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第二章 魔女国の居候
閑話:聖女ガートルードと『結界の補修』
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ガートルードは、早起きして入浴し、入念に身支度してから、聖女の日課『結界の補修』に臨んだ。
(今日はヴィンセント殿下が視察にいらっしゃるわ! 化粧も髪も完璧なわたくしを見ていただかないと!)
本当なら、聖女のローブなんかではなく、自分に似合う華やかなドレスを着たいところだ。
しかし、王太子妃は聖女から選ばれるという暗黙の了解がある。選ばれるまでの我慢だわ、とガートルードは思っていた。
――ハーゲン王国の教会、地下の『泉の間』。
聖女が全員揃ったところで、司祭がヴィンセントを案内してきた。彼は近衛騎士と側近を連れている。
下っ端の神官が数人続いて入ってきて、小机を設置して、その上に何か魔道具らしきものを載せた。それは大きな水盤に似ている。
(何かしら?)
ガートルードは見たことがない。今までの日課ではあのような魔道具は使われていなかった。
ヴィンセントたちと司祭は知っているようで、特に何も言わない。
(何か重要なものなのかしら……)
聖女たちを見るが、皆訝しげにしており、グラディスも含めてどんな魔道具なのかわかっている者はいなそうだった。
(リーチーズがいなくなってから不便で仕方ないわ)
リーチーズはガートルードの父の子飼いの高位神官だった。ガートルードが王太子妃になったら司祭に推すことを餌に情報をもらったり便宜をはかってもらっていたのだが、ヴィンセントに薬を盛ったことがバレて捕らえられそうになった。――その前に父が手を打ったからガートルードに害はないが、いい迷惑だった。
「今日は王太子殿下が視察されるが、皆はいつも通りに日課をこなすように」
司祭はそれだけ言い、魔道具の説明はしない。
(何も説明しないのなら、大したものではないのでしょう)
ガートルードは張り切って、最初に結界の魔道具がある祭壇の前に出る。
すると、ヴィンセントが声を上げた。
「おや? リッシュ公爵令嬢が最初なのか。一番力がある聖女が最後を務めると、母から聞いたことがあるのだが」
ヴィンセントの母、つまり王妃は元聖女だ。
そんな決まりは初めて聞いたが、前の大聖女ディアドラが存命のころは、確かに最後は彼女が務めていた。
ガートルードは慌てて元の場所に下がる。
「いえ、いつもはわたくしが最後ですわ。殿下の御前で気が逸ってしまって、わたくし順番を間違えてしまいました。ごめんあそばせ」
とっておきの微笑みをヴィンセントに向けるが、彼はちらっとこちらを見ただけだった。
(殿下はやはりわたくしの美貌にも簡単にはなびいてくださらないのね)
幼いころから誰もが褒め称えたかわいさも、ヴィンセントには響かない。それは、ガートルードだけではなく、グラディスや他の聖女でも同じだ。
それなら、やはり、公爵令嬢という身分や宰相の娘という政治的立場から選ばれるのは自分だと、ガートルードは信じていた。
(それなのに、あの男が……!)
ティム・ガリガは平民で男のくせに治癒の力を発現した。
ガートルードは、神聖なる聖女の存在が汚されたような気持ちになった。
しかも、それだけでなく、誰の手も届かなかったヴィンセントに近づきもした。
(忌々しいこと! でも、あの男はもういないのよ)
魔女国に追いやってくれた父には感謝している。
(いつまで経ってもわたくしを選ばないなんて、きっと殿下はあの男に嘘を吹き込まれていたんだわ)
ティムがいなくなってから、ヴィンセントが頻繁に教会に視察に訪れるようになったのがその証拠だ。
邪魔者が消え、ヴィンセントに会う機会が増え、ガートルードは気分上々だった。
(わたくしが王太子妃に選ばれるのももうすぐね!)
秀麗なヴィンセントの隣に並んで賞賛を受ける王太子妃の自分。それを想像しただけで、ガートルードは幸せな気持ちになる。
内心ほくそ笑みながら、澄ました顔で列に並んだ。
ガートルードに代わって最初に補修を行ったのは、アイリスだった。最年少の聖女だ。
それから次にキャサリン。
二人とも歳が離れているため、王太子妃争いのライバルにもならない。だから、ガートルードは歯牙にもかけていなかった。――ろくに見てもいなかったから、アイリスとキャサリンがいつもより力を抑えていたことに、ガートルードは気づかない。
そのあとも聖女たちが補修を終えていく。
ガートルードが最後は自分だと言ったため、最後になれなかったグラディスが祭壇に向かう。
ヴィンセントの手前、何も言わなかったが、ほぞを噛んでいるはずだ。
(殿下の目に止まるのはわたくしよ!)
