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20.幸せすぎて(ルシア視点)
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「ルシアさんがお隣にやってきて、もう一ヶ月も経つのね。早いものだわ」
お隣に住むジャイルさんの奥さんの名はパトリシア。仲良くしてもらっていて、今では名前で呼び合う仲になっていた。
今日も午前のお茶に呼ばれて、二人で会話を楽しんでいる。
パトリシアさんはもうすぐ産み月に入るらしく、お腹ははち切れそうに大きくなっていた。
「もうそんなに経ったのね。毎日がとても楽しくて、一ヶ月なんてあっと言う間だったわ」
「カイオさんとはとても仲が良さそうだものね。そりゃ毎日が楽しいでしょう」
パトリシアさんは片目を閉じてみせた。
カイオは相変わらずちょっと意地悪で口も悪い。でも、とても優しい。
「カイオと仲が良いなんてことはないわ。だけど、カイオはね、完全休養日の度に色々なところへ連れて行ってくれるの。劇場には二回も行ったのよ。悲恋の劇を観た時に私が大泣きしてしまったので、カイオはちょっと困った顔をしていたわ。それに、私が料理をどんなに失敗しても、カイオは『食えないこともない』と言って残さず食べてくれるの。それでね、昨日やっと『かなり美味い』って言ってくれたのよ。とても嬉しかった」
十日ぐらい前から家政婦のテレーザさんには夕食だけ作ってもらって、朝食と昼食は私が作っていた。時間がある時はカイオも手伝ってくれるし、調理パンを買って公園で食べることもある。王都のレストランにも連れて行ってもらった。確かに調理パンやレストランの料理は美味しいけれど、私の作った料理をカイオに食べてもらいたいと思う。
カイオに初めて美味しいと褒められた時は、疲れて帰ってくる彼のために美味しい料理が作れたことが、褒められたことよりずっと嬉しかった。
「すごい惚気ね。ご馳走様。それが仲が良いってことでしょう?」
「でも、仲良くなっては駄目なの。だって、カイオは若くて独身の竜騎士よ。王都では姿絵が売られていて、若い女性にとても人気があるの。カイオが望めばどんな女性とでも結婚できるわ。カイオは陛下に押し付けられたかたちで私と同居することになってしまったけれど、私はカイオに相応しくないから。だから、もう少し世間に慣れたら、出ていかなければならないと思っているの」
カイオとの生活が幸せすぎて、出ていく決断ができず、ずるずると同居してしまっている。私は本当に弱い人間だ。これ以上一緒にいれば、カイオに縋ってしまうのではないかと心配しているのに、それでも、もう少しカイオと一緒に過ごしたいと願っている。
「確かに竜騎士は女性に人気があるけれど、誰とでも結婚できるという訳にはいかないわ。竜騎士の妻には制限が多いし、竜騎士は夜勤や緊急発進をしなければならない危険な職業よ。そのことをちゃんと理解している女性でなければ、結婚してもうまくいかない。そもそも、竜に嫌われると結婚なんて無理だからね。竜は結構気難しいらしいし。カイオさんはルシアさんなら大丈夫だと思って婚約したのよ。だって、陛下でも竜騎士に強制することはできないの。カイオさんが嫌ならちゃんと断るわ」
カイオは結婚相手を探すのが面倒だから私でいいと言った。確かに条件に合致する女性を探すのは大変かもしれない。でも、面倒だからなんていう理由で結婚を決めてはいけないと思う。
「でも、カイオは私のことが好きではないもの。だって、私はカイオに迷惑ばかりかけているのよ。好かれるはずがないじゃない。何もできない私のことを哀れんでカイオは優しくしてくれているの。彼は誇り高い騎士だから」
哀れな囚われの姫君を危険な目に遭いながらも救い出す騎士の物語を劇場で観た。困っている女性がいるのであれば、命をかけても助けるのが騎士なのだと、騎士役の役者は言っていた。
カイオだって騎士道を重んじる騎士だから、十六年間も神殿で祈っていた私を哀れに思って、救ってくれようとしているに違いない。
だから、カイオはあんなにも私を幸せにしてくれようとする。私は既に彼から一生分の幸せを貰ったかもしれない。
「ルシアさんはどうなの? カイオさんのことは好きではない?」
「私は…… カイオは優しいから」
カイオとずっと一緒に暮らしたい。そうできれば、どれほど幸せなのだろうかと思う。
「カイオさんのことが嫌いでないのなら、このままでいいじゃない。だって、カイオさんとの暮らしは楽しいのでしょう? カイオさんが出て行けって言わない限り、居座ってもいいと思うの。私だってルシアさんとこうしておしゃべりするの、とても楽しいもの。あら、お茶がなくなったわね。お湯を沸かしてくるわ」
パトリシアさんが立ち上がろうとする。
「私がするから、座っていて」
「大丈夫よ。ちょっと動かないと出産の時の体力がなくなるらしいの。お腹はこんなに大きいけれど、予定日まで三週間ぐらいあるから、まだ産まれたりしないわ。初産は遅れるらしいのよ」
パトリシアさんがそう言って立ち上がる。そして、台所の方へと歩き出した。
「あ!」
パトリシアさんが変な声を上げた。立ち止まった彼女のスカートが濡れている。彼女の足を伝わった液体が床に溜まっていった。
何が起こっているの?
