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六、三
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トウキョウスカイホームとビルの隙間は知らぬ間にアジサイの青い細道と変貌していた。出かけた時には気づかず、俺はつい小さい感嘆を漏らした。雨に濡れて一段と鮮やかに浮かび上がり、葉っぱも瑞々しい。どんよりとしてしまう梅雨の気分にアクセントを与えてくれる。わざわざ確認しなくても、東京のおっさんが手入れしているのだろう。
帰宅して束の間。シャワーでもしてさっぱりしてしまおうと考えながら、差し心地の悪かったビニール傘を傘立てに入れるのと同時のこと。
ずどん! ――と、重苦しい物音が天井から聞こえて肩がびくりとした。全身に緊張が走る。
「おーい。川中島……?」
奴のロンドンブーツとババ臭い花柄の傘はない。花御堂も仕事中のはずだ。
俺は耳をそばだてる。
ズチャ……ズチャ……――今度は水気を含んだ硬い音が正面玄関の方で聞こえ始める。またバイオレットスワンでやらかしたかとも考えたが、やっぱり花御堂ではない。俺はゆっくりとビニール傘をバットのようにして構える。
何者かがご丁寧にノックをした。一回、二回、三回と。
神経を集中させる。すぐ逃げられるように鍵をかけず、そろりそろりと玄関に近づく。へっぴり腰にならなかったのは心のどこかでサンシンのようなフォームにはなりたくなかったのだろう。
相手はノックを繰り返す。空き巣狙いでないにしても、裏口ではなく正面玄関から来ただけで普通ではないのだ。
まさかこれが嵐の訪れだとでもいうのか。びくびくと窓から客人の正体を確認してみれば、そこにいたのは革の鎧を装着したヒトであった。
「……マジかよ」
宇宙喫茶のおかげで免疫(麻痺ともいうが)になっていたものの、困惑せざるを得ない訳で。
俺の視線に気づいたそいつは恐縮めきながら扉を指差す。
開けてくれないか。顔でそう言っているのだ。
普通に考えれば、あの二人の知り合いかもしれない……。追い返したらあとで川中島にくどくどと口達者に文句を言われたりしてそれこそ面倒かもしれない。悩み抜いてそいつを招き入れることにした。
「ありがとう」
渋く格好良い男の声を発されて、ダーウィンの進化論に異議を唱えたくなった。ずぶ濡れのそいつは二足歩行ではあったが外気にさらしている頭部と手足はまるで人間と異なり、エメラルドグリーンの翼を燦然と生やしていた。長ったらしいことを抜きにするなら、鳥人間である。
「しばらく雨宿りしても構いませんか?」
ブーツをはいた川中島ほどあるのではなかろうか、スタイルのいい鳥人間は青と赤の頭をくにゃりと垂らし、黄色の上目づかいで俺の顔をうかがってきた。松先輩に毎度毎度されてもしやと思ったが、どうやら俺は上目づかいに弱くなっているらしい。
「どうぞ」
俺は急ぎ足で傘を戻し、鍵もかけ、フェイスタオルを用意した。
「ありがとう」
受け取ったその両手は恐竜のようにごつごつしていて、鋭い爪があった。鳥は恐竜の進化した姿だという話だが、信ぴょう性があるようだ。こいつでぶっ叩かれてはひとたまりもないだろう。しかしタオルの扱い方、鎧の上から体をぬぐう姿からはまるで攻撃性を見出せなかった。優しい性格なのかもしれない。
「あのう、川中島か花御堂の知り合いですか?」
「へ? いや、あの、どうしよう」
鳥人間は思い出したかのようにおろおろし始める。結局ただの通りすがりだったのだ。居留守を使えばよかったと後悔がにじんだが、ここまできて追い返してしまうのも気が引けた。俺はなんて優しい男なのだろう。
「いやあの、困った時はお互い様なんで。俺は扇ヶ谷です。あなたは?」
