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1.婚約者の裏切り

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 いくつもの篝火に照らされて、夜空の下でも顔を確認しながら会話を楽しめるほどに明るいバルコニーには、ダンスホールから優雅な音楽が漏れ聞こえていた。そんなバルコニーの端、窓から死角になるように置かれた長椅子に、身を寄せ合うようにして男女が座っている。
「未だに殿下の婚約者はリカルダ様ですのね。本当に私を妻にしてくださるつもりはありますの?」
 ちょっと不満そうに、しかし媚を含んだ眼差しで女が男を見上げる。金糸や銀糸をふんだんに使った豪華な服を身にまとった男はこの国の王太子であった。リカルダという公爵令嬢の婚約者がいる身で、こうして舞踏会を抜け出し、男爵令嬢から伯爵家の養女となったアルマと密会を楽しんでいる。
「アルマ、そんなに心配しなくても、次代の王妃になるのは君だよ。安心して。父上に頼んでリカルダとの婚約は解消してもらうから」
 王太子は安心させるようにそっとアルマの肩を抱きしめる。
「それは駄目ですよ。ルシエンテス公爵から睨まれてしまうと、王太子の地位が危うくなってしまいますもの。リカルダ様の瑕疵により婚約が破棄されるようにもっていかないと、私は王妃になれないかもしれませんでしょう?」
 アルマはそっと王太子の胸を押して、密着していた体を離す。

「しかし、令嬢の鑑だとまで称えられているリカルダに瑕疵などあるのか?」
 今度は王太子の目が不安そうに泳いでいる。美しくて気高く、その上とても優秀だと評判のリカルダ。だからこそ、王太子はそんな彼女を苦手としていた。立派な王太子となるためにもっと努力しろと、無言の圧力をかけられているような気がするのだ。リカルダと生涯を共にすることを思えば、ずっしりと気が重くなる。それに比べて、アルマは今のままの自分を認めて立ててくれる。彼女と一緒にいると、次代の王位を担うという重圧から解放されたように気分が高揚する。アルマとならば結婚後も楽しく暮らせていけるだろと、王太子は彼女を妃に強く望んでいるのだ。しかし、王太子という立場は自由な結婚ができるほど軽くはない。

「瑕疵がなければ作ればいいよ。来月開催される建国記念の舞踏会で、リカルダ様を休憩室に呼び出してください。あとは私が何とかしますから」
「あ、ああ」
 そんなことを言い出したアルマに少し不安を感じたが、リカルダの父親であるルシエンテス公爵に睨まれることは避けたいと思い、王太子は曖昧に頷いた。
 そんな王太子を不甲斐ないと思いながらも、アルマは微笑みを崩さない。彼女には明確な勝算があった。
 
 四年前、まだプレシアド男爵令嬢であったアルマは子爵家の次男エドガルドと婚約して一年が経とうとしていた。エドガルドは当時文官見習いだったが、とても優秀なのですぐに王宮文官となり給金も増え贅沢な暮らしができる。男爵家の娘としてはかなり良い縁だと両親は喜んでいた。
 しかし、アルマは生真面目で平凡な容姿のエドガルドは美しい自分に相応しくないと不満に思っていた。そんな時、娘のいないパスクアル伯爵が婚約者のいない見目の良い養女を探していと聞いて、エドガルドとの婚約破棄を企んだ。お金に困っていた男爵家の侍女を使って彼を陥れることにしたのだ。
 その策略は見事にはまり、アルマは無事婚約解消に持ち込んだうえに、多額の慰謝料と世間の同情を得ることができた。
 その成功体験は、自分はとても優秀な頭脳の持ち主だと過度の自信をアルマに与えていた。
 その後、アルマはパスクアル伯爵から養女にと望まれる。アルマにはその美貌で高位貴族の子弟を篭絡することが期待されていた。王太子と恋仲になることができたので、アルマは伯爵の期待以上の働きをしたことになる。それも自分の優秀さ故の結果だと彼女は考えていた。
 
