は光に包まれた。
 そして、ちょうど閉じる扉の影になっていくように、光は中央に収束し、ふっと消える。
 視界が戻ったときには、イセエビの姿はもうどこにもなかった。
 ほんの少し乱れた山茶花の花びらの絨毯が、子猫のいた場所を示すばかりだ。
 エマは安堵の息を吐く。
「他には誰もいないかな」
「ああ、気配はないようだ」
 カイの言葉に自分でも慎重に周囲を探ってから、エマは踵を返した。
「じゃあ、帰ろっか」

「おかえり」
 ずっと待っていたのか、家の扉を開けたまま出迎えたタクトに、エマは飛びつく。
「ただいま」
「姉さん、お疲れ様」
 危なげなくエマを抱き留めたタクトは、「カイもお疲れ様」とカイの背中を撫でた。
 十年前、『界の狭間』から落ちてきたときのタクトは六歳。そのときエマは八歳だった。エマの方が背が高かったのに、だいぶ前から逆転している。
 ヴィオレットの森は、人間界と魔界の境界がある。それは壁のようなものではなく、二種類の混ざらない液体が接しているような感じで、ごくたまに接している二界の間に隙間が空くことがあった。その『界の狭間』から物や人が落ちてくることがある。タクトがそうだった。
 エマは会ったことはないけれど、タクトの前にはバンドーという男性が三十年前に落ちてきたそうだ。彼は今はいろいろな国を旅して回っていて、ときどき手紙が届いた。先代の『扉の魔女』ゾエの死は、カイにお願いして伝えてもらった。遠くてすぐには帰れないがいずれ墓参りに来てくれるそうだ。
 エマを長椅子に下ろしたタクトは、そのまま座面に転がったエマに「何か飲む?」と聞いた。
「ううん、大丈夫」
「疲れた?」
「うん、疲れた」
 魔法を使うとやはり疲れる。エマが、というより『扉の魔女』が使える魔法は『帰還の魔法』だけだ。魔族はもっといろいろなことができるらしく、使い魔のカイも空間を越えて移動ができた。
「眠るならベッドに行きなよ。何かあったらカイがわかるし」
 タクトはエマを引っ張り起こして、ケープを外して、ブーツを脱がせた。
「ここがいい」
 そう答えるとすぐさま毛布が掛けられる。
 いつのまにこうなったのかわからない。最初はエマの方がタクトの面倒を見ていたはずだ。
「弟って姉の世話係だったっけ?」
「他の家のことは知らないけど、僕らの家ではこれが普通だよ」
 長椅子の足元、床に敷いた絨毯の上に直接座ったタクトは、エマには難しい本を開く。
 ヴィオレットの森の外周部分はダーツ辺境伯領に属しており、辺境伯家は王家から『扉の魔女』の支援を任されていた。そのため、魔女の家は広くはないけれど、調度は豪華だった。タクトが座る絨毯も、しっかりと分厚く床の硬さなど全く感じない。ただ、全体的に古めかしいのは仕方なかった。
 当代の辺境伯も『扉の魔女』を気遣ってくれる。タクトは騎士団の鍛錬に参加させてもらったり、エマは夫人や令嬢の茶会に招ばれたり、定期的に辺境伯邸を訪れていた。タクトが今読んでいる本は辺境伯邸の図書室から借りたものだった。
 最初は言葉も通じなかったのに、とエマは思い出す。
 タクトはバンドーが置いていった異界語との対訳メモを使ってこの世界の言葉を覚えた。バンドーは彼よりも前に落ちてきた人がいることをゾエから聞いて、今後落ちてくる人のためにメモを作ったらしい。バンドーは落ちてきたときにはもう大人で、言葉を覚えて二年ほどでここから出て行ってしまったとゾエは話してくれた。
 タクトは十年ここにいるけれど、バンドーのように出て行ってしまうんだろうか。彼は優秀で、辺境伯からもっと勉強しないかと勧められている。
「タクトがいないと、私一人じゃ、生活できる気がしないわ」
 半分眠りかけた状態でエマはつぶやく。
「それでいいんだよ。そうなるようにしてるんだから」
「んー? なぁに?」
 タクトの言葉が聞き取れずにエマは夢うつつに聞き返す。
 返事の代わりにそっと額にキスが落ちてきた。
「おやすみ、姉さん」
 静かな寝息を聞いたタクトが、「ずっと一緒にいるよ、エマ」とささやいたのは、カイしか知らないことだった。
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