グラディスも補修を終え、いよいよガートルードの番だ。
祭壇の前に出る。
結界の魔道具の背後には『聖なる泉』。いつもと同じに清らかな空気を纏っているが、今日のガートルードには輝いて見える。
ガートルードは台座の上の球体に手を翳した。
治癒力が金の粉になってひらひらと舞い、球体に吸い込まれていった。
補修を終えたガートルードが手を引いたとき、ヴィンセントが「それで終わりか?」と尋ねた。
「はい、終了でございます」
再び会話の機会が訪れたことに、ガートルードは喜びつつ、答えた。
しかし、ヴィンセントは眉を寄せる。
「まだ結界の傷は残っているようだが?」
彼は先ほど持ち込まれた魔道具を示した。
水盤に見えた魔道具は実際に水が張られており、その水面が金に光っている。しかし、何箇所かに黒い汚れのようなものが浮いていた。
「これは、王家の宝物庫から発見された魔道具です。王立魔道具研究所で調査したところ、結界の傷の有無を調べることができるものだとわかりました。今日の殿下の視察は、この魔道具の有用性の確認も兼ねていますので、結界の傷は全て補修していただかないと困ります」
ヴィンセントの側近の文官がつらつらと述べた。
そんな魔道具はいんちきだ、と主張するには、宝物庫や王立魔道具研究所など権威ある機関が関わっているため分が悪い。
「リッシュ公爵令嬢、もう一度、補修をやってくれ」
王太子に促されたものの、ガートルードは躊躇してしまう。
今日はいつもより力を込めたため、ガートルードは先ほどの補修で少し疲れを感じていた。
そんなガートルードの後ろから、キャサリンが進み出た。
「殿下、わたくし、その魔道具に興味がございます。わたくしがもう一度補修を行ってみてもよろしいでしょうか」
「ああ、構わない」
突然しゃしゃり出てきたキャサリンを思わず睨みそうになったが、それより先にキャサリンがガートルードに囁いた。
「ガートルード様、わたくしが時間稼ぎをする間に少しお休みになってくださいませ。最後の仕上げはお任せいたしますわ」
そう微笑まれて、ガートルードは満足してうなずいた。
(まあ! 気が利くじゃないの! わたくしの派閥に入れてあげてもよろしくてよ)
ガートルードが下がると、キャサリンは再び補修を行った。
彼女の手から金の粉が溢れ、球体に吸い込まれる。
すると、水盤の魔道具の黒い汚れが一つ消えた。
「そちらで補修すると、こちらの魔道具にも影響があるな」
「研究所の見立ては確かなようですね」
ヴィンセントと側近がうなずきあう。
そして、ヴィンセントはガートルードに目を向けた。
「さあ、リッシュ公爵令嬢。まだ傷は残っている。補修の続きをやってくれ」
ヴィンセントの目は笑っていない。
気圧されるようにガートルードは祭壇の前に進み出た。
球体に手を翳す。
ガートルードの手から金の粉が出るが、すぐさま球体が吸い込んでいく。
「まだ傷は残っている」
力を止めそうになったとき、ヴィンセントが叱咤した。
「くっ!」
ガートルードは力を振り絞った。
「まだだ。リッシュ公爵令嬢、君の力はそんなものか?」
ヴィンセントの声が煽る。
ふいに、自分の力を吸い取っていく球体が恐ろしいもののように思えてきた。
「で、殿下っ! これ以上は……」
ガートルードが訴えると、ヴィンセントの声が冷えた。
「結界の傷は、国民の安全を脅かすものだ。王太子妃候補を名乗るなら、完全に補修して国民を守れなくてはならん。君はそう思わないか?」
「え、ええ、思いますっ! わたくし、王太子妃候補ですもの」
ヴィンセントがガートルードを王太子妃候補と呼んだのは初めてだ。
ガートルードはできる限りの治癒力を込めた。
「傷が消えました」
側近の声が聞こえた瞬間、ガートルードは崩れ落ちた。
気を失う寸前、ガートルードはヴィンセントを仰ぎ見た。
彼は凍えるような目で倒れたガートルードを見下ろしていた。
「この程度でティムと張り合おうなど、滑稽なことだ」
ヴィンセントのその言葉は、近衛騎士と側近にしか聞こえなかった。
そこで見た彼の軽蔑の表情を、ガートルードは夢だと思った。
なぜなら、ヴィンセントから見舞いの花が届けられたからだ。
(やっぱり選ばれるのはわたくしよ!)
ガートルードはそう確信したのだった。
(今日はヴィンセント殿下が視察にいらっしゃるわ! 化粧も髪も完璧なわたくしを見ていただかないと!)
本当なら、聖女のローブなんかではなく、自分に似合う華やかなドレスを着たいところだ。
しかし、王太子妃は聖女から選ばれるという暗黙の了解がある。選ばれるまでの我慢だわ、とガートルードは思っていた。
――ハーゲン王国の教会、地下の『泉の間』。
聖女が全員揃ったところで、司祭がヴィンセントを案内してきた。彼は近衛騎士と側近を連れている。
下っ端の神官が数人続いて入ってきて、小机を設置して、その上に何か魔道具らしきものを載せた。それは大きな水盤に似ている。
(何かしら?)
ガートルードは見たことがない。今までの日課ではあのような魔道具は使われていなかった。
ヴィンセントたちと司祭は知っているようで、特に何も言わない。
(何か重要なものなのかしら……)
聖女たちを見るが、皆訝しげにしており、グラディスも含めてどんな魔道具なのかわかっている者はいなそうだった。
(リーチーズがいなくなってから不便で仕方ないわ)
リーチーズはガートルードの父の子飼いの高位神官だった。ガートルードが王太子妃になったら司祭に推すことを餌に情報をもらったり便宜をはかってもらっていたのだが、ヴィンセントに薬を盛ったことがバレて捕らえられそうになった。――その前に父が手を打ったからガートルードに害はないが、いい迷惑だった。
「今日は王太子殿下が視察されるが、皆はいつも通りに日課をこなすように」
司祭はそれだけ言い、魔道具の説明はしない。
(何も説明しないのなら、大したものではないのでしょう)
ガートルードは張り切って、最初に結界の魔道具がある祭壇の前に出る。
すると、ヴィンセントが声を上げた。
「おや? リッシュ公爵令嬢が最初なのか。一番力がある聖女が最後を務めると、母から聞いたことがあるのだが」
ヴィンセントの母、つまり王妃は元聖女だ。
そんな決まりは初めて聞いたが、前の大聖女ディアドラが存命のころは、確かに最後は彼女が務めていた。
ガートルードは慌てて元の場所に下がる。
「いえ、いつもはわたくしが最後ですわ。殿下の御前で気が逸ってしまって、わたくし順番を間違えてしまいました。ごめんあそばせ」
とっておきの微笑みをヴィンセントに向けるが、彼はちらっとこちらを見ただけだった。
(殿下はやはりわたくしの美貌にも簡単にはなびいてくださらないのね)
幼いころから誰もが褒め称えたかわいさも、ヴィンセントには響かない。それは、ガートルードだけではなく、グラディスや他の聖女でも同じだ。
それなら、やはり、公爵令嬢という身分や宰相の娘という政治的立場から選ばれるのは自分だと、ガートルードは信じていた。
(それなのに、あの男が……!)
ティム・ガリガは平民で男のくせに治癒の力を発現した。
ガートルードは、神聖なる聖女の存在が汚されたような気持ちになった。
しかも、それだけでなく、誰の手も届かなかったヴィンセントに近づきもした。
(忌々しいこと! でも、あの男はもういないのよ)
魔女国に追いやってくれた父には感謝している。
(いつまで経ってもわたくしを選ばないなんて、きっと殿下はあの男に嘘を吹き込まれていたんだわ)
ティムがいなくなってから、ヴィンセントが頻繁に教会に視察に訪れるようになったのがその証拠だ。
邪魔者が消え、ヴィンセントに会う機会が増え、ガートルードは気分上々だった。
(わたくしが王太子妃に選ばれるのももうすぐね!)
秀麗なヴィンセントの隣に並んで賞賛を受ける王太子妃の自分。それを想像しただけで、ガートルードは幸せな気持ちになる。
内心ほくそ笑みながら、澄ました顔で列に並んだ。
ガートルードに代わって最初に補修を行ったのは、アイリスだった。最年少の聖女だ。
それから次にキャサリン。
二人とも歳が離れているため、王太子妃争いのライバルにもならない。だから、ガートルードは歯牙にもかけていなかった。――ろくに見てもいなかったから、アイリスとキャサリンがいつもより力を抑えていたことに、ガートルードは気づかない。
そのあとも聖女たちが補修を終えていく。
ガートルードが最後は自分だと言ったため、最後になれなかったグラディスが祭壇に向かう。
ヴィンセントの手前、何も言わなかったが、ほぞを噛んでいるはずだ。
(殿下の目に止まるのはわたくしよ!)