「ぼくは雉子といいます」
「一体どこから来たんスか?」
「天界です」
「天界?」
「はい。天界です」
「天国?」
頭をひねってうなる雉子。まあ、呼び方はどうでもよろしい。花御堂と同じ何らかの星からきたのかと思いきや、川中島の部類らしい。それともそういう名の星なのだろうか。
ふと。俺は念のために聞いておく。
「神様?」
「いやいやいや、とんでもない!」
雉子は強く首と手を振って否定した。
「ぼくはただのキジなんです。ええそうです」
黄色い目玉はどこか思い詰め、悲愴感を漂わせていた。とにかく悪いヒトではないのは確信したので、ひとまず座布団を用意して座らせることにした。彼はしょんぼりとタオルを丁寧に折り畳み、座布団の上に敷いて(そんなことをしなくとも洗濯をするのに)正座した。首だけをポンプのように上下に伸ばし、落ち着きなく家の中を見回す様は失礼ながら滑稽である。
はっきり言って、アルバイト以外での接客は好き好んでやろうとは思わない。こんな時に川中島がいれば、代わりに相手をするよう押しつけてケロリとしてやれたのに。雨だから路上ライブもないだろうに。もしや近所のレコード店で物色しているか、はたまたいつ潰れるかもわからない古びたゲームセンターでインベーダーゲームでもしているか。どっちでもどうでもいいが。
冷蔵庫にはおっさんからお裾分けしてもらったレモンティーもあったが、鳥人間の舌に合うのか不明だし、分けたくもなかったので無難そうな麦茶を出した。鳥なのだから麦は好きだろう。たぶん。
「ありがとう。見ず知らずのぼくに」
また上目づかいだ。こんなにへりくだられてはせっかくの渋い声がもったいない。
俺は向かい側に腰を下ろす。雉子は昔からあったという客人用のカップの中にくちばしを突っ込み、器用に麦茶を飲む。俺の視線に気づいた雉子は目玉を瞬く。俺は目を逸らし、麦茶を飲む。非常にシュールな光景になっていると思う。
「天使とは知り合いなんスか?」
「天の使いってことなら……ぼくも」
「そうなんスか? 川中島って知ってます?」
「はい。武田信玄と上杉謙信が戦った場所ですよね」
やっぱりあいつとは他人らしい。
「雉子さんも人間界に用があるんスか?」
「え、その……はい!」
嘘だ。とはいえ初対面のヒトにあれやこれやと詮索するのも失礼に値する。自分がされて嫌なことはやってはいけない。人生は一期一会という題の絵巻でありドラマなのだ。
テレビをつけていいものかタイミングもつかみかねていて、しんとする。静寂の共有が心地よい時は相性がいい証拠だが、これは実に居たたまれない。
「……なんかおやつあったかな?」
接客業をしていながら間が持たないと判断した俺は腰を上げた。
「ええっ、いやあの、いいです結構です。すぐにでも出ていきます!」
別にぶぶ漬けのアレのつもりで言った訳ではけしてなかったのだが、裏を読んでしまった雉子はわたわたと手を動かし、「あ!」と窓を指差す。
「ほら! やみましたよ! 雲間です!」
その下はまだ暗雲が広がっている。地上はまだ雨天に違いない。
「それじゃあぼくはお暇します。ありがとうございました」
雉子は速やかに立ち上がり、深々と頭を下げる。止める理由はなかったので「どうぞ」と正面玄関を開けた。
彼は翼を広げた。閉じていた時には気づかなかったが、右の翼が焦げついていた。
「それ、どうしたんスか?」
「え? ああ、これ? さっき雷雲の中に入っちゃいまして」
「え?」
「運が悪かっただけです。打たれる前に何か大きなものにぶつかったんですけれど、何だったんだろう……?」
雉子は「あはは」と空笑いだ。
待てよ? 最初の物音は着地した音ではなく墜落した音だったのか? 松先輩の雷の呪いがここにきて効果が表れたか?