「痛い!」
パトリシアさんがうずくまってしまう。
「破水したみたい。うぅ、陣痛が急に始まったの」
パトリシアさんは息を荒くしながら、途中で呻き声を上げた。
このままでは赤ちゃんが産まれてしまう。
「待っていて。ジャイルさんを呼んでくるから」
私は急いでジャイルさんの家から出て、本部棟に向かって走った。
自分の体力のなさが悔しい。一所懸命走っているのにあまり進まない。早くしないとパトリシアさんが苦しむ。
もっと速く走らなければ。
そう思うのに足がついてこない。
「痛!」
私は盛大に顔から転んでしまった。手も膝も額も痛い。
でも早く行かなければ。私は急いで立ち上がり走り出した。
額から血が出ているらしく、目に血が入ってくる。膝がじんじんと痛い。
それでも私は走った。
やっと本部棟の前に着いた。横の運動場でカイオが走っているのが木の柵越しに見える。
「カイオ、カイオ」
私は大声で叫ぶ。
カイオが一気に柵を飛び越えてやって来た。
「ルシア、何があった!」
「ジャイルさんの奥さんのパトリシアさんが、破水したの。陣痛が始まったって」
私はカイオにそう訴えた。
「わかった。すぐに連絡するから。『ジャイル先輩、それに医務官、パトリシアさんが破水して、陣痛が始まったらしい。すぐ家に帰ってくれ』 今のは魔法で本部棟の中に声を届けた。先輩ならあっという間に家へ着くはずだから、心配はいらない」
カイオがそう言い終わらないうちに、ジャイルさんが本部棟から出てきて凄い勢いで走り去った。私の十倍ぐらい早い。
しばらくすると、白衣を着た女性がジャイルさんと同じ方向へ走っていく。
「あの女性は医務官だから、もう心配はいらない」
カイオが私を横抱きにしながらそう言った。私はそれを聞いてやっと安心する。
『ルシアが怪我をしているので、一旦帰ります』
『了解。出勤は昼食の後でいい』
どこからともなく団長の声が聞こえてきた。
「本当にいいの?」
今日は訓練日なので、カイオは昼食を食べに帰って来る日だけど、まだ十時ぐらいだから午前の勤務時間が終わっていない。
「団長の許可を貰ったから大丈夫だ。早く治療をしてやりたいけれど、傷に砂が入っているから、綺麗な水で洗ってからでないと砂が皮膚の中に残ってしまう。痛いと思うけれどちょっと我慢しろ。家に帰ったら綺麗に治してやるからな」
カイオは私を横抱きにしていても、私より随分と早く走っている。
確かに傷は痛いけれど、カイオの腕の中はとても安心できた。
カイオに風呂場に連れてこられた。鏡を見ると、私の顔は血と涙と土でとても汚れていた。こんな顔をカイオに見られたのかと思うと、とても恥ずかしい。
「痛い!」
風呂場でカイオに手や膝、それに額を洗われる。カイオの大きな手が私の傷をこすって砂を取っている。とても痛いし、スカートをまくり上げられるのはかなり恥ずかしい。
「ルシア、泣くな。もうしばらくの我慢だから」
「だって、痛いもの」
「さあ、砂は取れたから、回復魔法を使うぞ。まずは手を見せろ」
カイオに手を取られてそっと傷を撫でられた。痛みが嘘のように引いていく。同じように撫でられた膝も額も、全く痛くない。
やっぱりカイオは凄い人だ。
カイオは最後にタオルで私の顔を拭いてくれた。
「カイオ、ありがとう」
「ルシア、よく頑張ったな。パトリシアさんはきっと元気な子を産むぞ。ルシアのお陰だ」
「本当に? 私は役に立った?」
私はカイオに褒められてとても嬉しくて、彼の両腕を掴んでそう訊いた。
「もちろんだ」
カイオは首を縦に振って肯定してくれた。
お隣に住むジャイルさんの奥さんの名はパトリシア。仲良くしてもらっていて、今では名前で呼び合う仲になっていた。
今日も午前のお茶に呼ばれて、二人で会話を楽しんでいる。
パトリシアさんはもうすぐ産み月に入るらしく、お腹ははち切れそうに大きくなっていた。
「もうそんなに経ったのね。毎日がとても楽しくて、一ヶ月なんてあっと言う間だったわ」
「カイオさんとはとても仲が良さそうだものね。そりゃ毎日が楽しいでしょう」
パトリシアさんは片目を閉じてみせた。
カイオは相変わらずちょっと意地悪で口も悪い。でも、とても優しい。
「カイオと仲が良いなんてことはないわ。だけど、カイオはね、完全休養日の度に色々なところへ連れて行ってくれるの。劇場には二回も行ったのよ。悲恋の劇を観た時に私が大泣きしてしまったので、カイオはちょっと困った顔をしていたわ。それに、私が料理をどんなに失敗しても、カイオは『食えないこともない』と言って残さず食べてくれるの。それでね、昨日やっと『かなり美味い』って言ってくれたのよ。とても嬉しかった」
十日ぐらい前から家政婦のテレーザさんには夕食だけ作ってもらって、朝食と昼食は私が作っていた。時間がある時はカイオも手伝ってくれるし、調理パンを買って公園で食べることもある。王都のレストランにも連れて行ってもらった。確かに調理パンやレストランの料理は美味しいけれど、私の作った料理をカイオに食べてもらいたいと思う。
カイオに初めて美味しいと褒められた時は、疲れて帰ってくる彼のために美味しい料理が作れたことが、褒められたことよりずっと嬉しかった。
「すごい惚気ね。ご馳走様。それが仲が良いってことでしょう?」
「でも、仲良くなっては駄目なの。だって、カイオは若くて独身の竜騎士よ。王都では姿絵が売られていて、若い女性にとても人気があるの。カイオが望めばどんな女性とでも結婚できるわ。カイオは陛下に押し付けられたかたちで私と同居することになってしまったけれど、私はカイオに相応しくないから。だから、もう少し世間に慣れたら、出ていかなければならないと思っているの」
カイオとの生活が幸せすぎて、出ていく決断ができず、ずるずると同居してしまっている。私は本当に弱い人間だ。これ以上一緒にいれば、カイオに縋ってしまうのではないかと心配しているのに、それでも、もう少しカイオと一緒に過ごしたいと願っている。
「確かに竜騎士は女性に人気があるけれど、誰とでも結婚できるという訳にはいかないわ。竜騎士の妻には制限が多いし、竜騎士は夜勤や緊急発進をしなければならない危険な職業よ。そのことをちゃんと理解している女性でなければ、結婚してもうまくいかない。そもそも、竜に嫌われると結婚なんて無理だからね。竜は結構気難しいらしいし。カイオさんはルシアさんなら大丈夫だと思って婚約したのよ。だって、陛下でも竜騎士に強制することはできないの。カイオさんが嫌ならちゃんと断るわ」
カイオは結婚相手を探すのが面倒だから私でいいと言った。確かに条件に合致する女性を探すのは大変かもしれない。でも、面倒だからなんていう理由で結婚を決めてはいけないと思う。
「でも、カイオは私のことが好きではないもの。だって、私はカイオに迷惑ばかりかけているのよ。好かれるはずがないじゃない。何もできない私のことを哀れんでカイオは優しくしてくれているの。彼は誇り高い騎士だから」
哀れな囚われの姫君を危険な目に遭いながらも救い出す騎士の物語を劇場で観た。困っている女性がいるのであれば、命をかけても助けるのが騎士なのだと、騎士役の役者は言っていた。
カイオだって騎士道を重んじる騎士だから、十六年間も神殿で祈っていた私を哀れに思って、救ってくれようとしているに違いない。
だから、カイオはあんなにも私を幸せにしてくれようとする。私は既に彼から一生分の幸せを貰ったかもしれない。
「ルシアさんはどうなの? カイオさんのことは好きではない?」
「私は…… カイオは優しいから」
カイオとずっと一緒に暮らしたい。そうできれば、どれほど幸せなのだろうかと思う。
「カイオさんのことが嫌いでないのなら、このままでいいじゃない。だって、カイオさんとの暮らしは楽しいのでしょう? カイオさんが出て行けって言わない限り、居座ってもいいと思うの。私だってルシアさんとこうしておしゃべりするの、とても楽しいもの。あら、お茶がなくなったわね。お湯を沸かしてくるわ」
パトリシアさんが立ち上がろうとする。
「私がするから、座っていて」
「大丈夫よ。ちょっと動かないと出産の時の体力がなくなるらしいの。お腹はこんなに大きいけれど、予定日まで三週間ぐらいあるから、まだ産まれたりしないわ。初産は遅れるらしいのよ」
パトリシアさんがそう言って立ち上がる。そして、台所の方へと歩き出した。
「あ!」
パトリシアさんが変な声を上げた。立ち止まった彼女のスカートが濡れている。彼女の足を伝わった液体が床に溜まっていった。
何が起こっているの?