グラディスも補修を終え、いよいよガートルードの番だ。
祭壇の前に出る。
結界の魔道具の背後には『聖なる泉』。いつもと同じに清らかな空気を纏っているが、今日のガートルードには輝いて見える。
ガートルードは台座の上の球体に手を翳した。
治癒力が金の粉になってひらひらと舞い、球体に吸い込まれていった。
補修を終えたガートルードが手を引いたとき、ヴィンセントが「それで終わりか?」と尋ねた。
「はい、終了でございます」
再び会話の機会が訪れたことに、ガートルードは喜びつつ、答えた。
しかし、ヴィンセントは眉を寄せる。
「まだ結界の傷は残っているようだが?」
彼は先ほど持ち込まれた魔道具を示した。
水盤に見えた魔道具は実際に水が張られており、その水面が金に光っている。しかし、何箇所かに黒い汚れのようなものが浮いていた。
「これは、王家の宝物庫から発見された魔道具です。王立魔道具研究所で調査したところ、結界の傷の有無を調べることができるものだとわかりました。今日の殿下の視察は、この魔道具の有用性の確認も兼ねていますので、結界の傷は全て補修していただかないと困ります」
ヴィンセントの側近の文官がつらつらと述べた。
そんな魔道具はいんちきだ、と主張するには、宝物庫や王立魔道具研究所など権威ある機関が関わっているため分が悪い。
「リッシュ公爵令嬢、もう一度、補修をやってくれ」
王太子に促されたものの、ガートルードは躊躇してしまう。
今日はいつもより力を込めたため、ガートルードは先ほどの補修で少し疲れを感じていた。
そんなガートルードの後ろから、キャサリンが進み出た。
「殿下、わたくし、その魔道具に興味がございます。わたくしがもう一度補修を行ってみてもよろしいでしょうか」
「ああ、構わない」
突然しゃしゃり出てきたキャサリンを思わず睨みそうになったが、それより先にキャサリンがガートルードに囁いた。
「ガートルード様、わたくしが時間稼ぎをする間に少しお休みになってくださいませ。最後の仕上げはお任せいたしますわ」
そう微笑まれて、ガートルードは満足してうなずいた。
(まあ! 気が利くじゃないの! わたくしの派閥に入れてあげてもよろしくてよ)
ガートルードが下がると、キャサリンは再び補修を行った。
彼女の手から金の粉が溢れ、球体に吸い込まれる。
すると、水盤の魔道具の黒い汚れが一つ消えた。
「そちらで補修すると、こちらの魔道具にも影響があるな」
「研究所の見立ては確かなようですね」
ヴィンセントと側近がうなずきあう。
そして、ヴィンセントはガートルードに目を向けた。
「さあ、リッシュ公爵令嬢。まだ傷は残っている。補修の続きをやってくれ」
ヴィンセントの目は笑っていない。
気圧されるようにガートルードは祭壇の前に進み出た。
球体に手を翳す。
ガートルードの手から金の粉が出るが、すぐさま球体が吸い込んでいく。
「まだ傷は残っている」
力を止めそうになったとき、ヴィンセントが叱咤した。
「くっ!」
ガートルードは力を振り絞った。
「まだだ。リッシュ公爵令嬢、君の力はそんなものか?」
ヴィンセントの声が煽る。
ふいに、自分の力を吸い取っていく球体が恐ろしいもののように思えてきた。
「で、殿下っ! これ以上は……」
ガートルードが訴えると、ヴィンセントの声が冷えた。
「結界の傷は、国民の安全を脅かすものだ。王太子妃候補を名乗るなら、完全に補修して国民を守れなくてはならん。君はそう思わないか?」
「え、ええ、思いますっ! わたくし、王太子妃候補ですもの」
ヴィンセントがガートルードを王太子妃候補と呼んだのは初めてだ。
ガートルードはできる限りの治癒力を込めた。
「傷が消えました」
側近の声が聞こえた瞬間、ガートルードは崩れ落ちた。
気を失う寸前、ガートルードはヴィンセントを仰ぎ見た。
彼は凍えるような目で倒れたガートルードを見下ろしていた。
「この程度でティムと張り合おうなど、滑稽なことだ」
ヴィンセントのその言葉は、近衛騎士と側近にしか聞こえなかった。
そこで見た彼の軽蔑の表情を、ガートルードは夢だと思った。
なぜなら、ヴィンセントから見舞いの花が届けられたからだ。
(やっぱり選ばれるのはわたくしよ!)
ガートルードはそう確信したのだった。
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