俺がそうこう考えている間に、雉子は「よし!」と意気込んで助走をつけた。
「おい待て!」
「アララララララララ……」
羽ばたくことがかなわなかった雉子は、洗濯機の中の衣類のように回転しながら落ちていった。
「えぇーっ!? うわわわわっ!」
俺は愕然と下をのぞいたが、そそっかしい雉子は雲に消え、風はむなしく吹いていた。
俺は裏口から飛び出した。
「あっと鍵鍵鍵!」
空足を踏んでから鍵をかけ、トウキョウスカイホームに駆け込んだ。
帰宅して束の間。シャワーでもしてさっぱりしてしまおうと考えながら、差し心地の悪かったビニール傘を傘立てに入れるのと同時のこと。
ずどん! ――と、重苦しい物音が天井から聞こえて肩がびくりとした。全身に緊張が走る。
「おーい。川中島……?」
奴のロンドンブーツとババ臭い花柄の傘はない。花御堂も仕事中のはずだ。
俺は耳をそばだてる。
ズチャ……ズチャ……――今度は水気を含んだ硬い音が正面玄関の方で聞こえ始める。またバイオレットスワンでやらかしたかとも考えたが、やっぱり花御堂ではない。俺はゆっくりとビニール傘をバットのようにして構える。
何者かがご丁寧にノックをした。一回、二回、三回と。
神経を集中させる。すぐ逃げられるように鍵をかけず、そろりそろりと玄関に近づく。へっぴり腰にならなかったのは心のどこかでサンシンのようなフォームにはなりたくなかったのだろう。
相手はノックを繰り返す。空き巣狙いでないにしても、裏口ではなく正面玄関から来ただけで普通ではないのだ。
まさかこれが嵐の訪れだとでもいうのか。びくびくと窓から客人の正体を確認してみれば、そこにいたのは革の鎧を装着したヒトであった。
「……マジかよ」
宇宙喫茶のおかげで免疫(麻痺ともいうが)になっていたものの、困惑せざるを得ない訳で。
俺の視線に気づいたそいつは恐縮めきながら扉を指差す。
開けてくれないか。顔でそう言っているのだ。
普通に考えれば、あの二人の知り合いかもしれない……。追い返したらあとで川中島にくどくどと口達者に文句を言われたりしてそれこそ面倒かもしれない。悩み抜いてそいつを招き入れることにした。
「ありがとう」
渋く格好良い男の声を発されて、ダーウィンの進化論に異議を唱えたくなった。ずぶ濡れのそいつは二足歩行ではあったが外気にさらしている頭部と手足はまるで人間と異なり、エメラルドグリーンの翼を燦然と生やしていた。長ったらしいことを抜きにするなら、鳥人間である。
「しばらく雨宿りしても構いませんか?」
ブーツをはいた川中島ほどあるのではなかろうか、スタイルのいい鳥人間は青と赤の頭をくにゃりと垂らし、黄色の上目づかいで俺の顔をうかがってきた。松先輩に毎度毎度されてもしやと思ったが、どうやら俺は上目づかいに弱くなっているらしい。
「どうぞ」
俺は急ぎ足で傘を戻し、鍵もかけ、フェイスタオルを用意した。
「ありがとう」
受け取ったその両手は恐竜のようにごつごつしていて、鋭い爪があった。鳥は恐竜の進化した姿だという話だが、信ぴょう性があるようだ。こいつでぶっ叩かれてはひとたまりもないだろう。しかしタオルの扱い方、鎧の上から体をぬぐう姿からはまるで攻撃性を見出せなかった。優しい性格なのかもしれない。
「あのう、川中島か花御堂の知り合いですか?」
「へ? いや、あの、どうしよう」
鳥人間は思い出したかのようにおろおろし始める。結局ただの通りすがりだったのだ。居留守を使えばよかったと後悔がにじんだが、ここまできて追い返してしまうのも気が引けた。俺はなんて優しい男なのだろう。
「いやあの、困った時はお互い様なんで。俺は扇ヶ谷です。あなたは?」
「ぼくは雉子といいます」
「一体どこから来たんスか?」
「天界です」
「天界?」
「はい。天界です」
「天国?」
頭をひねってうなる雉子。まあ、呼び方はどうでもよろしい。花御堂と同じ何らかの星からきたのかと思いきや、川中島の部類らしい。それともそういう名の星なのだろうか。
ふと。俺は念のために聞いておく。
「神様?」
「いやいやいや、とんでもない!」
雉子は強く首と手を振って否定した。
「ぼくはただのキジなんです。ええそうです」
黄色い目玉はどこか思い詰め、悲愴感を漂わせていた。とにかく悪いヒトではないのは確信したので、ひとまず座布団を用意して座らせることにした。彼はしょんぼりとタオルを丁寧に折り畳み、座布団の上に敷いて(そんなことをしなくとも洗濯をするのに)正座した。首だけをポンプのように上下に伸ばし、落ち着きなく家の中を見回す様は失礼ながら滑稽である。
はっきり言って、アルバイト以外での接客は好き好んでやろうとは思わない。こんな時に川中島がいれば、代わりに相手をするよう押しつけてケロリとしてやれたのに。雨だから路上ライブもないだろうに。もしや近所のレコード店で物色しているか、はたまたいつ潰れるかもわからない古びたゲームセンターでインベーダーゲームでもしているか。どっちでもどうでもいいが。
冷蔵庫にはおっさんからお裾分けしてもらったレモンティーもあったが、鳥人間の舌に合うのか不明だし、分けたくもなかったので無難そうな麦茶を出した。鳥なのだから麦は好きだろう。たぶん。
「ありがとう。見ず知らずのぼくに」
また上目づかいだ。こんなにへりくだられてはせっかくの渋い声がもったいない。
俺は向かい側に腰を下ろす。雉子は昔からあったという客人用のカップの中にくちばしを突っ込み、器用に麦茶を飲む。俺の視線に気づいた雉子は目玉を瞬く。俺は目を逸らし、麦茶を飲む。非常にシュールな光景になっていると思う。
「天使とは知り合いなんスか?」
「天の使いってことなら……ぼくも」
「そうなんスか? 川中島って知ってます?」
「はい。武田信玄と上杉謙信が戦った場所ですよね」
やっぱりあいつとは他人らしい。
「雉子さんも人間界に用があるんスか?」
「え、その……はい!」
嘘だ。とはいえ初対面のヒトにあれやこれやと詮索するのも失礼に値する。自分がされて嫌なことはやってはいけない。人生は一期一会という題の絵巻でありドラマなのだ。
テレビをつけていいものかタイミングもつかみかねていて、しんとする。静寂の共有が心地よい時は相性がいい証拠だが、これは実に居たたまれない。
「……なんかおやつあったかな?」
接客業をしていながら間が持たないと判断した俺は腰を上げた。
「ええっ、いやあの、いいです結構です。すぐにでも出ていきます!」
別にぶぶ漬けのアレのつもりで言った訳ではけしてなかったのだが、裏を読んでしまった雉子はわたわたと手を動かし、「あ!」と窓を指差す。
「ほら! やみましたよ! 雲間です!」
その下はまだ暗雲が広がっている。地上はまだ雨天に違いない。
「それじゃあぼくはお暇します。ありがとうございました」
雉子は速やかに立ち上がり、深々と頭を下げる。止める理由はなかったので「どうぞ」と正面玄関を開けた。
彼は翼を広げた。閉じていた時には気づかなかったが、右の翼が焦げついていた。
「それ、どうしたんスか?」
「え? ああ、これ? さっき雷雲の中に入っちゃいまして」
「え?」
「運が悪かっただけです。打たれる前に何か大きなものにぶつかったんですけれど、何だったんだろう……?」
雉子は「あはは」と空笑いだ。
待てよ? 最初の物音は着地した音ではなく墜落した音だったのか? 松先輩の雷の呪いがここにきて効果が表れたか?
俺がそうこう考えている間に、雉子は「よし!」と意気込んで助走をつけた。
「おい待て!」
「アララララララララ……」
羽ばたくことがかなわなかった雉子は、洗濯機の中の衣類のように回転しながら落ちていった。
「えぇーっ!? うわわわわっ!」
俺は愕然と下をのぞいたが、そそっかしい雉子は雲に消え、風はむなしく吹いていた。
俺は裏口から飛び出した。
「あっと鍵鍵鍵!」
空足を踏んでから鍵をかけ、トウキョウスカイホームに駆け込んだ。
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