「痛い!」
パトリシアさんがうずくまってしまう。
「破水したみたい。うぅ、陣痛が急に始まったの」
パトリシアさんは息を荒くしながら、途中で呻き声を上げた。
このままでは赤ちゃんが産まれてしまう。
「待っていて。ジャイルさんを呼んでくるから」
私は急いでジャイルさんの家から出て、本部棟に向かって走った。
自分の体力のなさが悔しい。一所懸命走っているのにあまり進まない。早くしないとパトリシアさんが苦しむ。
もっと速く走らなければ。
そう思うのに足がついてこない。
「痛!」
私は盛大に顔から転んでしまった。手も膝も額も痛い。
でも早く行かなければ。私は急いで立ち上がり走り出した。
額から血が出ているらしく、目に血が入ってくる。膝がじんじんと痛い。
それでも私は走った。
やっと本部棟の前に着いた。横の運動場でカイオが走っているのが木の柵越しに見える。
「カイオ、カイオ」
私は大声で叫ぶ。
カイオが一気に柵を飛び越えてやって来た。
「ルシア、何があった!」
「ジャイルさんの奥さんのパトリシアさんが、破水したの。陣痛が始まったって」
私はカイオにそう訴えた。
「わかった。すぐに連絡するから。『ジャイル先輩、それに医務官、パトリシアさんが破水して、陣痛が始まったらしい。すぐ家に帰ってくれ』 今のは魔法で本部棟の中に声を届けた。先輩ならあっという間に家へ着くはずだから、心配はいらない」
カイオがそう言い終わらないうちに、ジャイルさんが本部棟から出てきて凄い勢いで走り去った。私の十倍ぐらい早い。
しばらくすると、白衣を着た女性がジャイルさんと同じ方向へ走っていく。
「あの女性は医務官だから、もう心配はいらない」
カイオが私を横抱きにしながらそう言った。私はそれを聞いてやっと安心する。
『ルシアが怪我をしているので、一旦帰ります』
『了解。出勤は昼食の後でいい』
どこからともなく団長の声が聞こえてきた。
「本当にいいの?」
今日は訓練日なので、カイオは昼食を食べに帰って来る日だけど、まだ十時ぐらいだから午前の勤務時間が終わっていない。
「団長の許可を貰ったから大丈夫だ。早く治療をしてやりたいけれど、傷に砂が入っているから、綺麗な水で洗ってからでないと砂が皮膚の中に残ってしまう。痛いと思うけれどちょっと我慢しろ。家に帰ったら綺麗に治してやるからな」
カイオは私を横抱きにしていても、私より随分と早く走っている。
確かに傷は痛いけれど、カイオの腕の中はとても安心できた。
カイオに風呂場に連れてこられた。鏡を見ると、私の顔は血と涙と土でとても汚れていた。こんな顔をカイオに見られたのかと思うと、とても恥ずかしい。
「痛い!」
風呂場でカイオに手や膝、それに額を洗われる。カイオの大きな手が私の傷をこすって砂を取っている。とても痛いし、スカートをまくり上げられるのはかなり恥ずかしい。
「ルシア、泣くな。もうしばらくの我慢だから」
「だって、痛いもの」
「さあ、砂は取れたから、回復魔法を使うぞ。まずは手を見せろ」
カイオに手を取られてそっと傷を撫でられた。痛みが嘘のように引いていく。同じように撫でられた膝も額も、全く痛くない。
やっぱりカイオは凄い人だ。
カイオは最後にタオルで私の顔を拭いてくれた。
「カイオ、ありがとう」
「ルシア、よく頑張ったな。パトリシアさんはきっと元気な子を産むぞ。ルシアのお陰だ」
「本当に? 私は役に立った?」
私はカイオに褒められてとても嬉しくて、彼の両腕を掴んでそう訊いた。
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