38 / 52
38.
しおりを挟む
「リーナに話がある」
リーナの実家となったウェイランド侯爵の屋敷をディルクが訪れ、対応に出た執事に伝えた。
すぐにリーナの部屋に通されたディルクだが、侍女のアリーセが同室していた。
リーナの個人的な話になるので、ディルクは困った顔をする。
「ディルク様、ご安心ください。この部屋で聞いたことは絶対に他言いたしません」
きっちりと礼をしなからそう言うアリーセは、随分と成長したように見えた。
「リーナ。君の国の元第二王子、今は公爵となった男がブランデスへやって来る」
アリーセに促されて椅子に座ったディルクは、向かいの席に座っているリーナにそう言った。思い出したくもない名を聞いて、リーナは美しい眉を寄せた。
「まぁ、何のために?」
「職業訓練所の視察をしたいそうだ。だが、それはただの名目だろう。リーナを確かめに来ると思う」
ディルクの顔色はすぐれない。テーブルの上に置いた指先が少し震えているのがリーナのも感じられた。
「ディルク。何を恐れているの?」
ディルクは大陸一の大国の将軍である。彼が恐れるものなど何もないとリーナは思うが、ディルクの様子は明らかにおかしい。
「リーナは、あいつを、本当に、愛していないのか?」
答えを聞くのが怖いのか、ディルクは言葉を短く切りなからそう訊いた。青碧の目はまるで捨てられた子犬のように頼りなく小刻みに動いている。
リーナは呆れたようにディルクを見つめ返す。
「逆に聞きたいです。女に騙されて婚約者を牢に入れ、食事を満足に与えなかったり髪を切ったりするような男を、どうしたら好きになるというのでしょう?」
リーナの声には怒気が含まれていた。元第二王子への怒りはもちろんあるが、リーナの愛情を疑ったディルクのことも少し怒っていた。
「良かった」
ディルクは安心したように大きく息を吐いた。リーナの答えが心配で息を止めていたらしい。
「ディルクは、私のことが信じられないのですか? 貴方と結婚できることが嬉しいと何度も伝えたはずですよね」
リーナの怒りに気が付いたディルクは、盛大に首を振る。
「違う。僕はリーナの愛を疑ったりしない。ただ、僕が望んでしまうと、頷く以外ないと思うから……」
大国の伝説となるような英雄であるディルクが望んだとしたら、拒否できる女性はほとんどいない。ブランデスの王女ですら、押し付けられそうになったディルクである。
だから、ディルクは一年前にリーゼを諦めた。望めば小国の公爵令嬢など本人の意志を無視して差し出すことがわかっていたからだ。
あまりに大きな名前を背負ってしまったディルクは、リーナから寄せられる好意がディルク本人に向けられたものかわからなくなっていた。
リーナはテーブルの上の大きなディルクの手を握る。その暖かさが大好きだった。
「ディルク、愛しているわ」
「僕もリーナを愛している」
「私の方がもっと愛しているもの。だって、命を助けてくれたのよ。二人で旅をする間、ずっと優しくしてくれた。どうして好きにならないでいられると思ったの? ディルクの暖かい手も、優しい目も全部好きよ」
「僕の方がもっと好きだよ。リーナは気高くて美しくて、そして、優しい。僕は逢うたびに恋をしているよ」
『婚約しているのだから、手を握るぐらいなら黙認しましょう。でも、それ以上は許しませんから』
アリーセはそんな二人を穴が開くほど見つめていた。
「あの男を憎んでいるんだね?」
愛していると言われて、ディルクは嬉しそうにしながらリーナに訊いた。
「当然よ。あいつに殺されそうになったのよ。牢番さんがいい人でなかったら、私は純潔を奪われていたかもしれない」
ディルクの顔が厳しくなる。牢番を一人しか置かなかったのは、そうなってもいいと第二王子が思っていたということだ。
「あいつの首が欲しいか」
何でもないようにディルクが問うた。
リーナは慌てて首を振る。ディルクが本気で首を望むならば、小国の公爵の命などすぐに消えてしまう。
「もう何の関係もない人だから、死んで欲しいとまでは思わない。だけど、文句の一つも言いたいかもしれない。だって、私はハルフォーフ将軍の妻になるのですもの。舐められるわけにはいかないわ。少しはお義母様を見習って強くならないと」
「いや、母を見習う必要はないと思うよ。リーナは今のままで十分僕の花嫁に相応しいし。っていうか、あんまり強くなると、僕、怖いから」
剣の力量は圧倒的にディルクの方が上だが、小さい時から母に死ぬほど鍛えられてきた恐怖は消えていない。
『本当にこの男が青碧の闘神なのかしら。領地の皆が知ったら驚くだろうな。大きな体をしているけれど、まるで子犬のようだわ。リーナお嬢様に尻に敷かれているし』
アリーセはディルクの英雄譚に心踊らせた過去を返してくれと心の中で叫びながら、信じられない思いでディルクを見ていた。
ディルクがヴェルレ公爵一行を迎えるために、精鋭部隊五十人を引き連れて国境へと旅立ったのは五日後である。
