壺の中にはご馳走を

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くじらの一生②

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「ああ、ここは恐ろしい体験談を話すべきですね。

 ……っと、じゃあ、これはどうでしょう。

『ストーカーだと思っていた女が霊だと判明する』


 中学、高校とずっと女につけられていたんですよ。

 でもこの時期って、自意識が過剰になるでしょ?

 そういう勘違いだと思って、でも自分を好いている女性がいるという事実にほくそ笑みながら、登下校していたんです。


 いつも後ろに気配を感じるだけ。

 こちらから話しかけようと思いましたが、私は恋愛に奥手なもので。

 大学に入ってから、霊感のある友人に言われたんですよ。

『お前、江戸時代に死んだ女の恨みを買ってるぞ』って。


 そりゃあもう、腰が抜けるほど驚きました。

 現状最有力の恋人候補が既に死んでいて、しかも恨まれているって。

 しかも江戸時代!

 急いで友人に紹介してもらった霊媒師に祓ってもらいましたよ!

 そこからこのままではいかんと本腰を入れて恋人作りに励み、先ほどの初めての彼女へと繋がるわけなのですが。



 ははは、あまり怖くありませんね……。

 いやあ、困ったな……。

 私にとってはこの本の存在こそが本題であって、これまでに経験したことは些細なことでありまして。


 ……でもこれは些細なことではないな。

 ついここにも書かれていて、つい先日起こったこと。

『小説家の夢を諦める』――。


 実はね、私、本好きが高じて物書きを志した典型的な人間なんですよ。

 あれやこれやと作品を書き上げ、一花も咲かすことができずここまで来ました。

 彼女に愛想を尽かされたのも、私が就職しないでフラフラとしていたからです。

『あなたに才能はない』

 ときっぱり言われた時はショックでしたが、彼女は聡明な人だった。



 夢に向かい猪突猛進が永遠に続くわけはなく、少し立ち止まって考えてみたんです。

 周りを見渡せば、私よりずっと年若き人が有名な賞を獲っている。

 教科書に掲載される現代文学だってあるというじゃありませんか。


 対して私はどうでしょう。

 本名で執筆活動をしても、誰も私が物書きだと知らない。

 高尚な芸術品のように批評をもらうどころか、誰かの暇つぶしになるのが関の山。


 老いることが段々と重要な意味を持つようになった齢に、こんなことをして良いのだろうか。

 人生を浪費するに値することだろうか。

 進むべきか退くべきか逡巡しているうちに溢れ出た涙は、何度も味わった挫折に他ならない。


 その日、私は初めて未完の作品を作ってしまいました。



 まあまあ、そんな顔をしないでください。

 人間何度でも挫折はするものです。

 あと10年もすれば、些細なことになっているでしょう。


 君だってこれから経験することだ。

 できればお茶のお代わりが欲しいなあ」
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