 美しいだけで令嬢としての品位や教養に欠けるアルマに王妃など務まらないのではとパスクアル伯爵は感じてはいた。そのため、最初はアルマが次王の寵妾になるだけで十分旨味があると思っていた。しかし、アルマは絶対に王妃になるのだという。パスクアル伯爵はいつしか、大金を注ぎ込んでもアルマを王妃にして、その外戚として甘い汁を吸うという野心に取りつかれていく。
『せっかく王太子を手に入れたのに、寵妾になるなんてまっぴらだわ。絶対にあのいけ好かないリカルダを陥れて、王太子の婚約者から追い落としてみせる。そして、私が次期王妃になるの。主役はこの私よ』
 そんな胸の内を隠して、アルマは王太子に艶のある笑顔を向ける。
「大丈夫。何も心配いらないわ。舞踏会が終われば、殿下は晴れて私と婚約できるようになるのよ」
 アルマと婚約できる。それは素晴らしいことだと王太子は思ってしまう。それでも、長年婚約しているリカルダに多少の罪悪感を覚えた。しかし、アルマが自身の真っ赤な唇を王太子の唇に重ねたので、王太子は罪悪感などすっかり忘れ去って、甘いキスに溺れていった。


 それから一か月ほどが過ぎ、建国記念の日がやってきた。外国からも多くの賓客を招待して、盛大な舞踏会が開催される。
 ここ最近、婚約者であるリカルダをろくにエスコートもしていなかった王太子だったが、この日は王家の紋章が入った馬車でルシエンテス公爵邸まで迎えにやってきた。
 公爵邸から出てきたリカルダは王太子の碧眼と同じ色のドレスを身に着けている。碧色の宝石をふんだんに使った宝飾品は裕福な公爵家が贅を尽くして用意した。その姿を確認した王太子は一瞬ひるんだものの、馬車に乗るリカルダのために手を差し出した。嬉しそうに微笑むリカルダがそっと手を重ねる。

「殿下と同じ馬車に乗るのも久しぶりですね。こうして迎えに来てくださったこと、お礼を申し上げます。本当に嬉しいです」
 頬を染めながら礼を言うリカルダに、対面に座る王太子は驚きを隠せない。きつい性格の女だと思っていた。堅苦しくて融通の利かない嫌な女だとも。こんなにも素直に礼を言うような女だったのだろうか。しばし、リカルダの様子に見惚れていた王太子だが、アルマの妖艶な姿を思い描くことで、彼女との約束をどうにか思い出す。
 結婚したいのは目の前に座るリカルダではなく、愛しい恋人のアルマなのだ。そのためにはリカルダを婚約者の席から外さなければならない。王太子はそう自らに言い聞かせて口を開く。

「リカルダ、ここ最近は忙しくてあまり構ってやれず寂しい思いをさせて申し訳ない。今夜は君とゆっくり話がしたいと思っている。夜会の途中で西館の休憩室まで来てくれないか? 一番奥のドアに孔雀が描かれた部屋だ」
 二人きりの馬車の中、王太子はリカルダを誘った。若干声が震えていたが、それでも、王太子は上手くできたと思った。
「とても嬉しいお誘いでね。わたくしも殿下とじっくりお話ししたいと思っておりました。ダンス曲が五つほど演奏された後に休憩室まで伺うことにいたします」
「そうだな。五曲も踊れば私の義務も果たせるだろう」
 いつもは王太子としての義務云々と、夜会を抜け出そうとする彼を止めるリカルダなのに、今日はやけに素直だなと王太子は小首を傾げる。しかし、花が咲いたような笑みを見せるリカルダに罪悪感を刺激されたのか、曖昧な笑みを返した王太子は、これ以上リカルダのことを考えるのを放棄したように、彼女から目線を外して見事な夕焼けに染まる小さな窓に目を向けた。


 賓客との挨拶を済ませた王太子は、ファーストダンスを婚約者のリカルダと踊ることにした。外国の要人の前でも怯むことなく、王太子の婚約者として相応しい堂々とした態度で挨拶をこなしたリカルダだが、ダンスが始まると、王太子を見上げて恥ずかしそうに頬を染めている。どんなに優秀でも彼女はまだ十七歳の少女なのだと、三歳上の王太子はやっと気がついた。
 王太子がリカルダの白い手を取ると、嬉しそうにそっと握り返された。

 美男美女の優雅なダンスは人目を引く。最近王太子が婚約者以外の女性と付き合っているとの噂が流れているが、二人の仲睦まじい様子にを見た舞踏会の参加者たちは、その噂は根も葉もない悪質な嘘であると安心して、高位貴族の者より順次ダンスの輪に加わっていった。
「それでは、後ほど」
 無事にダンスが終わり、思った以上に楽しんでいた自分に驚きながら、王太子はリカルダにそう告げた。
「はい。必ず休憩室にお伺いします」
 笑顔で頷き、綺麗な礼をしてその場を離れるリカルダを、王太子は複雑そうな眼差しで見送っていた。


 王宮のダンスホールには東西に延びる長い建物が併設されていて、休憩室がいくつか用意されている。どのドアにもそれぞれ違った花や鳥の絵が描かれ、恋人たちが逢瀬に使う時に間違わないようになっていた。


 きっちり五人の貴婦人たちとダンスを踊った後、王太子はこっそりと会場を抜け出した。しかし、彼が向かった先は西館ではなく東館であった。
 東館の端、薔薇の絵が描かれたドアを王太子が開けると、中で待っていたのは真っ赤なドレスをまとったアルマだった。十九歳になる彼女はリカルダとは違い成熟した女性としての色香を漂わせている。
「リカルダを孔雀の部屋に呼び出した。いったい彼女をどうするつもりなのだ?」
 アルマを前にすると、いつもならば彼女以外のことに気が回らなくなる王太子だが、罪悪感からか、今日はリカルダのことが妙に気になっていた。
「殿下の婚約者でありながら、他の男と密会していたと知られたら、リカルダ様はもう結婚どころではありませんよね。ルシエンテス公爵だって、婚約破棄を認めざるを得ないでしょう?」
 アルマの真っ赤な紅をひいた唇からそんな言葉が飛び出し、王太子は驚いた。
「し、しかし、リカルダを誘ったのは私だが」
「そのことは誰にも知られていないのでしょう? もしリカルダ様が殿下に誘われたと言いだしても、知らないと言い張れば問題になるはずないわ。悪いのは男を誘ったリカルダ様なのだから」
 爪を赤く染めた細い指が王太子の頬に添えられた。そうすれば王太子が口づけを求めるように近づいてくると思ったアルマだったが、王太子は動かない。

「リカルダと二人だけで乗っていた馬車の中で誘ったので、そのことは誰も知らないはずだが……」
 休憩室へ誘った時の嬉しそうに頬を染めるリカルダの様子を思い出した王太子は、その笑顔を追い払うように首を何度も横に振った。
「それでは何の問題もないですね」
 王太子が首を振ったため離れてしまった手を自らの頬に当て、アルマは少し首を傾げてみせる。そんな動作が男の目にどう映るか知っていて、計算しつくした動作だ。
「やはり、こんなことは駄目だ。私はリカルダを貶めたいわけではない。ルシエンテス公爵に誠心誠意謝って婚約を解消してもらおう。リカルダはまだ十七歳だ。円満に婚約を解消すれば、新しい結婚相手も見つかるだろう。婚約者以外の男と密会していたなどと噂にでもなれば、この先結婚など望めなくなる」
 少し思案していた王太子はアルマから一歩距離をとった。
「殿下はお優しいのね。嫌いな婚約者の心配をして差し上げるのですもの。でも、心配はいりませんよ。リカルダ様は密会相手と結ばれれば良いのですから。彼は拒否しませんよ」
「その男は誰だ!」
「私の親戚筋の者です。私たちのためなら嫌いな相手とだって結婚するくらいの覚悟はあるわ。まあ、結婚後にリカルダ様を大切にするかは知らないけれど」
 それを聞いて王太子が眉をしかめる。
「その男はフアニート・アルモンテか?」
 それは王太子の側近がアルマと密会している男だと報告してきた名前だった。その時は信じなかったが、公爵令嬢であるリカルダを貶めるようなことを企てるのに、大勢のいる中で相談はしないだろうから、密会していたというのは本当のことだろうと王太子は感じていた。

「彼をご存じなの?」
「いや、そんなことはどうでもいい。私はリカルダに会いに行く。そして、婚約を解消してもらうように頼むから」
 婚約解消した後にアルマと本当に結婚するのか? と王太子は自問した。あれほど愛しいと思っていた女性が今は少し不気味に感じていた。

 止めるアルマを振り切って西館に急いだ王太子は、ノックもせずに孔雀の絵が描かれたドアを開ける。しかし、そこには誰もいなかった。
 王太子は会場警備の騎士に命じて、他の休憩室だけではなく庭やバルコニーを隅々まで探させたがリカルダは見つからない。
 そんな中、王宮の門番より、具合の悪そうな女性が侍女に肩に貸してもらいながら歩いてきて、馬車に乗って王宮を出て行ったとの報告があった。その女性には若い貴公子が付き添っていたといい、その男はアルマの義母の甥であるアルモンテ伯爵の次男フアニートの風貌と一致した。
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