ヴェルレ公爵と護衛は国境にある小さな町で待っていた。もちろん、五人の護衛の中にはスランがいる。
若い近衛騎士の中で目立っているスランは、彼らの力量を見極め、三人相手ならば死ぬまでの間にヴェルレ公爵を殺すことができると考えていた。
ついにハルフォーフ将軍が姿を見せた。甲冑をまとった異様な姿からは、殺気が肌を刺すほどに漏れ出てきている。スランは震えを抑えることができなかった。
『いくらなんでも違うだろう』
橋の上のぼんやりと立っていた優しそうな大男と、指一本動かせないほどの迫力を身にまとっている甲冑の男。とても同一人物とは思えないスランだった。
リーナの実家となったウェイランド侯爵の屋敷をディルクが訪れ、対応に出た執事に伝えた。
すぐにリーナの部屋に通されたディルクだが、侍女のアリーセが同室していた。
リーナの個人的な話になるので、ディルクは困った顔をする。
「ディルク様、ご安心ください。この部屋で聞いたことは絶対に他言いたしません」
きっちりと礼をしなからそう言うアリーセは、随分と成長したように見えた。
「リーナ。君の国の元第二王子、今は公爵となった男がブランデスへやって来る」
アリーセに促されて椅子に座ったディルクは、向かいの席に座っているリーナにそう言った。思い出したくもない名を聞いて、リーナは美しい眉を寄せた。
「まぁ、何のために?」
「職業訓練所の視察をしたいそうだ。だが、それはただの名目だろう。リーナを確かめに来ると思う」
ディルクの顔色はすぐれない。テーブルの上に置いた指先が少し震えているのがリーナのも感じられた。
「ディルク。何を恐れているの?」
ディルクは大陸一の大国の将軍である。彼が恐れるものなど何もないとリーナは思うが、ディルクの様子は明らかにおかしい。
「リーナは、あいつを、本当に、愛していないのか?」
答えを聞くのが怖いのか、ディルクは言葉を短く切りなからそう訊いた。青碧の目はまるで捨てられた子犬のように頼りなく小刻みに動いている。
リーナは呆れたようにディルクを見つめ返す。
「逆に聞きたいです。女に騙されて婚約者を牢に入れ、食事を満足に与えなかったり髪を切ったりするような男を、どうしたら好きになるというのでしょう?」
リーナの声には怒気が含まれていた。元第二王子への怒りはもちろんあるが、リーナの愛情を疑ったディルクのことも少し怒っていた。
「良かった」
ディルクは安心したように大きく息を吐いた。リーナの答えが心配で息を止めていたらしい。
「ディルクは、私のことが信じられないのですか? 貴方と結婚できることが嬉しいと何度も伝えたはずですよね」
リーナの怒りに気が付いたディルクは、盛大に首を振る。
「違う。僕はリーナの愛を疑ったりしない。ただ、僕が望んでしまうと、頷く以外ないと思うから……」
大国の伝説となるような英雄であるディルクが望んだとしたら、拒否できる女性はほとんどいない。ブランデスの王女ですら、押し付けられそうになったディルクである。
だから、ディルクは一年前にリーゼを諦めた。望めば小国の公爵令嬢など本人の意志を無視して差し出すことがわかっていたからだ。
あまりに大きな名前を背負ってしまったディルクは、リーナから寄せられる好意がディルク本人に向けられたものかわからなくなっていた。
リーナはテーブルの上の大きなディルクの手を握る。その暖かさが大好きだった。
「ディルク、愛しているわ」
「僕もリーナを愛している」
「私の方がもっと愛しているもの。だって、命を助けてくれたのよ。二人で旅をする間、ずっと優しくしてくれた。どうして好きにならないでいられると思ったの? ディルクの暖かい手も、優しい目も全部好きよ」
「僕の方がもっと好きだよ。リーナは気高くて美しくて、そして、優しい。僕は逢うたびに恋をしているよ」
『婚約しているのだから、手を握るぐらいなら黙認しましょう。でも、それ以上は許しませんから』
アリーセはそんな二人を穴が開くほど見つめていた。
「あの男を憎んでいるんだね?」
愛していると言われて、ディルクは嬉しそうにしながらリーナに訊いた。
「当然よ。あいつに殺されそうになったのよ。牢番さんがいい人でなかったら、私は純潔を奪われていたかもしれない」
ディルクの顔が厳しくなる。牢番を一人しか置かなかったのは、そうなってもいいと第二王子が思っていたということだ。
「あいつの首が欲しいか」
何でもないようにディルクが問うた。
リーナは慌てて首を振る。ディルクが本気で首を望むならば、小国の公爵の命などすぐに消えてしまう。
「もう何の関係もない人だから、死んで欲しいとまでは思わない。だけど、文句の一つも言いたいかもしれない。だって、私はハルフォーフ将軍の妻になるのですもの。舐められるわけにはいかないわ。少しはお義母様を見習って強くならないと」
「いや、母を見習う必要はないと思うよ。リーナは今のままで十分僕の花嫁に相応しいし。っていうか、あんまり強くなると、僕、怖いから」
