壺の中にはご馳走を

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真珠④

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「古くから脈々と受け継がれているものに、陰の一族がある。現代では陰という姓を隠しているが、子供の時から陰の一族ならではの教育を受ける。

 ではその教育とは何か? 瑞縞郷ずいこうきょうへ辿り着くことを最良とし、そのための方法を教え込むことだ。

 瑞縞郷は平たく言えば、桃源郷のことさ。陰の一族の中でも選ばれた者だけが暮らすことができ、そこではあらゆる苦痛が存在しない。人間関係に悩むことも無ければ、病を恐れる必要もない。不老不死を手に入れることができる。


 英国紳士は陰の一族の者だ。楽園と言っていたのは瑞縞郷で、あともう少しで届くところだった。


 瑞縞郷に行くには、ピアノでも琴でも、何でも良いから楽器を習得しなければならない。これは幼少期に親が習得させるから、それほど高いハードルではない。次に10年間、一切肉を食べず、毎週水曜日の朝にココヤシの実で作られた石鹸を食べる。……これは陰の一族だからできることだ。真似はするな。


 実は瑞縞郷に行くだけなら割と簡単なのさ。難しいのは、住人として認められること。瑞縞郷にたどり着いた陰の者は、実際に居住することができるが、先住者たちから試練を与えられる。これをクリアできないと、死を持って追放されてしまう。

 その試練というのが、陽の一族の者から真珠を持ってくること。陽の一族は何百年に一度、真珠を作り出す者、瑞光ずいこうが誕生する。多くは目から溢れた真珠で眼球をえぐり取られたり、肺にたくさんの真珠を詰まらせて死んでしまったりする。真珠を作り出す子供は長生きできないから、陽の一族はそのことをある種タブーのように扱った。子孫に語り継ぐことをしなかったんだ。

 珠理はすっかり忘れ去られてしまった陽の一族に生まれた、久々の瑞光だ。真珠は少量が口の中でしか作られず、突然変異的に覚醒したのは、陽の一族の血縁的な繋がりが弱くなっているからだろう。


 ここまでで分かったと思うが、英国紳士は瑞光を探していたんだ。陰の一族は未だに強い力を持つから、珠理を見つけるのは簡単だったと思うぞ。その時代を生きているかすら分からん瑞光から、3つは真珠を手に入れたんだ。英国紳士は己の強運に酔いしれただろうな。

 瑞縞郷には時間の感覚がなく、住人たちは大らかでもあって神経質でもある。だから真珠の数や期限は、その時の気分で決められる。レア物でも瑞光の真珠3つでは気に召さなかったのだろう。しかも1ヶ月と待たぬうちに、試練は打ち切られた。

 試練を突破できなかった者は、無情にも瑞縞郷から突き落とされる。英国紳士はあと一歩のところで、珠理の協力を得ることができなかった。


 英国紳士は珠理に楽園を仄めかしたが、陽の一族は入る資格など与えられない。自らのことに精一杯過ぎるあまり、珠理に不信感を植え付けてしまったのさ」


 真也は茉美が真珠を泥団子と同等に扱った意図を汲み取れず、再び理由を訊ねた。

「ああ、別に大したことではない。

 瑞光の真珠は瑞縞郷の永住ビザみたいなものだ。それに何の意味がある? 苦痛のない世界なんて、アタシにはつまらないねぇ。快楽も苦痛も好きなだけ味わえる、この不完全な世界から消えるなんて考えたくもないよ。


 さらに真珠は生み出した本人、今回では珠理が死んでしまうと、燃えカスになってしまう。瑞縞郷で暮らす者たちは、新しい住人に真珠を追加させるために試練を与える。

 命をかけて瑞縞郷を目指す気持ちも、理想郷と謳いながら所詮は燃えカスの真珠を欲しがる執念も、アタシには泥団子を磨き上げる子供の遊びにしか見えないんだよ」


 ゴチソウサマ、ゴチソウサマ。
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