剣の力量は圧倒的にディルクの方が上だが、小さい時から母に死ぬほど鍛えられてきた恐怖は消えていない。
『本当にこの男が青碧の闘神なのかしら。領地の皆が知ったら驚くだろうな。大きな体をしているけれど、まるで子犬のようだわ。リーナお嬢様に尻に敷かれているし』
アリーセはディルクの英雄譚に心踊らせた過去を返してくれと心の中で叫びながら、信じられない思いでディルクを見ていた。
ディルクがヴェルレ公爵一行を迎えるために、精鋭部隊五十人を引き連れて国境へと旅立ったのは五日後である。
ヴェルレ公爵と護衛は国境にある小さな町で待っていた。もちろん、五人の護衛の中にはスランがいる。
若い近衛騎士の中で目立っているスランは、彼らの力量を見極め、三人相手ならば死ぬまでの間にヴェルレ公爵を殺すことができると考えていた。
ついにハルフォーフ将軍が姿を見せた。甲冑をまとった異様な姿からは、殺気が肌を刺すほどに漏れ出てきている。スランは震えを抑えることができなかった。
『いくらなんでも違うだろう』
橋の上のぼんやりと立っていた優しそうな大男と、指一本動かせないほどの迫力を身にまとっている甲冑の男。とても同一人物とは思えないスランだった。
113
あなたにおすすめの小説
婚約破棄されたショックですっ転び記憶喪失になったので、第二の人生を歩みたいと思います
ととせ
恋愛
「本日この時をもってアリシア・レンホルムとの婚約を解消する」
公爵令嬢アリシアは反論する気力もなくその場を立ち去ろうとするが…見事にすっ転び、記憶喪失になってしまう。
本当に思い出せないのよね。貴方たち、誰ですか? 元婚約者の王子? 私、婚約してたんですか?
義理の妹に取られた? 別にいいです。知ったこっちゃないので。
不遇な立場も過去も忘れてしまったので、心機一転新しい人生を歩みます!
この作品は小説家になろうでも掲載しています
私も貴方を愛さない〜今更愛していたと言われても困ります
せいめ
恋愛
『小説年間アクセスランキング2023』で10位をいただきました。
読んでくださった方々に心から感謝しております。ありがとうございました。
「私は君を愛することはないだろう。
しかし、この結婚は王命だ。不本意だが、君とは白い結婚にはできない。貴族の義務として今宵は君を抱く。
これを終えたら君は領地で好きに生活すればいい」
結婚初夜、旦那様は私に冷たく言い放つ。
この人は何を言っているのかしら?
そんなことは言われなくても分かっている。
私は誰かを愛することも、愛されることも許されないのだから。
私も貴方を愛さない……
侯爵令嬢だった私は、ある日、記憶喪失になっていた。
そんな私に冷たい家族。その中で唯一優しくしてくれる義理の妹。
記憶喪失の自分に何があったのかよく分からないまま私は王命で婚約者を決められ、強引に結婚させられることになってしまった。
この結婚に何の希望も持ってはいけないことは知っている。
それに、婚約期間から冷たかった旦那様に私は何の期待もしていない。
そんな私は初夜を迎えることになる。
その初夜の後、私の運命が大きく動き出すことも知らずに……
よくある記憶喪失の話です。
誤字脱字、申し訳ありません。
ご都合主義です。
死を望まれた王女は敵国で白い結婚を望む。「ご安心ください、私もあなたを愛するつもりはありません」
千紫万紅
恋愛
次期女王として王位継承が内定していたフランツェスカ。
だが戦況の悪化を理由に父王に争いの最前線に送られた。
それから一年、命からがら王都へ戻った彼女を待っていたのは労いの言葉ではなく、敵国・シュヴァルツヴァルトの王太子への輿入れ命令。
しかも父王は病弱な異母妹アリーシアを王妃に据え、フランツェスカの婚約者レナードを王にするという。
怒りと絶望の中フランツェスカはかつて敵将であったシュヴァルツヴァルト王太子・フリードのもとへお飾りの妻として嫁ぐことを決意する。
戦地での過去を封じ、王族としての最後の務めを果たすために。
婚約破棄の代償
nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。
エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。
【完結160万pt】王太子妃に決定している公爵令嬢の婚約者はまだ決まっておりません。王位継承権放棄を狙う王子はついでに側近を叩き直したい
宇水涼麻
恋愛
ピンク髪ピンク瞳の少女が王城の食堂で叫んだ。
「エーティル様っ! ラオルド様の自由にしてあげてくださいっ!」
呼び止められたエーティルは未来の王太子妃に決定している公爵令嬢である。
王太子と王太子妃となる令嬢の婚約は簡単に解消できるとは思えないが、エーティルはラオルドと婚姻しないことを軽く了承する。
その意味することとは?
慌てて現れたラオルド第一王子との関係は?
なぜこのような状況になったのだろうか?
ご指摘いただき一部変更いたしました。
みなさまのご指摘、誤字脱字修正で読みやすい小説になっていっております。
今後ともよろしくお願いします。
たくさんのお気に入り嬉しいです!
大変励みになります。
ありがとうございます。
おかげさまで160万pt達成!
↓これよりネタバレあらすじ
第一王子の婚約解消を高らかに願い出たピンクさんはムーガの部下であった。
親類から王太子になることを強要され辟易しているが非情になれないラオルドにエーティルとムーガが手を差し伸べて王太子権放棄をするために仕組んだのだ。
ただの作戦だと思っていたムーガであったがいつの間にかラオルドとピンクさんは心を通わせていた。
目覚めたら公爵夫人でしたが夫に冷遇されているようです
MIRICO
恋愛
フィオナは没落寸前のブルイエ家の長女。体調が悪く早めに眠ったら、目が覚めた時、夫のいる公爵夫人セレスティーヌになっていた。
しかし、夫のクラウディオは、妻に冷たく視線を合わせようともしない。
フィオナはセレスティーヌの体を乗っ取ったことをクラウディオに気付かれまいと会う回数を減らし、セレスティーヌの体に入ってしまった原因を探そうとするが、原因が分からぬままセレスティーヌの姉の子がやってきて世話をすることに。
クラウディオはいつもと違う様子のセレスティーヌが気になり始めて……。
ざまあ系ではありません。恋愛中心でもないです。事件中心軽く恋愛くらいです。
番外編は暗い話がありますので、苦手な方はお気を付けください。
ご感想ありがとうございます!!
誤字脱字等もお知らせくださりありがとうございます。順次修正させていただきます。
小説家になろう様に掲載済みです。
【完結】長い眠りのその後で
maruko
恋愛
伯爵令嬢のアディルは王宮魔術師団の副団長サンディル・メイナードと結婚しました。
でも婚約してから婚姻まで一度も会えず、婚姻式でも、新居に向かう馬車の中でも目も合わせない旦那様。
いくら政略結婚でも幸せになりたいって思ってもいいでしょう?
このまま幸せになれるのかしらと思ってたら⋯⋯アレッ?旦那様が2人!!
どうして旦那様はずっと眠ってるの?
唖然としたけど強制的に旦那様の為に動かないと行けないみたい。
しょうがないアディル頑張りまーす!!
複雑な家庭環境で育って、醒めた目で世間を見ているアディルが幸せになるまでの物語です
全50話(2話分は登場人物と時系列の整理含む)
※他サイトでも投稿しております
ご都合主義、誤字脱字、未熟者ですが優しい目線で読んで頂けますと幸いです
※表紙 AIアプリ作成
〈完結〉【書籍化&コミカライズ】悪妃は余暇を楽しむ
ごろごろみかん。
恋愛
「こちら、離縁届です。私と、離縁してくださいませ、陛下」
ある日、悪妃と名高いクレメンティーナが夫に渡したのは、離縁届だった。彼女はにっこりと笑って言う。
「先日、あなた方の真実の愛を拝見させていただきまして……有難いことに目が覚めましたわ。ですので、王妃、やめさせていただこうかと」
何せ、あれだけ見せつけてくれたのである。ショックついでに前世の記憶を取り戻して、千年の恋も瞬間冷凍された。
都合のいい女は本日で卒業。
今後は、余暇を楽しむとしましょう。
吹っ切れた悪妃は身辺整理を終えると早々に城を出て行ってしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる